https://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/koreansrecognizationofullengdodistrict
では、朝鮮側の蔚陵地方の範囲の認識を扱ったが、
こちらでは日本側の松島=Dagelet島の範囲の認識を見てみる。
江戸時代の文献・ウラジオストックにおける外国人との会話などのソースがある。
1863.金正浩 大東地志
鬱陵島在本縣正東海中古于山一云武陵一云羽陵一云艼陵周二百餘里東西七十餘里南北五十餘里三峯岌嶪聳空(倭舡漁探者時到)純是石山自本縣天晴而登高望見則如雲氣便風二日可到倭人謂之竹島與日本隱岐州相近自中峯至正東海濱三十餘里正西海濱四十餘里正南海濱二十餘里正北海濱二十餘里川溪六七竹田五六居址數十有楮田洞孔巖米土窟石葬古址船泊處待風所島之南有四五小島島中皆石壁石澗洞壑甚多有狙鼠極大不知避人亦有桃李桑拓菜茹之屬珍木異草不知名者甚多○新羅智證王十三年于山國恃險不服遣何瑟羅軍主金異斯夫擊降之 高麗太祖十三年芋陵島遣白吉土豆貢方物
明治九年七月 武藤平學 → 東京外務省
我 カ隱州ノ北ニ在ル松島ハ南北凡ソ五六里東西二三里ノ一孤島ニシテ海上ヨリ一見スルニ一宇ノ人家ナシ、此松島ト竹島ハ共ニ日本ト朝鮮トノ間ニ在レトモ竹島ハ 朝鮮ニ近ク松島ハ日本ニ近シ、松島ノ西北之海岸ハ岩石壁立シテ斷岸數百丈飛鳥ニ非サルヨリハ近ツクヘカラス、又其南ノ海濱ハ山勢海面ニ向テ漸次ニ平坦ニ屬 シ、山項ヨリ三四個ノ所ニ其幅數百間ナル瀑水アレハ平地ノ所ニ田畑ヲ設ケ耕作スルニ便ナルヘシ、又海邊諸所ニ小灣アレハ船舶ヲ繫クヘシ、加之本嶋ハ松樹鬱 鬱トシテ常ニ深綠ヲ呈シ鑛山モ有ト云ヘリ、
記錄局長 渡邊洪基
・洋書ニ就テ按スルニ (松島=Dagelet)
Imperial Gazette (初版は1855)
Dagelet松島ハ日本海ノ一島ニシテ日本島ト朝鮮半島ノ間ニアリ、
137"25E[グリーンチ トツチヨリノ算]130"56'E-1786年La Perouse 所周圍9里 海巖ハ絶壁之ヲ境シ、其最高處ニ至ルマテ樹木森森タリ」
リツピンコツト著プロナヲンシンク ガセフテル、ゼヲールルド
(Lippincott- Pronouncing Gazetteer the World, USA").
Dageletは日本海ノ小島ニシテ日本朝鮮ノ殆ント中間ニアリ、周圍8里北點
37”25’N / 130”56’E
(DAGELET
An island in the Sea of Japan, about midway
between Japan and Corea, 8 miles in circumference. Lat. (N.point) 37°25' N.,
lon. 130° 56' E.)
・日本の書物においては、竹島=松島即ちDagelet
竹島周圍大凡十五里
又戶田敬義ノ圖ニ
十三里は松島卽チ「タゼラ」島ノ周圍
圖中
南隅ニ一里半周圍ノ一島ヲ載ス、是于人島ナルベシ、
(おそらく朝鮮圖に書かれた鬱陵嶋と于山島の圖か、又は、鬱陵島の東南に書かれた現竹島の可能性があるが、どの地圖をみて言っているのか、磯竹島略図を見ているのかどうか不明。)
眞圖
ニ就テ測量スル ニ、隱岐島ト松島竹島朝鮮ノ距離凡ソ符合ス、サレハ松島竹島ノ二島ナルハ殆ソト判然タリ、唯我國ノ書ニ竹島之事ノミ多クシテ松島ノ事ナキハ大小貧富ノ差ヨ リ竹島ニ往來スルノミニシテ、且朝鮮トノ爭論モ竹島ニノミ關係シタル故ト思ワル、
露領浦潮港在留 武藤平學 → 貿易事務官 瀨脇壽人・朝 鮮人等ノ談話ヲ承ハルニ松島ハ東西三四里、南北五六里ノ小島ナレ卜モ大益アル島ナリト申候ニ付、其利益ハ何等ノ産物ヲ以テ云フヤト尋ケレハ我等本國ニ在シ 時嘗テ聞及ヒシニ松島ハ大木繁茂シ、第一ニ材木ヲ輸出スルニ利アリ、
1882.05.03.李奎遠 の『鬱陵島検察使日記』の1882年の5月3日
