現在編集中:距離計算に錯誤があるので、一次作業中断。 あまり参考にしないでください。
また、この計測はGoogleEarthをもとにしていますが、当時の海図担当者などは、おそらく紙の海図とコンパスを用いで距離を測っていたと考えられるので、できれば実際の海図を用意して検討するのが望ましい。
距離計測基準点が、
鬱陵島中心部(聖人峯)から隠岐中心部(焼火山)で測るのと、
鬱陵島道洞港 から隠岐福浦港で測る結果が当然違うこと。
鬱陵島中心部(聖人峯)から竹島(りゃんこ島)中心部で測るのと、
鬱陵島道洞港 から竹島(りゃんこ島)西端部で測る結果が当然違うこと。
鬱陵島台霞司(西端)から、江原道の各都市沿岸を測るのと、
鬱陵島中心部(聖人峯)から江原道の各都市沿岸を測った結果が当然違うこと。
どうやらこれらの件についても再検討する必要が出てきましたので、このページはあてにしないで下し。
1880年の天城の調査によって、正確な鬱陵島と隠岐、朝鮮の距離が算出され、鬱陵島松島一名竹島が定着するが、それ以降もそれ以前の「日本地誌提要」などを引用している書籍は稀に見られる。地誌提要は、江戸時代、鬱陵島と現竹島へ渡航していた漁民の証言が記載されているの竹嶋の書附(1696.1724年)の数値と異なっているるが、日本地誌提要の数値がどこから来たのかがわからない。
日本は江戸時代、鬱陵島と現竹島を共に実効支配し到達距離や産物などの記録はしていたものの、1690年代鬱陵島は朝鮮王朝と対馬藩との外交交渉により朝鮮領土としたため、公式に鬱陵島へ行くものはほぼいなくなり、鬱陵島渡航のついでに立ち寄っていた現竹島に渡航するものはほぼいなくなったとおもわれる。其間、1834年に松島(現竹島)へ行くと嘘をついて磯竹島(鬱陵島)へ渡航し密貿易を行って処刑されたことくらいしか記載が無いが、1880年くらいまでは隠岐の近海でもあわびなど海産物が豊富に取れたため、危険を冒してまで現竹島だけへ渡航するものが居なくなったと見られる。その結果、1850-60年代から始まる竹島アルゴノートと松島鬱陵島の地図上・名称の混乱なども絡んで、現竹島の存在を見失っている。つまり実効支配していたとは云い難い。
しかし、1870年以降徐々に日本人が鬱陵島松島へ渡航するようになり、幾度かの完全退去を経て1890.1900年代、再度日本人が鬱陵島へ渡航するようになり、その渡航経路の途中にある現竹島「リアンコールド島」という無主地を漁場として活用する事により日本が1905年に正式に編入する事となった。
1日本里=3.92727273 1韓里=420-430m(1907以前)/392.772977m(1907以降)
1海里=1852m/1哩 =1609.344m
各地点間の距離 (Google Earthにて計測)
隠岐福浦-Argonaut竹島
隠岐福浦-Dagelet松島鬱陵島+竹島(竹嶼Boussole Rock)
隠岐福浦-Liancourt Rocksりゃんこ島新竹島
隠岐から朝鮮竹濱の総距離を”1”とした場合の各々の距離の比率
朝鮮竹濱-竹島鬱陵島:竹島鬱陵島-松島現竹島:松島現竹島-隠岐 (主に江戸時代)
=147.24:89.06:159.95=396.25 (0.371:0.224:0.403)
朝鮮竹濱-竹島Argonaut:竹島Argonaut-松島鬱陵島;松島鬱陵島-隠岐 (江戸後期ー明治期1880年まで)
=71.13:99.72:241.76=412.61 (0.172:0.241:0.585)
地誌提要の比率は上二つのどちらかか?(0.25:0.22:0.51)
朝鮮竹濱-松島鬱陵島:松島鬱陵島-隠岐
=147.24:241.76 (0.378:0.621)
1880年の天城の調査以降、正式な数値、主に浬表記
各地誌・記録における距離表記
1724.竹島の書附
竹島渡海之覚 享保7年11月
覚
(中略)
元禄六年五月二十二日、御勘定松平美濃守殿江差出候書付写
一、伯耆国米子より竹島江渡海海上凡百六十里程有之由候。例年米子出船、出雲江参、隠岐国江致渡海候て、竹嶋江渡申候。米子より直竹島江渡海候儀成不申候。
元禄九年正月二十八日(1696)
小谷伊兵衛差出候竹嶋之書附
覚
一、伯耆国米子より出雲雲津迄、道程捨里程
一、出雲国雲津より隠岐国焼火山迄、道程弐捨三里許
一、隠岐国焼火山より同国福浦迄七里
一、福浦より松嶋江八十里
一、松嶋より竹嶋江四十里
以上
子正月廿五日
別紙
一、松嶋江伯耆国より海路百弐拾里程御座候事
一、松嶋より朝鮮江は八,九捨里程も御座候様及承候事
一、松嶋は何れ之国江附候嶋にても無御座候由承候事
一、松嶋江猟参候儀、竹嶋江渡海の筋道筋にて御座候故立寄猟仕候。他領より猟参候儀は不承候事。尤出雲国、隠岐国之者は米子之者と同船にて参候事
以上
正月廿五日
(中略)
覚
江戸時代末: 伯耆志 安部恭庵
(中略)
遠近に渡海して運送を業とす。同三年甚吉越後より帰帆の時漂流して竹島に至る。此島は隠岐の西北百里許、朝鮮国に五十里と云えり。周回10里許。当時人家なくして山海産物あり。喬木大竹繁茂し、禽獣魚介其品を尽くす。就中鮑を獲るに、夕に竹を海に投し朝にこれを上れは、彼鮑枝葉に着く事木の子の如く、其味又絶倫なりしかとや。甚古帰て当府の検使安部氏に彼趣を達し、以降渡海せんと講ふ。
(中略)
磯竹は竹島なり、二代目九右衛門勝信と云ふ。竹島の東に周回二十丁の島あり、松島と呼べり。隠岐より60里余なるへし。厳有公のとき、彼安部氏の紹介にて此島を賜ふ。竹島と同じく海鹿魚油をとれり。四代目九右衛門勝房七歳にして父没す。別家藤兵衛某仮に九右衛門と改名し、参府すへきの命あり。
1667.隠州視聴合記 松江藩士・斉藤豊仙著
隠州在北海中故云隠岐島、従是、南至雲州美穂関三十五里、辰巳至伯州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯、無可往地、戍亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島、俗言磯竹島多竹魚海鹿、此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠州、然則日本之乾地、以此州為限矣
(69)
竹を産す故に竹嶋と
も云西風励しく潮煙常に?かかる此故に竹色班々と
ん?高からす葉も又短し好事者此を求るる多し然
れも四面絶壁にそ林中蛇多し若此島に至んと欲者は
風浪之穂なるを窺ひ孤舟に乗て岸に至り乃舟を
岩間に引上ヶ杖を作て地を撃ち蛇をして蟄居せ
しめ而後竹を伐り舟を下し相喚して帰る凡此は東西一里?八町南北21町山塊?とそ木少なく谷深く
搾にそ田園分る小径多はかれ人家隔て住めり麦添?
