「于山」は再び鬱陵島の古い旧名であるという解釈に戻る。

1694年以降、1900年までの朝鮮王朝の鬱陵島の現地調査員の地図には于山島は鬱陵島の北東部にある竹嶼であったのだが、これとは異なる認識はいくつかあった。一例に挙げると、金正浩と李圭遠である。

金正活は、輿地勝覧などから「于山島は鬱陵島の旧名」であると認識して、1830年代に書いていた于山竹嶼を、わざわざ1850-60年代の一連の大東輿地圖等には書かなかった。以下は1863年の大東地誌の記述である。 

鬱陵島在本縣正東海中古于山一云武陵一云羽陵一云艼陵周二百餘里東西七十餘里南北五十餘里三峯岌嶪聳空(倭舡漁探者時到)純是石山自本縣天晴而登高望見則如雲氣便風二日可到倭人謂之竹島與日本隱岐州相近自中峯至正東海濱三十餘里正西海濱四十餘里正南海濱二十餘里正北海濱二十餘里川溪六七竹田五六居址數十有楮田洞孔巖米土窟石葬古址船泊處待風所島之南有四五小島島中皆石壁石澗洞壑甚多有狙鼠極大不知避人亦有桃李桑拓菜茹之屬珍木異草不知名者甚多○新羅智證王十三年于山國恃險不服遣何瑟羅軍主金異斯夫擊降之 高麗太祖十三年芋陵島遣白吉土豆貢方物
顯 宗九年以于山國被東北女眞所寇廢農業遣李元龜賜農器 十年于山國民曾彼女眞虜掠來奔者悉令歸之 德宗元年羽陵城主遣子獻土物 仁宗十九年秋七月溟州道都監倉使李陽實遣人入蔚陵島取菓核木葉異常者以獻 毅宗十三年王聞鬱陵地廣土肥可以居民遣溟州道監倉使金柔立往視柔立回奏云島中有大山從山頂東至海一萬餘步西至海一萬三千餘步南至海一萬五千餘步北至海八千 餘步有村落基址七所或有石佛鐵鍾石塔多生柴胡本石南草然多巖石民不可居遂寢其議 明宗時崔忠獻獻議以武陵土壤膏沃多珍木海錯遣使往觀之移東郡民以實之及使還多以珍木海錯進之後屢爲風濤所蕩覆舟因還其民居 忠穆王二年東界芋陵島人來朝 辛福五年倭人武陵島留半月而去○本朝 太宗朝聞流民逃于鬱陵島者甚多再命三陟人金麟雨爲安撫使刷出空其地麟雨言丰土地饒沃竹大如杠鼠大如猫桃核大於升凡物稱是 世宗元年武陵島民男婦共十七人行到京畿 平邱驛飢頓 上遣人救之 二十二年遣縣人萬戶南顥率數百人往搜連民盡俘金丸等七十餘人而還其地遂空 成宗二年有告別有三峯島者及遣朴宗元往覓之因風濤不得泊而還同行一舡泊鬱陵島只取大竹大鰒魚回啓云島中無居民矣肅宗二十八年三陟營將李浚明還自鬱陵島獻其 圖形及紫檀香靑竹石間朱魚皮等物浚明乘舡于竹邊串兩晝夜而還 英宗十一年江原監司趙冣等啓言鬱陵地廣土沃有人居舊址而其西又有于山島亦廣闊○土産藿鰒可支魚大小雜魚柏木香木冬柏側柏黃柏梧桐楓檜欕桑楡篁竹朱土鷹烏鷰 鳲貍鼠

1859..『東寰録 于山』
于山者。今鬱陵島也。○三國史云。新羅智證麻立干十一年。于山國。歸服。歲以土宜爲貢。于山國。在溟州[주:今江陵]正東海島。或名鬱陵島。


李圭遠は于山は「済州が沈羅であるのと同様、于山は鬱陵島の古い名前」と国王にその認識を報告している。
ともに于山のみの記載。それは金正浩は"于山”は鬱陵島の旧名であるとの認識に基づいたものである。

1882年の奎遠と高宗の会話から、鬱陵島が松島と呼ばれていることが判明し始める。
鬱陵島の傍らに、松竹島と芋山島があるか、よく判らないので調査に行って地図を作れと王は李奎遠に命令するが、
1882.04.07 承政院日記 高宗 19年(1882년) 4月 初 7日條
上曰 檢察使進前 奎遠進前. 上曰 鬱陵島 近有他國人物之無常往來 任自占便之弊矣. 且松竹島 芋山島 在於鬱陵島之榜 而其相距遠近何如 亦有何物與否 未能詳知. 今番爾行 特爲擇差者 各別檢察 且將設邑爲計 必以圖形與別單 詳細錄達也.
それに対し李奎遠は、「*芋山島とは鬱陵島の事で、鬱陵島の古い国名であり、 また、松竹島は小さい一つの小島で鬱陵島から3~数十里離れたところにあり、檀香と竹が取れる、」と答えている
奎遠曰 謹當갈蹶奉行矣. 芋山島 卽鬱陵島芋山 古之國都名也. 松竹島 卽一小島 而與鬱陵島相距 爲三數十里 其所産 卽 檀香與簡竹云矣.

これに対し、高宗は、「芋山島、松竹島は輿地勝覽に載っているが、 松竹島 芋山島は3島からなっていて、これを鬱陵島と言うのか?調査に行って詳細を報告する」よう奎遠に命令する。
上曰 或稱芋山島 或稱松竹島 皆輿地勝覽所製也. 而又稱松竹島 與芋山島爲三島 通稱鬱陵島矣. 其形便 一體檢察. 鬱陵島 本以三陟營將 越松萬戶 輪回搜討者 而擧皆未免疎忽 只以外面探來 故致有此弊. 爾則必詳細察得也.
これに対して、奎遠は、「松島竹島は鬱陵島の東で、松竹島の外に、別に松島竹島があるのではない」と答える。 
奎遠曰 謹當深入檢察矣. 或稱 松島竹島 在於鬱陵島之東 而此非松竹島之外別有松島竹島也

そのあと李奎遠は鬱陵島調査に行って、帰ってきて報告をする。
1.日本人が鬱陵島に「大日本帝国松島」
の立標を立てた事をしる。
2.更に日本人への尋問で、日本の地図
「日本帝國地圖 又有輿地全圖」において鬱陵島が松島と呼ばれている事をしる。
3.晴れた日に鬱陵島の山に登って遠くを眺めたが、1千里の間に何も見えなかった。*于山が鬱陵島を指す事は、耽羅が濟州をさす事と同様と報告、つまり于山は鬱陵島の古い別名であると認識した。
初五日 彼曰 日本帝國地圖 又有輿地全圖 皆稱松島也 故知之 然爲知役事者 今在於本國 都知之矣 問曰 此島名鬱陵 而高麗受之於新羅 我朝受之於高麗 係是幾千年傳來疆土 而爾等 稱曰爾國松島者 亦有何據乎 況幾百年以來 自我朝廷送官弁 間年搜討 爾等不知我國法禁 而有是犯 則是有容貸之道 而或知而故犯 則論罪施刑斷不可已 撤役速歸 可也 彼曰 僕等謹諾矣 問曰 伐木用何 歸期擬在何間耶 彼曰 何處所用材 僕等不知 歸期 本年八月 船來後事(卽七月)

1882.06.05 承政院日記 高宗 19年(1882年) 6月 初5日條
上曰 日人立標 謂之松島 不可無言於彼.