土産 紫丹香, 梧桐, 柏子, 冬栢, 黃柏, 桑木, 柹木, 厚朴, 槐木, 楢木, 馬柯木, 老柯木, 朴達木, 楮木, 苧草, 山蔘, 麥門冬, 黃精, 前胡, 玄胡索, 葳靈仙, 百合, 獨活, 南星, 木賊, 貫衆, 覆盆, 山葡萄, 春菩, 獮猴桃, 鵓鴿, 鷹鸇, 藿鳥, 水牛, 海狗, 蜈蚣, 甘藿, 全鰒, 海蔘, 紅蛤等種是白齊 周廻 假量爲一百四五十里是白遣 距陸地遠近 則水路浩浩茫茫 莫測里數是白齊
鬱陵島(一名松島) 該島は我隠岐を距る北西四分の三、西約一百四十里、朝鮮江原道海岸を距る約八十里、洋中に孤立し全島嵯峨たる円錐形の丘陵集合して、樹木之を蔽う。而して其中心北緯三十七度二十二分、東経一百三十度五十七分、露測に據る。 最高山は高さ四千尺、島の周囲十八里、其形ち殆んど半円に似て其径東微北より西、微南に六里四分の一、其の両端より海岸線は突然南方に屈折し、逐次に東西に曲り、島の南岬「セール」埼に至る。少しく岸線の出入あり。該岬を離れて一小岩あり。甚だ低 し。沿岸は散布せる岩石夛敷ありと雖も、其北岸及び東岸にあるものは其の高さ或いは四百尺及至五百尺に達するあり、皆該島に以って陡岸なり、而して投鉛し て以って其深浅を戒むに及ばず竹嶼(朝鮮人之を竹島と云う)を除くの外一岩嶼の岸より二鏈牟を出る者なし。竹嶼は此島の近海にて最大にして島の東海岸を距 る。七鏈竹嶼の北方約五鏈に一嶼あり。北方に向て洞穴二個並列す。此嶼の北東に方り約二三鏈の地に礁石一坐あり。近く可かをす「ホール」厳は島の北岸にあり。大なる洞穴あり、又之に臨める陸岸には丘陵あり。滑面禿兀峻険にして其地形笋の如く又筆の如く之を見るに花崗岩ならん。其頂上に葛及苔を装 す。其高さ八百尺。該島の辺海は陡岸にして英艦「アクテオン」号の端舟独り其の水深を探り得たり。又島の南方四里の地にて深さ四百尋、海底に達せす。又島 の北方二里四分の一にて三百六十六尋海底に達せさりしと云う。沿岸には一の港湾なく、然れども好天気には竹嶼の南南西四分の一、西に方る小湾に假泊し、礫 石の濱に上陸するを得るの地あり。蓋し北東風にては縦令ひ軽軟にても甚だ困難なり。該湾は海底峻険二十尋より直ちに十尋となり、岸に接しては六七尋、底質 は皆な砂なり。其他此島の海岸八九は上陸を得るの地なり。
1883.09.M16.地図第四号(「朝鮮国蔚陵島出張檜垣内務少書記官復命ノ件」p11、p12
「同島の地勢たる絶海の一孤島にして、周囲十四五里、峻嶺重畳、巉峰崛峙、自ら島勢を為せり。而して断岸絶壁、棲をとする能わざるを以て、御国人の 渡島し居る者は、其渓澗底面の地に就て僅に柴荊を結び、十名或は廿名、各処に散在仮居せり。朝鮮人の島に在る者も亦然り[地図第四号にあり]。故に嶋の表 面より裏面に至る直経僅に二三里に過ぎざるも、曲折羊腸荊榛を排し藤蔓に援らざれば、達する能わずる・・」(「同上」p4)
1886.12.00 寰瀛水路誌 第二巻第二版 韓露沿岸』海軍水路寮
鬱陵島一名松島(洋名「ダゲレット」海軍海圖第九十五号第百四十一号第百六十九号英海軍海圖第二千四百五十九号を参観すべし) 此の島は隠岐を距る北西四分三酉約百四十里朝鮮江原道海岸を距る約八十里の洋中に孤立す全党嵯峨たる円錐形丘陵の集合したるものにして樹木欝然として是を覆ふ而して其の中央即ち北緯三十七度三十分東経百三十度五三分の地に高さ四千尺の一高峯あり島周十八里形チ半円に似て其径東微北より西微南に至る至る長さ六里四分一其両端より海岸突然南方に屈折しXて逐次に東及ひ西に曲がりて島の南単なる海狗(シール)角に至る而して其間の岸線は少しく出入す又海狗角の対面に一箇の小岩あり。【改行】 島岸に沿って数岩あり陸岸と連ならす其過半は東北両岸の間に居り其内数岩は高さ四百尺より五百尺に至る○各岩鬱陵島の如く 界にして投鉛も亦Xみと為すに足らす竹嶼洋名 「ボーッソール」岩を除く外余は皆石崖クリツフを距る四分里一を出でず竹嶼は最大岩にして島の東濱を距る七 金蓮の地に位す又島の北濱に近く孔岩ホールロックあり岩側一大孔あるをもって以て其形頗る奇なり此岩と相対せる陸岸に花崗石グラニツトの一山あり滑面秀 険峻にして形チ糖塔の如し而して其高さ大約八百尺なり。【改行】 鬱陵島の各側は極めて 界なり曾て英艦「アクテオン」号は島を距る南方四里の処を錘測し四百尋の鉛錘を下沈したれも海底 一の地を測し三百六十六尋に及へも猶ほ末た海底に達せさりき因て端艇を遣り島岸至近を錘測せしめしに石崖下に至りて始て水深を得たりと云ふ○島岸X阻にして登攀す可からす唯天気温和なる時は磔濱の処より岸に登るを得べし然れX亦甚た難し【改行】
