まあ、日本がアシカの個体数を激減させ、絶滅危惧種になった事は確かであるのですが、韓国による島根県竹島の侵略後も、たびたび海驢は島根県の竹島で個体が確認されています。島根県竹島は日本領土ですが、韓国に侵略され、施政権が行使できないため、こういった絶滅危惧種の保護ができませんでした。また、仮に、「竹島韓国領土」の視点に立って考えてみると、絶滅危惧にある海驢を保護せずに頬って置いたのは韓国政府です。本来無人島で季節的に漁撈者が短期滞在していた場所に、守護隊と証した侵略者が常駐するようになって、それまでの繁殖地の環境を変えてしまった事も原因のひとつです。海驢絶滅に対する管理責任が、「竹島韓国領」の視点で考えると発生します。
日本が竹島にて猟を行っていたときは、雌や若い固体は捕獲しない、また、一定区域に禁猟区を設け、底の固体は取らない、などの完全絶滅回避作を捕っていました。
しかし戦前に日本人に雇われた竹島に渡っていた、竹濱の韓国人が、戦後、竹島に入るようになり、そこで、子供や雌の個体まで取って好んで食べてしまったといわれております。とくに若い固体のペニスは精力剤になるので好んでとって食べていたとのことです。(*すみません、この話については出典を失念しましたので再調査しますが、確か神奈川大学出版の本だった記憶があります。)
また、Scapin指令による日本領土竹島の爆撃訓練地指定を受けた事も関係があるかもしれません。
1951年の目撃例
杉原通信「郷土の歴史から学ぶ竹島問題」
第11回 ニホンアシカと竹島
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/sugi/take_04g11.html
韓国では日本の乱獲で昭和20年頃絶滅したと批判を含める論文も発表されていますが、昭和26年(1951)11月竹島に渡った境高校水産科の皆さんは自分等の船に並 んで泳ぐアシカがいたことを証言されていますし、昭和28年6月竹島を訪れた隠岐高校水産科等の方々もニホンアシカの存在を証言されています。
杉原通信「郷土の歴史から学ぶ竹島問題」
第28回 朝凪(あさなぎ)丸と鵬(おおとり)丸
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/sugi/take_04g28.html
(1951)11月13日午後1時、16トンの朝凪丸で境港を出発し、巡視船「すずつき」から教わった方角に船を進めると、翌朝9時15分竹島より西の鬱陵島が 見えてきました。あわててコンパスで方角を修正し、午後3時30分竹島に無事到着しました。島の周囲を一巡して上陸地点を探し、東島の浜に上陸しました。 水深は島の接岸場所の真下でも570メートルから700メートルもあり、大船巨腹でも容易に接近できますが、周囲がいずれも断崖で船を繋ぐ事は出来ない状 況でした。
東島には朝鮮人のものと思われる漁具や、アメリカ軍の爆撃演習で島に居て亡くなった朝鮮人の慰霊碑がありました。島の周囲には、いたるところに洞 窟があり、特に東島には島の縦、横を貫通している大きな洞窟がありました。この洞窟内にはアシカの姿が見られ、数にして100頭前後は居るように思えたそ うです。対馬暖流の栄養塩やプランクトンによってイワシ、ブリ、サバ、イカ等が多く集まり、また海底からの湧昇流によってコンブ、ワカメが繁茂しているこ とが実感出来たそうです。
『毎日新聞』昭和28年6月27日付けの島根版の紙面は、「問題の「竹島」現地レポ−まだいた韓国人漁夫、アシカの料理で歓待−」の見出しで報じています。
19511.11.14 竹島取材
11月23日の朝日新聞朝刊に掲載された海驢の報告
日本へ還る無人の「竹島」 奇怪な海驢の群
一木一草もないXXで、とりつくしシマもない。このあたりの岩礁は初夏のころにはアシカが群棲し、??になることで世界的にも有名な場所である。 西シマに進むと、黒い二メートルもあるアシカがズボっと、波間に現れ、弓なりに体をそらせるとふたたび海中にもぐり込んでいく。水門のようにそそりたつ??岩から西シマの北側にかけて、次第にアシカの姿が増えていく。ウォッツウトッツというなき声が、この島のフンイキの中では薄ら??くまた気味悪い。5,60頭は居るようだ。
有峰書店新社 寺尾宗冬師氏のページ http://arimine.com/reprint02_ex02.html
1953年の目撃例
李ライン翌年竹島にニホンアシカ多数生息(山陰中央日報)
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=374380006
韓国が一方的に李承晩ラインを設定して竹島(韓国名・独島)を自国領に含めた翌年の一九五三年、竹島に渡航した隠岐高校水産科(現・隠岐 水産高)の元指導教官、岩滝克己さん(82)=島根県隠岐の島町加茂=が九日、同県の杉原隆・竹島研究顧問に当時の様子を証言した。日本側の乱獲で絶滅し たとされるニホンアシカが、多数生息していた状況を説明。韓国側の主張を覆す証言として注目される。