1882.06.16 高宗實録 高宗 19年(1882年) 6月 16日(庚寅)條
三軍府啓 鬱陵島檢察使李奎遠 以日本人結幕一隅 稱以松島 所木立標 啓請移書詰責事 有旨令三軍府稟處矣. 以日本人之侵斫此島樹木 自其國禁止之意 已有文字 而今於檢察之行 目見其猶復自如 則不得不更申前意 永杜此弊 令文任撰送書契何如. 允之

1882.05.13 李奎遠 の『鬱陵島検察使日記
松竹于山等島 僑寓諸人 皆以傍近小島 當之 然旣無圖籍之可據 又無鄕導之指的 晴明之日 登高遠眺 則千里可窺 而更無一拳石一撮土 則于山之稱鬱陵 卽如耽羅之稱濟州是白如乎
(松竹于山等の島、みな傍らの小島 晴れた日に鬱陵島の山に登って遠くを眺めたが、1千里の間に何も見えなかった。*于山が鬱陵島を指す事は、耽羅が濟州をさす事と同様と報告、つまり于山は鬱陵島の古い別名であると報告している。

また、此の時製作された
李奎遠の鬱陵島外圖では、それまでの古地圖では于山島と于山島と記述された竹嶼が竹島と記述され、他にも1880年の戦艦天城の調査で竹嶼、1883年の檜垣の鬱陵島調査や1900年の赤塚の鬱陵島調査においても竹島と記載されている。(ただし、朝鮮側の古地図には1900年の大韓輿地圖まで于山島竹島は記載され続ける。)

また、別項でも記載したが、1881年、日本外務省北沢正誠の編纂した「竹島考証」および「竹嶋版図所属考」において、
「朝鮮鬱陵島一名竹島一名松島であるとの結論になるが、この「一島三名」は、明治15(1882)年06月、来日した修信使朴泳孝が井上馨に、鬱陵島へ日本人が渡海することを抗議したが、そのときの井上馨の返答文に、この一島三名が記載されており、このことが朝鮮にも伝わっている。

これらを機に、従来の于山島である竹嶼が竹島(竹嶼)となり、鬱陵島=于山=松島(Dagelet)が日本だけでなく朝鮮にも浸透し始める。そして、安龍福の言う「于山島所謂倭松島」が、鬱陵島=日本の松島になる。それら記録を列挙する。


1884.08.26.高宗實錄 高宗 21年(1884년) 8月 26日(丁酉)條. http://www.itkc.or.kr/MK/MK_IMGVIEWE.jsp?seojiid=kc_mk_e001&gunchaid=bv004&muncheid=02&finid=017&startpage=mk_e001_v010_151a&endpage=mk_e001_v010_155a
前五衛將李京烈疏略. (...) 臣在江陵地 深知鬱島利病. 此島 卽古于山氏立國處 今有開拓之命 誠盛擧也. 宣諭附近民人無恒業者 使之起墾 限三年勿收租稅 及其盡墾 設立官長 以爲藩蔽 則海防鞏固 公稅加增云云. 批曰 所陳 多有近似之論也


1888.11 朝鮮地誌略
鬱陵島 位置に武陵或は羽陵と曰ふ二島あり県の正東海中三百五十里に在り南北四十里周囲二百余里三峰●●●チ●へ南峯●卑し風日清明なれは則峯頭の樹木及ひ山根沙渚歴々見る可し風便なれは二日到るへし一説に于山、鬱陵、本一島たりと云ふ
于山島 鬱陵島に隣す
(*ここでは于山鬱陵は二島説と一島説を併記しているが、二島説の場合の于山島がどの島なのかは判別が付かない。また、この朝鮮地誌略は、どこからこのネタを引用してきたのか、それによっては何か新発見がある可能性もある)

1893.朝鮮通漁事情M26.10 関沢明清,竹中邦香編 東京:団々社書店,明26.10
鬱陵島は一に武陵或は羽陵と云ふ本邦人は松島と称す蔚珍より東に当たり凡三百五十韓里の海上にあり風便なれは2日にして到るへしと云ふ往昔は于山国と称し始んと無人島なりしか中世朝鮮政府は人民ヲ移住せしめ今は若干の戸数あり其の島樹木に富み島の周辺魚介饒と雖も総て岩礁XXとして大船は近く可からず其最小漁船を着くへき処も唯一一箇処あるのみ然るに海路遼遠にして最小漁船の能く抵るへきにあらざるを以って一人として出漁するものなしといふ 
(*松島=Dagelet)

19世紀中:東典考
鬱陵島[一武陵又羽陵]在東海與蔚珍縣相對中有大山地方百里風便二日可到[芝峯類說]○新羅智訂王時號于山國降新羅納土貢[上仝]○以産竹故謂竹島有三峯故謂三峰島于山羽陵蔚陵武陵武陵蟻竹皆音訛而然

1898.
『三陟郡邑誌』 (古蹟)
鬱陵島在海中水路可千里波
濤極險或曰羽陵或曰羽山方百里三峰岌嶪海晴則可望山形風便一晝夜可渡云高麗太祖時于山國使白吉土獻方物毅宗時遣溟洲道監倉使金柔立往*視之東北有村落舊址往往有石佛石塔鐵鍾我之今太宗時流民多在島中遣按撫使三陟人金麟雨刷四十餘戶世宗時又遣萬戶南灝俘島民金九生等七十餘人空其地戮其首逃者康熙十一年壬子遣營將張漢相復通搜討至今營將與越松萬戶間三年交互往來

1899.09.23 皇城新聞
蔚珍之東海X一島X有XX 曰鬱陵X其附属X小六島中X最著者X干山島竹島XX、大韓地誌X曰鬱陵島X古于山國XX地方X百里X三峰。//律XXX所産X柴故、藁本、石楠、藍竹XXX、/古X牛形無角X水獣X有XX名可之X海鳥X有XX名曰雀鳥-XX島中人煙X稀少XX国家XX
(*ここでは、于山島を竹嶼にあてている一方で、大韓地誌においては于山国は鬱陵島の古い名前であるとの引用をしている。後述のの1901年の朝鮮開開史と比較されたし。)

1899.12.29 禹用鼎 「鬱島記」(1904発行)
鬱島 古称于山国 未知羅朝何代之建国 而文献無徴亦不可考

1901.01.朝鮮開化史 東亜同文会蔵 国友重章 恒屋盛服
金崗山の一支東海に入る六十余里峙立しして鬱陵島となる一に蔚陵と書す即ち古于山国なり後新羅に入る別名は武陵、羽陵共に而音相近きに因る大小六島あり其中著名なるを于山島(日本人は松島と名く)竹島といふ全島の面積約七十五方哩島中耕作すべきの地多からず樹木は海浜より山嶺に至るまで欝密す山高さ四千英尺にして海岸X峻三哩内海中の水深六千英尺より九千六百英尺に至る居民は男女三百口数十年以来船匠商買及漁、大農夫合相XでXり住居ス海水甚だ深きを以て魚産未だ盛んならずと雖も海菜の運出毎年二千荷を超え土質X沃にして肥料灌漑を要せず只樹業X灰を以て覆耕す春作は大小麦にして秋作はX及び豆の頻なり林産は老巨の杉松及各種ノ実木にして亦多く塊木、香木、柏子、甘湯木を讃す今王二十三年韓廷金玉均をもって東南諸島開拓史兼捕鯨使に任じ白春培を以て従事官となし該島開拓事務をX理せしめたるが翌年形京白の変ありて果さず其後島民徐敬秀を以て越松萬戸に差定し該当人民を繁殖し外国人の樹木伐採を防禁せしめたり。
(*「大小六島あり其中著名なるを于山島(日本人は松島と名く)竹島といふ」は、皇城新聞1899年の解釈とは異なる。皇城新聞は小六島のうち、最も著者な付属島を于山島竹島(竹嶼)としたが、ここでは、鬱陵島を”大”の島とみなし、この鬱陵島が于山島で、日本人がよぶ松島Dagelet、つまり鬱陵島とし、小のうち、最も著者なものである竹島(竹嶼)を記載している。ここが皇城新聞と解釈がことなっている部分である。)


1900.新撰大地誌 前編(世界之部)山上万次郎著
江原道 島の大なるもの鬱陵島(松島)あるのみ本島は江原道を去る三十六里我隠岐を去ること西六十余里の海中にありて最高は黒占4千尺に達し樹木繁茂す須磨の周回8里あり


1901.06.15 黒龍界 韓国沿海事情 P13 第一巻第二号 葛生修吉 
鬱陵島(春川府直轄)平海郡、越松浦の南微北に当り、四十余里の海中にある孤島にして、別名之を武陵又た羽陵と称す、即ち古の于山国にして本邦人は松島と呼ぶ世人の本島は大小六小箇の島嶼若くは竹島、松島の二島より成れりと為し、或は地図に之れを記入しあるは往々見る所なれとも、是れ等は何れも誤りなるが如し。【改行】本島は●と金剛山脈の一支流れて東海に入り、対立して其頭を顕はしたるものにして、面積約七十五万方哩、中央に一の山岳Xふるものあり、其高さ四千尺、峻厳突X四●之れを擁して。遠く望めば背螺の浮出したるに勢●たり又た船舶を碇泊するの良港無く、商船漁船の碇泊困難にして、風涛少しく荒るるときは、島の北面に位する海濱の平地に船を引き揚げるを常すと云ふ、  


1902.03. 韓国略誌 井原儀著 赤間関:和田善平,明35.3
近畿地方・・・・・・・・(注意の二)三陟は古へのX直国の都なり。この沿岸より遥かに東方に鬱陵島(于山島即ち松島)あり、島中、松、杉の巨材を産し近海には鯨、海鼠の魚利あり。


