[連合] 入力 2011.05.11 18:09
キム・サンフン大領, `サムグックゾブヤングジも` 原本内容公開
(ソウル=連合ニュース) 金錬熟記者 = 日本が 1860年代国際公認古地図を通じて対馬島(対馬島. 日本人対馬)を朝鮮の領土で認めたという主張が申し立てられた.
キム・サンフン大領(陸軍士官学校軍事訓練処長)は 11日ソウル中区韓国プレスセンターで開かれた李承晩フォーラムで対馬島が朝鮮地という点を日本政府自ら提示して国際公認を受けた地図を見つけたと明らかにした.
金 大領がこの日公開した `三国通覧図説`は日本人林子平.(1738〜1793)が 1785年作成した本で日本とその周りの3国(朝鮮, 沖繩, 北海道), 無人島だった小笠原制度に対する指導と解説を盛った `三国通覧図説` など 5個地図を含んでいる.
日本は 1860年代小笠原制度を置いてアメリカと紛争した当時ドイツの東洋学者であるKlaplothが翻訳した三国通覧図説のプランス語版を証拠で提示して領有権を認められた.
地図は小笠原制度を日本領土だと規定したが, 鬱陵島と独島, 対馬島は朝鮮領土で少なかった.
三国通覧図説は過去にも多くの研究者によって独島は私たち地なのを証明する資料に引用された事がある.
しかし当時引用された資料は原本ではない黒白筆写本で鬱陵島と独島は朝鮮地で表記しているが対馬島は色を異にして日本領で分類した.
金大領は過去に公開された筆写本は黒白なので対馬島の領土仕分けが難しかったと原本は確かに対馬島を朝鮮地で分類していると言った.
原本は独島研究専門家であるハンサングボック博士がオーストラリアで購入したことに推定されて, 金大領はこの指導を国会図書館独島特別展示館で捜したと説明した.
金大領が対馬島研究に穿鑿するようになったことは 2008年アメリカジョージワシントン大で研修時代図書館で見つけた李承晩前大統領の英文著書を接するからだ.
が前大統領は 1948〜1949年記者会見を通じて日本に対馬島返還を要求した事がある.
金大領はこの前大統領の要求はまだ妥当だと言いながら日本と領土問題は独島だけではなく対馬島まで拡大して新しい視覚で見なければならないと言った.
nomad@yna.co.kr
(終り)
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地図は小笠原制度を日本領土だと規定したが, 鬱陵島と独島, 対馬島は朝鮮領土で少なかった.
と主張しているのですが、この地図をよく見ると、地図には、”竹嶋(江戸時代の鬱陵島のこと)と、その北東に、南北に長細い、無記名のひとつの島が書いてあります。この無名のひとつの島は、位置・形状から考えると竹嶼という、島根の竹島とはまた別の島です。 この地図には、島根の竹島(Liancourt)は地図に記載がありません。
参考:林子平図の、竹島(鬱陵島)の北東にある、南北に長細い一島は何?
『日本は 1860年代小笠原制度を置いてアメリカと紛争した当時ドイツの東洋学者であるKlaplothが翻訳した三国通覧図説のプランス語版を証拠で提示して領有権を認められた.』
江戸幕府がフランス語版の「三国接壌図」を使い、小笠原諸島を日本領としたというのは事実ではないそうです。
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-2/takeshima04_r.html
この話は、もともとは、2007年4月の「日本史研究」536号「小笠原諸島の領有と林子平恩人説の展開」で
日本が林の地図を根拠に交渉したという話のネタもとが 新聞の小説であることが明かにされています。
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima08/2007/record200807.html
【質問4】日本は1905年の島根県告示が独島(竹島)が日本の領土だという証拠と主張している。しかし、19世紀に日本がアメリカとの小笠原群島問題の際に提出した地図には独島(竹島)が韓国の領土だと明示されている。これについて説明を願いたい。
【回答】ご意見ありがとうございます。韓国で質問にあるような見解が発表されたので、改めて事実関係を調べてみま したが、19世紀に日米間で小笠原諸島の領有権を争った事実そのものが存在しないことを確認しました。伝えられるところによれば、韓国での議論は、(A) アメリカのペリー提督が日本に開国を求めて来航した際、小笠原諸島の帰属が問題となり、日本は、林子平の三国通覧図説を示してアメリカ側の主張に反駁した というものです。さらに、(B)三国通覧図説の絵図では竹島が朝鮮領となっているので、それをアメリカとの外交交渉に用いた以上、三国通覧図説の絵図は日 本政府が公的に認めたことになる、という議論だと承知しています。