惟悦し釣漁惟業なり東北の海中に小竹嶋あり此
より海辺ノ崎村に渡るる海路一里五町
(90)
四年春三月又伯 国之大買村川氏自官賜朱印致大舶於磯竹島遇X風落高句麗曰暮不知津船隻?焼火山X有X火得入貝津X帆之後益尊宗焉聞者驚X此拳一隅而己凡如此之類司X者.....(90)
大日本史 巻三百八,志三、隠岐國四郡
隱岐國、下、(延喜式○一作淤岐、或意岐)、又曰隱伎三子島、(古事記○按國在海中、故名、邦言謂海洋爲澳。隱岐即澳也)、 凡四島、分曰島前、島後
(隱州視聴合記、隱岐國圖、○属島一百七十九、總稱曰隱岐小島)、別有松島、竹島屬之、(隱岐古記。隱岐紀行、○按自隱地郡福浦、至松島海上六十九里、至竹島百里四町、韓人稱竹島曰鬱陵島、已曰竹島、曰松島、爲我版圖、不待智者而知也、附以備考) ・・・
1681.三代目九右衛門勝信が延宝九年(天和元年=一六八一年)に幕府巡検使に差出した請書
而御座候 廿四五年以前阿部四郎五郎様御取持を以....
拝領船渡海仕候 此小嶋ニ而茂みち之魚之油小宛所務仕候 右之小嶋江隠岐国嶋後福浦より海上六十里余茂御座候御事
巡見使宛請書 written by Kyuemon Oya (1681)
勝信代延宝九年(1681年)酉5月 御巡身様*1御宿仕り其節竹島之様子に就き御尋ね御請書差出写し
一 厳有院様御代*2 竹嶋の道筋廿町斗り廻り由候小嶋御座候 草木御座無く候て岩山にて御座候 廿五年以前阿倍四郎五郎様御所持をもって拝領 即ち 船渡海仕り候 右小嶋は隠岐国島後福浦より海上六拾里余も御座候事
五月十三日
1696.元禄九年正月二十八日(1696)小谷伊兵衛差出候竹嶋之書附
覚
一、伯耆国米子より出雲雲津迄、道程捨里程
一、出雲国雲津より隠岐国焼火山迄、道程弐捨三里許
一、隠岐国焼火山より同国福浦迄七里
一、福浦より松嶋江八十里
一、松嶋より竹嶋江四十里
以上
子正月廿五日
別紙
一、松嶋江伯耆国より海路百弐拾里程御座候事
一、松嶋より朝鮮江は八,九捨里程も御座候様及承候事
一、松嶋は何れ之国江附候嶋にても無御座候由承候事
一、松嶋江猟参候儀、竹嶋江渡海の筋道筋にて御座候故立寄猟仕候。他領より猟参候儀は不承候事。尤出雲国、隠岐国之者は米子之者と同船にて参候事
以上
正月廿五日
(中略)
1696.01. 「小谷伊兵衛より差出候竹嶋之絵図」【8443号】
隠岐福浦から松島80里許 松島周回0町
松島から磯竹40里許 磯竹島周回7.5里
1696.05「元禄九丙子年 朝鮮舟 着岸一巻之覚書」原文
一 竹嶋と朝鮮之間三十里 竹嶋と松嶋之間五十里在之由申候
1696「竹嶋之図」【8442号】1696 or 1724.04
隠岐福浦から松島60里許
松島から竹島40里許
1724.04「竹嶋之図」【8439号】
隠岐福浦から松島60里許 松島の島の間40間
松島から竹島40里許
1724.04「竹嶋之図」【8440号】
雲州雲津浦から隠州島前千振 18里
隠岐福浦から松島60里許 松島の島の間40間
松島から竹島40里許
1742(寛保二)年 - 松岡布政「伯耆民諺記」「伯耆民談記」
大谷・村川竹島渡海進退之事
(中略)...
渡海の者行齢盛年を限る。みな越す者は海上の風波をしのく事難とかや。隠岐国へ渡り、強き南風を得てXを解き、舟を出す。島は隠岐より乾に当て、朝鮮国へX下に近き嶋なり。境内三島に別れてX,並此嶋より朝鮮へ渡海、釜山浦の湊へ其間十八里、夜に到れは彼国に明す民家燈、たしかに見ると、渡海せし船人等是をX談す。元禄6年大谷・村川連来彼二人の唐人等、米子より因府城下に到時、加納郷右衛門、関忠兵衛両士領主
召連れ鳥取へ入。
1751-63(宝暦年間) 年- 「竹島図説」
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/06/18.html
隠岐国松島ノ西島ヨリ海上道規凡四十里許リ北方ニ一島アリ名テ竹島ト曰 フ 此ノ島日本ニ接シ朝鮮ニ隣シ地形三角ニシテ周囲 凡ソ十五里許リ
(中略) 伯州米子ヨリ竹島マテ海上道規百六十里許アリ 米子ヨリ出雲ヘ出隠岐ノ松 島ヲ歴テ竹島ニ至ルナリ 但隠岐ノ福島ヨリ松島マテ 海上道規六十里許松島ヨリ竹島マテ四十里許ト云也
以上ノ諸説ハ享保九申辰年官府江府ノ叩問ニ依テ米子ノ市人大谷九右衛門村川 市兵衛カ貴答ノ上書ニ原ケリ」
1801(享和元)年、矢田高当『長生竹島記』
竹島に渡航した水主からの伝聞のさらに伝聞//隠岐州と松島間160里、隠岐州と竹島間260里、松島「本朝西海のはて」
1823.『隠岐古記集』(文政6)大西教保
「今は朝鮮人来て住すと言ふ」///大日本史を底本に隠岐の漁夫の実見談など//隠岐と松島間40余里、隠岐と竹島の間70里
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/iwamigaiki-1827/13.jpg