1888.11 朝鮮地誌略
鬱陵島 位置に武陵或は羽陵と曰ふ二島あり県の正東海中三百五十里に在り南北四十里周囲二百余里三峰●●●チ●へ南峯●卑し風日清明なれは則峯頭の樹木及ひ山根沙渚歴々見る可し風便なれは二日到るへし一説に于山、鬱陵、本一島たりと云ふ 于山島 鬱陵島に隣す
1894.02.18 山陰新聞 朝鮮竹島探検(松江佐藤狂水生投
竹島は隠岐より西北八十余里の洋中に孤立し、船を 駛する五十余里に至る頃ろ一ケの孤島あり、俗之れ をリランコ島と云う。其周囲凡そ一里許りにして三 ケの島嶼より成れり、此島に海獣海驢棲息し数百頭 を以て数うべく其叫声轟々として喧しく此近海は 鯨族の群遊ありて実に無比の捕鯨場たり、鯨種は充 分の調査を遂けざるも多分長須坐頭ならん、之れを 捕ふるには遠洋漁業の仕組にて汽船或は風帆船の 補助を仰ぐにあらざれぱ能はざるべし、此より三十 余里を隔てゝ竹島あり、海流に就て日はんにリラン コ島は寒暖海流の堺界線として可なるべし、何とな れば日本領海より此の島までは暖流即ち黒潮の支 流にして以北は寒流即ち来満派の流域なり、蓋し暖 気は北赤道海流を源とし其一支派台湾の東を流れ 冲繩島に沿い分岐して、其本流は太平洋の方に向い、 支流は九州の西部より対馬海峡より日本海に入る、 寒流は阿哥科海の北酉より来り黒龍江の前面を過 ぎ日本海の西の半分を流るゝ派なり、鯨族のリラン コ近海に出没するは即はち寒流暖流の相交る処に して海水の温度能く其来遊に適するならん。
・・・・・
本島は八道中の一なる江原道に属する島嶼にして 本名を鬱陵島と云う、本邦人は竹島と称す、内地なる 蔚珍より東三百五十幹里(朝鮮の一里は我が三町 五十一間余に当る)の処に位し、風順なれぱ二日に して至ると云う、往昔は于山国と称して殆んど無人 島なりしも近世朝鮮政府は人民を移住せしめ、今は 三百余戸の多きに達す、又た毎年多少の移住民あり て開拓に従事せり
島の周囲十二三里にして全島悉く山嶺にして殆ん ど平坦の地なし、唯だ僅かに渓谷の地稍や平地の状 を為せるのみ、故に耕地は畑のみにして田地無く最 も樹木に富み就中棒の良木ありと雖ども、十数年前 より本邦人屡々伐木に来り、海辺便利の地は伐採し 尽したるの有様なりしも、未だ山中往々良材に乏し からず、周辺海岸は断崖磊砢として港湾に乏しく只 だ東南に一小港あるのみ、此地を洞道と云う
1894.11朝鮮水路誌(P255~257)リアンコールト列岩 此列岩は洋紀1849年佛国船「リアンコールト」号初て之を発見し船名を取りリアンコールト列岩と名つく。其後1854年露国「フレガット」形艦「パラ ス」号は此列岩をメナライ及ヲリヴツァ列岩と称し、1855年英艦「ホルネット」号は此列岩を探検してホルネット列島と名つけり。該艦長フォルシィスの言 に據れば此列岩は北緯37度14分、東経131度55分の處に位する二坐の不毛岩嶼にして鳥糞常に嶼上に堆積し、嶼色鳥めに白し而して北西彳西至南東彳東 の長さ凡一里に嶼の間距離1/4里にして見たるところ一礁脈ありて之を連結す。西嶼は海面上高さ凡四一〇呎にして形糖塔の如し。東嶼は較低くして平頂なり。此列岩附近水頗る深きか如しと雖も、其位置は實に函館に向て日本海を航行する船舶の直水道に當れるを以て頗る危険なりとす。