1903.01.01『韓海通漁指針』葛生修吉 P120 鬱陵島
Xと春川府直轄をりし処、34年8月以来新たに郡手を遣はして之に統治せしむ 北緯130度45分乃至53分50秒、東経三十七度三十四分四十秒乃至三十一分五十秒の-Xに位地し、平海郡越松浦の南四十余里の海中に有る孤島にして、韓人は別名之を武陵または羽陵-を書す、乃つ古の于山国にして、支那人之を松島と呼ぶ。因に記す、世人或は本島を持って大小六箇の嶋嶼集合せるものなりと、若しくは竹嶋、松嶋の二嶋の通称なりとし、甚だしきは往々地図中にも之れを並記しXるを見る、此の如きは実にXXの大なるものとす。///本嶋はXと金剛山Xの一X走つて東海に入り、更に峙立して其頭をXはしたるものにして面積約五里四方許、中央に一山X起し、其Xさ凡そ四千尺mXX之を擁して、遠く望めば青Xの浮出したるにXXたり、島中船舶を碇繋する港湾に乏しく、商船漁舟の碇泊に困難を成じ、風涛少しくXるX時は毎に船を海岸の平地に曳き------海岸の平地に引き揚げくと云ふ。


1903.大日本地名辞典
鬱陵島 一云武陵, 一云羽陵, 在江原道蔚珍縣, 正東海中, 三峯岌嶪撑空南峯稍卑 風日淸明, 則峯頭樹木, 及山根沙渚, 歷歷可見, 風便則二日可到, 一說于山蔚島本一島 地方百里, 新羅時恃險不服, 智證王十二年, 異斯夫, 爲何瑟羅州軍王, 謂于山國人愚悍, 難以威服, 可以計服, 多以木造獅子, 分載戰艦, 抵其國誑之曰, 汝若不服, 則卽放此獸, 踏殺之, 國人恐懼來降, 高麗毅宗十三年, 王聞蔚陵地廣土肥, 可以居民, 遣溟州道監倉金柔立往視, 柔立回奏云, 島中有大山, 從山頂向東行, 至海一萬餘步, 向西行一萬三千餘步, 向南行一萬五千餘步, 向北行八千餘步, 有村落基址七所, 或有石佛鐵鍾石塔, 多生柴胡藁本石南草, 後崔忠獻獻議, 以武陵土壤膏沃, 多珍木海錯, 遣使往觀之, 有屋基破礎宛然, 不知何代人居也, 於是移東郡民, 以實之, 及使還, 多以珍木海錯進之, 後屢爲風濤所蕩覆, 舟人多物故, 因還其居民, 本朝太宗時, 聞流民逃其島者甚多, 刷出空其地, 土地沃饒, 竹大如杠, 鼠大如猫, 桃大於升, 風物稱是, 世宗二十年, 往搜逋民, 盡俘金丸等七十餘人而還, 其地遂空, 成宗二年, 有告別有三峯島者, 乃遣朴宗元往覓之, 因風濤不得泊而還, 同行一船, 泊鬱陵島, 只取大竹大鰒魚回, 啓云島中無居民矣.

安政の比、松浦武四郎竹島雑誌を著し、論述をなす。明治維新後, 又漁民の來往するものありて, 地志提要には隱岐國の下に附載して曰く,
土俗相傳ふ, 福浦より松島に至る海路凡六十九里, 竹島に至る, 海路凡百里, 朝鮮に 至る, 海路凡百三十六里
, 松島とは輿地勝覽の三峯島なるべし, 明治十六年, 更に日韓兩政府の談判あり, 我往漁の舟を還して, 再往するなからしめ, 明に朝鮮の所屬と爲しぬ.
(*ここで言う「松島」とは、そのあとの明治十六年の日韓両政府の談判の時の文章から判るように、鬱陵島のことである。)

1903.12.10.皇城新聞 論說鬱島沿革始末http://www.mediagaon.or.kr/jsp/search/SearchGoNewsCondition.jsp?id=HSS19031210_ITEM_014
論說
鬱島沿革始末
鬱島者난 我蔚珍東海中小島也니 新羅時에 始發現者也라 三國史에 云 新羅智證麻立干十三年에 于山國이 歸服하야 歲以土宜도 爲貢이라 하고 又云 于山國은 在溟州正東海島니 或 名鬱陵島라 하고 又云 何瑟羅州(今江陵)軍主異斯夫ㅣ 謀並于山國 謂其國人이 愚悍하야 可以計服이라 하고 乃多造木獅子하야 分載戰船하고 抵其島誑之曰 汝若不服이면 放此獸踏殺之라 한 其人이 懼乃降이라 하니 此ㅣ 鬱島歸服之始也라 高麗史太祖十三年에 島人白吉土豆ㅣ 獻方物이라 하고 毅宗時에 遣金柔立하야 往視島中한 回奏言島中에 有大山村落基址하며 或 有石佛 石塔 鍾鐵 等하고 多生柴胡 石楠 藁本草라 하더니 其後崔忠獻이 議以東郡民으로 實之라가 因風濤하야 復還本居라 하니 然則 該島之空無居人은 已自毅宗時 故로 欲移民實之而不果者也라 又按麗史에 云女眞人이 常乘船寇鈔芋陵諸島라 하니 芋陵者난 卽鬱陵而意者當時北界女眞이 每寇掠該島 故로 因而曠廢者也라 麗季에 倭入漁採者ㅣ 每歲到鬱陵島라 하고 其後에 未有聞焉이러니 國朝太宗時에 聞流民이 逃其島하고 命三陟人 金麟雨하야 刷出하고 空其地러니 至世宗二十年에 遣萬戶 南顥하야 率數百人하고 往搜逋民 盡俘 金丸 等 七十人而還하고 成宗二年에 遣朴元宗하야 覔三峰嶋하다가 因風波하야 只取大竹 大鰒而還하고 自是以後난 每三年에 一送人審視호 官給斧 十五하야 伐其竹及木하고 又采土物納于朝하야 以爲信하니 三陟營將과 越松萬戶가 每遞入焉이라 寶鑑에 云肅宗二十八年五月에 三陟營將 李浚明과 譯官 崔再弘이 還自鬱陵嶋야 獻其圖形及紫檀香, 靑竹, 石間朱, 魚皮 等物니 盖鬱陵嶋에 間二年 使邊將으로 輪回搜討가 已有定式而今年은 三陟이 當差 故로 浚明이 乘船于蔚珍竹邊鎭야 兩晝夜而還歸라 고 又英祖十一年에 江原監司 趙最壽가 啓言鬱陵嶋에 每三年一搜討而今年은 歉荒니 請停其搜討라 야 上이 以問筵臣신 對曰 往在丁丑에 倭人이 來請此嶋 故로 朝家ㅣ 特送張漢相야 圖形以來니 盖地廣土沃에 有人居舊址고 其西에 又有于山嶋야 亦甚廣濶 故로 朝家遂定三年一搜之法하야 至今遵行이라 한 上이 遂命搜討하시니라 盖自廟朝世宗朝以來로 空其地하고 久無居民이러나 自近三四十年來로 因連年飢饉하야 各道男女流伊入居者ㅣ 漸繁하야 其設監 設郡之事 已記於前後本報之中 故로 煩不疊錄하노라
輿地勝覽에 云鬱陵島一名은 武陵이오 又云 羽陵이니 在鬱珍正東海中하야 地方百里오 土地饒沃하야 竹大如杠하며 鼠大如猫하며 桃核大如升하고 島有三峰이 撑空이니 風日晴朗則 峰頭樹木과 山根沙渚를 歷歷可見이니 二日에 可到라 하고 文獻備考에 云 鬱陵島에 産藤艸 香木하며 蘆竹이 多合抱者하야 蘆實 桃核가 大可爲盃升이라 하고 又云 鬱陵島海中에 有獸하니 牛形赤眸無角이오 羣臥海岸이라가 見人獨行이면 害之하고 遇人多하면 赴入水하니 名曰 可之라 하니 冷齋 柳◈恭詩所謂 惟見可之登岸臥하고 更無獅子撲人來之句가 是也라 又安順庵 鼎福地理考濊考에 曰 周書에 云濊人前兒난 若獼猴立行하고 聲如小兒라 하니 今鬱陵嶋에 有嘉支魚하니 無鱗하고 穴居巖磧며 有尾四足而後足이 短야 陸不善走고 水行如飛며 聲如嬰兒고 脂可燃燈니 或 是歟아 니라