想ふに此海上は長門の箕島の東にあたり松竹の二島とは近き所なるべきか(以上海上)凡そ舟行の経る所遠近の別れ二道あるにや先ちかき道は長門の須佐より濱田まで海路二十一里濱田より温泉津まで十里餘温泉津より出雲の瓜生まで十七里是なりさら遠き道は舟行長門赤間関を出帆すると直に隠岐の国を目あてに乗るとまた海辺の小高き丘に登て海上をながめやるに一碧天をXして諺にひとかすみ十里といへり或は時として天際に帆影の飛の蝶ほどに見ゆるてあり(以上舟行)凡風には四方より吹くに魚の名に似たるこち。あい。はえ等のかはれるありまたきたなき名のあなじといへる風はよく冬春に ありて5日も十日もつづけて吹く強き悪風なり(以上風)凡そ海上の天気陰X等は漁人よく知るて妙なり右石見海の大界此の如し*地圖に、竹島と松島の間に「自隠岐至北百り」1831.天保2年(1831)8月某日、村井荻右衛門様へ内存書を持参した。 内存書には、「竹嶋のほかに石見国海岸より北のほうに当たる海上7,80里ばかり隔てたところに松嶋(現在の竹島)と唱える小島があり、この松嶋竹嶋両島 とも全くの空島と思われるので、そのまま置いておく事は残念でならない。草木を刈り出し、漁業もすれば私の徳用(利益)のみならず、莫大な国益となると見 込まれます。周防守様への冥加銀を差出す額は試に渡海してみて歩合を取り極めることとし、両島への渡海願いを内諾していただくように」としたためた。
(略)
岡 田様のお許しを頂いて渡海出来るように橋本三兵衛に頼んでおいたところ、正月18日、江戸詰村井荻右衛門様より私宛に書状が送られてきた。竹嶋は日出之地 (日本)であると極めがたいので、渡海計画はやめるように、とのことであった。予想に反した返事なので、残念でならず、橋本三兵衛方にこの書状を持参し て、再度岡田様にお許しをいただけるよう頼んでおいた。しばらくして、橋本三兵衛に様子を尋ねにいったところ、江戸表よりの伝言は、竹嶋はやめて松嶋へ渡 海を試してみてはどうだろうか…というものだった。松嶋は小島で見込みがないので、江戸表には松嶋へと名目を残しておき、竹嶋へ渡海を試してみてはどう か。
1854.松浦武四郎『『他計甚麼雑誌』(安政元)
1840-50頃、江戸時代後期か?文鳳堂雑纂 - 1800年代後半
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/21736/
1871. 竹島雑誌
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/takeshimazasshi-1871/
日本地理の教科書。山陰道隠岐國項“此国ノ西北に当リテ松嶋竹嶋アリ。土俗相傳テ云フ。穩地郡福浦港ヨリ松嶋ヘ海路凡六十九里三十五町、竹嶋ヘ海路凡一百里四丁餘、朝鮮ヘ海路凡一百三十六里三十丁ト”
隠岐・・・・(省略)
島嶼
島津島。・・・
松島。一名島山。海士郡豐田村ニ屬ス。・・・・・・
大森島。・・・
○本州ノ屬島。知夫郡四拾五。海士郡壹拾六。周吉郡七拾五。穩地郡四拾三。合計壹百七拾九。之ヲ総称シテ隠岐ノ小島ト云。
○又西北に方リテ松島竹島ノ二島アリ。土俗相傳テ云フ。穩地郡福浦港ヨリ松島ニ至ル。海路凡六拾九里三拾五町。竹島ニ至ル。海路凡百里四町餘。朝鮮ニ至ル海路凡百三拾六里三拾町
1875.『日本地誌要略』 巻4. 中国 1875 大槻修二 青山紅樹書樓
隠岐は・・・(省略)・・・南岸に福浦あり、抑X国は日本海中西邊の絶島にして、其(隠岐)西北洋中ニ、松島竹島ノ両島アリ、共ニ朝鮮地方ニ接近スレドモ、亦居民統屬ナク、各方ノ人、時ニ來リテ、海獵ノ場トナスト云フ、」。
1876.10.『日本地誌略』 巻3 山陰道,山陽道,南海道,西海道 師範学校編 大阪:文泉堂,明9.10
隠岐国 群島北海中ニ・・・(省略)・・・大小島嶼凡一八三、又北西ノ洋中ニ竹島松島アリ。
1877.03.29 一号 丙子 元禄九年正月二十八日 (『明治十年三月 公文録 内務省之部 一』)
天龍院公 御登城御暇御拝領被遊候上 於御白書院御老中御四人御列座ニテ戸田 山城守様 竹島ノ儀ニ付御覺書一通御渡被成 先年以来 伯州米子ノ町人両人竹 島ヘ罷越致漁候處 朝鮮人モ彼島ヘ参致漁 日本人入交リ無益ノ事ニ候間 向後 米子ノ町人渡海ノ儀 被差留トノ御儀被仰渡候也 同是ヨリ前正月九日 三澤吉左衛門方ヨリ直右衛門御用ニ付罷出候様ニトノ 儀ニ付参上仕候處 豊後守様御逢被成 御直ニ被仰聞候ハ竹島ノ儀 中間衆出羽守殿右京太夫殿ヘモ遂内談候 竹島元シカト不相知事ニ候 伯耆ヨリ渡リ漁イタシ来リ候由ニ付 松平伯耆守殿ヘ相尋候處因幡伯耆ヘ附属ト申ニテモ無之候 米子町人両人先年ノ通リ船相渡度ノ由 願出候故 其時ノ領主松平新太郎殿ヨリ按内有之如以前渡海仕候様ニ新太郎殿ヘ以奉書申遣候 酒井雅楽頭殿 土井大炊頭殿 井上主計頭殿 永井信濃守殿連判ニ候故 考見候ヘハ大形台徳院様御代ニテモ可有之哉ト存候 先年ト有之候ヘトモ年數ハ不相知候 右ノ首尾ニテ罷渡リ 漁仕来候マテニテ朝鮮ノ島ヲ日本ヘ取候ト申ニテモ無之 日本人居住不仕候 道程ノ儀相尋候ヘハ伯耆ヨリハ百六十里程有之 朝鮮ヘハ四十里程有之由ニ候 然ハ朝鮮國ノ蔚陵島ニテモ可有之候哉 夫トモニ日本人居住仕候カ此方ヘ取候島ニ候ハハ今更遣シカタキ事ニ候ヘトモ左様ノ証據等モ無之候間此方ヨリ構不申候様ニ被成如何可有之哉 又ハ對島守殿ヨリ蔚陵島ト書入候儀 差除返簡仕候様被仰遣 返事無之内對島守殿死去ニ候故右ノ返簡彼國ヘ差置タル由ニ候左候ヘハ刑部殿ヨリ蔚陵島ノ儀被仰越候ニ及ヒ申間敷カ 又ハ
島根縣士族 戶田敬義 → 東京府知事楠本正隆殿
竹島(鬱陵島)へ渡航願い