鬱陵島(一名松島)海軍海図第五四号第九五号を見よ 隠岐島を距る北西3/4西凡一四〇里朝鮮江原道海岸を距る凡八十里の海中に孤立す全島嵯峨たる圓錐山の集合にして樹木鬱然繁茂す而して其中心北緯三〇分東 経一三〇度五三分に、高さ四〇〇〇呎の一峯あり。巍然天に聳ゆ。此島周廻十八里にして形幾と半圓を成す。鬱陵島の北東側に於て竹嶼を、南南東1/4里西凡 そニ3/4里に望むの處に一岩あり、岩上の水深僅にニ呎及至三呎(日聞蒸気船「ウィマル」号の報告に據る) 島岸殊に東北両岸に沿うて数個の峻岩分立し其中に四〇〇呎及至五〇〇呎の高さに達するものあり。何れも鬱陵島の如く走界にして錘測も恃みとするに足をす然 れも竹嶋(此嶼は島の東濱を距る七鏈の處にあり)を除くの外、皆本島の崖岸を距る1/4里以上に出る者なし。島の北濱に接して孔岩あり岩を貫きて一大孔あ るを以て其形甚奇なり此岩と相對せる陸岸に高さ大凡八〇〇呎の花崗岩山あり滑面禿兀峻険にして形糖塔の如し○島の南端シール角付近に一小岩あり。
1895.朝鮮地誌 學部編輯局新刊...大朝鮮開國五百四年菊秋
【名勝】……………….鬱陵島는 蔚珍에 在하니 周回이 二百余里니 東西이 六十余里오 南北이 四十余里라. 芋山島는 蔚珍…
1899 「朝鮮水路誌」(263-264ページ)リアンコ-ルト列岩
北西?西至南東?東ノ長サ約一里二嶼ノ間距離約二?半
1899.09.23.皇城新聞
蔚珍之東海X一島X有XX 曰鬱陵X其附属X小六島中X最著者X干山島竹島XX、大韓地誌X曰鬱陵島X古于山國XX地方X百里X三峰。//律XXX所産X柴故、藁本、石楠、藍竹XXX、/古X牛形無角X水獣X有XX名可之X海鳥X有XX名曰雀鳥-XX島中人煙X稀少XX国家XX
鬱陵島X距離二百余里X面積約七十五方里X遍島中X耕植Xx地X不多XX樹木X海浜XX従XX山嶺XX欝密XXXX山高X計四千英尺XX距離三里内X水深X自六千至九千六百英尺XX
1899.10.03.鬱陵島 出張復命書 送付 件 高雄書記生復命書
本島ハ元山ヲ距百八十五浬竹邊ヲ距七十三浬釜山ヲ距百七十五浬ノ一島嶼ニシテ東西ニ稍長ク三角形ヲナセリ
周圍十八浬其位置北緯三十七度ニ起リ三十七度三十三分ニ至リ東經百三十九度四十九分ニ起リ百三十九度五十七分ニ至ル又周圍沿岸ノ水底ハ岩石ニシテ深サ二十尋乃至三十尋以上ニ達シ投錨スルニ便ナキ一小島ナリ地勢ハ一般ニ峨々タル山脈ニシテ五千「フイート」ニ達スル高峯屹立スルアリテ到ル處山又山ト相對シ斷岸巉峭綠樹鬱蒼トシテ岩上ヨリ垂下スルアリテ甚タ美觀ナリ
1900.06.06 (272) 禹用鼎の {鬱島記}(3)
吠全島長可為七十里 広可為四十里 周迴亦可為一百四五十里 而自壬癸開拓以後 至今居民為四百余家 男女共為一千七百口 起墾火田為七千七百余斗落 而厥土沃●播穀豊 登所種則大小麦黄豆甘藷 家家足粮水利 則採●
1900.06.12.在釜山 領事官補 赤塚正輔 [鬱陵島 調査槪況 및 山林調査槪況 報告의 件]
鬱陵島山林調査槪況 (機密京第一七號附屬書)
鬱陵島ハ韓國江原道ニ屬シタル島嶼ニシテ松島又ハ竹島ト稱シ(東經百三十度八分二厘北緯三十七度五分)釜山ヲ距ル東北百八十哩境港ヲ距ル西北二百哩隱岐ヲ距ル百四十哩ニシテ東西凡六哩强南北凡四哩强海面ヲ拔ク約四千尺周圍凡二十哩峻硝澆确峯巒重疊鬱蒼タル天然ノ森林ニシテ日光ヲ見サルノ部分其半ヲ占メ老樹衰憊腐朽ニ屬スルノ今所モ尠カラサルナリ陸地ヲ距ル百四十哩ノ小島ナルヲ以テ海底深ク濃藍色ヲ呈シ風波常ニ甚タシク殊ニ灣形ヲナシタルケ所ナク船舶ノ碇泊ニ便ナラス
見込面積凡九千三百三十一町貳反步內凡六千九百九十八町四反步ハ山林地ニシテ(千四百九十八町四反步ハ谿及岩石ニシテ五千五百町步ハ樹林ノ見込)凡二千三百三十二町八反步ハ無立木地ニ屬シ五百町步ハ切替畑地千八百三十二町ハ反步ハ不毛地其他ノ見込ナリ
・・・・・
鬱陵島調査槪況 第一. 位置及地勢
