韓国側は、 1794.06.03.越松萬戶韓昌國の鬱陵島調査 江原監司 沈晉賢以鬱陵島搜討後圖形馳啓査調査 にでてくる"可支島”が現在の竹島で有ると主張する。
しかし、記録を見ていると、4月26日に、可支島は、名称しか出てこない上、この島がどこに有るのか確実に」特定する根拠はない。ただ、この前後にどこに泊ったかを示す記述が有るのみだ。
当時は・鬱陵島にも海驢が生息しているので、可支島がどの島で有るのかという可能性は、現在の竹島だけに該当するわけではないのである。
韓国側は、4/26-29の間に、可支島へ行ったと、記録にも書かれていない根拠のない説明をする。かりに4/26-29のうちに、往復二日かかる現在の竹島へ行ったのであれば、行くのに一日かかり、X月X日に到着し、X月X日にまた鬱陵島へ戻ってきた旨を書くであろう。しかし、そのような形跡はない。
また、26日の文章に、この島の状況のまとめを行っていることから、この日が実質捜討の最終日であったことが類推される。あとの三日は半島へ帰るための風待ちのために経過しただけであろう。
また、韓国側は、甑島が”独島”であると主張するが、さすれば、更に矛盾が生じる。
可支島と 島は別の島で有る記述をしているからである。
甑島が、東南乃至東の洞から、三つが非常に近接しているように見える場所は内守田や芋洞であるが、甑島が200里離れた竹島で無いことは文章から明快である。
ただ、消去法をで考えると、可支島は、防牌島, 竹島,瓮島、竹巖、帿布巖、孔巖、錐山以外の島/岩であろうが、この島がどの島/岩なのか判断するには、資料が少なすぎる。
1794.06.03.越松萬戶韓昌國の鬱陵島調査
鬱陵島搜討, 間二年, 使邊將輪回擧行, 已有定式, 故搜討官越松萬戶韓昌國處, 發關分付矣。 該萬戶牒呈:
四月二十一日, 幸得順風, 糧饌雜物分, 載四隻船, 與倭學李福祥及上下員役、格軍八十名,
同日未時量, 到于大洋中, 則酉時, 北風猝起, 雲霧四塞, 驟雨霹靂, 一時齊發, 四船各自分散, 莫知所向。 萬戶收拾精神, 戎服禱海, 多散糧米, 以餽海神後, 使格軍輩, 擧火應之, 則二隻船擧火而應, 一隻船漠然無火矣。
・4/22
西面黃土邱尾津(台霞)に到着
登山
谷から中峰まで30里 山形重疊
谷水成川 水田六十餘石
谷は狭い
瀑布がある。(虎 瀑)
左爲黃土丘尾 右爲屛風石 其上又有香木亭 →
このことから、この日は台霞洞
二十二日寅時, 怒濤漸息, 只見遠海之中, 二隻船帆自南而來。 格軍輩擧手指東曰: ‘彼雲霧中隱隱如雲者, 疑是島中上峰也。’ 萬戶詳細遠望, 則果是島形也。 親自擊皷, 激勵格軍, 卽爲到泊於島之西面黃土邱尾津。 登山看審, 則自谷至中峰三十餘里, 而山形重疊, 谷水成川, 其中有可作水田六十餘石下種之地。 谷則狹窄, 有瀑布, 而左爲黃土丘尾窟, 右爲屛風石。 其上又有香木亭, 故斫取香木, 而以間年斫取之故, 漸就稀少。
・04/24
桶丘尾津(通九尾?または南陽洞付近か?)到着
http://www.panoramio.com/photo/26020195 参照
則谷形如桶 (谷の形が桶の形をしているのが由来)
前有一巖在海中,
與島相距可爲五十步 (亀岩のことか?)
而高近數十丈
周回皆是絶壁
谷口巖石層層, 僅僅攀登而見之, 則山高谷深, 樹木參天, 雜草茂密, 通涉無路。
二十四日到桶丘尾津, 則谷形如桶, 前有一巖在海中, 與島相距可爲五十步, 而高近數十丈, 周回皆是絶壁。 谷口巖石層層, 僅僅攀登而見之, 則山高谷深, 樹木參天, 雜草茂密, 通涉無路。
・04/25
長作地浦 (長沙?)到着
谷口果有竹田 非但稀踈, 擧皆體小
向東南楮田洞,(現在の沙洞から道洞付近か?)