・隱崎國ヲ距ル殆ト七十里程之乾ニ當リ洋中荒蕪不毛 之一孤島ヨリ之ヲ竹島ト稱スト、
・竹島渡海記ト號スル者ヲ見タリキ、
1877.03磯竹島略図 公文録 内務省之部 一 明治十年三月
隠岐福浦から松島80里
松島から磯竹島 40里
磯竹島から朝鮮 95里
1879.改正日本地誌要略字引 大槻修二著,永田方正解 大阪:柳原喜兵衛等,明12.2
竹島 国の海上220里にあり 松島 148里にあり)
1879.日本地誌略字引 改正絵入 岡村邁編 出版: 大阪:浜本伊三郎等,明12.4
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/762595
隠岐国 松島 竹島の記載
1881.竹島考証 第四號 竹島渡海之願 島根縣士族 戶田敬義
東 京第四大區第二小區水道橋內三崎町二町目壹番地華族裏松良光邸內全戶寄留不省敬義、兒タリシ時嘗テ聞ク、隱崎國ヲ距ル殆ト七十里程之乾ニ當リ洋中荒蕪不毛 之一孤島ヨリ之ヲ竹島ト稱スト、敬義稍稍人トナリ賤家ニ昔在ヨリ貯フ處之一小冊其ノ題表竹島渡海記ト號スル者ヲ見タリキ、然レ共其ノ時ニ於テ未タ何ノ思慮 スル所ナキカ故ニ之レヲ殆ト不用品ニ屬シ筐中之紙塵ニ過ス、維新以來北海之開拓諸諸荒蕪之地ヲシテ續續其宜シキヲ得ルヨリ少シク思念スルニ、彼之竹島ナル モ我國之屬嶼タルヲ考ヒ深ク杞愛スル有ルヲ以テ三四歲以還頗ル意ヲ加ヒ種種探偵シ該島ニ關スル之書冊或ハ傳言ヲ求ムルモ故ト、德川氏執權之時ハ殊ニ嚴禁之 海路タルカ故ニ其ノ書冊ヲ藏スル者曾テナシ、又嚮キニ敬義東京ヘ全戶移轉之際不計モ彼之渡海記ナル者ヲ失シ尙其ノ踪跡ヲ尋ネ、且ツ他ニ該書ヲ周旋スルモ敢 テ得ル能ハス、至今切齒臍ヲ嚙ムモ及フナク實ニ長嘆ニ堪エス、衣之親友一二ト計リ頂日二葉之畵圖ヲ落手シ又隱岐古老ノ傳言ヲ探聞セリ、石見國濱田ノ人八右 工門ナル者私○ニ渡海シ大ニ自己之利ヲ營ミ竊カニ之ヲ開拓センヲ謀ルモ、企テ敗レ幕府之譴責ヲ蒙リ遂ニ嚴刑ニ處セラレシト、伯州米子ノ人村川某ナル者獨リ 意ヲ決シ大ニ自錢ヲ費シ而シテ隱岐國福浦港ヨリ艤シ彼之地ニ到リ滯在久シウシテ歸リ、積ムニ良材及ヒ夥多之魚島ヲ以テセリト、歸船モ亦針路ヲ前之福浦港ニ 取テ相達シ其ノ恙ナキヲ祝シテ此ノ所ニ該島ノ良材ヲ以テ一小祠ヲ設立ス、
第拾貳號 松島之議ニ
松島ト竹島卽チ韓名鬱陵島ハ聞ク所ニ倚ルニ一島二名アルカ如シト雖トモ、舊鳥取縣令ニ聞クニ全ク二島ノ由ト認メ、又戶田敬義加藤金森謙ナル人ノ書ニ隱岐國松島西島[松島ノ一所屬ナリ土俗呼ンテ次島ト云]ヨリ海上道規凡四十里許、北方ニ一島アリ名ヲ竹島ト云フ云云、又伯州米子ヨリ竹島迠海上道程百四十里許ア リ、米子ヨリ出雲ニ出テ隱岐ノ松島ヲ經テ竹島ニ到ルナリ、但シ隱岐ノ福島(一謂福浦)ヨリ松島迠海上道程ニ十里許松島ヨリ竹島迠四十里許云云又竹島ヨリ朝 鮮江海上道規四十里許ト云此說ハ亨保九年昔屢渡海セル一老叟ニ詰問セラレシ時其答ニ伯州會見郡濱野目三柳村ヨリ隱岐ノ後島江三十五六里アリ此遠見ノ考ヲ以 テ竹島ヨリ朝鮮山ヲ見レハサシ遠ク見レハ凡ソ四十里許リト云フニ因ル云ニ是ヲ以テ考フレハ二島アル事瞭然タルカ如シ、
第拾九號 松島異見 記錄局坂田諸遠ノ意見書
松 島竹島ノ二島ハ往昔隱岐國ノ管內ニシテ同國福浦ヨリ戌亥ノ方其、距離四十里許ニ松島アリ、松島ヨリ遙ニ離レ朝鮮ニ近キ事琉球ノ八重山ト臺灣福州ノ地ヲ見ル ニ等シ、伊藤長胤カ輶軒小錄ニハ隱州ヲ去ル事三十里、北ニ磯竹島在リト記セシハ證スルニ足ラス、今隱州視聽合記ヲ考フルニ戌亥間行二日一夜有松島、又一日 程有竹島(俗云磯竹島多竹魚海藻) 此二島無人之地 見高麗如雲州望隱州、然則日本之乾地 以此州爲限ト見エタレハ、粗其海路ノ里程ヲ推シテ知ルニ足レリ、大日本國郡輿地路程全圖ニハ隱岐ノ北面北緯三十八度ニ松島竹島ノ二島ヲ載ス、竹島ハ朝鮮ノ 方ニ位置シ松島ハ隱岐ノ方ニ位置ス、水戶人長久保赤水カ唐土歷代州郡沿革地圖中亞細亞小東洋圖ニモ竹島松圖ノ二島ヲ載セ、大日本四神全圖ニハ朝鮮淮陽府江 城ノ東海、北緯三十八度ニ竹島アリテ其東南同緯度中隱岐ノ方ニ松島ヲ載セ、ホウリルロツクト記セシハ洋人ノ呼ヘル島名ナルヘシ、此圖ハ松島ヲ大ニシ竹島ヲ 小ニスレトモ他圖僉竹島ヲ大ニシ、松圖ヲ小ニス
1880.09.13第二十四號
水路報告第三十三號
此記事ハ現下天城艦乘員海軍少尉三浦重鄕ノ略畵報道スル所ニ係ル、
日本海
松島(韓人之ヲ蔚陵島ト稱ス)錨地ノ發見
松島ハ我隱岐國ヲ距ル北西四分三約一百四十里ノ處ニアリ、該島從來海客ノ精撿ヲ經サルヲ以テ其假泊地ノ有無等ヲ知ルモノナシ、然ルニ今般我天城艦朝鮮ヘ廻航ノ際此地ニ寄航シテ該島東岸ニ假泊ノ地ヲ發見シタリ卽左ノ圖面ノ如シ、右報告候也、
竹島版図所属考 明治十二年四月刊行ノ海軍省水路局小路雑誌第十六号ニ曰ク松島ハ洋中ノ一孤島ニシテ我隠岐国隠岐島ヨリ北東二分一東一百三十四里長門国角島ヨリ北二分一東 一百八十五里釜山浦ヨリ北西四分三北二百六十五里ノ処ニ在リ全島巖石ヨリ成ルモノヽ如ク而シ樹木蔚然周囲ハ絶壁多ク唯南東面ニ少シク平坦ナル処アリ
我輩ノ此ニ到ルヤ土人ノ小舎ヲ構ヘ漁舟ヲ造ルヲ見タリ
他ノ浜岸ハ小舟ト雖モ近ツク可ラサルカ如シ
東方ニ一小嶼アリ且奇石怪巖島ヲ環ラシテ星羅セリ
我艦航走中此島頂ノ高度ヲ測リテ二千三百九十一尺ヲ得タリ