1904.04.19 皇城新聞 鬱島沿革始末 http://www.mediagaon.or.kr/jsp/search/SearchGoNewsCondition.jsp?id=HSS19040419_ITEM_015
◎鬱島者난 我蔚珍東海中小島也니 新羅時에 始發現者也라 三國史에 云 新羅智證麻立干十三年에 于山國이 歸服하야 歲以土宜도 爲貢이라 하고 又云 于山國은 在溟州正東海島니 或 名鬱陵島라 하고 又云 何瑟羅州(今江陵)軍主異斯夫ㅣ 謀並于山國 謂其國人이 愚悍하야 可以計服이라 하고 乃多造木獅子하야 分載戰船하고 抵其島誑之曰 汝若不服이면 放此獸踏殺之라 한 其人이 懼乃降이라 하니 此ㅣ 鬱島歸服之始也라 高麗史太祖十三年에 島人白吉土豆ㅣ 獻方物이라 하고 毅宗時에 遣金柔立하야 往視島中한 回奏言島中에 有大山村落基址하며 或 有石佛 石塔 鍾鐵 等하고 多生柴胡 石楠 藁本草라 하더니 其後崔忠獻이 議以東郡民으로 實之라가 因風濤하야 復還本居라 하니 然則 該島之空無居人은 已自毅宗時 故로 欲移民實之而不果者也라 又按麗史에 云女眞人이 常乘船寇鈔芋陵諸島라 하니 芋陵者난 卽鬱陵而意者當時北界女眞이 每寇掠該島 故로 因而曠廢者也라 麗季에 倭入漁採者ㅣ 每歲到鬱陵島라 하고 其後에 未有聞焉이러니 國朝太宗時에 聞流民이 逃其島하고 命三陟人 金麟雨하야 刷出하고 空其地러니 至世宗二十年에 遣萬戶 南顥하야 率數百人하고 往搜逋民 盡俘 金丸 等 七十人而還하고 成宗二年에 遣朴元宗하야 覔三峰嶋하다가 因風波하야 只取大竹 大鰒而還하고 自是以後난 每三年에 一送人審視호 官給斧 十五하야 伐其竹及木하고 又采土物納于朝하야 以爲信하니 三陟營將과 越松萬戶가 每遞入焉이라 寶鑑에 云肅宗二十八年五月에 三陟營將 李浚明과 譯官 崔再弘이 還自鬱陵嶋야 獻其圖形及紫檀香, 靑竹, 石間朱, 魚皮 等物니 盖鬱陵嶋에 間二年 使邊將으로 輪回搜討가 已有定式而今年은 三陟이 當差 故로 浚明이 乘船于蔚珍竹邊鎭야 兩晝夜而還歸라 고 又英祖十一年에 江原監司 趙最壽가 啓言鬱陵嶋에 每三年一搜討而今年은 歉荒니 請停其搜討라 야 上이 以問筵臣신 對曰 往在丁丑에 倭人이 來請此嶋 故로 朝家ㅣ 特送張漢相야 圖形以來니 盖地廣土沃에 有人居舊址고 其西에 又有于山嶋야 亦甚廣濶 故로 朝家遂定三年一搜之法하야 至今遵行이라 한 上이 遂命搜討하시니라 盖自廟朝世宗朝以來로 空其地하고 久無居民이러나 自近三四十年來로 因連年飢饉하야 各道男女流伊入居者ㅣ 漸繁하야 其設監 設郡之事 已記於前後本報之中 故로 煩不疊錄하노라
輿地勝覽에 云鬱陵島一名은 武陵이오 又云 羽陵이니 在鬱珍正東海中하야 地方百里오 土地饒沃하야 竹大如杠하며 鼠大如猫하며 桃核大如升하고 島有三峰이 撑空이니 風日晴朗則 峰頭樹木과 山根沙渚를 歷歷可見이니 二日에 可到라 하고 文獻備考에 云 鬱陵島에 産藤艸 香木하며 蘆竹이 多合抱者하야 蘆實 桃核가 大可爲盃升이라 하고 又云 鬱陵島海中에 有獸하니 牛形赤眸無角이오 羣臥海岸이라가 見人獨行이면 害之하고 遇人多하면 赴入水하니 名曰 可之라 하니 冷齋 柳◈恭詩所謂 惟見可之登岸臥하고 更無獅子撲人來之句가 是也라 又安順庵 鼎福地理考濊考에 曰 周書에 云濊人前兒난 若獼猴立行하고 聲如小兒라 하니 今鬱陵嶋에 有嘉支魚하니 無鱗하고 穴居巖磧며 有尾四足而後足이 短야 陸不善走고 水行如飛며 聲如嬰兒고 脂可燃燈니 或 是歟아 니라


1905.09.27.皇城新聞 鬱陵島 寄稿 翠心生https://search.i815.or.kr/ImageViewer/ImageViewer.jsp?tid=ns&id=HS1905092703

鬱陵島嘔心生
●鬱陵島一幅은 堂堂大韓國版圖內之舊山川이라 昭然有可證於數千年歷史上者니 一白一黑이 豈局外爛柯者와 所可窺哉리오 槪言其沿革인 漢班固 博物志에 有曰 渤海之東朝鮮海中에 有一島國하니 其名曰 于山이라 多禽獸之怪者라 하니 是島之在朝鮮海中이 昭然有可證이오
三國史에 曰 新羅智證麻王十三年에 使異斯夫로 爲阿瑟那軍主謀하야 伐于山國 降之하야 歲以土宜로 爲貢으라 하니 是島之歸服이 昭然有可證이오
三韓綱目에 曰 于山國은 在溟州[江陵]正東海島니 或 名鬱陵島라 島民이 附庸於溟州하야 歲獻土物이라 하니 是島之入貢이 昭然有可證이오
輿地勝覽에 曰 鬱陵島 一曰 武陵이오 又云 羽陵이라 在朝鮮蔚珍縣正東海中이니 地方百里오 土地饒沃이라 니 是島之隷屬於朝鮮海面이 昭然有可證이오
本朝野史에 曰 世宗二十六年에 遣萬戶 南顥하야 擦捕俘虜 金丸 等 七十餘人而還하야 慮其爲亂而遂空其地하니 是島之入于朝鮮版圖가 昭然有可證이오
文獻備考에 曰 鬱陵島 産藁本, 柴胡, 石楠藤, 諸藥草及諸香木하며 蘆竹이 多合抱者하고 芦實 桃核가 大可爲杯升하니 本朝에 刷出逃民하고 空其地야 每三年에 一送審視官니 月松萬戶三陟營將이 遞入焉일 官給斧子 十五하야 伐其竹若木하며 幷采土物야 納于朝以爲信이라 하니 是島之五百年保管이 昭然有可證이오
二十一都懷古詩集에 曰 于山國은 卽新羅之歸服者라 며 盡述其事而註之하니 正廟朝柳得恭惠風이 有于山詩曰「春風五兩邏帆迴 海上桃花寂寞開 唯見可之登岸臥 更無獅子撲人來」註曰 鬱陵島海中有獸形赤眸無角臥海岸見人獨行害之라 며 又曰 異斯夫伐之不服乃造木爲獅子載船告之曰 汝若不服放此獸蹈殺之其人恐懼而降이라 니 是島之入於二十一故都之事蹟이 昭然有可證이오 當宁二十年癸未에 裴季周 崔秉麟 等이 率同志者 十六家고 入于此島야 開拓山林하며 起墾土地하야 居人이 日增하니 聞于政府라 政府ㅣ 以裴季周로 爲島監고 崔秉麟으로 爲視察하야 鎭撫勞來하니 此島之爲朝鮮人開拓이 昭然有可證이오
光武六年에 皇上陛下勅命內部사 以鬱陵島로 爲鬱陵郡하라 하시고 裴季周로 陞郡守러니 今沈興澤이 現任之郡守也니 是島之爲郡縣이 昭然有可證이라 [未完]

1905.09.28.皇城新聞 鬱陵島 寄稿 翠心生https://search.i815.or.kr/ImageViewer/ImageViewer.jsp?tid=ns&id=HS1905092803
1905.09.27の続編

鬱陵島嘔心生 [續]
一片孤島가 縹紗在海中이나 六鰲가 不可負矣오 一鳥가 不可翳矣어 昭然有可證者ㅣ 非但 班班可攷於數千年歷史上이라 炯然在目 於一世之人者를 不意今者所謂 大東報記事에 有曰 日本海中에 豐饒로 有名 鬱陵島 自日本人開拓以後로 日人戶口가 每月增加라 하니 豈有如此可驚可愕可痛可怪之發于言紀于事者乎아 如此千不當萬不近之說로 肆然揭載於新聞紙上하야 沒頭撤尾하고 若八風鬼露臉하야 歸之於日本之原有地然하니 以一隻之手로 其可以掩得天下之目哉리오마
聞此報者ㅣ 孰不髮竪膽掉哉아 但 處於政府之上者ㅣ 視若不見고 閣之尋常하야 已經數日에 一無質問之端하며 又無正誤之擧하니 顧此無責任之政府 全幅金甌를 付之壑舟라도 猶所甘心이니 不足責備어니와
至若有國民思想者 不可結舌而緘口者라 據此一縷之萌而安知他日에 作成重大之一大問題乎리오
日本은 以善隣之高義로 韓國之領土保全을 不啻若歃血共盟이라 旣爲聲明於萬國者니 豈可以尺寸之土로 遽歸於己有也리오 噫彼一種齷齪之新聞記者가 縱發妄言於造次之間이라도 若將有害於善隣之高義면 必有取消之處分이오 記者ㅣ 若有一時之誤筆이라도 必飜然是正하야 以謝友國之人民矣리니 第待數日之自悟自覺이어니와
鯫生이 腔血所激에 不可泯墨하야 警其大東記者之誤노니 若或 未正其誤하고 一向固執其迷면 爲韓國人者 盟天誓地하고 更不購讀大東新報矣리니 一言斷案야 爲我韓同胞一告之하며 又告我靑年會同志者노라 [完]