則自洞口至中峰爲數十里許 (楮田から中峰まで数十里)
(楮田洞之)洞裏廣闊基址 (道洞の裏=芋田?)
顯有三處,
可作水田數十石下種之地
((楮田洞之)洞裏廣闊基址)前有三島, 在北曰防牌島, 在中曰竹島, 在東曰瓮島。
三島相距, 不過百餘步,
島之周回, 各爲數十把, 險巖嵂屼, 難以登覽,
仍爲止宿。
二十五日到長作地浦, 谷口果有竹田, 非但稀踈, 擧皆體小。 其中擇其稍大者斫取後, 仍向東南楮田洞, 則自洞口至中峰爲數十里許, 而洞裏廣闊基址, 顯有三處, 可作水田數十石下種之地。 前有三島, 在北曰防牌島, 在中曰竹島, 在東曰瓮島。 三島相距, 不過百餘步, 島之周回, 各爲數十把, 險巖嵂屼, 難以登覽, 仍爲止宿。
・26日は可支島の後、北東部から、南東部への移動。
孔巖(海)錐山ー竹岩(1時間) 竹岩ー帿布巖 (約30分)
・04/26 丘尾津, (臥達里や石圃付近の可能性、または羅里の可能性)
山形最爲奇異, 入谷數里, 則昔日人家遺址, 宛然尙存。
最爲奇異 最も奇異な場所
可能性としては、三仙岩などの奇岩が連なる場所。
または、山の形がもっとも奇異な場所は、錘峯と小錘峰がある付近か
もしくは島唯一の開墾地羅里
入谷數里・・・谷に入って数里のところで日本人の住居を確認しているので、この部分は徒歩
かつ、日本人の住居で有ることを考えると、臥達里や石圃付近の可能性、または羅里の可能性
左右山谷, 甚爲幽深, 難於登陟
左右に山があり、幽深と表現している事を考えると、羅里の可能性が高い。
仍遍看竹巖、帿布巖、孔巖、錐山等諸處,
所要時間:孔巖(海)錐山ー竹岩(1時間) 竹岩ー帿布巖 (約30分)
行到桶丘尾, 禱山祭海, 待風留住。
北部竹岩などから桶丘尾(通九味)へ船で行くとすると、一時間くらいか?
徒歩の場合は、更に時間がかかる。 平地に於いて4km/と計算しても、玄圃ら通九味まで、直線距離で7.3KMつまり二時間かかる。(ただし、この区間は、上り下りが多く、倍以上時間がかかる)
ここで、島の調査のまとめの文章が出てくる。即ち、4/26日には調査は終了しているのである。
この経緯から見ても、26-29日に現竹島に行ったという証左はない。
二十六日轉向可支島, 四五箇可支魚, 驚駭躍出, 形若水牛。 砲手齊放, 捉得二首, 而丘尾津山形, 最爲奇異, 入谷數里, 則昔日人家遺址, 宛然尙存。 左右山谷, 甚爲幽深, 難於登陟。 仍遍看竹巖、帿布巖、孔巖、錐山等諸處, 行到桶丘尾, 禱山祭海, 待風留住。 蓋島周回, 摠爲論之, 則南北七八十里許, 東西五六十里許。 環海則皆是層巖絶壁, 四方山谷, 則間有昔日人居之土址, 而田土可墾處, 合爲數百石下種之地。 樹木則香、栢、蘗、檜、桑、榛, 雜草則靑芹、葵、艾、苧、楮。 其餘異樹奇草, 不知名, 難以盡記。 羽蟲則雁、鷹、鷗、鷺, 毛蟲則貓、鼠, 海産則藿、鰒而已。
・30日に鬱陵島をでて、8日に半島に帰還した。
三十日發船, 初八日還鎭。 島中所産可支魚皮二令、篁竹三箇、紫檀香二吐莫、石間朱五升、圖形一本, 監封上使” 云。 幷上送于備邊司
地名は、下記地図などを参照してください。