長赤水圖と西洋の地図の融合 明治期の日本の地圖



江戸時代に長赤水などがかいた竹島松島の二島が記載され多様な地図は、本来はこれらは鬱陵島と現竹島のつもりで書いていたのだと思われる。しかしながら、1855年、幕命で作られた重訂萬國全圖 天文方山路諧孝 安政2年以降、次第にシーボルトに代表される、西洋の地圖と 同じような、アルゴノート島を竹島、Dageletを松島の認識で書くようになった傾向が、赤水圖でみらるような地図においても、西洋の地図をベースとした日本の地図にも両者に見られる。 つまり、明治期の赤水圖の流れを汲むデザインは、西洋のArgonaut竹島蔚陵島とDagelet松島と融合した感がある。
Argonaut竹島は、江戸時代に朝鮮へ引き渡した鬱陵島=于山國=弓高島と見做していた感があり、
Dagelet松島を「江戸時代に朝鮮に引き渡した鬱陵島・つまりArgonaut竹島」とは又別の大きな新しい島(
http://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/japan-recognization-of-ulleungdo-widthであると見做していたと思われる。これらは、当時の日本人の「松島」の大きさの認識からわかる。

外務省の田辺は、松島は朝鮮圖に書かれた于山島(于人島)と見做していたが、この時代の、朝鮮渡来の地図を参考に作った日本製作の朝鮮式地図においては、鬱陵島が実際よりも朝鮮半島に近距離に書かれていることが鬱陵島竹島をArgonaut島の位置に記載するようにさせたと考えられる。 つまり、江戸時代の竹島鬱陵島と、明治時代のDagelet島松島は別の島であると当時の人は考えていて、このことが、竹島考証に述べられている竹島開拓願い、松島開拓願いなどの島名の認証の混乱と関係があったと十分考えられ、ここで上げる地図は当時の人たちのそういった認識を反映しているのではないか、と思う。

 1880年以前の英国の水路誌等には、Argonaut島は存在が疑わしい島として照会されて入るものの、日本側は、結局は、1880年以降、明確にArgonaut 竹島は存在しない島と確定、鬱陵島と竹嶼がそれぞれ松島竹島とわかり、北澤は古来の竹島=現在の松島=朝鮮蔚陵島三島の認識で完結し、官製の地図・文献に おいてはこれが使用されることとなった。 しかしながら、1880年の天城以前に流通していたArgonaut竹島とDagelet松島の地図は、民間製 の地図は発行されており、こういった間違っている地図、および1880年以前に書かれた文献を引用したものがそれらから誤認識を受けたように思える。

同時に、以下のリンクも参照されたし
・日本の地圖における「于山島」
・今津屋八右衛門関係の鬱陵島地圖


1855(幕命)重訂萬國全圖 天文方山路諧孝 安政2年(1855)
天文方山路諧孝は幕府の命令で 地図を作る事になる。

おそらく、アルゴノート島を竹島とし、ダゲラ島を松島とした最初の日本図と思われる。

之以前に、Sieboldが既に
竹島をArgonaut
松島をDagelet 
としていることから、これが西洋にも広まり、日本もこの流れを引き継いでいる感がある。これが、日本人がArgonaut島を江戸時代の磯竹島=鬱陵島に、本来の鬱陵島であるDageletを松島と認識させるようになるが、恐らくは(我々は、結果的に、この島は存在しないと知っているが、) (磯)竹島である鬱陵島は別の、Dageletという別の開拓に値する島(我々は、結果的に、この島が本来の鬱陵島であると知っているが、)であると認識していた可能性が高い。



 1855.皇国総海岸図 酒井喜熙著 竹島松島の図案は長赤水の系統であるが、おそらくは、もうこの時期、この竹島松島がなにであるか、正確に認識できていない上、実測が無いので、代表的な日本圖にはかかれない。


1861. (官許)「新刊輿地全図」佐藤政養
では、竹しかきさいがないが、おそらく日本は竹は蔚陵島磯竹島と認識している。


1864年 「多気甚麼雑誌」
多気甚麼は鬱陵島の事。


1864 「増訂大日本輿地全図」.逸見豊次郎著 (原本 嘉永二年1849)