1906.04.17 皇城新聞 ●大東古事 http://www.mediagaon.or.kr/jsp/search/SearchGoNewsCondition.jsp?id=HSS19060407_ITEM_018
△昌慶宮集春門 은 與太學甚近니 世宗은 往往便輿로 出幸太學샤 講 論經傳시고 成廟 一日에 御 春塘臺라가 太學儒生을 由集春門召 入샤 論經賜第시니 至今爲美談 이러라
△四佛山 은 在尙州九十九里山陽廢 縣니 山頂에 有巨石야 浮根而立 고 四面에 皆鐫佛故로 號四佛山이 라니 國人之奉佛者가 最所喜談而 欲觀者也오 其中峯은 曰法王이니 其 陽崖石의 又鐫佛像고 傍寘彌勒小 庵니 新羅時所創이러라
△異斯夫  新羅人이니 智證王時에 于山國〔即今之鬱島郡〕이 負險不服 이어 異斯夫ㅣ曰其人이 愚悍야 難以威服이라고 乃多造木獅子 야 分載戰艦고 抵其海岸야 誑之 曰汝若不服이면 則放此獸야 蹂之 리라 于山人이 恐懼即降이러라


韋庵文稿卷之九 外集  社說中 東事考略十五篇 讀史有感  張志淵
http://db.history.go.kr/url.jsp?ID=sa_004_0090_0010_0040
于山國
按東史, 新羅 智證王十三年, 討服于山國, 于山在溟洲正東海中, 卽今鬱陵島, 地方不過百里, 恃其險不服, 伊飧 異斯夫率甲兵十餘人, 以木造獅子百許頭, 塗飾金彩, 載之戰船, 抵其島誑之曰, 汝若不降, 卽放此獸蹯殺之, 國人大懼乃降, 恃險不服者, 始何强項, 大懼乃降者, 終何柔腸耶, 料其山河之固, 足以不受敵, 城池之壯, 足以堅其守, 人民戰士之能作捍禦者, 審其衆寡强弱之勢, 知其不能攻, 然後可以不服, 海上孤島小如點墨者, 所恃維何, 而徒恃其險, 可知其民之愚也, 見其甲士之猛, 足以蹂躪, 戰船之多, 足以衝擊, 金毛獅子之能售悍獰者, 究其眞假詐正之跡, 知其不能制, 然後可以乃降, 幻目奇怪, 一言威嚇者, 所懼維何, 而大懼乃降, 可知其民之昧也, 其民愚且昧, 而其國不二者, 自古及今未之有也, 比今世界以觀之, 大小强弱相與聯肩, 其民不愚昧, 則始而不恃, 相與和好, 終而不懼, 相與椅角, 故小與大相抗, 弱與强相立, 其民愚昧, 則始而未嘗不恃, 終而未嘗不懼, 小爲大吠, 弱爲强幷, 其民愚昧之甚, 則不惟小者弱者, 大者强者亦至呑幷, 不必遠求, 泰西之波蘭可謂大者强者, 其民愚昧, 故終爲呑幷於俄普奧, 現今支那之淸國, 亦可謂大者强者, 其民愚昧, 故方見敗陷於聯合軍, 未知幷呑於誰手, 其民愚昧, 而其國必亡之證, 昭然可據, 如今木造獅子之威嚇, 羅列前後, 不啻一二民之愚昧甚于于山, 可不憂哉, 有國者急先敎民, 開其愚昧, 能知木獅之眞假詐正, 豈非存國興亡之大基本哉。
(*ただし、張志淵は、1907年の新大韓地誌では、于山島を現竹島と記述している)

1908.増補文献備考
興地誌伝 鬱陵于山皆于山国地 于山即倭所謂松島
于山島·鬱陵島 在東三百五十里 一作蔚 一作芋 一作羽 一作武 二島 一卽芋山 ‘續’今爲島郡
島在蔚珍県正東海中輿日本之隠岐州相近三峯XXX空南峯X卑清則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見風便二日到 地方百里産柴胡●本石楠藤草諸香木●竹多合抱者●質桃核大可為杯升山猫大如犬鼠大如猫海中大獣牛形赤●無角葦臥海岸見人獨行害是遇人多走入水名可之島本于山国新羅取是後恐導……..)海中に大獣有り。


1908.04.25 地誌 (지지) http://db.history.go.kr/url.jsp?ID=ma_02_006_0150
은 新羅 婆娑王時에 降다 고 于山國(今 鬱島)은 新羅 智證王十二年에 滅다 고 東國通鑑에 曰 于尸山國(今 寧海)과 居漆山國(今 東萊)은 新羅 解脫王

1908.09.25 대한협회회보 제6호 地誌 http://www.history.go.kr/url.jsp?ID=NIKH.DB-ma_02_006_0150
(中略)
은 新羅가 取다 고 沙伐國(今 尙州)은 新羅 沾斛王이 取야 州를 爲다 고 悉直國(今 三陟)은 新羅 婆娑王時에 降다 고 于山國(今 鬱島)은 新羅 智證王十二年에 滅다 고 東國通鑑에 曰 于尸山國(今 寧海)과 居漆山國(今 東萊) 以下省略

1908.12.25大同学会月報第11号 秋齋叢話 http://www.history.go.kr/url.jsp?ID=NIKH.DB-ma_12_011_0100
鬱陵島舊名于山國在溟州正東新羅時恃險不服伊飡異斯夫爲何瑟羅州郡主以謂于山人愚悍難以威屈可以計服乃以木造獅子分造戰船抵其島誑之曰汝若不服卽以此獸踏殺之于山人懼而乃降


1909.03.25 大韓協会会報第12号 地誌 (지지)
http://www.history.go.kr/url.jsp?ID=NIKH.DB-ma_02_012_0170
大韓 維我 太祖高帝셔 距今 五百十八年 前壬申에 天命人心을 膺샤 高麗를 代興시고 都를 漢陽에 定시니라. 西北疆土를 漸益開拓야 鴨綠 土門兩江으로 國界를 限며 東南西 大海로 環야 于山(卽 今 鬱島郡)耽羅(卽 今 濟州, 旌義, 大靜三郡) 鯨波 中에 遠朝고 西南沿岸의 大小群島 星羅碁布니 極南(濟州島 毛瑟浦은 北緯三十三度 十五分에 起야 極北(咸鏡北道 慶源府)은 四十二度二十五分에 止고 極西(黃海道 長淵郡 長山串) 東經(英國 綠威司天臺의 線