欝陵島ハ釜山ヲ距ル百八十哩元山ヲ距ル百八十哩日本ノ隱岐ヲ距ルコト百四十哩ノ海洋ニ孤立セル一島嶼ニシテ周回凡ソ十里全島島皆巖石ヲ以テ數多大小高低ノ山ヲ築キ無數ノ深谿其間ニ縱橫シ山巓ヨリ谿間ニ至ル迄欝蒼タル樹木ヲ以テ蔽ハレ極メテ壯觀ナリ沿岸一帶皆殆ント懸崖絶礕ニシテ港灣殆ント無ク風浪ノ際ハ船舶ノ難ヲ避クルニ由ナシ僅カニ道洞ト稱スル所ニ於テ絶礕ノ間ニ極メテ狹キ一小港アリ日本ノ風帆船二百石積以下ノ者ハ此處ニ來リテ碇ヲ下スト雖トモ風浪ヲ防クニ足ラサルヲ以テ皆之ヲ陸ニ引揚ケ居レリ故ニ汽船ノ如キハ穩波ニ乘スルニ非サレハ該島ニ至ルコトハ甚タ危險ナリ此ノ如キヲ以テ元山釜山若クハ日本ノ境若クハ馬關等最モ該島ニ接近セル場所トモ舟揖ノ往來至テ少ク所謂絶海ノ孤島ナリ陸上ノ交通モ亦多クノ山谷ヲ上下セサル可カラサルヲ以テ殆ト道路ト稱スヘキモノナクーノ村ヨリ他ノ村ニ至ルニハ極メテ困難ナリ
1900.10.22請願書 鬱陵島を 鬱島で 改称その 島監を 郡守で 改正に 関一 請議書。 >大韓勅令41号
右 該島가 東溟에 特立야 大陸이 遠隔온바 開國五百四年에 島監을 設置야 島民을 保護고 事務 管掌케 該島監 裵季周의 報牒과 本部視察官 禹用鼎과 東萊稅務司의 視察錄을 參互節査온즉 該地方이 蹤可八十里오 橫爲五十里라 四圍峭壁에 中有巨山야 自北止南고 間有大川야 深廣이 幾容舟楫고 其土가 沃腴고 其民이 質野야 自數十年來로 民蓄이 蕃殖야 戶數가 爲四百餘家오 墾田이 爲萬餘斗落이라 居民의 一年農作擔包數爻가 藷爲二萬餘包오 大麥이 爲二萬餘包오 黃
1901.01.朝鮮開化史 東亜同文会蔵 国友重章 恒屋盛服
金崗山の一支東海に入る六十余里峙立しして鬱陵島となる一に蔚陵と書す即ち古于山国なり後新羅に入る別名は武陵、羽陵共に而音相近きに因る大小六島あり其中著名なるを于山島(日本人は松島と名く)竹島といふ全島の面積約七十五方哩島中耕作すべきの地多からず樹木は海浜より山嶺に至るまで欝密す山高さ四千英尺にして海岸X峻三哩内海中の水深六千英尺より九千六百英尺に至る居民は男女三百口数十年以来船匠商買及漁、大農夫合相XでXり住居ス海水甚だ深きを以て魚産未だ盛んならずと雖も海菜の運出毎年二千荷を超え土質X沃にして肥料灌漑を要せず只樹業X灰を以て覆耕す春作は大小麦にして秋作はX及び豆の頻なり林産は老巨の杉松及各種ノ実木にして亦多く塊木、香木、柏子、甘湯木を讃す今王二十三年韓廷金玉均をもって東南諸島開拓史兼捕鯨使に任じ白春培を以て従事官となし該島開拓事務をX理せしめたるが翌年形京白の変ありて果さず其後島民徐敬秀を以て越松萬戸に差定し該当人民を繁殖し外国人の樹木伐採を防禁せしめたり。
1901/06.15 黒龍界 韓国沿海事情/
鬱陵島(春川府直轄)平海郡、越松浦の南微北に当り、四十余里の海中にある孤島にして、別名之を武陵又た羽陵と称す、即ち古の于山国にして本邦人は松島と呼ぶ、世人の本島は大小六小箇の島嶼、若くは竹島、松島の二島より成れりと為し、或は地図に之れを記入しあるは往々見る所なれとも、是れ等は何れも誤りなるが如し。【改行】本島は●と金剛山脈の一支流れて東海に入り、対立して其頭を顕はしたるものにして、面積約七十五万方哩、中央に一の山岳Xふるものあり、其高さ四千尺、峻厳突X四●之れを擁して。遠く望めば背螺の浮出したるに勢●たり又た船舶を碇泊するの良港無く、商船漁船の碇泊困難にして、風涛少しく荒るるときは、島の北面に位する海濱の平地に船を引き揚げるを常すと云ふ、
(1901年と1903年は、やんこは一緒だが、鬱陵部分が数値が異なる)
//1903.01.01『韓海通漁指針』葛生修吉
鬱陵島 Xと春川府直轄をりし処、34年8月以来新たに郡手を遣はして之に統治せしむ 北緯130度45分乃至53分50秒、東経三十七度 三十四分四十秒乃至三十一分五十秒の-Xに位地し、平海郡越松浦の南四十余里の海中に有る孤島にして、韓人は別名之を武陵または羽陵-を書す、乃つ古の于 山国にして、支那人之を松島と呼ぶ。因に記す、世人或は本島を持って大小六箇の嶋嶼集合せるものなりと、若しくは竹嶋、松嶋の二嶋の通称なりとし、甚だし きは往々地図中にも之れを並記しXるを見る、此の如きは実にXXの大なるものとす。///本嶋はXと金剛山Xの一X走つて東海に入り、更に峙立して其頭を Xはしたるものにして面積約五里四方許、中央に一山X起し、其Xさ凡そ四千尺mXX之を擁して、遠く望めば青Xの浮出したるにXXたり、島中船舶を碇繋す る港湾に乏しく、商船漁舟の碇泊に困難を成じ、風涛少しくXるX時は毎に船を海岸の平地に曳き------海岸の平地に引き揚げくと云ふ。・・・・・・・・・・・・・