原本は、嘉永二年1849年版だが、明らかに1849年版とは竹島松島の記載が異なる。二島の描写がより具体的になっています。もともと1849年版の竹島松島は長赤水の様式であり、”竹島
”には「見高麗猶雲州望む隠州 一伝磯竹島」記載されているが、これに.逸見豊次郎は竹島と松島により詳細な独自のデザインに修正している。












江戸時代の本来の松島(現竹島)は、
このような小さな二島の事をさすが、
既に明治時代、すでにその存在が忘れられている感がある。
それ故、松島を開拓し甲斐の有る大きな島Dageletとして記載している。
この地図に書かれた松島はLiacnourt Rocks現竹島ではない。







1864.(官許)大日本海陸全図」 整軒玄魚 :文久4年(1864)
竹島松島の図案は長赤水の系統


1867.大日本沿海略図 勝海舟(英国海軍海図2347の翻訳?)

余りにも有名な勝海舟による大日本沿海略図である。このデザインは英国海軍海図#2347を引き写したものと考えられる。
この地図には、
ひょうたん型のArgonaut竹島がArgonaut島の位置に、
鬱陵島の形をしたDagelet松島がDagelet島の位置に、
そして現竹島のリエンコールトロックが記載さえている。









1867..銅版大日本精圖(元題簽)  佐藤政養著圖 平安銅鐫師 山本伊三郎細画鐫 慶應丁卯夏四月 簫溪 佐藤政養識


この竹島は、ひょうたん型の形をしており、つまり西洋の地図の竹島Argonaut島を示している。竹島には、日本の赤水圖から一伝磯竹島 見高麗--画家が引き写されており、西洋の圖の竹島Argonautと、赤水圖の竹島が融合している。

更に、その東南遠距離に松島が記載されている。形状より判断するに、この松島は西洋の地図のDagelet松島を引き写したものだと思われる。
 西洋の地図に書かれたリアンコールド巌とはまったく異なった大きさであり、別の形をしている。






江戸時代の本来の松島(現竹島)は、このような小さな二島の事をさすが、 既に明治時代、すでにその存在が忘れられている感がある。
 それ故、松島を開拓し甲斐の有る大きな島Dageletとして記載している。








1870年代の竹島雑誌等を見ると、竹島は明らかに朝鮮鬱陵島を示している。しかし、松島に関する書契はない。また竹島雑誌にみられるような鬱陵島詳細図には、竹島と、南東の隅に竹嶼が記載されているが、島名は記されていない。


1870.「朝鮮国交際始末内探書」
竹島 松島 朝鮮附属ニ相成候始末
此儀ハ 松島ハ竹島ノ隣島ニシテ松島ノ儀ニ付 是迄掲載セシ書留モ無竹島ノ儀ニ付テハ元禄度後ハ暫クノ間 朝鮮ヨリ居留ノ為差遣シ置候処 当時ハ以前ノ如ク無人ト相成 竹木又ハ竹ヨリ太キ葭ヲ産シ 人參等自然ニ生シ 其餘漁産モ相應ニ有之趣相聞ヘ候事
元禄の時の対馬版と朝鮮のやり取りを此処で検証しているが、竹島蔚陵島の話はでているが、松島の話は出てこない。
この竹島松島のうち、竹島は朝鮮蔚陵島であるが、松島が何であるか日本はわかっていないと考えられる。日本は、英国海軍水路部のChina PilotやChina Sea Directoryや各種Gazetteをこの時点で持っていると考えられるが、底に乗っているMatsushima-Dageletは、日本の現竹島Liancourt Rocksではない。日本の地図において、この竹島蔚陵島はArgonaut島の位置に書いていることが多く、日本は、松島を”Dagelet”である、開発価値の有る大きな謎の島を松島と見ていた可能性が高い。