1909.07.19.皇城新聞 http://www.mediagaon.or.kr/jsp/search/SearchGoNewsCondition.jsp?id=HSS19100719_ITEM_002
●鬱島에 關 調查 本島 高麗時代에 牛山國이라 穪야 島民이 壯勇强悍야 獘害가 多얏슴으로 討伐된 以來七百餘年間無人島로 江原道一陟郡에 所屬되야 全部가 國有地에 性質을 有얏시나 開國四百九十年(距今二十九年)에 政府 開拓使大將李奎遠을 派遣사 宅地及起墾山田은 民有로 認定된 以來로 轉轉賣買가 行야 民有의 實態가되얏고 光武二年(距今十三年)慶尙南道에 移屬야 始히 郡을 設야 今日에 至니 今現行稅法에 依 課稅物件數及稅額等을 記면 左와 如홈
戶數戶稅(韓人)八九一 每戶一、 三○ ) 稅額一、一五八、三○○
戶稅戶數(日人)二○九 每戶三○ ○ 稅額六 、七○○
但日人에게 舊慣의 圓三十錢을 賦課徵稅은 穏當치아임으로 認야 一般의 卅錢을 徵収 事로얏 隆熙二年以前은 日人에게 徵収이 無홈
酒 稅 四八人 稅額 九六、○○○
烟草耕作稅一一九人 同 五九、五○○
烟草販賣稅 二人 同 四、○○○
水産稅 人員未詳 同 一六、一五○
人蔘稅 同 同 一、二○○
漁業稅 同
但漁業稅 多히 日本人의 漁獲에 從事 者이니 所轄釜山理事廳에셔 納稅으로 當局에셔 不明고 又韓人으로 漁業稅 納 者가 有나 久間署長이 在署치아니과 同島에 収入印紙賣下所가 無에 依야 施行이 如意히 遂치못 其方法을 詳示야 督促中인즉 不日課稅 見지나 結局韓日人을 通야 一 百圓以上을 出치못 豫想이라
該島 貨幣가 流通치아니으로 此流通을 圖야 新政의 餘光에 浴케이 急務라나 抑此百五十餘浬 距 絕海의 孤島戶數千戶內外의 小邑인즉 此에 多大 經費 要바도 一思만 問題이라 因야 現狀을 觀察야 施設치아니치못지니 各種의 稅 総히 每年秋収期에 徵収 實狀임으로 財務署의 常設은 其必要가 無과 如나 此 他財務署에 併合다면 日當의 執務上彼此의 不便이 有과 徵収期에 至야 署員을 泒出 等困難 事態가 發生지라 故로 先히 現在로 此 存置고 年一回乃至▣回局員을 泒야 監督케 外에 他에 適切 施設事項이 無홈
本郡은 鬱島及鬱陵島(日本셔 多히 鬱陵島라 穪홈)라 穪니 由來韓國은 地名穪을 其土地로 形容 者가 多니 本島도 亦然다 信노라 本島 七百餘年間無人島인 其名과 如히 老木이 鬱蒼야 甞히 斧伐을 入 事가 無니 故로 魚族의 來集이 多얏심을 想像기 難이 無지라 故로 各道郡峽에 居住던 人民은 該島의 富源膏沃을 聞고 一時的移住기 爲야 渡船入島 者인 今에 樹木은 漸伐과 同時에 土地의 瘠薄이되야 穀物의 収獲及漁獲도 亦昔日과 如치아니며 又上述과 如히 貨幣流通치아니으로 生活上消費物品을 船便에 依야 輸入 者가 有나 現金을 交付야 買用 事가 無고 秋収後에 計筭을 狀態인 從야 物價가 一般으로 高고 單調된 生活도 尙히 困難으로 永久的居住의 思想이 有 者가 殆無고 些少의 資産을 得면 內地에 移住 意嚮이 有다 云홈



1909.09.25대한협회회보 제6호 http://db.history.go.kr/url.jsp?ID=ma_02_006_0150
新羅 沾斛王이 取야 州를 爲다 고 悉直國(今 三陟)은 新羅 婆娑王時에 降다 고 于山國(今 鬱島)은 新羅 智證王十二年에 滅다 고 東國通鑑에 曰 于尸山國(今 寧海)과 居漆山國(今 東萊)은 新羅 解脫王 二十三年 己卯에 滅다 고 音汁伐國(今 慶州에 屬 安康縣이라)과 比只國(未詳)과 多伐國(未詳)과 草八國(今 草溪


1909. 『最近韓国事情要覧』統監府 明治42(1909) 付属図
鬱陵島(松島)


1910.07.19.皇城新聞 鬱島에 關 調查 http://www.mediagaon.or.kr/jsp/search/SearchGoNewsCondition.jsp?id=HSS19100719_ITEM_002
●鬱島에 關 調查 本島 高麗時代에 牛山國이라 穪야 島民이 壯勇强悍야 獘害가 多얏슴으로 討伐된 以來七百餘年間無人島로 江原道一陟郡에 所屬되야 全部가 國有地에 性質을 有얏시나 開國四百九十年(距今二十九年)에 政府 開拓使大將李奎遠을 派遣사 宅地及起墾山田은 民有로 認定된 以來로 轉轉賣買가 行야 民有의 實態가되얏고 光武二年(距今十三年)慶尙南道에 移屬야 始히 郡을 設야 今日에 至니 今現行稅法에 依 課稅物件數及稅額等을 記면 左와 如홈
戶數戶稅(韓人)八九一 每戶一、 三○ ) 稅額一、一五八、三○○
戶稅戶數(日人)二○九 每戶三○ ○ 稅額六 、七○○
但日人에게 舊慣의 圓三十錢을 賦課徵稅은 穏當치아임으로 認야 一般의 卅錢을 徵収 事로얏 隆熙二年以前은 日人에게 徵収이 無홈
酒 稅 四八人 稅額 九六、○○○
烟草耕作稅一一九人 同 五九、五○○
烟草販賣稅 二人 同 四、○○○
水産稅 人員未詳 同 一六、一五○
人蔘稅 同 同 一、二○○
漁業稅 同
但漁業稅 多히 日本人의 漁獲에 從事 者이니 所轄釜山理事廳에셔 納稅으로 當局에셔 不明고 又韓人으로 漁業稅 納 者가 有나 久間署長이 在署치아니과 同島에 収入印紙賣下所가 無에 依야 施行이 如意히 遂치못 其方法을 詳示야 督促中인즉 不日課稅 見지나 結局韓日人을 通야 一 百圓以上을 出치못 豫想이라
該島 貨幣가 流通치아니으로 此流通을 圖야 新政의 餘光에 浴케이 急務라나 抑此百五十餘浬 距 絕海의 孤島戶數千戶內外의 小邑인즉 此에 多大 經費 要바도 一思만 問題이라 因야 現狀을 觀察야 施設치아니치못지니 各種의 稅 総히 每年秋収期에 徵収 實狀임으로 財務署의 常設은 其必要가 無과 如나 此 他財務署에 併合다면 日當의 執務上彼此의 不便이 有과 徵収期에 至야 署員을 泒出 等困難 事態가 發生지라 故로 先히 現在로 此 存置고 年一回乃至▣回局員을 泒야 監督케 外에 他에 適切 施設事項이 無홈
本郡은 鬱島及鬱陵島(日本셔 多히 鬱陵島라 穪홈)라 穪니 由來韓國은 地名穪을 其土地로 形容 者가 多니 本島도 亦然다 信노라 本島 七百餘年間無人島인 其名과 如히 老木이 鬱蒼야 甞히 斧伐을 入 事가 無니 故로 魚族의 來集이 多얏심을 想像기 難이 無지라 故로 各道郡峽에 居住던 人民은 該島의 富源膏沃을 聞고 一時的移住기 爲야 渡船入島 者인 今에 樹木은 漸伐과 同時에 土地의 瘠薄이되야 穀物의 収獲及漁獲도 亦昔日과 如치아니며 又上述과 如히 貨幣流通치아니으로 生活上消費物品을 船便에 依야 輸入 者가 有나 現金을 交付야 買用 事가 無고 秋収後에 計筭을 狀態인 從야 物價가 一般으로 高고 單調된 生活도 尙히 困難으로 永久的居住의 思想이 有 者가 殆無고 些少의 資産을 得면 內地에 移住 意嚮이 有다 云홈

1910.10.朝鮮新地理
鬱陵島(一に松島は平海郡、越松浦の南四十余にある孤島にして、隠岐島の西北西百四十里に在り。周園十八里、面積は約五百里ありて中央に高さ千尺なる円垂体の高山●立し、山上樹木密生し、多く良材を出す。沿海港乏しくてして、船舶の碇繋困難なれども、土地膏●にして農産にも富む、居民朝鮮人戸数約四百五十、日本人戸数も一時三百に達せしこともあり。概ね鳥取県人なり。此島の東側に竹嶼 あり。

1910.12 朝鮮新地誌 足立栗園著 大阪:積善館,明43.12
江原道の当方80里即ち隠岐島の西方140里の海中に鬱陵島という一大島が在ります。此の島は周囲18里もあって全島山を為し樹木密生にして材木を多く出し沿海には魚類が多く産します。 此の島は一に松島とも呼び、倒幕時代に密航者があって一大騒動を起こしたことがあります。島の東に小き竹島と呼ばれる小一島があります。

1922.08.01 独立新聞 獨立은 同胞의 一體負責(一怒) では、安龍複を、鬱陵島を守った英雄(現竹島ではない)として紹介されている。http://search.i815.or.kr/ImageViewer/ImageViewer.jsp?tid=ns&id=DR192208010402
七日痛哭하야 楚國을 回復하고 安龍福은 一個通譯으로 倭國에 赴하야 鬱陵島를 還完한지라 個人으로도 能爲하거든 安定한 客地에셔 夢囈만 하다가 自盡하고자 하난고 歲月를 다시 遷延치 말고 各其 固有한 義務를 卽行할지어다


