09.「1900年大韓帝国勅令第41号,現竹島を韓国領土と世界に公表」というのは歪曲

韓国側は、1900年10月22日に発布された大韓勅令41号の石島が現竹島であり、韓国領土として編入したと主張するが、これは歪曲である。

そもそも、大韓帝國側が大韓勅令41号を出し鬱陵島管理の強化するようになった動機は、鬱陵島における日本人の違法伐採と問題行動であり、漁業問題ではない。このころの韓国人の盛業は主に農業であり、漁業ではないのであるが、これらの一連の話に、現竹島は関係していない。
1883年に一旦鬱陵島滞在日本人を強制退去したが、188  年の日韓通漁規約で鬱陵島へ再び来れることになった。日本人は本土から物品を持ち込んでは鬱陵島で販売し、材木を伐採して本土に持って帰っていたりしたが、鬱陵島での日本人による違法伐採が深刻化し、また
鬱陵島で犯罪を犯す日本人が問題になった事から日本側からは釜山から赤塚正助、大韓帝國側では釜山の海関税務士La Porteと鬱陵島調査員禹用鼎も同時期に調査に入る事になった。
 この時に報告にあった禹用鼎の報告は、大韓勅令41号の請願書にも引用されるが、その範囲は東西가 六十里오 南北이 四十里니, 合 二百餘里、であった。つまり現竹島は全く含まれて居ないし、記述も報告もない。 かつ、1906年06月13日の 皇城新聞中の記事、「鬱島郡 配置顛末」では、鬱島郡の管轄範囲は、竹島石島を含めて東西60里南北40里合二百余里であり、やはり200餘里と言う同じ範囲が認識されている。

この禹用鼎の報告は、おおよそ歴代の朝鮮側の鬱陵島の範囲の認識をしめす記述と合致しており、主に、二種類ある。
1.地方百里(東西60里と南北40里である二辺の合計値)
2.周二百輿里(東西60里と南北40里である辺の合計値)

まず、古地図に関して鬱陵島の大きさを見てみる。古地図には、最も著者な付属島である于山島竹嶼と存在しない南の小5島を含んだ範囲を記載しているが、1.地方百里に関しては、1694年以前の地誌の記述にも見られるが、2の周二百輿里は主に1694年以降から登場し始めるのでここに一覧を提示する。したのしゅうけいをみると判るが、鬱陵島の詳細図においてはその範囲がかなり正確な上、于山を含んだ面積も正確なのに対して、朝鮮半島全体圖や江原道圖などでは、鬱陵地方の範囲も、于山の位置もまばらであり不正確である。 


地図の名称
 地図の種類 周囲距離東西距離
南北距離
 于山の位置
 1711鬱陵島圖形 捜討官による鬱陵島圖 周面量可二百餘里 自東至西八十餘里 自南至北五十餘里  鬱陵島の東近距離
 1736-67『輿地圖』鬱陵島(1736-67) 鬱陵島+物産 周面二百餘里 東西八十餘里  南北五十餘里 鬱陵島の東近距離
 1737-1776『廣與図』 鬱陵島 No なし 鬱陵島+物産 周面二百餘里 東西八十餘里  南北五十餘里 鬱陵島の東近距離
 18世紀中旬『海東地図』 鬱陵島 鬱陵島圖+物産 周面二百餘里 東西八十餘里  南北五十餘里 鬱陵島の東近距離
 1767?18C中頃 『八道輿地圖』鬱陵島  韓国国立中央図書館56. 古2702-14  欝陵島圖+物産 周面二百餘里 東西八十餘里 南北五十餘里 鬱陵島の東近距離
  1776-1787『地乘』鬱陵島 奎章閣 奎15423   物産リスト 鬱陵島物産 周面二百餘里 東西八十餘里 南北五十餘里 鬱陵島の東近距離
 1861大東輿地圖 鬱陵島部分 周二百餘里 東西六十里 南北四十里 なし

 1863大東方輿地図 鬱陵島部分 周二百餘里  東西六十里 南北四十里 なし
17021830-60s?鬱陵島圖形 三陟捜討官による鬱陵島圖+物産周面量可二百餘里