長赤水の図柄の竹島松島が記載されているもの
1871.(増訂)大日本國郡輿地路程全圖 全(元題簽) / 長赤水原圖;鈴木驥園増訂
 竹島・一伝磯竹島 「見高麗猶雲州望隠州」と 松島
1871.大日本海陸與地全図 河合貞雅 。
 竹島・一伝磯竹島 「見高麗猶雲州望隠州」と 松島



1871.09.(官許)(明治改正)大日本輿地全圖;(銅版)明治改正大日本輿地全圖(元題簽) / 静岡 目賀田守蔭[編];東京 慶岸堂主人校圖;門人 一保齋和雪銅鐫

この地図に書かれたひょうたん型の竹島は、西洋の地図から引き写されたArgonaut竹島のデザインであり、、
その南東にかかれた松島は明らかに西洋の地図から引き写されたDagelet松島のデザインである。

つまり、西洋の地図の島のデザインが、長赤水系統の日本地図の松島の図柄と融合しているのである。
このArgonaut竹島は、日本の書契には、鬱陵島である竹島であり、これは元禄の時に引き渡した事を認識しているが、松島であるDagelet松島の話は書契がないので、朝鮮に引き渡したのは竹島のみと思っている節がある。しかし、無着色な事を考えると、1870年の竹島松島認識を反映している官許の地図なのかもしれない。



次に、また良い見本が有る。
1872.02.(官許)日本與地全圖;(増補改定)日本輿地全圖 (附朝鮮國全圖)(元題簽) / 翠堂中島彭編述;東京銅鐫師 楊堂木村胤鐵筆









この地図は非常に良い例である。
まず、画像下左の朝鮮圖を見ていただきたい。

 朝鮮圖では、鬱陵島の南に于山島がある。 
この鬱陵島と于山島(の組み合わせを)「日本では此を竹島と呼ぶ」と説明しているように思える
。この鬱陵島と于山島の位置は、非常に朝鮮半島から近い。



















次に、真ん中の日本全図を見ていただきたい。(上右)
ここに書かれた竹島は、まさに、アルゴノート島の位置に竹島が記載されているのだが、竹島 竹島一伝磯竹島 「見高麗雲州望隠州」をこのArgonautに相当する島に充てている。また、作者は、恐らくは、この竹島を、朝鮮圖に書いた鬱陵島+于山島と認識していると思われる。

更に、松島は、西洋の地図Dagelet松島から引き写していると考えられる。

つまり、この地図のアルゴノート竹島を当時は鬱陵島と考えており、 更に、実際には鬱陵島である松島を、おそらくは本来の松島とは認識しておらず、単にDagelet松島としか認識しておらず、鬱陵島竹島とは全く別の開拓すべき新島であると考えたと思われる。

これら竹島アルゴノート鬱陵島と、Dagelet松島が、1870年に無関係とした竹島松島であったとこが考えられる。
ただ、この当たり、1869年頃から、このDagelet松島(実際には鬱陵島)へ行き、「大日本帝国松島の碑文」をDagelet松島(実際には鬱陵島)に立てていた日本人が既に居た。 つまり、竹島は元禄時代に朝鮮に引き渡したが、松島に関してはそのような書契は見当たらない、つまり取り決めは知らされていなかったので、Dagelet松島とは別の島であり、江戸時代に朝鮮に引き渡していた竹島鬱陵島がArgonaut島の位置に存在していたと考えていた明治人が居た事は容易に目に浮かぶ。


江戸時代の本来の松島(現竹島)は、
このような小さな二島の事をさすが、
 既に明治時代、すでにその存在が忘れられている感がある。
 それ故、松島を開拓し甲斐の有る大きな島Dageletとして記載している。








1873.朝鮮国細見全図 染崎延房編著 出雲寺万次郎
+朝鮮事情?

