角型の鬱陵島地圖

・1694年以降の朝鮮王朝の鬱陵島捜討官の製作した鬱陵島詳細図
・円型の鬱陵島圖形
・角型の鬱陵島地圖
・金正浩の地圖
・楕円形鬱陵島地圖
・朝鮮の地圖における鬱陵島と于山島(全地図リスト)

1711年の地圖を参照した一連の円型の姿の鬱陵島の地圖は、18世紀中-後期頃から、5-6角形の形をした鬱陵島の形へと変化する。 ただ、このかたちは、1860年代、金正浩の地圖では丸く、于山が無いと変化するが、此の傾向は再度復活し、楕円形の圖形へと変化する。
どの捜討官の鬱陵島調査報告が基になったのかは判明していないが、突然変化し始める。
このかたちは少し不自然で、鬱陵島を上下逆にしたような構図に、付属島を書き込んでいる形跡があるが理由が定かでない。

1.付属小六島のうち、最も著者な付属島である所謂于山島が記載される。
2.又、南の小6島は基本的に記載される。
3.海東地圖 鬱陵島には記載があるものの、それ以降の角型の地圖では竹巌と三仙岩(双布岩と牛角岩)、冑岩と立岩、鳳岩、
 おおび天底仇尾などいくつかの入り江、裏の地名は省略される。
4.鬱陵島の西に刻板立標、朱土窟、待風所、北東に楮田洞、東(所謂于山島と鬱陵島の傍ら)に刻板立標と刻石立標が記載される。
5.中峯からの鬱陵島各場所への距離が記載される。
6.主要な住居跡、石葬、竹田、窟、船舶可居などの場所が記入される。

亦、この時代になると、次第に距離感を示す方眼が使用されることに成り、江原道の部分と鬱陵島の部分にそれぞれ鬱陵島于山島が重複してかかれる傾向はない。 (・円型の鬱陵島圖の時代では、鬱陵島と江原道で、于山と鬱陵がそれぞれ重複して記載されている。)

この角型の欝陵島には二系統あり、Ⅰが欝陵島東部に近接してかかれたもの、
もうⅡについては30-40里離れて記載されているものがある。
しかし、張漢相が述べているように、島根の竹島は、大体300余里程度の位置に有るため、距離的に島根の竹島とは言いがたい。また、Ⅱ型地図が全てシンプルできれいに清書されていることを考えると、Ⅰ系統の地図を複写した過程で少し離して書いてしまったものではないか、と思われる。

1750年頃か? 海東地圖 鬱陵島 
 角型Ⅰ

1750.-1768朝鮮地圖(1750-1768).(奎16030) 角型Ⅱ


1770.●●18C後半Yeojido (輿地圖)江原道 拡大 角型Ⅰ



1770年頃か? 江原道圖
 角型Ⅱ
http://www.dailian.co.kr/news/n_view.html?id=132174&sc=naver&kind=menu_code&keys=4 より参照

ただ、鬱陵島の南部に小5島がなく、3島しかないところを見ると此の年代鑑定は疑問が残る。
また、上記の部分の鬱陵島の拡大版のような地図もあるが、こちらは制作年代未詳 (慶煕大学校惠靜博物館所蔵) http://blog.naver.com/PostList.nhn?blogId=nextaix&categoryNo=5&parentCategoryNo=5&currentPage=10



Year Unknown; 朝鮮八道地図 鬱陵島  角型Ⅰ
 Kyujanggak Institute for Korean Studies at Seoul National University.
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2010/10/joseon-paldo-jido-ulleungdo.html



1776-1795.c.a海東輿地圖 古2107-36 角型Ⅰ



1795-1800.年代 東輿圖 (朝鮮古圖) 11 筑波大学附属図書館 金正活が参考にした?角型Ⅰ

1800-1822.朝鮮図 鬱陵島 大阪中ノ島図書館
 角型Ⅰ

1834. 靑邱圖 金正浩 角型Ⅰ





1834年以降、暫くこの形の地圖は出てこないのだが、1880年代に再び最も著者な于山島と付属南小5島が再登場し、
大韓全図などの地圖へと続く。

1838-1898.頃 八道地図 関東方輿図 鬱陵島 角型Ⅱ

1884-1888(1835-1894)19C中旬  [憲宗-高宗初頃]   地圖 江原道
 角型Ⅱ

于山島在三陟の東鬱陵島在平海ノ東六日程地
長百余里廣六十里四面石角嵯峨多寺刹古址竹大如桃
鼠大如猫古于山國新羅智豋王時異斯夫以木獅子載
船?之日不眼即放此数踏???之国人惧乃降高麗崔
?欲移民以實之風涛険悪末果 自中峯東至海一
萬余歩西至海一萬三千余歩南至海一萬五千余北
至八千余歩有村落基址七処然多巌石民不居
本朝 世宗二十二年遣萬戸南X往捜捕畫俘金九
等七十余人而還其地遂空

この地図と同じデザインなのが、次の輿載撮要Yeoljae Chwalyo (/1887) 吳宖默 編 角型Ⅱ



左から朝鮮地図(1898/大韓地誌の江原道圖も同じ) 大韓全図(1899) 大韓與地図(1900年頃) 角型Ⅰ

左から朝鮮地図(1898/大韓地誌の江原道圖も同じ) 大韓全図(1899) 大韓與地図(1900年頃)

検証結果は以下の通りになる。つまりこれら地図における于山は現竹島ではなくて、竹嶼である事が判定される。
 
朝鮮地圖
大韓地誌
大韓與地図の于山
判定
竹嶼
 竹嶼判定
現竹島
 現竹島
 位置 鬱陵島の北東 合致鬱陵島の北東合致せず鬱陵島の南東
 距離 近距離隣接合致約2km合致せず約90km
 島の数
 一島合致一島合致せず二島
 形状 南北に長細い合致南北に長細い合致せず 二つの岩島合致せず

これらの朝鮮地図(1898/大韓地誌の江原道圖も同じ) 大韓全図(1899) 大韓與地図(1900年頃) における鬱陵島の形状は、江原道圖、および朝鮮半島全体圖に記載されていて、詳細図ではないが、詳細図から外環を引き写して島内の描写を簡略化した地図である。この地図に年代とデザインが近いものは二つのものが考えられる。

1.1880-1890年代の地圖 江原道と鬱陵島圖。此の地図のデザインは角型の鬱陵島圖を踏襲しているが、
この地図の特徴である、最も著者な付属島である于山島竹嶼と、南に付属の5島が記載されている。
此の特徴は、角型の鬱陵島地図以前の鬱陵島ずである丸型の鬱陵島圖にさかのぼり、最終的には1711年の朴錫の鬱陵島圖形に突き当たる。
つまり、この于山は朴錫 の地図に記載されているように、その鬱陵島の範囲は東西80里南北50里以内にある島、つまり竹嶼であり現竹島ではない。
kの地図においても、鬱陵島が東西80里、南北50里の間に記載されている。もし、朝鮮が現竹島を領土と認識していた場合、1694年の張漢相がみた、南東に200輿里にある島を記載するはずだが、その位置には何も記載されていない。

2.大韓地誌に付属の大韓全図(朝鮮半島全体圖)に記載されているものは、小5島ではなく、小4島が記載されており、
朝鮮地圖や大韓全図の江原道圖や大韓與地圖と若干デザインが異なる。
これは、1882年の李圭遠の鬱陵島外圖を90度右に回転すると、ほぼ同様のデザインに合致する。
つまり孔巌を于山と間違えて記載した可能性もあるかもしれない。






Comments