鬱陵島の東近距離
 年代不詳 .東京山川 八道地圖 江原道・鬱陵島部分  江原道圖+鬱陵島詳細図 二百余里 東西八十余里南北四十余里 南北四十余里 鬱陵島の東
 1884-1888 19C中旬[憲宗-高宗初(1835-1894)頃 
『地圖』 三陟圖 
江原道圖+鬱陵島
 江原道圖+鬱陵島詳細図   長百餘里 廣六十里 鬱陵島の北東






 17世紀初期 1632-1652江原道『八道地圖』彩色写本  韓国中央図書館古朝61-20 江原道図 方百里   なし
 17C後半か?.『朝鮮地圖及日本琉球.中原』江原道二十六官 古2702-10 韓国国立中央図書館47 江原道図  長百 廣60里 
 1673朝鮮八道古今総覧図 金躊弘 筆者本 木 朝鮮図 方百里   鬱陵島の北、中距離?
1683.『輿地攷覽圖譜』.江原道(韓国中央図書館71.古朝61-18)江原道図

地長百廣六十里
肅宗(1674-1720)年間 八道分圖 江原道圖

 江原道図  地長百 廣六十里 鬱陵島の南
 1710東国與地誌圖  481-3  朝鮮図 四方百里   鬱陵島の西
 1719.18c中旬.1719.海東總圖.江原道圖(韓国中央図書館61.古朝61-42)  江原道図 方百里   鬱陵島の西
 18世紀中葉 『天下地圖』-江原道二十六官 11.3x19.7 嶺南大学校博物館  独島博物館48 江原道圖 方百里   
1712-1798 .18Century 『歓迎誌』-関東図  朝鮮後期実学者ウィバックギュ(1712~1798)が編纂刊行 江原道図

長百餘里廣六十里
 18世紀後半(1767~)『天下地圖』江原道木版本 江原道圖 
 長百餘里 廣六十里 鬱陵島の南
1760年頃 『鮮域圖』 江原道 Dokdo or Takeshima
US congress library
江原道図
方百里


鬱陵島の東
1767朝鮮八路之圖 崇實大学校博物館朝鮮図
方百里

鬱陵島のみ
19世紀初期 東国地圖pg 木版本 独島Center  朝鮮図 方百里   鬱陵島のみ
  1822.地圖.關東二十六官(韓国中央図書館88.古朝61-9)   
 長百 廣60里 北東に文字だけ
 1857-59.海左全圖(韓国中央図書館84.古朝61-74)   自中峯東至海一万余歩西至一万二千余歩  南至海一万五千余歩 北至八千余歩 鬱陵島の東
 1869.海左全圖(韓国中央図書館62.古朝61-22   自中峯東至海一万余歩西至一万二千余歩  南至海一万五千余歩 北至八千余歩 鬱陵島の東
 年代不詳 .東京山川 八道地圖 朝鮮全図 (全体圖)   自中峯東至海一万余歩西至一万二千余歩 南至海一万五千余歩 北至八千余歩 鬱陵島の東
 年代不詳 .東京山川 八道地圖 江原道・鬱陵島部分   二百余里 東西八十余里南北四十余里 南北四十余里 鬱陵島の東
 1872年官製地図「蔚珍縣地図  方百里  鬱陵島のみ