竹島版図所属考 竹島一名ハ磯竹島又松島ト称ス韓名ハ欝陵島又芋陵島ト称スル者此ナリ但其地本邦朝鮮ノ間ニ在ルヲ以テ古来紛議両国ノ間ニ生セシモ
1883.水路雑誌 http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/hydrograph1883/
松島 此島は洋中の一孤島にして、我隠岐国隠岐島より北東二分一、東一百三十四里、長門国角島より北二分一、東一百八十五里、釜山浦より北西四分三、北百六十五里の処に在り。全島巖石より成るものの如く、而し樹木蔚然、周囲は絶壁多く唯南東面に少しく平坦なる処あり。我輩の此に到るや土人の小舎を構へ漁舟を造るを見たり。他の浜岸は小舟と雖も近つく可らさるか如し。東方に一小嶼あり。且奇石怪巖島を環らして星羅せり。我艦航走中此島頂の高度を測りて二千三百九十一尺を得たり。
『改正日本地誌要略』では、「其西北海上ニ松嶋竹嶋ノ両嶋アリ、相隔ル殆一百里ニシテ、朝鮮ニテ蔚陵嶋ト稱ス、近來定メテ其國ノ屬嶋トナスト云フ、」
1886.12.寰瀛水路誌 第二巻第二版 韓露沿岸』海軍水路寮
鬱陵島一名松島(洋名「ダゲレット」海軍海圖第九十五号第百四十一号第百六十九号英海軍海圖第二千四百五十九号を参観すべし) 此の島は隠岐を距る北西四分三酉約百四十里朝鮮江原道海岸を距る約八十里の洋中に孤立す全党嵯峨たる円錐形丘陵の集合したるものにして樹木欝然として是を覆ふ而して其の中央即ち北緯三十七度三十分東経百三十度五三分の地に高さ四千尺の一高峯あり島周十八里形チ半円に似て其径東微北より西微南に至る至る長さ六里四分一其両端より海岸突然南方に屈折しXて逐次に東及ひ西に曲がりて島の南単なる海狗(シール)角に至る而して其間の岸線は少しく出入す又海狗角の対面に一箇の小岩あり。【改行】 島岸に沿って数岩あり陸岸と連ならす其過半は東北両岸の間に居り其内数岩は高さ四百尺より五百尺に至る○各岩鬱陵島の如く 界にして投鉛も亦Xみと為すに足らす竹嶼洋名 「ボーッソール」岩を除く外余は皆石崖クリツフを距る四分里一を出でず竹嶼は最大岩にして島の東濱を距る七 金蓮の地に位す又島の北濱に近く孔岩ホールロックあり岩側一大孔あるをもって以て其形頗る奇なり此岩と相対せる陸岸に花崗石グラニツトの一山あり滑面秀 険峻にして形チ糖塔の如し而して其高さ大約八百尺なり。【改行】 鬱陵島の各側は極めて 界なり曾て英艦「アクテオン」号は島を距る南方四里の処を錘測し四百尋の鉛錘を下沈したれも海底 一の地を測し三百六十六尋に及へも猶ほ末た海底に達せさりき因て端艇を遣り島岸至近を錘測せしめしに石崖下に至りて始て水深を得たりと云ふ○島岸X阻にして登攀す可からす唯天気温和なる時は磔濱の処より岸に登るを得べし然れX亦甚た難し【改行】
1888.11 朝鮮地誌略
鬱陵島 位置に武陵或は羽陵と曰ふ二島あり県の正東海中三百五十里に在り南北四十里周囲二百余里三峰●●●チ●へ南峯●卑し風日清明なれは則峯頭の樹木及ひ山根沙渚歴々見る可し風便なれは二日到るへし一説に于山、鬱陵、本一島たりと云ふ 于山島 鬱陵島に隣す
1893.10.朝鮮通漁事情M26.10 関沢明清,竹中邦香編 東京:団々社書店,明26.10
鬱陵島は一に武陵或は羽陵と云ふ本邦人は松島と称す蔚珍より東に当たり凡三百五十韓里の海上にあり風便なれは2日にして到るへしと云ふ往昔は于山国と称し始んと無人島なりしか中世朝鮮政府は人民ヲ移住せしめ今は若干の戸数あり其の島樹木に富み島の周辺魚介饒と雖も総て岩礁XXとして大船は近く可からず其最小漁船を着くへき処も唯一一箇処あるのみ然るに海路遼遠にして最小漁船の能く抵るへきにあらざるを以って一人として出漁するものなしといふ
1894.02.18山陽新聞
竹島は隠岐より西北八十余里の洋中に孤立し、船を 駛する五十余里に至る頃ろ一ケの孤島あり、俗之れ をリランコ島と云う。其周囲凡そ一里許りにして三 ケの島嶼より成れり、此島に海獣海驢棲息し数百頭 を以て数うべく其叫声轟々として喧しく此近海は 鯨族の群遊ありて実に無比の捕鯨場たり、鯨種は充 分の調査を遂けざるも多分長須坐頭ならん、之れを 捕ふるには遠洋漁業の仕組にて汽船或は風帆船の 補助を仰ぐにあらざれぱ能はざるべし、此より三十 余里を隔てゝ竹島あり、海流に就て日はんにリラン コ島は寒暖海流の堺界線として可なるべし、何とな れば日本領海より此の島までは暖流即ち黒潮の支 流にして以北は寒流即ち来満派の流域なり、蓋し暖 気は北赤道海流を源とし其一支派台湾の東を流れ 冲繩島に沿い分岐して、其本流は太平洋の方に向い、 支流は九州の西部より対馬海峡より日本海に入る、 寒流は阿哥科海の北酉より来り黒龍江の前面を過 ぎ日本海の西の半分を流るゝ派なり、鯨族のリラン コ近海に出没するは即はち寒流暖流の相交る処に して海水の温度能く其来遊に適するならん。
本島は八道中の一なる江原道に属する島嶼にして 本名を鬱陵島と云う、本邦人は竹島と称す、内地なる 蔚珍より東三百五十幹里(朝鮮の一里は我が三町 五十一間余に当る)の処に位し、風順なれぱ二日に して至ると云う、往昔は于山国と称して殆んど無人 島なりしも近世朝鮮政府は人民を移住せしめ、今は 三百余戸の多きに達す、又た毎年多少の移住民あり て開拓に従事せり