1923.11.01.동해의 一點碧인 鬱陵島를 찻고서
二日は幸いが 朴敬鎭軍医 指路にまた 于山古都の 洪門洞(本名 紅箭門洞)を経って 高坂を越して 石屏と 雲林に包囲された 羅里洞(一名 白合洞)の 大噴火口に入って行って 入島後 初めされる 白雲深処 七十余戸の 山村を見物をしてその道にすぐ 小羅里洞で移って 大噴泉を蹴るとドルオガッダ. この 湧泉の 水量は 一次の 十斗以上を超過して一度この睡眠に近付けば 骨冷, 魂清, 幻世のヌッギムを 堪禁する数が負う. こちらから海岸にゆり語 腹背で 漁船を 呑吐する<76> 孔岩と 意気沖天一 錐山(錐山)の 奇絶を 歴見と 光岩で 午餐を遊び歩いた後つい 朴君を去るようにドエヤッダ. 今後私の動作をがティするようになったことはただ 三尺を 短?だけだ. 生面江山でこのように 朴君の 慇懃一愛を海表示は千万案外だと思う私は 満腔の 謝意を示して 急急が 前路を聞いて 平里をゴッチオ 老人峯をヨブヘドで 玄圃洞(ゴムンゲ)にイルウロ 暫間 歇脚する道に海岸の 暗黒一 水石と 于山時代の遺物である 古墳の 数箇所を 一望とこちらから 香木洞の通路と 分岐になった 台霞洞の行路を 一貫下野 黄土坎(黄土金)を越して 台霞洞でナリョがで 一泊ハヤッダ. 黄土坎は鯨 海賊 捜討使が一次本島に入ればバンダの時こちらで 黄土を 取下野 帰朝後 鬱島賊捜討の証拠物をして 献上ハヨッダヌンデこの 黄土こそ 金色が 玲瓏一 纎塵が 浮動下は一見に 珍奇物でブェになる. 台霞洞は 本島 開拓初に 先着居民中 崔雲〓という者が自称 乗霞天台仙といって 洞名を 台霞だとハヤッダする. 本洞は 水稲が 油油一 洞内の地形図比較的 平坦したうえでしたがって 開島と言う文物が一番 賑盛した 邑市イヤッヌンデアズックも 百六十戸に 近一農村の状態があまり 彫残寸抱いてブェでまた 朝鮮新教育令を超越すると 日鮮共学制が実施されたことはあまりにもセサムスロブオブェインダ. 警察官 駐在所前に 建在一 城隍祠には 距今 七十余年前に 捜討使 南昊が 率来ハヤッダが 本洞 港で 溺死一 通引, 妓生のもうろくを慰安するという違令物で今まで 衣裳 二件が 依然がゴルニオイッヌンのはそれさえも 本島の 一箇 旧蹟距離(通り)になると言う. しかし常時 港内には風浪が 激高下野交通相不便がひどい欠陷にすると 往年 島庁を 道洞に移転した後 市況はまた 昔日の繁栄を見る数が負うようにドエヤッダ.


1928.09.01 鬱陵島方面(一) 夢寐에 그리웁든 于山國發見의 歡喜, 녯조선의 위엄을 베풀은 곳, 朝鮮의 極東 차저[寫](李吉用) http://db.history.go.kr/url.jsp?ID=np_da_1928_09_01_0350
(*于山国発見として、鬱陵島の紹介をしている)
1928.09.03 鬱陵島方面(三) 新羅時最初領土 때로는 無人絶島 울릉도의 유구한 래력 于山國에서 鬱島까지
http://db.history.go.kr/url.jsp?ID=np_da_1928_09_03_0320
1928.09.04 鬱陵島方面(四) 飜覆無常한 領土權 國際問題까지 演出 해적 근거디를 거듭 되푸리한 崎嶇한 섬의 運命

1928.09.05 鬱陵島方面(五) 所屬抗爭 近五百年 朝鮮領土로 歸着, 조선 일본 명나라 셋틈에 끼어 變遷 만흔 鬱陵島
1928.09.12 鬱陵島方面(十一) 常綠의 于山國아 네 安否 뭇고 싶다, 자연과 인생을 늬라서 갓다든고 寒心한 島民生活[寫]
http://db.history.go.kr/url.jsp?ID=np_da_1928_09_12_1000



1934.02.01 奧地踏査困難 鬱陵島被害 http://db.history.go.kr/url.jsp?ID=np_da_1934_02_01_0330
崩雪이 洪水되어 雪上加霜의 慘災 罹災民救濟에 奧地踏査困難 鬱陵島被害 豫想外 甚大//十三尺 積雪에 파묻힌 鬱陵島의 섬 來歷 于山國-武陵-海賊根據地-無人島 開拓居住令 나린지는 五十年[寫]




なお、1913.06.22の每日申報では、1913年の十数年前に、移住目的で人員を募って、海図を見て、于山島を捜索したものが居たが発見できずに終わった記事が紹介されている。
鬱島郡 西面居 金元俊은 鬱島 東北方 4, 50里에 位置하는 于山嶋(無人島)에 移住코자 移住民을 募集하고 探索키로 決定하였으나 10數年前 同地 韓國人이 聯合 探索하였어도 發見치 못하고 海圖에도 없으며 現時 航海路가 頻繁한데도 이를 現認하였다는 일이 없다하여 中止하다.


調査中
19世紀中期? 五洲衍文長箋散稿) 巻35  鬱陵島事実弁証説  李圭景(1788~)http://dokdo.naezip.net/Dokdo/Document/Oju.htm
于山島倭松島を、 鬱陵島である古于山国=倭松島として、鬱陵嶋=松島、と考えた可能性もある。

東方多彈丸黑痣之小島 比如潑墨者之大小亂點 其中有鬱陵島 古于山國 一作蔚陵 一作芋陵 又作羽陵 或稱武陵
輿地圖 鬱陵 未及畵于山島 而或畵一島于鬱陵上頭 稱于山

拾遺記 扶桑五萬里 有磅磄山 上有桃樹百圍萬年一實 鬱水在磅磄山東 生碧藕長千常云 故有萬歲氷桃千常碧藕之說. 余意磅磄與方丈 音相近 俗謂智異山爲方丈山. 又世傳昔有人 於高城海邊 見水中臥石 題曰方丈山碑 以此疑金剛亦號方丈山云. 所謂鬱水恐指鬱陵島而言. 拾遺記又言 蓬萊山高二萬里 水淺有細石如金玉 不加陶也 自然光淨 東有鬱夷國云. 所記細石 似今棊子之類. 鬱夷與鬱陵島 音相近 鬱陵亦古國名. 王維 送日本晁監序 扶桑若薺 鬱島如萍 卽此也 見 李睟光芝峰類說.

倭人則稱松島在江原道蔚珍縣正東三百五十里(與日本之隱岐州相近 卽倭山陰道之隱岐州 隱岐四郡 亦一島居山陰道北 五穀乏 藻蜜多小 下國也 隱岐之旁 又有后烏羽 小島也) 三峰撑空 南峰稍卑 風便 二日可到(遠可七八百里自江陵三陟等地 登高望之 三峰 縹緲隱見 一作直三陟府)

新羅智證王十二年壬辰 于山國 地方百里 恃其險不服 阿(阿 一作河)瑟羅(今 江陵)軍主異斯夫 謀幷于山國 謂其國人愚悍 可以計服 乃多造木獅子 載戰船 抵其道 誑之曰 汝若不服 放此獸踏殺之 國人懼乃降.

高麗太祖十三年庚寅 其島人 使白吉土豆(豆 一作頭) 貢獻方物 以土頭爲正朝. 德宗元年壬申 島主遣其子夫於仍多郞來貢. 毅宗十一年丁丑 遣金柔立 往審羽陵島 從山頂 東距海一萬餘步 西距海一萬三千餘步 南距海一萬五千餘步(一作萬五千步) 北距海一萬三千餘步(一作八千步) 有村墟七所 有石佛鐵鐘石塔 地多巖石 不可居 是時 已成空地. 十三年己卯 毅宗聞地廣土肥 可以居民 遣溟州道監倉 金柔立往視 回奏 地多巖石 民不可居. 後崔忠憲 移本郡民以實之 屢爲風濤所盪 舟覆 人多物故 因還其民.

入于本朝 太宗朝 聞流民多入其島 再命三陟人金麟雨爲按撫使刷出. 世宗二十年戊午 遣蔚珍縣人萬戶南顥率數百人 搜浦民 俘金凡等七十餘人而還 其地遂空.

(按李晬光芝峰類說 鬱陵島 壬辰後 被倭焚掠 無復人煙 近聞倭占據礒竹島 或謂礒竹 卽鬱陵島云.)

成宗二年辛卯 有人告別有三峯島 在東海中 近鬱陵 遣朴宗元往探 因風濤不得泊還 同行一船 過鬱陵島取大竹大鰒而還.