ニホンアシカは竹島周辺に繁殖し、戦前は隠岐島の漁師らが漁をしていたが、現在は絶滅状態。韓国側は戦前の日本による乱獲が原因と主張している。
岩滝さんは、ライン設定後の竹島に韓国漁民らしい者がいたという県の試験船からの情報を受け、事実確認のため五三年六月二十四日、学校の実習船に乗り込み、同僚ら十三人で渡航した。
聞き取りに対し、岩滝さんは、島へ接岸すると、竹島の北西九十二キロにある韓国・鬱陵島からワカメやアワビ採取のため渡航し、夏から秋にかけて滞在するという三人の韓国漁民に会ったと説明。
韓国漁民たちは、漁獲物の運搬でやってくる仲間の船がしけで来ず、食料が乏しいというので、持参した米とタバコを差し出すと大変喜び、「捕まえたアシカを料理してごちそうすると話した」という。
岩滝さんは食べた記憶はないが、島の周辺でアシカを「十-二十頭くらい見た」と振り返った。
研究の一環として聞き取り調査した杉原顧問は「戦前、隠岐の漁民は計画性を持ってニホンアシカを捕獲していた。韓国側は日本の乱獲が絶滅の原因というが、証言を聞く限り、乱獲したのはむしろ韓国の方だ」と韓国側の主張に反論した。
李承晩ラインをはさんでは、設定直前の五一年十一月に境高校水産科(現・境港総合技術高校)の教諭らが竹島へ渡航しており、当時の様子をつづった日誌を、松江市殿町の竹島資料室に展示している。
1954年の目撃例
3. 河原春夫が語る日韓基本条約 (竹島問題研究顧問 杉原隆)
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima04-m.html
昭和40年6月22日、日韓基本条約、日韓漁業協定が締結された。 同年6月30日付けの特別号で週刊誌『女性自身』が「ルポルタージュ 「竹島」についての話し方」と題した記事を掲載した。最初の見出しに「竹島-日本海に浮かぶ、小さい小さい島です。その島が日本領なのか、韓国領なのか、日韓条約は、帰属をきめないで調印されました。漁場をうばわれた漁師は怒っています。それには、ベトナム戦争も関係するとか・・・」として、隠岐や島根県での取材を中心に特集を組んでいる。 この特集の中で、隠岐の漁師の代表として多くを語っているのが河原春夫である。河原は昭和29年5月、脇田敏等と竹島で漁業権を行使した久見漁協の組合員の一人である。昭和40年の取材でも11年前の思い出から語り、子供の頃に竹島から父がよく連れて帰ったアシカが、自身が渡航した昭和29年には十数頭しか現地に見られなかったこと、アメリカ空軍の爆撃演習で死んだという韓国人の新設間もない慰霊碑が目に飛び込んできたこと、竹島は2、3時間でワカメを一人500貫(1875キロ)刈りとれ、アワビも一人で90貫(337.5キロ)もとれる宝の島だったと語っている。
1954.06.03
1.「隠岐公論」と竹島問題 (竹島問題研究顧問 杉原隆)
「隠岐公論」は原好武等が隠岐公論社を設立し、昭和29年6月10日第1号を刊行している。当初は毎月1回の発行だったが、途中から月3回の発行に変更している。第1号の巻頭に原が「創立並に創刊の辞」を書き、隠岐支庁長鈴木正男や西郷町長中西幹愛が祝辞を述べている。第1号で注目されるのは、第一面に掲載されている「竹島に戦後初の出漁-久見漁協脇田組合長等で-」の記事である。これは李承晩ラインを設定した韓国に抗議して島根県が歴史的に度々竹島渡島を行った人々の住む五箇村久見(くみ)漁協組合員に竹島での漁業権行使を依頼して昭和29年6月3日に行われた行動の報告 である。このことについては組合員10人を率いて竹島へ渡った組合長脇田敏が「竹島漁業権行使の経過」と題して記録を残していることは、すでに研究レポート「隠岐の漁師脇田敏、河原春夫が語る昭和期の竹島」で紹介したことがある。 「隠岐公論」の記事では組合長脇田敏と「往年の竹島出漁者」前田峯太郎の名を記し、ワカメやアワビ等の具体的な漁獲と接岸時アシカが30頭位岩場から海に飛び込むのを見たとして、繁殖期でもあり竹島には数百頭は生息するだろうとの談話を載せている。また村民に極秘で出漁したのは「韓国側に情報がもれないようにするため」としている。 昭和31年1月26日付けでは「韓国船漂流2件」を記し、在日韓国代表部大阪事務所へ送り届けたとしている。漂流に関しては、西ノ島町の国賀灘へ3人の朝鮮人が死体で漂着したので埋葬するとともに昭和34年地元民と在日韓国人の有志で1周忌の慰霊式をしたことも記している(2月16日付け)。
独島(ドクト)にアシカ復元する クッキーニュース