ついで、各地誌における于山と鬱陵の範囲を挙げてみる。これらにも1907年以前に現竹島を韓国領土と入れている形跡は無い。
 史料名  周囲 東西 南北 その他
0512.三国史記-卷四・新羅本紀・智証麻立干  智証王13年(512年)夏6月条  地方百里   
三国遺事  巻一 智哲老王  周廻二万六千七百三十歩(≒74.25里)   
1412.04『太宗實録』太宗124月己巳條  是島自東至西自南至北皆二息周回八息 是島自東至西自南至 自南至北皆二息 
1416.09.02『大宗實録』太宗16年丙申九月庚寅条  聞武陵島周回七息    有小島?
1432.『世宗実録地理志』江原道襄陽縣 (世宗莊憲大王實 五十七冊 卷第一百五十三)  中有泰山、従山頂 向東行至海、一万餘歩 向西行、一万三千餘歩 28+36里≒64向南行一萬五千餘歩。向北行八千餘歩 (41+22里=63里) 
1436.『世宗實録』世宗18年閏6月甲申條   東西南北各五十餘里 東西南北各五十餘里 
1438.07.15『世宗實録』世宗20年7月戊戌條   東西一日程 南北一日半程 
1452. 『高麗史』地理誌  卷五十八 蔚珍県  地方百里  島中有大山、従山頂 向東行、至海、一万餘歩、向西行、一万三千餘行、【28+36里≒64里】向南行一萬五千餘歩。向北行八千餘歩 (41+22里=63里) 
1454. 『世宗實録』地理志 江原道襄陽縣  従山頂~向東行至海一万餘歩、 向西行一万三千餘歩 28+36里≒64里】
向南行一萬五千餘歩。向北行八千餘歩 (41+22里=63里) 
1457. 『世宗祖實録』巻第7 世祖三年丁丑四月
   東西南北相距各五十餘里 東西南北相距各五十餘里 
1531.『新增東國輿地勝覧』巻之四十五、蔚珍縣 于山島 鬱陵島  地方百里  從山頂~向東行至海一萬餘歩。向西行一萬三千餘歩。(28+36里≒64里)
 向南行一萬五千餘歩。向北行八千餘歩 (41+22里=63里) 
1662.『陟州誌』 許穆  于山鬱陵一島方百里   
1696.『蔚陵島事蹟』張漢相 鬱陵島捜討官の話の転記 道理不過百五六十里  北至二十餘里南近四十餘X 有竹田島東5里 + 有一島南東300餘里
1696-1703.「鬱陵島」朴世堂張漢相の引用 鬱陵島捜討官の話の転記 其周二日方窮則其間道里不過百五六十里之地 自中峯西至海濱三十餘里東至二十餘里
(50里)
 南近)四十里 北至三十餘里
(70里)
 有竹田島東5里 
有一島遠不過三百餘里。
1696-1703.「鬱陵島」朴世堂 鬱陵島捜討官の話の転記 従山頂向東行至海濱●●千餘歩  向南行一萬●千歩向北行八千歩餘41+22里=63里) 
1629-1703.『臥遊録』「欝陵島」 鬱陵島捜討官の話の転記 島中有大山 從山頂

向東行至海濱一萬三千餘步

28+36里≒64里)

向南行一萬五千步 向北行八千餘步

41+22里=63里)
 
1740.『星湖僿說 鬱陵島條』李 瀷  從山頂

東行至海一萬餘步 西行一萬三千餘步 (28里+36里≒64里)

 南行萬五千步 北行八千步(41+22里=63里) 
   張漢相 往審之 南北七十里 東西十里 
1786. 原春の監司、李致中の復命(日省録) 鬱陵島捜討官の話の転記 一島周回可百二十餘里  南北七八十里 東西六七十里 
1794. 江原道觀察使沈晋賢狀啓言 鬱陵島捜討官の話の転記 東西五六十里 南北七八十里, 
1827.江原監司 鄭元容 以 鬱陵島 搜討馳達 鬱陵島捜討官の話の転記 周回殆近八九十里   
19世紀中葉『五洲衍文長箋散稿 八路利病辨證説』李圭景(17881856)  地方百里   
19世紀中葉『紀年東史約卷之二 新羅高句麗百濟紀 李源益(17921854)  地方百里   
1864. 『大東地誌』 金正活  周二百餘里 自中峯~ 東西七十餘
正東海濱三十餘里 正西海濱四十餘里
(≒東西70里)里 
南北五十餘里
正南海濱二十餘里正北海濱二十餘里(≒南北40)
 