(A)の話は、林子平の各種の伝記に登場するエピソードでありながら小笠原諸島の領有の経緯を扱った学術文献には全く出てこないことに疑問を 持ち、この話の来歴を辿った人がいます。その方の研究によれば、『河北新報』に掲載された林子平を題材とする新聞小説が元ネタだそうです(若松正志「小笠 原諸島の領有と林子平恩人説の展開」『日本史研究』536, 2007.4, p.103)。この新聞小説の連載第44回(1924年11月16日)には、次のような話が載っています。「...ペルリが来航した時、先づ小笠原島に入 りピールアイランド殖民政府といふものを置き、自国の領地だと称して日本政府にその確認を求めた。...幕府では頗る窮迫したが、偶仙台の林子平が天明中 に著述した三国通覧図説に小笠原島の地図と説明が乗せてあり、これを独逸で翻訳公刊したものがあると聞き、辛うじてそれを求めてペルリに提示し た...」。ペリーの記録は、1856年に米国上院文書(33d Cong. 2d Sess. Ex. Doc. No.79)として議会に提出されその後単行本として版を重ねた『ペリー艦隊日本遠征記』を始めとして、同じく上院に海軍長官が提出した報告書(33d Cong. 2d Sess. Ex. Doc. No.34)、ペリーの秘書官R・ピノーの日誌、同じく中国語通事S.W.ウィリアムズの日誌などがあります。これらには、上記のような話が出ていないば かりか、ペリーは小笠原寄港後香港に赴き、そこで英国政府の代表に対し、三国通覧図説(クラップロートによる訳本)を引用してボニン諸島という名称が日本 に由来するものであることを説き、英国の「発見」に基づく領有主張を退けています。1853年12月つまり「日米和親条約」締結交渉が行われる前年のこと です。無論、ペリーが日本での幕府との交渉で小笠原を要求したとか幕府が林子平を引き合いに出して反駁したというような記録は、日本側にもありません (『大日本古文書』など)。
(B)の三国通覧図説の絵図で竹島が朝鮮領となっているかを検討するまでもなく、そもそも(A)の話は新聞小説に端を発した俗説であって、史実ではないのです。 (事務局:総務課)
『しかし当時引用された資料は原本ではない黒白筆写本で鬱陵島と独島は朝鮮地で表記しているが対馬島は色を異にして日本領で分類した.』
『金大領は過去に公開された筆写本は黒白なので対馬島の領土仕分けが難しかったと原本は確かに対馬島を朝鮮地で分類していると言った』.
原本は独島研究専門家であるハンサングボック博士がオーストラリアで購入したことに推定されて, 金大領はこの指導を国会図書館独島特別展示館で捜したと説明した.
この文章からは、公開された筆者本?は白黒であるという事なので、アメリカとの交渉に使った地図に、対馬が朝鮮色で着色されてることは確認が取れません。 あくまで、金某がオーストラリアで購入したものに、朝鮮色の着色があった、という事ですから、この韓国人がーストラリアで購入した地図が日本がアメリカとの交渉で使用されたものであると断定する事はできないわけです。 つまり、証明ロンダリングとトリミングを行っています。
金大領は悪質な人間なのか、オーストラリアで購入した三国通覧図説の附図を根拠に「対馬が朝鮮領土」であると主張しているのですが、このKlaprothのKlaprothのSAN KOKF TSOU RAN TO SETS ou apercu general des TROIS ROYAUMES を読むと
対馬は日本の一部であるとの記載があるのですが、それを意図的に無視しているようです。
IV. La province de Thsiuan Lo
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A L'époque des cinq petites dynasties (postérieures) qui ont régné en Chine, elle fut incorporée à celui de Kao li. - D'après les cartes, les limites du royaume de Tchao sian étaient celles-ci; droit au nord elles suivaient la direction des monts Tchhang pe chan, au sud elles traversaient la frontière du Thsiuan lo, à l'occident ce royaume était borné par la Mer; l'Île de Toui ma tao (Tsou sima) et les autres Île du Japon, situées au-delà de la mer de Tchao sian sont as sud-est, et vis-à-vis du port de Fou chan de la province de Khing chang. Les navires japonais viennent au port de Four chan, mais il ne leur est pas permis de dépasser le Thsiuan lo pour arriver à la mer occidentale.