この地図には、鬱陵島と、その南西に小さくく、亐山島が書かれており、この二つを恐らく「日本ニテハ之ヲ竹島ト云フ」と認識していたと思われる。

この地図には于山島は鬱陵島の南西にあるので、仮に「于山島は倭の松島」である事を読んでいたとしても、 日本は西洋の測量地図をもっており、これら全てには松島Dageletは「竹島Argonaut島と考えていた鬱陵島」の東にあるため、この鬱陵島の南西に書かれた小島である于山島を”松島”と認識するとは考え難い。

つまり、日本人は、朝鮮の地図には竹島は記載されており、これは朝鮮に引き渡した。 しかし、Dagelet松島は記載されていないので、まだ開拓する余地があるということで、開拓願いに発展したものと思われる。
しかしながら、ご存知の通り、この地図の竹島鬱陵島は、開拓願いが出されていたDagelet松島と同じ島だったのである。



1873.朝鮮全図 海軍水路寮 明治6

于山島が巨大な島として、蔚島の西に書かれている。蔚島は小さい。
日本は、朝鮮蔚陵島を竹島と考えている節があるが、この地図には于山島は蔚島の西にあるので、仮に「于山島は倭の松島」である事を読んでいたとしても、 日本は西洋の測量地図をもっており、これら全てには松島Dageletは鬱陵島の東にあるため、この于山島を松島と認識するとは考え憎い。
さらに、鬱島が、朝鮮半島の傍らにあるため、これを西洋の地図におけるArgonaut竹島と見做していた感がある。

つまり、日本人は、朝鮮の地図には竹島は記載されており、これは朝鮮に引き渡した。 しかし、Dagelet松島は記載されていないので、まだ開拓する余地があるということで、開拓願いに発展したものと思われる。
しかしながら、ご存知の通り、この地図の竹島鬱陵島は、開拓願いが出されていたDagelet松島と同じ島だったのである。



1874..(官許)「大日本西国四国九州地図」(葎窓貞雅):明治7年(1874)北畠茂兵衛他
この地図も赤水圖の竹島松島のような配置に、西洋のひょうたん型のアルゴノート竹島と、それと同じくらいの大きさの島としてDagelet松島が記載されている。



1875.02.(官許)大日本国郡全図 明治八年第二月 隠岐國
http://bunka.main.jp/blog2/upfile/47-1.jpg

「竹島(高麗ヨリ見レバ雲洲ヨリ隠岐ヲ望ムカ如シ 一名礒竹島」

これは、隠岐の地図に、赤水圖などの竹島松島の位置デザインと、西洋のデザインのArgonaut竹島Dagelet松島を融合したものだと思われる。
竹島を見ると、その瓢箪を横にしたような形状は明らかにアルゴノート竹島であり、松島は、少し小さいが、西洋の地図のDagelet松島の形をしている。

もちろん、元来、赤水圖における竹島松島は鬱陵島と現竹島のことなのであったが、この当時、既にその認識は無かった可能性が高い。
赤水圖のようなデザインの竹島松島を、Argonaut竹島鬱陵島とDagelet松島と認識していたように思える。
結果論からすれば、このDagelet松島は鬱陵島であったのだが、当時の人間は之を江戸時代に朝鮮に渡した鬱陵島とは思っていなかったと思われる。 松島を朝鮮に渡した事書契がないため、之を日本が開拓する必要があると考えたのではないか?

江戸時代の本来の松島(現竹島)は、
このような小さな二島の事をさすが、
 既に明治時代、すでにその存在が忘れられている感がある。
 それ故、松島を開拓し甲斐の有る大きな島Dageletとして記載している。







1875.朝鮮與地全圖 関口備正


この地図には、Argonaut竹島の位置に鬱陵島竹島と附属島としての于山島が書かれ、Dageletの位置に松島が記載されている。
つまり、江戸時代に朝鮮に渡した竹島=鬱陵島は諦めているものの、松島(実際には鬱陵島なのだが、)を大きな新島として、開拓する衝動に駆られたのはこのためである。



江戸時代の本来の松島(現竹島)は、
このような小さな二島の事をさすが、

既に明治時代、一部の日本地図、および西洋の地図にはHornet island/Liancourt Rocksとして勝海舟以降、海図などには記載されているが、すでに地図においてはその存在が忘れられている感がある。それ故、松島を開拓し甲斐の有る大きな島として記載している。









1876?.朝鮮国全図(瀬脇壽人・校;金麟昇音
)【177-220】(お雇い外国人)