ヤンコ島 鬱陵島より東南の方三十里、我が隠岐国を西北に距ること殆ど同里数の 海中に於て、無人の一島あり。晴天の際 鬱陵島山峯の高所より之れを望むを得べし。韓人及び本邦漁人は之れをヤンコと呼び、 長さ殆んど十余町、沿岸の屈曲極めて多く、漁船を泊し風浪を避くるに宜し。然れども薪材及び飲料水を得るは頗る困難にして、地上数尺の間は之を牽けども容 易に水を得ずと云う。 此島には海馬非常に棲息し、近海には鮑・海鼠・石花菜等に富み、数年以前山口県潜水器船の望を属して出漁したるものありしが、潜水の際、無数の海馬群に 妨げると。飲料水欠乏との為に、満足に営業すること能わざるして還りたると。察するに当時の季節は恰も五六月にして、海馬の産卵に当りしが故に、特にその 妨害をうけたるものならんか。 また、付近に鱶漁の好網代あり。数年以来五六月の候に至れば大分県鱶縄船の引き続き之に出漁するものあり。昨年春、同処よ り帰航したる漁夫に就いて之を聞くに、出漁した二三回に過ぎざるが故に、未だ充分の好果を得たりと云うべからざれ共、毎季相応の漁獲あり。従来の経験上、 その網代の状態、及び鱶類棲息の規模等より観察するに、将来頗る有望の漁場たるを疑わずと。 同島は、盖し営業者の為には尚充分探検の価値あるべし。
1901.12.10.鬱陵島在留民 단속을 위한 警察官 派遣의 件 上申 林 公使→外務大臣 小村壽太郞
鬱陵島ハ從來島監ヲ置キ島治ヲ司ラシメタルモ今般更メテ郡守ヲ置ク事ト相成新郡守姜泳禹ナル者近々出發ノ筈ニ有之候右ノ島治官ノ變更ニ付前島監裵季周ナル者免官トナリ目下滯京中ニ有之右同人ニ就キ同島ノ過去及現在ノ情況承知致候其槪要ニ由レハ前記裵季周ハ仁川ノ對岸永宗嶋ノ住人ニシテ今ヨリ貳拾年前鬱陵島ニ移民開拓ノ擧ヲ計劃シ率先シテ該島ニ渡航シ其開拓ニ從事シタルモ如何セン該島ハ本ト無人島ニシテ(周圍我十三里ナリト云フ)韓國沿岸トノ交通啓ケサル爲メ非常ノ困難ヲ感シ其結果頻ニ日本人ノ渡航ヲ勸誘スルコトニ力メ且自ラ島根若クハ神戶等ノ地方ニ赴キ該島産出ノ槻木賣買ヲ特約スル等漸ク日本人ノ該島ニ渡航スルノ途ヲ開キタルト共ニ韓國人渡航ノ便開ケ玆ニ移民ノ端緖ヲ開クニ至リシモノニシテ今ヤ該島ニ居住セル韓人ノ數ハ五六千人ニ達シ日本人ノ在留スルモノ亦タ男女三四百人其多トキハ千人ニ達スルコトアリ(其時々增減アルハ專ラ漁業時期ニ關係ストノ事)而シテ右本邦人中ニハ已ニ三四十戶ノ家屋ヲ構ヘ殆ント土着同樣ノ生活ヲ爲シ居ルモノアリ彼等ノ中ニハ無智頑强ノ徒多ク然ルニ此等ノモノヲ取締ルヘキ官吏ナキヲ以テ相互間ノ論爭ハ專ラ腕力ニ決シ甚シキニ至リテハ殺人犯モ有之殊ニ韓國人間ノ關係ハ腕力ニ訴フルヲ常トスル有樣ニテ島司ノ力能ク之ヲ制止スル能ハスシテ島治上障害難カラザル旨申出居候
1902.09.01.外務省通商局編纂 通商彙纂 付録 韓国鬱陵島事情 第一:鬱陵島の地勢
鬱陵島は江原道蔚鎮を距る40里前洋にある一孤島にして周囲九里半余其形状不当三角形に似たり
竹島は隠岐と朝鮮との間にありて相距るる各40里許、東西四里弱南北六七里周囲十六里許あり、地形三陵を成し全島皆山にして樹木茂生し瀑布多く海岸皆絶壁にして岬角四出し岩礁多し島二良港無し但東南隅に一港あり大阪浦と名づく。隠岐より渡る者先此に着く湾雨岬の間にあり一を濱陀浦といふ湾西南に向かひ平地廿町許亦ニ流水あり一を竹の浦といふ湾南向し南風に船を繋ぎ難し平地十五町許一流あり此地に人の住居せし跡あり此邊竹最大なり又西北岸にニ湾あり一を北国浦といふ湾西北に向ふ平地十五六町三流水あり一を柳の浦といふ湾亦西北に向ふ平地十町許二流水あり此邊葦萩多し岬上より朝鮮の地を望むべし彼国人も亦此所を指して乗り来る朝鮮人住居の跡あり。
1903.大日本地名辞典1903?