http://dokdo.kcg.go.kr/board/view.asp?num=131&bid=dokdo_speech&page=12&Sdir=sub06&Path=a_1
[クッキー社会] ○…1900年代初め日本側の乱獲で消えた独島(ドクト)のアシカを生き返らせる方案が推進されている。 環境部は最近国立環境科学院に独島(ドクト)のアシカ復元に対する妥当性を検討して、復元推進方案を用意するように要請した。
智異山(チリサン)ツキノワグマ復元事業を進行中の環境部は全国16個国立公園と非武装地帯の絶滅危機種60種余りを復元する方案を推進中なので、独島(ドクト)アシカを復元対象に上げるのに大きな問題はないと見ている。
イ・ジェヨン環境部長官は"過去日本の乱獲で絶滅した独島(ドクト)のアシカを復元するのは領土的象徴性と国民的関心、生態系復元および生態観光の可能性などを勘案すれば推進する価値があると見る"と話した。
アシカは1974年日本、北海道で1匹が生け捕りされたのを最後に我が国はもちろん日本側でも全く確認された記録がない。
50年代独島(ドクト)義勇守備隊が活躍する当時だけでも20~30匹ずつ群れを成して独島(ドクト)沿岸で棲息する場面が目撃された。
独島(ドクト)義勇守備隊員だったイ・キュヒョン氏(82・鬱陵郡(ウルルングン)、鬱陵邑(ウルルンウプ)ト・トンニ)は"当時独島(ドクト)でアシカ(アシカ)無理を時々見られたし、鬱陵島(ウルルンド)住民たちはこれをザリガニ、アシカで呼ぶこともした"と話した。
青い鬱陵(ウルルン)・独島(ドクト)育て方会このイェ・キュン会長は"日本資料を調べれば独島(ドクト)は単純にアシカが生きた島でなくアシカの最大繁殖地であった"として"日本のタケシマオリョプェサが1905年から8年の間独島(ドクト)で1万4千匹余りや集中捕獲しながらアシカが絶滅の道に入り込んだ"と話した。
海洋動物学者などはアシカ復元事業は徹底した事前調査をした後ロシアやベーリング海などで血縁的に近い個体群を捜し出して導入することが最善の方法で、個体群の定着率を高めるための徹底した準備が必要だ"と主張した。
環境部関係者は"独島(ドクト)アシカ復元事業を始めようとするなら必ず独島(ドクト)だけでなく東海岸全域にアシカを生きるようにする側に接近する必要がある"と話した。 国民日報クッキーニュース提携社/鬱陵(ウルルン)=嶺南(ヨンナム)日報チョ・ヨンサム記者choyung@yeongnam.com
1958年(昭和33年)、竹島周辺の個体は200-500頭程度の少数の個体[27]が生存するとの報告。
^ アシカを含む鰭脚目の特色として1種類の個体数が飛び抜けて多い事が挙げられ、1種類で十数万頭というのが普通である(和田一雄 『海のけもの達の物語 -オットセイ・トド・アザラシ・ラッコ-』 成山堂書店、2004年、11頁。ISBN 978-4425981311)。この時点で絶滅の危機にあったといえる。
環境省自然環境局 生物多様性センター
アザラシ目 アシカ科 絶滅危惧IA類(CR) 和名 :ニホンアシカ
http://www.biodic.go.jp/rdb_fts/2000/74-081.html
分布域とその動向
上で示した分布記録のうち大部分は1930年代以前のもので、それ以後のものとしては青森県久六島で1950年代初期まで少数が繁殖していたこと、同じ頃竹島での50~60頭の目撃例、1950年代サハリン南部での記録、1960年代のカムチャッカ半島南部や北千島での死体発見や目撃例があり、もっとも新しい記録は1974年礼文島沖での幼獣1頭の生け捕りである。 分布情報:2次メッシュ数:0、3次メッシュ数:0(第4回自然環境保全基礎調査)
The IUCN Red List of Threatened Species(tm)
http://www.iucnredlist.org/apps/redlist/details/41667/0
Assessment Information [top]
There have been no documented reports of Z. japonicus since the late 1950s, despite extensive marine mammal research effort taking place within its former range. The last credible report was 50 to 60 individuals on Takeshima in 1951 (Rice 1998). Individual sightings reported as recently as 1974 and 1975, cannot be confirmed; confusion with escaped Z. californianus cannot be ruled out.