鬱陵島(一名松島)海軍海図第五四号第九五号を見よ 隠岐島を距る北西3/4西凡一四〇里朝鮮江原道海岸を距る凡八十里の海中に孤立す全島嵯峨たる圓錐山の集合にして樹木鬱然繁茂す而して其中心北緯三〇分東 経一三〇度五三分に、高さ四〇〇〇呎の一峯あり。巍然天に聳ゆ。此島周廻十八里にして形幾と半圓を成す。鬱陵島の北東側に於て竹嶼を、南南東1/4里西凡 そニ3/4里に望むの處に一岩あり、岩上の水深僅にニ呎及至三呎(日聞蒸気船「ウィマル」号の報告に據る) 島岸殊に東北両岸に沿うて数個の峻岩分立し其中に四〇〇呎及至五〇〇呎の高さに達するものあり。何れも鬱陵島の如く走界にして錘測も恃みとするに足をす然 れも竹嶋(此嶼は島の東濱を距る七鏈の處にあり)を除くの外、皆本島の崖岸を距る1/4里以上に出る者なし。島の北濱に接して孔岩あり岩を貫きて一大孔あ るを以て其形甚奇なり此岩と相對せる陸岸に高さ大凡八〇〇呎の花崗岩山あり滑面禿兀峻険にして形糖塔の如し○島の南端シール角付近に一小岩あり。
長州海岸を距ること数十里の北に竹島あり、朝鮮之を鬱陵島と呼ぶ(此島の事を記するもの竹島考証等の書あり)。竹島の地たり、文禄以来邦民の漁撈地として毎年渡航し、元禄七年まで七十餘年間、池田氏の所有にXしたり、然るに元禄七年幕府之を朝鮮に輿へ、永く邦民の渡航を近時足れば、爾来竹島は判然朝鮮の版圖に属せり、其後一百三十八年を閲て、天保二年浜田の民八右衛門と云ふ者禁を犯して厳刑に処せられしより復た竹島のことを云う者あらざりしが、萬延元年六月、桂及び同藩村田蔵六(後は大村益次郎永敏と称す)と共に他国の有にXせんことを憂ひ、本邦所属の實を固くせん為に、長藩に於て之を開拓せんことを幕府に講へり、其建議左の如し。
長門国荘より東北に當り竹島あり海上凡五十里程竹島より朝鮮へも亦海上凡五十里程故に日本輿朝鮮與の中央に有之就而は北国邊自然御開港通商にも被差許候節は不及申當今之勢己に夷船右竹島江追々近寄候由然上は殖民をも企候義必定考察仕候一体之迄御国禁に而竹島沖を公開仕候事堅く御停止に御座候得共北国より下之関往復之商船時として暴風暴波之為竹嶋近邊へ碇泊仕候天気を窮候而出
本島ハ元山ヲ距百八十五浬竹邊ヲ距七十三浬釜山ヲ距百七十五浬ノ一島嶼ニシテ東西ニ稍長ク三角形ヲナセリ
1900.06.12 在釜山 領事官補 赤塚正輔 [鬱陵島 調査槪況 및 山林調査槪況 報告의 件]
鬱陵島ハ韓國江原道ニ屬シタル島嶼ニシテ松島又ハ竹島ト稱シ(東經百三十度八分二厘北緯三十七度五分)釜山ヲ距ル東北百八十哩境港ヲ距ル西北二百哩隱岐ヲ距ル百四十哩ニシテ東西凡六哩强南北凡四哩强海面ヲ拔ク約四千尺周圍凡二十哩峻硝澆确峯巒重疊鬱蒼タル天然ノ森林ニシテ日光ヲ見サルノ部分其半ヲ占メ老樹衰憊腐朽ニ屬スルノ今所モ尠カラサルナリ陸地ヲ距ル百四十哩ノ小島ナルヲ以テ海底深ク濃藍色ヲ呈シ風波常ニ甚タシク殊ニ灣形ヲナシタルケ所ナク船舶ノ碇泊ニ便ナラス
1900.新撰大地誌 前編(世界之部)山上万次郎著
江原道 島の大なるもの鬱陵島(松島)あるのみ本島は江原道を去る三十六里我隠岐を去ること西六十余里の海中にありて最高は黒占4千尺に達し樹木繁茂す須磨の周回8里あり
1901.01 朝鮮開化史 東亜同文会蔵 国友重章 恒屋盛服
金崗山の一支東海に入る六十余里峙立しして鬱陵島となる一に蔚陵と書す即ち古于山国なり後新羅に入る別名は武陵、羽陵共に而音相近きに因る大小六島あり其中著名なるを于山島(日本人は松島と名く)竹島といふ全島の面積約七十五方哩島中耕作すべきの地多からず樹木は海浜より山嶺に至るまで欝密す山高さ四千英尺にして海岸X峻三哩内海中の水深六千英尺より九千六百英尺に至る居民は男女三百口数十年以来船匠商買及漁、大農夫合相XでXり住居ス海水甚だ深きを以て魚産未だ盛んならずと雖も海菜の運出毎年二千荷を超え土質X沃にして肥料灌漑を要せず只樹業X灰を以て覆耕す春作は大小麦にして秋作はX及び豆の頻なり林産は老巨の杉松及各種ノ実木にして亦多く塊木、香木、柏子、甘湯木を讃す今王二十三年韓廷金玉均をもって東南諸島開拓史兼捕鯨使に任じ白春培を以て従事官となし該島開拓事務をX理せしめたるが翌年形京白の変ありて果さず其後島民徐敬秀を以て越松萬戸に差定し該当人民を繁殖し外国人の樹木伐採を防禁せしめたり。
1901.06.15./1903 黒龍界 韓国沿海事情 P13 第一巻第二号 葛生修吉
鬱陵島(春川府直轄)平海郡、越松浦の南微北に当り、四十余里の海中にある孤島にして、別名之を武陵又た羽陵と称す、即ち古の于山国にして本邦人は松島と呼ぶ、世人の本島は大小六小箇の島嶼、若くは竹島、松島の二島より成れりと為し、或は地図に之れを記入しあるは往々見る所なれとも、是れ等は何れも誤りなるが如し。
△やんこ島 鬱陵島より東南の方三十里、我が隠岐国を西北に距ること殆ど同里数の海中に於て、無人の一島あり。晴天の際 鬱陵島山峯の高所より之れを望むを得べし。韓人及び本邦漁人は之れをヤンコと呼び、 長さ殆んど十余町、沿岸の屈曲極めて多く、漁船を泊し風浪を避くるに宜し。
1903.邨岡良弼が著した『日本地理志料』
「隠岐國」「別有松島竹島、松島距隠地郡福浦、在六十九里三十五町、竹島在百里四町 - -」
大日本史とは異なり、「別有松島竹島」の後に「屬之(隠岐)」とは記載せず
1903.大日本地名辞典1903?