瀬脇壽人は、ウラジオストックで松島開拓願いを出した人物だが、
(詳しくは1876.07.00.第八號 松島開拓之議を参照の事)
彼の地図には、亐山島カイサントウが鬱陵島ウリョントウ鬱陵島が記載され、それに「竹島」と名前が着いている。
つ まり、松島が彼の朝鮮の地図には掲載されていないのだ。開拓願いの出ている松島は、それといった書契が無い事が、かれは斉藤や外人などから島の話を聞き、 之を日本領と思い、開拓するに値すると思われる島として「松島開拓願い」を出したと考えられる。ただ、この顛末は、実際には松島は鬱陵島だったのである。

之と似たような構図の地図は、
1875.佐田白茅著 改訂新鐫朝鮮全図 ·岸田昑香·松田敦朝
 や、
1875.朝鮮国全図」(澤井満輝):明治8年(1875)【178-482】 がある。

彼 らは、この鬱陵島を竹島と思っていたのではないかと考えられる。竹島に関しては朝鮮とのやり取りがあるが、松島に関しては朝鮮とのやり取りが確認できない と 対馬の記録や竹島考証・および公文録に述べられている事から、 Dagelet松島を全く別の島で開拓の余地のある大きな島と思っていたのかもしれな い。

当時、日本は西洋の地図を入手しており、松島はDagelet島、つまり「鬱陵島竹島(実際にはArgonaut島の位置」の東南に大きな島として書かれた地図を持って おり、これらは西洋の地図でほぼ位置・形状が統一しているので、田辺など一部を除いて于山島倭の松島を、Dagelet松島と思っていたとは考えにくい。 また、Dagelet松島の更に東に有る江戸時代の松島つまりリアンコールド巌のことなどはなおさら考えていないだろう。



1876.朝鮮国之全図 石川県 士族平田繁

この地図は、竹島鬱陵島しか記載がないが一応関連性があるので掲示する。この地図は従来型の朝鮮の地図に手を加えたものだと思うが、鬱陵島竹島は朝鮮に非常に近い。このことから、この島が、西洋の地図に記載されたArgonaut竹島と認識していたような間がある。

ちなみに、この鬱陵島竹島の南西に、恐らく于山島のような小さい島が書かれている。日本の地図上において于山島は、西、南西、北西、東と様々な場所に書かれていて定まっていない。これも当時の人間はこの島が何か、疑問に思っていたのだと思われる

















1876. 朝鮮八道地圖 原義長

この地図では、竹島しか記載がない。 竹島はArgonaut島の位置に記載がある。
この形状は、鬱陵島の形状である。 実際には蔚陵島はDagelet松島の位置にあるのだが、作者はArgonaut竹島を鬱陵島と認識していた事になる。
この作者はDagelet松島は、Argonaut竹島鬱陵島とは別の島であり、日本の、開拓し甲斐の有る大きな島と考え、この地図には描かなかったことが予想される。(しかし、実際には、このDagelet松島が鬱陵島であるのだが)




















1876.大日本詳細全圖 響仙堂制
近代的地図がベース 竹島はArgoanut 松島はDagelet島。


1876.松島の儀2において、渡辺は、戶田敬義ノ圖
・日本の書物においては、    竹島=松島即ちDagelet
竹島周圍大凡十五里トアリ
参考)
1849.竹島圖説  松江藩の学者 金森兼策  松江藩主松平斉貴に提出 八右衛門のものと同様の圖が添付杉原氏のPDF中
1.竹嶋関係文書集成中にある地圖1(左白黒)

私船の測量を総計すれは二十三里余となる
[尤曲屈出 入ヲ合セ沿岸]去レハ彼松島卽チ「タゼラ」島ノ周圍ト異ナル事少々ナラ11ス、
(私注:戶田敬義ノ圖がどの地図か全くの不明なのだが、竹島考証下の1877.01.27 第四號 竹島渡海之願 の、「且ツ圖面ハ一昨年伯者之一漁師之家ニ求ムルと記載されている。また、「二十三里」と記載があるようだが、どの圖なのか、はっきりしない。この二点がヒントになるのではないか?)