IV. Thsiuan 道(慶尚道?)
(略)
中国が支配した5つの小さな王朝(後期)時代までに、この州は高麗(朝鮮?)の一つに編入されました。 - 地図によると、朝鮮の王国の範囲は、以下の通りでした; 正北は、Tchhang pe chan(長白山)の方角、南に、全羅の境界が横切って、王国の西は海によって制限されています。対馬とその他の日本の島々は、朝鮮海(峡)の南東先に位 置し、慶尚道の釜山港と対峙しています。(翻訳:Kaneganese氏)
Klaprothの三国通覧図説の本は林子平の文章とは異なっていますが、林子平の「三国通覧図説」にはどう書いてあるのか、確認してみましょう。
林子平 「三国通覧図説」九州大学デジタルアーカイブ
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/sangokutu/index.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/sangokutu/page.html?style=a&part=1&no=1
朝鮮八道 http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/sangokutu/page.html?style=b&part=1&no=7
その国九州の北に在肥前国唐津より壱岐島江海上十三里、壱岐嶋より対馬嶋江海上四十八里対馬嶋豊野浦より朝鮮の東港釜山港江四十八里と云ドモ四十里に不足
対馬豊之浦より朝鮮の東港釜山港への距離が48里とかかれております。つまり、対馬豊野浦から48里わたった先の釜山港がと「朝鮮の東」の港、つまり、釜山から朝鮮であると記載されております。つまり対馬と釜山の間に日本と朝鮮の国境があるという認識が記載されています。
また、KlaprothのSAN KOKF TSOU RAN TO SETS ou apercu general des TROIS ROYAUMES.(1832) は、結構オークションサイトとその他で見る事ができますが、それらは全て対馬は緑色、つまり日本の色で着色されております。s
また、韓国学西洋文献博物館所蔵のKlaprothのTrois Royaumesも同様です。
韓国学西洋文献博物館所蔵のKlaprothのTrois Royaumes (対馬は日本の色)
http://www.book1950.co.kr/main.html?menu=view&uid=775&category=Geology/Geography
http://www.book1950.co.kr/bigimg.php?bigimg=./file/768155528_DSC04823.JPG
京都外国語大学所蔵のKlaprothのTrois Royaumes (対馬は日本の色)
http://www.kufs.ac.jp/toshokan/france150/france16.htm
他;三国通覧図説(林子平)
前大統領は 1948〜1949年記者会見を通じて日本に対馬島返還を要求した事がある.
についてですが、確かに対馬返還を要求しましたが、島根の竹島と同様に、条約の起草国アメリカに拒否され、また、韓国はそれを同意した事がわかっています。
1951.04.26. 「林韓国国連大使からダレス国務長官特別顧問への書簡」(1951年4月26日)
(国史編纂委員会『大韓民国史資料集30』(1996))
Chapter 3 Terrotpry
In the firm belief that justice is only basis for a lasting peace, the Government of the Republic of Korea requests that a through study be given to the territorial status of the Islands of Tsusima. Historically, the two islands called Tsushima were Korean territory until foreibly and unlaufully taken over by Japan. In paragraph bored 5, Japan is ordered to hand over to the Union of Soviet Socialist Republics the southern half of Sakhalin, all adjecent islands and, in addition, the Kurile Islands. In the belief that Korea shuold be accorded full and equal justice and equality of treatment, the republic of Korea requests that Japan specifically renouce all right, title and claim to the Islands of Tsusima and return hose to the republic of Korea
↓
1951.07.09.Memorandum of Conversation、 by the Officer in Charge of Korean
Affairs in the Office of Northeast Asian Affairs (Emmons)
SECRET
[Washington、] July 9、 1951.
Subject: Japanese Peace Treaty
Participants: Dr. Yu Chan Yang、 Korean Ambassador
Ambassador John Foster Dulles
Mr. Robert A Fearey、 FE
Mr. Arthur B Emmons、 3rd.、 Officer in Charge、 Korean Affairs
(途中省略)
The Korean Ambassador then asked whether the Islands of Tsushima was to given to Korea under the terms of the treaty、 stating that Tsushima properly belonged to Korea.
Ambassador Dulles took exception to this statement and pointed out that Japan had been in full control of Tsushima for a very long period of time; the treaty therefore did not affect the present status of Tsushima as a minor Japanese island.
参照:http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/08/1951-coversation-of-yu-chan-yang-with.html
Mr. Dulles noted that paragraph1 of the Korean Ambassador`s communication made no reference to the Island of Tsushima and the Korean Ambassador agreed that this had been omitted. Mr. Dulles then inquired as to the location of the two islands、 Dokdo and Parangdo. Mr. Han stated that these were two small islands lying in the Sea of Japan、 he believed in the general vicinity of Ullungdo. Mr. Dulles asked whethr these islands had been Korean before the Japanese annexation、 to which the Ambassador replied in the affirmative. If that were the case、 Mr. Dulles saw no particular problem in including these islands in the petinent part of the treaty which related to the renunciation of Japanese territorial claims to Korean territory.(omit)
他、同様のニュース
http://img.newdaily.co.kr/data/photos/20110519/art_1305105950.jpg?v=1305109914
▲対馬-独島がすべて我々の領土として記述され、国際法上公認地図<三国接壤地図>仏語版。
http://img.newdaily.co.kr/data/photos/20110519/art_1305110059.jpg?v=1305112006
▲日本の極右団体が提示している模造仏語版の三国接壤地図
http://img.newdaily.co.kr/data/photos/20110519/art_1305106025.jpg?v=1305112006
▲玄海灘の位置を対馬の下の壱岐島南端で表記した1855年のアメリカ地図。
大韓民国政府樹立後李承晩(イ・スンマン)大統領は1948年8月18日と1949年1月7日、年頭
記者会見で日本に対馬返還を公式要求する。
イ大統領は当時、我が国の知識人の中で日帝植民地歴史教育を経ないで西洋で西洋史を通じて、
旧韓末の私たちの歴史と日本の韓国領土侵奪過程を勉強した唯一の知識人だった。
イ大統領が年頭記者会見で対馬返還を要求し、「韓国と日本の間に古い海上境界がある」とある
発言の中で「古くなった海上境界」とはどこだろうか?