鬱陵島 一云武陵, 一云羽陵, 在江原道蔚珍縣, 正東海中, 三峯岌嶪撑空南峯稍卑 風日淸明, 則峯頭樹木, 及山根沙渚, 歷歷可見, 風便則二日可到, 一說于山蔚島本一島 地方百里, 新羅時恃險不服, 智證王十二年, 異斯夫, 爲何瑟羅州軍王, 謂于山國人愚悍, 難以威服, 可以計服, 多以木造獅子, 分載戰艦, 抵其國誑之曰, 汝若不服, 則卽放此獸, 踏殺之, 國人恐懼來降, 高麗毅宗十三年, 王聞蔚陵地廣土肥, 可以居民, 遣溟州道監倉金柔立往視, 柔立回奏云, 島中有大山, 從山頂向東行, 至海一萬餘步, 向西行一萬三千餘步, 向南行一萬五千餘步, 向北行八千餘步, 有村落基址七所, 或有石佛鐵鍾石塔, 多生柴胡藁本石南草, 後崔忠獻獻議, 以武陵土壤膏沃, 多珍木海錯, 遣使往觀之, 有屋基破礎宛然, 不知何代人居也, 於是移東郡民, 以實之, 及使還, 多以珍木海錯進之, 後屢爲風濤所蕩覆, 舟人多物故, 因還其居民, 本朝太宗時, 聞流民逃其島者甚多, 刷出空其地, 土地沃饒, 竹大如杠, 鼠大如猫, 桃大於升, 風物稱是, 世宗二十年, 往搜逋民, 盡俘金丸等七十餘人而還, 其地遂空, 成宗二年, 有告別有三峯島者, 乃遣朴宗元往覓之, 因風濤不得泊而還, 同行一船, 泊鬱陵島, 只取大竹大鰒魚回, 啓云島中無居民矣.
鬱陵島は一名を松島と称し本道海岸を距る八十里の海中に孤立せり全島嵯嶮たる円錐山の集合よりなり最高四千尺あり島岸嶮齟もそて登り難く全島樹木蜜生し良材を出す韓船の材料は多く此の島に仰ぐ沿海は魚類多し島の周囲十八里にして幾と半円を成す島の中央は北緯三十七度三十分東経百三十度五三分なり此の島の東に竹嶼あり 離隠岐の西北140里に鬱陵島(松島)あり。
1904.09.29.リャンコ島領土編入並二貸下願
隠岐列島ノ西八十五浬、朝鮮鬱陵島ノ東南五十五浬ノ絶海二俗二リャンコ島ト称スル無人島有之候、周囲各約十五町ヲ有スル甲乙二ヶノ岩島中央二対立シテ一ノ海峡ヲナシ大小数十ノ岩礁点々散布シテ之ヲ囲繞セリ
1905.02.24山陰新聞
隠岐の新島 北緯37度9分3秒、東経131度55分、隠岐島を距る西北85浬に在る島嶼を竹島と称し、自今、隠岐島司の所管と定めらると県知事より告示せり。右島嶼 は周囲15町位の二島より成る。周囲には無数の郡島散在し、海峡は船の碇泊に便利なり。草は生え居たるも樹木は無しと云う。
本島は北緯百三十度45分乃至五十三分、東経三十七度三十四分乃至三十一分の間に位し平海郡越松浦の南四十里の海中にある孤島にして、五百四方里許、中央は高山 立し高さ四千尺。沿岸港湾に乏しく船舶の碇繋頗る困難なり。全島平地稀なりと雖地質は古来落葉枯草の堆積腐化したる黒土の一種より成土地 にして肥料を施さざるも農耕を為すを得、大豆は本島の主産物にして年々の産額四五百石に及び本邦に輸出するもの多し。林産には欅、桐、松、白檀等あり。就中欅は径六尺の巨材を産し桐は本邦にて松島桐と称し て珍とするものなり。往時はこの種の樹木全島に繁生して殆んど無蓋の観あり近年本邦人の濫伐によりて漸く減少せり。其他山葡萄の産出あり又沿海に産出する石花菜は種類良好にして産額亦大なり。秋季山鶴の類非常に多く島民は之を撲殺し肉は乾燥貯蔵して年中の福植物とし脂肪は溶解して燈油に供す。本島天産物の饒多なるは韓国中多く其比類を見ず。【改行】 本島の住民は往時極めて稀少なりしも近年韓人及び本邦人の移住する者漸く多く多く韓人の戸数約四十五百戸に及び本邦人亦一時三百以上に達したりしも先年本邦政府より退去の命ありたる為め称々減少したり。其本邦居留者は概ね鳥取県人の直接渡航したるものにして木材大豆及び石花菜の輸出を営み或は雑貨日用品を販売し純然たる日本村を形成せり。島中一泉の湧出するあり少しく酸味を帯び島民これを薬白水と称し疾病の際服用して薬餌に代ゆるに其効験みるべきものあり。或は本邦の平野水、金山水等と同種なる炭酸水にはあらずやといふ【改行】