*注.後半の1974年ならびに1975年の竹島での目撃談は、日本海驢かどうかは確認が取れず、逃げたカリフォルニア海驢と見間違えた可能性があるとしている。
、1960年代の目撃談の話
Rosamond Purcell and the staff of Naturlis (1999). Swift as a Shadow: extinct and endangered animals. Mariner Books. pp. 64 "EXTINCT JAPANESE SEA LION". ISBN 0395892287.
"Sea lions in Japanese waters in the 1960s were probably California sea lions that had escaped from zoo."(英語)
1975年の海驢の話は、オホーツクの動物 -ヒグマと海獣- 桑原 岳仁(2002)
東京大学コレクション XIII「OKHOTSK」北の異界 古代オホーツクと氷民文化. 東京大学総合研究博物館. pp. 第一章 オホーツク人の海と陸
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2002Okhotsk/02/2200.html
一九七五年の日本海の竹島での目撃情報が最後となっており、既に絶滅した可能性が高い
(和田・伊藤、一九九九、三〇~三四頁)
とあり、
この和田・伊藤1999とは「鰭脚類 海驢・アザラシの自然史」 東大出版会
http://www.amazon.co.jp/「鰭脚類 海驢・アザラシの自然史
のことである。
また、同様の内容は、すでに元リンクが存在せず真偽の確認が取れないのだが、2002年12月14日 Yomiri On-Lineにあったという話http://www2.cc22.ne.jp/hiro_ko/3-24animal.html
『1991年には、当時の環境庁が絶滅の危機に瀕(ひん)する動植物をリストアップしている「レッドデータブック」に「絶滅種」と記載した。 ところがその後まもなく、研究者の伊藤徹魯氏が「1974年に北海道礼文島で生け捕りされていた」「75年には、韓国の自然保護団体が竹島で目撃した」と、学会誌などに発表。』との話もある。
伊藤の話がレッドリストに反映されていない理由については、1970年代に竹島で目撃されたという「海驢」がニホンアシカであることが確認が取れていない事のように思われるがこのあたりは今後の課題としたい。
1950年代後期の推定生息数、竹島で100頭、全生息域で最大300頭[10]。
Aurioles, D. & Trillmich, F. (IUCN SSC Pinniped Specialist Group) (2008). Zalophus japonicus. 2008 IUCN Red List of Threatened Species. IUCN 2008. 2010年3月26日 閲覧
Estimates are that 30,000 to 50,000 animals may have been present in the mid-19th century. The last available abundance estimate suggested the presence of 100 animals on Takeshima Island, and a total population of up to 300 in the late 1950s. There have been no documented reports of the species since the late 1950s, and most authors now consider this species to be extinct.
韓国による竹島の軍事要塞化や在日米軍の軍事演習実施などの軍事関係も要因として指摘されている[24]。
^ a b c 『世界絶滅危機動物図鑑 (第1集)』学習研究社、1997年、10-11頁。ISBN 9784055002233
朝鮮戦争中には韓国兵が射撃訓練の的として使ったとの噂もある[28]。
(*注意:これは韓国軍が使ったのではなく、米軍が射撃訓練地として使用していた。)
^ Rosamond Purcell and the staff of Naturlis (1999). Swift as a Shadow: extinct and endangered animals. Mariner Books, 64 "EXTINCT JAPANESE SEA LION". ISBN 0395892287. “The breeding colony of Japanese sea lion (...) was found on the small rocky island of Takeshima, which was occupied by Korea after World War II. There are rumors that during the war Korean soldiers used these animals for target practice.”