キム・サンフン大佐(陸軍士官学校軍事訓練処長)は11日開かれたニューデイリー、イ・スンマン研
究所主催の第3回イ・スンマンフォーラムで「この古い海上境界は対馬と日本本島の間の玄海灘」
と明らかにした。すなわち対馬は厳然とした大韓民国の領土という主張だ。
日本人、林子平(1738~93)は1832年、三国接壤地図を作る。この地図の解説書が三国通覧図
説だ。林子平はこの本で当時の日本とその周辺三国の朝鮮、琉球(沖縄)、ハイ国(北海道)と無人
島であった小笠原群島の地図と解説をした。写真の地図はドイツ人、クラプロト(Klaproth)がフラン
ス語に翻訳したものだ。
この地図は対馬が明白な韓国領土であることを、色で区分して明らかに語っている。このフランス
語地図の国際的価値は保坂祐二教授(世宗大独島研究センター所長)の日本語論文(『三国通覧
与地路程全図』と『伊能図』の中の独島)と朝鮮総督府文書によく記述されている。
保坂教授は当時、日本政府がこの地図を国際公認地図として活用したことを次の通り記録してい
る。「日本に開国を要求した米国のペリーは、小笠原を米国領にする目的で、すでに米国人を群
島に住まわせたし、この事実を聞いて幕府に小笠原を米国領と認定するように要求した。これに
ついて幕府側は、林子平の「三国通覧図説」とその挿入地図「三国通覽輿地路程全図(三国接壤
地図)」を提示したが、これを米国が認めないので、そのフランス語版を提示してやっと米国の領有
権主張をはね除けたのだ。」
すなわち日本は1861年2月と1862年4月米国のハリス(Harris)大使、英国のオルコック(Alcock)
大使など当時の列強大使らにこの地図を提示しながら、国際的な領土紛争の公式資料として活
用した。
キム大佐は「このような米日間の小笠原領土紛争を解決した林子平について解説書には「すべて
の日本人は林子平先生の恩恵を記憶して感謝しなければならない。光格天皇に捧げて原本を親
しく閲覧された。」という表現があってこの地図を日本が公式に認めたことが証明された。」と強調
した。
キム大佐は「対馬が朝鮮領と記録された三国接壤図を伊藤博文も知っていた」としながら「日本は
このような事実を隠そうと証拠資料をなくして事実と異なる資料を19世紀から今まで多量配布す
ることで私たちを欺むいている」と指摘した。
キム大佐は「市中で販売されたり博物館に所蔵された日本語版<三国接壤地図>( Googleにもあ
る)はもちろん、はなはだしくは日本極右団体が提示したフランス語版<三国接壤地図>さえも模造
品と判断される」と話した。キム大佐はまた、米国国家記録保存所に保管されている米国ペリー
提督の1865年の日本地図を一緒に提示した。
彼は「米国政府が米議会指示で米-日条約締結(1858年)によりペリー提督の偵察の結果を土台
に日本地図を作成するように指示した米国家記録文書所(NARA;The U.S National Archives and
Records Administration)の当時の記録と、1862年米-日領土交渉後に米国で作成された1864~
68年日本地図もやはり対馬を私たちの領土と表記している」と明らかにした。
また、当時、英国地図にも対馬を私たちの領土と表記して「対馬は日本領土から除外される」と地
図に直接記録されていると明らかにした。
キム大佐は「韓-日間の海上国境線は日本地名辞典にも「古来から日本と韓国、大陸を連結する
通路」と記録されていて、私たちは玄海灘、日本は玄界灘と呼んでいる所、すなわち、対馬南端少
し下の壱岐と日本本土の間」として「日本が現在の独島を自分の領土と主張する意図は対馬の真
実を隠すための防壁の盾として活用しようということもできる」と話した。
キム大佐は「イ・スンマン大統領の対馬返還要求はまだ有効だ」として「より多くの人々がこの問題
について関心を持つよう願う」と強調した。