・・・・・ 本島より東南方約30里我が隠岐島との殆ど中央に當り無人の一島有り。俗に之れをヤンコ島と称す。長さ殆んど十町余沿岸の周曲極めて多く漁船を泊するに宜しと雖薪材及び飲料水を得るに困難にして地上を つも数尺の間容易に水を得ず此付近には海馬多く棲息しまた海産に堯なりといふ。
(*本島は北緯百三十度45分乃至五十三分、東経三十七度三十四分乃至三十一分の間に位し平海郡越松浦の南四十里の海中にある孤島にして、五百四方里許、の部分は、恐らく1903年の韓海実業指針からの引用だが、五里四方許を五百四方里と間違えて書き写している)
鬱陵島は江原道蔚鎮を距る四十里の前洋に在る一孤島にして周囲九里半 三角形に似たり全島の海岸は断崖絶壁にして渚濱紗く随て大船巨船を入れるべき良港なく僅かに道洞、芋道その他ニ三ノ小彎、小曲江あるのみ而して沿岸の海底は多くは岩石にして船舶の投錨碇泊に便ならず。
統 監府에서 內部에 公函하되 江原道 三陟郡 管下에 所在 鬱陵島에 所属島嶼와 郡廳設始 年月을 示明하라는 故로 答函하되、光武二年五月二十日에 鬱陵島監으로 設始 하였다가 光武四年十月二十五日에 政府會議를 經由하야 郡守를 配置하니 郡廳은 台霞洞에 在하고 該郡所管島는 竹島石島오、東西가 六十里오 南北이 四十里니, 合 二百餘里라고 하였다더라
1907.初等大韓地誌
【P24-25】欝島X古欝陵嶋XX北緯百三十度四十五分XX35分X至XX東経三七度三十四分XX三十一分X至XX三峯X掌空XX地方X約五百四方里X薬材X森林X多産XX于山島Ⅹ其東南X在XXX
1907.大韓新地誌
北緯 百三十度 四十五分乃至 五十三分. 動徑三十七度 三十四分乃至 三十一分 間에 在하야. 面積이 五百四 方里許
鬱 島는 平海郡 越松浦 四百餘里海中에 在한 鬱陵島니 光武三年에 鬱島郡을 設하고 守를 寘하니 北緯 百三十度 四十五分乃至 五十三分. 動徑三十七度 三十四分乃至 三十一分 間에 在하야. 面積이 五百四 方里許며 中央에 高山이 屹立하야 고 – 四天 尺이며 沿岸의 港灣이 無하야 船舶의 碇繫가 甚難하니라
本島東南約三百里에 一島가 유하야 俗稱 “양고”島라 云하니 장이 三十餘里오 沿岸이 屈曲하야 漁船의 碇泊이 便宜하나 薪材及 飮料水를 아즉 不得함으로 居人이 無하며 海馬와 各種海産이 多하니라.
鬱陵島(一に松島)は平海郡、越松浦の南四十余にある孤島にして、隠岐島の西北西百四十里に在り。周園十八里、面積は約五百里ありて中央に高さ千尺なる円垂体の高山●立し、山上樹木密生し、多く良材を出す。沿海港乏しくてして、船舶の碇繋困難なれども、土地膏●にして農産にも富む、居民朝鮮人戸数約四百五十、日本人戸数も一時三百に達せしこともあり。概ね鳥取県人なり。此島の東側に竹嶼 あり。
1910.12 朝鮮新地誌 足立栗園著 大阪:積善館,明43.12
江原道の当方80里即ち隠岐島の西方140里の海中に鬱陵島という一大島が在ります。此の島は周囲18里もあって全島山を為し樹木密生にして材木を多く出し沿海には魚類が多く産します。 此の島は一に松島とも呼び、倒幕時代に密航者があって一大騒動を起こしたことがあります。島の東に小き竹島と呼ばれる小一島があります。
鬱島郡
東西3里.00 南北2里18丁 周囲15里00
1911.06.20 「朝鮮総督府月報」第1巻第1号(明治44年6月20日発行)中の「鬱島郡誌」
三、面積、戸口および気候
本島の周囲は十四里十八町、廣●東五里、南北四里面積凡
そ九平方里にして江原道蔚珍郡の竹濱を距る東北八十浬の
海中に在り。
朝鮮人戸数九百八十八、人口五千八百五十五、内地人戸数二
百七十、人口九百三十一を算す、気候は温暖にして養●に適
す●●夏季は雨量多く秋に入れは暴風多く普通農作に甚た
不利なり又冬季に在りては十一月より降雪して翌年三月に及
ふ。
東西5里 南北4里 広X凡9平方里あり