安政の比、松浦武四郎竹島雑誌を著し、論述をなす。明治維新後, 又漁民の來往するものありて, 地志提要には隱岐國の下に附載して曰く,
土俗相傳ふ, 福浦より松島に至る海路凡六十九里, 竹島に至る, 海路凡百里, 朝鮮に 至る, 海路凡百三十六里
1904.07 最新韓国実業指針 付属図
鬱陵島/一に武陵又は羽陵と云ふ、古の于山国にして本邦人及支那人之を松島と呼ぶ、越松浦の南四十里の海上に在り、島の周辺岩礁XXとして船舶を、碇繋する港湾に乏しく、唯僅かに一箇所の小漁船を泊するのに足るべきものあり、地味Xxniして大豆、大麥、小麥を産出す、就中大豆は外国輸出品の一なり、往時は全島樹木鬱蒼として美観を呈せしも、濫伐の結果頗減少せり、近海魚族繁殖すれとも、海水深くして捕獲するを得ず、韓人の戸数四百余、本邦人の常住40余りありて、純然たる日本村を形成せり、木材及大豆、石花菜の輸出を業とす
ヤンコ島 鬱陵島及我隱岐島の中間三十里の海上あり、全島居民なし、沿岸碇泊に便なれども薪材及飮料水を得難し、近海鮑海鼠石花菜等を産し、又鱶の捷息饒多なれども海馬の群に妨ばられ漁獲好果を得ずと云ふ。
隠岐島前より りゃんこ距離45里(日本里)
松島より→りゃんこ島 距離25里(日本里)
1904.09.韓国地理 矢津昌永
鬱陵島は一名を松島と称し本道海岸を距る八十里の海中に孤立せり全島嵯嶮たる円錐山の集合よりなり最高四千尺あり島岸嶮齟もそて登り難く全島樹木蜜生し良材を出す韓船の材料は多く此の島に仰ぐ沿海は魚類多し島の周囲十八里にして幾と半円を成す島の中央は北緯三十七度三十分東経百三十度五三分なり此の島の東に竹嶼あり 離隠岐の西北140里に鬱陵島(松島)あり。 。
1904.09.29 リャンコ島領土編入並二貸下願
隠岐列島ノ西八十五浬、朝鮮鬱陵島ノ東南五十五浬ノ絶海二俗二リャンコ島ト称スル無人島有之候、周囲各約十五町ヲ有スル甲乙二ヶノ岩島中央二対立シテ一ノ海峡ヲナシ大小数十ノ岩礁点々散布シテ之ヲ囲繞セリ 中央ノ二島ハ四面断岩絶壁ニシテ高く屹立セリ 其頂上ニハ僅二土壌ヲ冠リ雑草之二生ズルノミ 全島一ノ樹木ナシ
1905.02.24 山陰新聞
隠岐の新島 北緯37度9分3秒、東経131度55分、隠岐島を距る西北85浬に在る島嶼を竹島と称し、自今、隠岐島司の所管と定めらると県知事より告示せり。右島嶼 は周囲15町位の二島より成る。周囲には無数の郡島散在し、海峡は船の碇泊に便利なり。草は生え居たるも樹木は無しと云う。
1905.07.31 『通商彙算 50号』釜山駐在領事館報告 有吉明釜山領事の報告「鬱陵島現況」
「トド」と称する海獣は、鬱陵島より東南約二十五里の位置にあるランコ島に棲息し、昨年頃より鬱陵島民之を捕獲し始めたり。
1905.08.11 満韓露領地誌 日本民族の新発展場 」岡部福蔵著
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40010538&VOL_NUM=00000&KOMA=60&ITYPE=0
鬱陵島は江原道蔚珍を距る40里の前洋に有る一島にして周囲9里半、形状不等三角形
1905.09.07 韓国新地理 田淵友彦
P307 鬱陵島 ウーリヤントー
本島は北緯百三十度45分乃至五十三分、東経三十七度三十四分乃至三十一分の間に位し平海郡越松浦の南四十里の海中
本島より東南方約30里我が隠岐島との殆ど中央に當り無人の一島有り。俗に之れをヤンコ島と称す。長さ殆んど十町余沿岸の周曲極めて多く漁船を泊するに宜しと雖薪材及び飲料水を得るに困難にして地上を つも数尺の間容易に水を得ず此付近には海馬多く棲息しまた海産に堯なりといふ。
1905.09.15 地学雑誌201
竹島は北緯三七度一四分、東経一三一度55分に当り、海図上は3帖を以て示され、隠岐より八五哩、濱田より一五〇哩、又欝陵島よりは五十哩海上遥かに之を望むを得べし、邦人は欝陵島を松島と称するに対し之に竹島と命名すと雖も外人は一八四九年初めて発見せしフランス船リアンクール号の名に因みて其名をリアンコールト島と云ひ韓人は之を獨島と書し、本邦の漁夫等は一般に「リアンコ」島と称せり。蓋し英名リアンコールトを隔て、相対峙する二個の主島と、其周園に基列する数個の小嶼よりなる洋中の一小群島なり、是等の小嶼は概ね扁平にして---出し、主島の周邊は奇観を呈する窟洞に富み共に海豹トドの棲窟たり、主島は全殆んど不毛の禿岩
1905.09.18官報6667号 朝鮮鬱陵島現状
アシカト称する海獣は鬱陵島より東南約25里のいちにあるランコ島に棲息し、昨年頃より鬱陵島民之を捕獲し始めたり捕獲期間は四月より九月に至る6ヶ月間間にして・・・・【釜山駐在日本領事有吉明報告)
1907.朝鮮水路誌第二版
一八四九年佛船「リアンコール」之を発見せしを以ってLiancourt Rocksと称す其後一八五四年露艦「バルラス」は之をMenalai and Olivutsa rocksと名つけ一八五五年英艦「ホーネット」は之をHornet islandsと呼へり韓人は之を獨島と書し本邦漁夫はリアンコ島と曰く【改行】 此島は日本海上の一群嶼にして隠岐国前より大約八十浬、欝陵島より大約50浬に位し広四分の一浬の狭水道を隔てて東西に相対する二島と其周園に碁布する幾多の小嶼とより成る西島は海面上高約四百十尺にして棒糖形を成し東島は較や低く頂上に平坦なる地あり周園の諸小嶼は概ね扁平の岩にして僅かに水面に露出し其大なるは優に数十畳を敷くにたるへし二島共に全部●痩せの禿岩にして海洋の●風に曝露し一株の樹木なく東島僅に野草を生するのみ島岸は断崖絶壁にして軟性の石屑より成り奇観の洞窟多く殆ど攀Xすへからす此等の洞窟及ひ小嶼は「トド」の群棲所たり
1907.『大日本地名辭書』吉田東伍. 1907
土俗相傳ふ、福浦より松島に至る海路凡六十九里、竹島に至る、海路凡百里、朝鮮に 至る、海路凡百三十六里と、松島とは輿地勝覽の三峯島なるべし、明治十六年、更に日韓兩政府の談判あり、我往漁の舟を還して、再往するなからしめ、明に朝鮮の所屬と爲しぬ、 *松島=鬱陵島
1907.新編大韓地理
鬱島는 平海郡 越松浦 四百餘里海中에 在한 鬱陵島니 光武三年에 鬱島郡을 設하고 守를 寘하니 北緯 百三十度 四十五分乃至 五十三分. 東徑三十七度 三十四分乃至 三十一分 間에 在하야. 面積이 五百四 方里許며 中央에 高山이 屹立하야 고 – 四千 尺이며 沿岸의 港灣이 無하야 船舶의 碇繫가 甚難하니라 (中略)
本島東南約三百里에 一島가 유하야 俗稱 “양고”島라 云하니 長이 三十餘里오 沿岸이 屈曲하야 漁船의 碇泊이 便宜하나 薪材及 飮料水를 아즉 不得함으로 居人이 無하며 海馬와 各種海産이 多하니라.