(按朴元宗 因風濤不得泊還 同行一船 過鬱陵島 取大竹大鰒而還云爾 則朴元宗不得泊者 卽三峯島 而島上 風濤大作 不得渡泊者然. 故同行一船 則過鬱陵  採鰒伐竹而歸也. 其辭語 實有所語三峯島也 不然 則誰敢以虛無之一島 告于至尊也. 山海經 蓬萊山溟海無風 而洪波百丈 維飛仙能渡云 蓋我東北海 風濤甚險 異於他海也.)

光海君七年乙卯 倭差船 謂將探磯竹島 朝廷不許接待 東萊府使朴慶業 移書責之曰 所謂礒竹島 實我國之鬱陵島也 今雖廢棄 豈可容他人之冒居.

肅宗十九年癸酉夏 東萊戰船櫓軍安龍福 潛入倭中 有爭島之擧.

(肅廟十九年癸酉夏 東萊戰船櫓軍安龍福 出入倭館 善倭語 漂泊鬱陵島 倭船七艘先到 時倭已惹爭島之端 龍福與倭辨詰 倭怒執以歸拘五浪島 龍福言島主曰 鬱陵芋山本屬朝鮮 朝鮮近 而日本遠 何故拘執我不歸 島主送諸伯耆州 伯耆島主待以賓禮 賚稂許多 辭不受 島主問汝欲何爲 龍福又言其故曰 禁止侵擾 以厚交隣 是吾願也. 島主許之 稟于江戶 成契券與之 遂遣 還行到長崎島 島主黨馬島 奪其券 送之馬島 馬島主囚之 聞于江戶 江戶復爲書契 令勿侵兩島 且令護送 馬島主復奪其書契 囚五十日 押送東萊倭館 又留之四十日 送之東萊府. 龍福悉訴之 府使不以聞 以犯越刑之 以寢其事 此而寢之可乎)

二十一年乙亥夏 龍福憤鬱不已 流販僧復入倭中 爭詰竹島 以更不相爭爲約 而還泊襄陽 方伯狀聞以犯越罪當斬 用相臣議 原恕形配.

(肅廟二十一年乙亥夏 龍福憤鬱不已 誘販僧五人及掉工四人復至鬱陵 我國三商船先泊 魚採斫竹有 倭船適止 龍福令諸人縛執 諸人懼不從. 倭云我等魚採松島偶至此卽去. 龍福曰 松島本我芋山島 明日追至芋山島 倭擧帆走 龍福追之 漂迫于玉岐島 轉至伯耆州 島主歡迎 龍福自稱鬱陵搜捕將 乘轎入 與島主抗禮 言前後事甚詳. 且云我國歲輸米一石必十五斗 綿布一匹三十五尺 紙一卷二十張 馬島偸損 謂米石七斗 布匹二十尺 載紙爲三卷 吾將欲直達于關白 治欺誑之罪 同行有稍解文字者製疏 示島主. 馬島主父聞之 乞憐於伯耆州 事遂已. 慰諭送還曰 爭地事 悉如汝言 有不如約者 當重罰之. 同年秋八月還泊襄陽 方伯狀聞 拿致龍福等于京 諸人納供如一 朝議以犯越挑釁 將斬之. 惟領敦寧尹趾完曰 龍福雖有罪 然馬島從前欺詐者 徒以我國 不得專通江戶故耳. 今知別有他路 勢必恐怯 今誅龍福非計也. 領中樞南九萬曰 馬島之欺詐 非龍福無以畢露 其罪之有無姑置 爭島事 不可不因此機會 明辨痛斥之. 書問馬島曰 朝廷將別遣使 直探其虛實云爾 則馬島必大恐服罪 然後龍福事徐議其輕重未晩也 次上策也. 不然使萊府送書島中 先陳龍福擅自呈文之罪 次陳本島假稱竹島 奪取公文之失 待其回答 而龍福斷罪之意 決不可及於書中 次中策也. 至若不問馬島奸欺之狀 而先殺龍福 以快其心 彼必以此籍口 侮我脅 我將何以堪之 此下策也. 於是 朝廷用中策 島主果自服 歸罪於前島主 不復往來鬱陵 朝廷乃減龍福死配去云. 於是 朝廷用中策 島主果自服 歸罪於前島主 不復往來鬱陵 朝廷乃減龍福死 配去. 倭至今不服指鬱陵爲日本地 皆龍福之功也.)

星湖李瀷曰 龍福直是英雄儔匹 以一卒之賤 出萬死之計 爲國家 抗强敵 折奸萌 息累世之爭 復一州之土 比諸傅介子陳湯 其事尤難 非傑然者不能也. 朝廷不惟不之賞 前刑後配 摧陷之不暇哀哉. 鬱陵縱云土薄 馬島亦土無數尺 而爲倭所窟宅 歷世爲患 一或見奪 是增一馬島也 方來之禍 何可勝言. 以此論之 龍福非特一世之功也歟. 古今稱張循王花園老卒 爲人豪然 其所辦 不過大賈販殖之間 其於國家計策 未必優焉. 若龍福者 當危難之際 拔之行伍 借之翼角 得行其志 則所就豈止於此. 按倭以漁氓安龍福犯越事來爭 以芝峰類說及禮曹回啓 有貴界竹島之語爲證 朝廷遣武臣張漢相往審之 南北七十里 東西六十里云云 於是 朝廷 費辭往覆 彌縫乃止.)

(李瀷論曰 余謂此事非難判 當時胡不曰 鬱陵之服屬新羅 自智證王始 時卽貴邦繼體之六年 未知威德遠被 史乘特書 有可以考見者耶. 至於高麗 或獻方物 或空其地 史不絶書 今千有餘年 今者何故突然惹此爭端. 卽無論羽陵礒竹之何指 鬱陵之屬我邦 則百分明白 而其旁近島嶼亦不過鬱陵之屬島. 與貴邦絶遠 其乘隙占據 所宜羞吝 而不合誇言者也. 設或中間爲貴邦冒奪 兩國約和誠信之後 悉宜還其舊田之不暇 況未曾著在貴邦之版籍也耶 旣在我界則 我氓之漁獵往來 理固宜然 何與於貴邦如是 則彼雖巧黠 將無復容其喙矣.

黃菊村曄輿地衍義 臣謹案 蔚珍之正東 有鬱陵島 而地方百里 土沃無比 卽古于山國都也. 後魏延昌元年壬辰 降于新羅 厥後 無建置官長之事 但爲逃民隱居之所. 故我太宗世宗兩朝 刷還其民 遂空其地 今爲倭奴漁採之所 臣恐或如對馬島. 晉義熙元年 新羅實聖王四年乙巳 倭人置營而見失也. 臣愚以爲移三陟鎭于鬱陵 新設水軍節度使於三陟鎭營 以爲犄角之勢 則東海賊路 庶可無憂 而其在拓地之道 亦得其宜也. 菊村此議 允合至當. 我之海中 最要之賊路 無端空曠 甚不宜也. 按東史 實聖王元年壬寅 晉安帝元興元年 倭人置營於對馬島.

張漢相 探視後別單 木有冬柏紫檀側柏黃蘗槐椵桑楡桃李松橡 禽獸有烏鵲猫鼠 水族有嘉支魚 穴居巖磧 無鱗有尾 魚身四足 而後足甚短 陸不能善走 水行如飛 聲如嬰兒 脂可以燃燈(文獻備考 海中 無獸牛形 赤眸無角 羣臥海岸 見人獨行害之 遇人多走入水 名可之 按其皮不染水 可作鞍鞴靴鞋).

輿地勝覽 鬱陵土地饒沃 竹大如杠 鼠大如猫 桃核大如升(按今桃有鬱陵桃 以核傳種 未極大).

備考鬱島物産 柴胡藁本石楠藤草 諸香木蘆竹 多合抱者 蘆實桃核 大可爲杯升. 刷出逃民 空其地 每三年 一送人審視 官給斧子十五 伐其竹木 又採土物 納于朝以爲信. 三陟營將越松萬戶 相遞探視(今探視後 紫檀香蘆竹朱土可之皮等屬 納于備局) 逋氓之潛採鰒藿屬公. 以近世之搜括別單攷之 則非徒倭奴 湖南沿海人 潛入留住 伐松製船斫蘆竹採鰒藿魚 或入搜驗.

愚嘗聞鬱島有大竹田三處朱土窟一所 朱土甚鮮如硃. 又多大鮑海帶葛藤連抱. 其三峰 乃石骨崢嶸 産丹砂 爲天下第一品.

又有飛砂 卽丹砂之最神異者 其形如人 爲仙藥 人或得之 置諸白瓷甁 以海土塞甁口 置甁大缸中 盛潮水密封 然後飛砂不能遁去 其虛實不可知 蓋異聞. 有石香一種 狀如煤石(石炭也) 燒之有香 平蔚氓或得出 傳播關東諸寺云耳.

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