1882.05倹察使 李奎遠鬱陵島検察日記 『啓本草』


鬱陵島捜討官の話

而地方約可五十里

周廻 假量爲一百四五十里


 
19C.東典考  地方百里   
1895.『朝鮮地誌』 学部編纂局  周回二百餘里 東西六十餘里 南北四十餘里 
1895.12.10.『輿載撮要』呉弘黙

   長百余里 廣六十里 
1899.禹用鼎を鬱陵島視察委員に任命復命書 鬱陵島捜討官の話の転記 吠全島  周迴可為一百四五十里 長可為七十里廣可為四十里
 3辺と過程すると、(+35里三面目)
1899. 皇城新聞 鬱陵島事況  古于山國XX地方X百里 /鬱陵島面積七十五方里 45?) 30?)  
1900.06.09 禹用県 鬱陵島捜討官の話の転記 周囲百余里   
 1900.10.22請願書 鬱陵島を 鬱島で 改称その 島監を 郡守で 改正に 関一 請議書 鬱陵島捜討官の話の転記 該地方 蹤可八十里 橫爲五十里 
1901.大韓地誌 玄采  地方百里   
1905.大韓地誌 台煥     
 

1906.大韓新地誌 張志淵

     
1906.新訂東国歴史 柳瑾     
1906.大東歴史略 国民教育会     
1906.3大韓疆域考  なし   
 (1906.04.01.日本現竹島視察団の鬱陵島寄航)     
1906.04.04.鬱島郡守 沈興澤 報告書     本郡所屬獨島가 在於外洋百餘里外
1906.05.01.大韓毎日申報
     本郡所在の獨島
1906.05.19.皇城新聞      本郡所属の独島は外洋百余里の外
1906.『梅泉野錄』 제5권     鬱陵島 沖合で洞方へ 200里の町に立つことが一つある. この島を 独島と言う.
1906.06.13 皇城新聞 鬱島郡 配置顛末  地方合二百餘里 東西 六十里 南北 四十里, *獨島の記載なし
 1906.大韓地誌 玄采 national Library 地方百里 記載なし 記載なし 
1907.初等大韓地誌 安鍾和  地方約五百四方里 北緯百三十度四十五分XX35分X至XX 東経三七度三十四分XX三十一分 于山島東南
1907.大韓新地誌巻2 張志淵  地方X約五百四方里 北緯百三十度四十五分XX35分X至XX 東経三七度三十四分XX三十一分 于山島東南
1907.신편 대한지지(新編 大韓地誌)     
1908.初等大韓地誌 安鍾和, 瑾 共著 地方X約五百四方里 北緯百三十度四十五分XX35分X至XX 東経三七度三十四分XX三十一分 于山島東南
1909.慶尚南道鬱陵島事情  
 東西三十五里 南北四十里 東日本國隱岐縣海里一千里
1909.대한지지(大韓地誌)     
1909.初等大韓歴史 鄭寅琥     
1909.最新高等大韓地誌 鄭寅琥  東経12430分起13035分至東慶尚南道鬱島郡鬱陵島   



結論からすると、大韓勅令41号に記載されている石島に関して、緯度経度か記載されている文章や、石島の形状がきちんと認識できる古地図は発見されていないので、石島が現竹島を示すと言う直接的な証拠は全くない。

また、竹島石島が「竹島と石島」なのか、竹島石島、つまり、「竹島である石島」という一島二名であるのかも判明していないので此のあたりは今後の課題でもある。 China PilotやChina Sea directory,朝鮮水路誌などで、最大の付属島が竹嶼=Boussole Rockと併記で記載されている。これらの記述からかんがみると、竹島石島は、「竹島であるBoussole Rock(石島)」であるという説も成り立つわけである

さらに、鬱陵島の調査員の地図に記載された観音島-島項が石仏島と呼ばれていた、そして観音島が小于島として、二番目に著者な付属島として認識されていた事から、此の島を石島と推測する事もできる

また、存在しないのに、歴代の鬱陵島詳細図に1900年の大韓與地図まで記述され続けた「南の小五島」が石島である説もありうるのである。

韓国側は、全羅道方言の変改によって、石島が独島になったと主張するが、これはあくまでも仮説に過ぎない。前述しているとおり、現竹島の緯度経度が記載されている文章や、現竹島を石島としるし、形状がきちんと認識できる古地図は存在しないので、石島が現竹島を示すと言う直接的な証拠は全くない。



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