1910.10.朝鮮新地理 大阪:田中宋栄堂,明43.10
鬱陵島(一に松島)は平海郡、越松浦の南四十余にある孤島にして、隠岐島の西北西百四十里に在り。周園十八里、面積は約五百里ありて中央に高さ千尺なる円垂体の高山●立し、山上樹木密生し、多く良材を出す。沿海港乏しくてして、船舶の碇繋困難なれども、土地膏●にして農産にも富む、居民朝鮮人戸数約四百五十、日本人戸数も一時三百に達せしこともあり。概ね鳥取県人なり。此島の東側に竹嶼 あり。
1910.12 朝鮮新地誌 足立栗園著 大阪:積善館,明43.12
江原道の当方80里即ち隠岐島の西方140里の海中に鬱陵島という一大島が在ります。此の島は周囲18里もあって全島山を為し樹木密生にして材木を多く出し沿海には魚類が多く産します。 此の島は一に松島とも呼び、倒幕時代に密航者があって一大騒動を起こしたことがあります。島の東に小き竹島と呼ばれる小一島があります。
1910.朝鮮産業誌,1910~1911,山口精 著, 寶文館
欝陵島 島中船舶を碇繋する港に乏し。鬱陵島より東南の方約三十里 無人の一島あり(ヤンコ)島と呼べるが沿岸の屈曲多く、漁船を泊し風浪を避くるに良し。
1911.06.20 「朝鮮総督府月報」第1巻第1号(明治44年6月20日発行)中の「鬱島郡誌」
三、面積、戸口および気候
本島の周囲は十四里十八町、廣●東五里、南北四里面積凡
そ九平方里にして江原道蔚珍郡の竹濱を距る東北八十浬の
海中に在り。
ちなみに、日本地誌提要について、坪井九馬三は、「地誌提要の竹島松島」はリアンコールド岩の記載では無い事を仄めかしている。
1930.坪井九馬三「竹島に就いて」
日本海西部に島が三個所有之候処、普通世間の人々は其二個処だけよりご存知無之様相見申候。
其二個処と申候者、日本地誌提要巻五十隠岐の條島嶼の項に、
又西北に方りて松島竹島の二島あり。土俗相伝て云ふ。隠地郡福浦港より松島に至る海路凡六十九
里三十五町。竹島に至る海路凡百里四町余。朝鮮に至る海路凡百三十六里三十町。
とある是れで、外国製図にて検すれば Is Dagelet (Matsu Sima)(Jap) , Is Liancourt or Hornet (Jap)
とあるもの夫れかと想像できるが、隠岐のいはゆる伝説に云ふ位置とは合ひ不申候。
朝鮮植物に就ての大権威者たる東京帝国大学理学部の教授中井猛之進博士は、大正六年松島即ち鬱
陵を踏査研究被致候節、松島の道洞に居住し当時殆ど島長の如き位置に在之候片岡吉兵衛氏に就て反
覆審問被致候結果、日本海西部の三島に就て始めて詳細の知識を得られ候次第にて、小生は博士の恩
恵にてその新知識の分輿を受候段、再来XXに不堪申諸人に伝授致候、学恩を私せざる意に有之候。
日本地誌提要に掲載を欠候隠岐の第三付属島は卵島と申し無得の岩礁にて樹木生えず海驢の産地と
して聞ゆ。三十七八年戦役中海軍は貯所として之を用候由。外国製図のLianocourt又はHornetは
此の岩島の事に候。
鬱陵は松島の現用韓名なり。最古の韓名は新羅名にて于山と書き、年代降りて于陵とも武陵とも羽
陵とも鬱陵とも書申候。山と書くも陵と書くも皆島の意にて、于、武、羽、鬱は皆「ウ」の音に借り
たるまでにて字義に関係なし、慶長年間には、朝鮮人は此の島を専ら鬱島又は竹島と申したる如し、
竹島と申したる島名の因縁は不明似て、従て訓方も不明なるが、此の名は対馬人の間に行はれ、其よ
り朝鮮外交用の島名となり、幕府は幕末までもさやうに慣用致したり、故に江戸時代の公文書に竹島
と云ふは鬱陵の事と知るべき似て候。
鬱陵の東沖に小さい三日月形の岩嶼あり、この島の付属島にて竹島と呼び申し候。この竹島と申候名
は韓名に非ず。隠岐よりの移民が本島を松島と祝ひ、付属島を竹島と祝ひてよびたるにて、片岡氏
は命名の因縁を確に記録致候由、中井博士の話に候。
卵島を濫に竹島を呼候は、誰が海軍の当事者に教候ものか小生は存ぜず候も、或は日本地誌提要の
不確実の記事をあてすいりょうにて応用致候にては無之哉疑を容れ易く候。更に後年に至り、所管県
庁がこの濫称を正式として公認したりと聞き候が、果して事実に哉。凡そ地名の如きは所属地方の古
老に問ひ質すべき事なり。一介の武人又は無学の地方吏官等が勝手に命名すべきに非る事は、誰にて
も皆心得ゑるはずなりと小生は存申候。(昭和五年六月十三日夕記)