圖中
南隅ニ一里半周圍ノヲ載ス、是于人島ナルベシ、
(私注:圖の南隅に、 との記載から、おそらくは竹島之圖のような、鬱陵島詳細図と推測される。鬱陵島陵島の東南に書かれた現竹島の可能性があるが、どの地圖をみて言っているの か、不明。磯竹島略図のような、竹島ー松島ー隠岐-(島根)などの広範囲を描いた磯竹島略図のような地図ではないと思われる。この場合、地図上南隅が竹嶼 もしくは現竹島の位置にならないためである。)

(追記:
【質問30】 竹島考証 第拾貳號 松島之議ニ 渡邊洪基のところに出 てくる、「又戸田敬義ノ圖・・・二十三里餘トナル[尤曲屈出入ヲ合セ沿岸]去レハ彼松島即チ「タゼラ」島ノ周圍ト異ナル事少々ナラス、」の、戸田敬義ノ圖 は、現存するのか。「二十三里餘トナル[尤曲屈出入ヲ合セ沿岸]」がヒントになると思う。そして、「圖中南隅ニ一里半周圍ノ一島ヲ載ス、是于人島ナルベ シ、」という文章は、その「戸田敬義ノ圖」について述べているのであろうか。

【回答】   北澤正誠『竹島考證』には、第12号「松島之議 二」の前に第4号として戸田敬義の「竹島渡海願」が収録されており、その中に「図面ハ一昨年伯耆ノ一漁師ノ家に求トムルナリ」という記述があります。『竹島考證』にはいくつかの筆写本がありますが、そのうち外務省外交史料館所蔵のもの(分類番号3-8-2-7『朝鮮國蔚陵島ヘ犯禁渡航ノ日本人ヲ引戻処分一件』第5巻)の巻末に「第四号ニ添/島根縣士族戸田敬義願書添/竹島之圖 貮葉」と書いた封筒が付いています。封筒中には、甲乙と朱書された二つの「竹島之圖」が入っており、このうちがご質問に係る絵図です。同図は、机上に広げた場合、上方が南、左側が東になります。その図の左上の角に小島を描き「此島廻リ壱リ半」 とあります。同図は欝陵島を一枚の紙に大きく描いたもので小島が欝陵島と近接して描かれていること、島上に木々が描かれていることから判断して、この小島 は、いわゆる竹嶼です。なお、もう一方の甲の絵図には「天保四巳霜月十九日夜求之 持主権吉」「明治七年冬借求」と書かれています。また、甲乙両図とも、 国立公文書館に「明治十年八月模写 ニ折ノ内」と書いた写し(請求記号177-217)があります。(事務局:総務課)(2010年10、11月)http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima08/iken-B.html

田中邦貴氏 竹島問題 http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/takeshimamap-1877/

眞圖

ニ就テ測量スル ニ、隱岐島ト松島竹島朝鮮ノ距離凡ソ符合ス、サレハ松島竹島ノ二島ナルハ殆ソト判然タリ、唯我國ノ書ニ竹島之事ノミ多クシテ松島ノ事ナキハ大小貧富ノ差ヨ リ竹島ニ往來スルノミニシテ、且朝鮮トノ爭論モ竹島ニノミ關係シタル故ト思ワル、


*1873.China Sea Directory," 1st Edition Vol. 4 (1873) 英国より、 Argonautの記載は消え、Dagelet松島とLiancourt Rocksのみとなった。
同じく1873年のPreliminary Chart of Japan: Nipon, Kiusiu, and Sikok and part of the Korea   Hydrographic Office     London: the Admiralty, 1873 は、恐らくは、このChina Sea directory 1st/Vol4(1873)の附属図、関連図と考えられるが、この地図には既にArgonaut竹島は消滅しかかったかたち、Position Doubltfulで記載されている。以下のような日本側の官製地図は、それを反映して、日本がそれまで認識していたうアルゴノート竹島が、ようやく消えかかっており、このあたりから、ようやくDagelet松島が鬱陵島なのではないか?という疑念が出てきたとも考えられる。これが竹島開拓の儀・松島開拓の儀・太政官指令の契機となったとも考えられる。
1875.朝鮮全図 陸軍参謀局
1876.朝鮮東岸図 海軍水路寮
1876.朝鮮全図 明治9年 陸軍参謀局
1877『日本全図』宮本三平 文部省出版 明治10年9月
近代的地図がベース 竹島はArgoanut 松島はDagelet島。


それでは、ここで一つ考えてみていただきたい。このような地理的認識の中で、
磯竹島略図のような地図が出てきた場合、日本人は、磯竹島略図に書かれた蔚陵島を竹島と認識すると考えられる。
磯竹島略図の蔚陵島磯竹島を、これを西洋のにおけるArgonaut島であり、朝鮮蔚陵島と考える可能性がある。
また、磯竹島略図にみられる、日本の江戸時代の認識を示す地図には、いがしまと呼ばれる附属島が書かれている。この島は、間の島とも書かれていたり、一定しない。この一定しないいがしま/間の島を于山島と考える事があったのではないだろうか?そして戸田の竹島の図等にも書かれている樹木の生えている一島の名称無記名の島もそうだ。


磯竹島一ニ竹島ト称ス隠岐国ノ乾往一百二十里許ニ在リ周回凡十里許山峻嶮ニシテ平地少シ川三條アリ又瀑布アリ・・・(鬱陵島の状況)・・・次ニ一島アリ松島ト呼フ周回三十町許竹島ト同一線路ニアリ隠岐ヲ距ル八十里許樹竹稀ナリ亦魚獣ヲ産ス・・・


また、磯竹島略図に書かれた、磯竹島の南東に書かれた松島は、非常に小さいもの(周回三十町許)であるが、之をどう考えたか?
明治期の人間は、竹島考証(下)を読んでいるかぎリは、松島は開拓のし甲斐の有る大きな島と考えている父子があり、同様に西洋の文献にも紹介されているが、
Imperial Gazette (初版は1855)や1855 Pronouncing Gazetteer, USAに以下の表記があり、
DAGELET
An island in the Sea of Japan, about midway
between Japan and Corea, 8 miles in circumference. Lat. (N.point) 37°25' N.,
lon. 130° 56' E.
これを、鳥取県が出してきた近代的測量以前の地図である磯竹島略図に書かれた「周囲三十町の松島」と考えたであろうか?当然迷いが生じたと考えられる。

たが、これはどうも竹島Argoanut島が存在しない島である可能性があり、ようやくこのDagelt松島が鬱陵島であるのではないか?という事を考え始めたであろうか? もしくは、西洋の地図におけるLiancourt Rocksと考えたであろうか? よって、この存在がはっきりしない不明の「松島」を「外一島」としたと考えられる。


この結末は、先にも述べたが、1880年以降、日本の官製の地図においては、鬱陵島松島の記載のみになる。日本海を挟んだ形での日本圖などには、地図によってはリアンコールド巌が記載されるが、基本的に朝鮮圖には鬱陵島松島のみの記載になる。・竹島考証を編纂した外務省の北沢正誠は、一島三名の認識を結論付けたため、これ以降鬱陵島1島が「朝鮮鬱陵島一名竹島一名松島」と呼称される事になる。

民間の地図の傾向では、Argonaut竹島、Dagelet松島を記載する地図は減る傾向にあるものの、引き続き出版され続ける。 政府や官制の地図からはArgoanut竹島は消えるのではあるが。


よく、保坂氏が主張する多くの地図は、殆どがArgonaut竹島とDagelet松島の記載で、現竹島と同じ形状且つ同じ位置を示したものは無いのだが、一枚だけが、竹島を鬱陵島の座標、松島を現竹島の座標に書いている節がある。しかし、形状、大きさを考えると恐らくはこの松島をリアンコールド巌として作者は記載したとは考えにくい。また、この地図は、朝鮮半島と九州との相対的な位置に欠陥がある民間の地図である。

なお、1905年の韓海実業指針の附属圖には、漁業者の利用の観点からか、朝鮮圖においてリアンコールド巌が記載されている。。



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