鬱陵島視察を終えて、再び朴錫易の鬱陵島圖形を検討する
(この地図発見の関連記事:◇竹島問題で韓国側主張覆す古地図見つかる 2007.02.22 山陰中央新報 http://mimizun.com/log/2ch/wildplus/1172109941/ )
鬱陵島と竹嶼に渡航し、ほぼ毎日、六日間歩き続けた。そしていろいろな地形を確認してきた。
その結果を思い出して、地図がどの場所であるか考えてみる。
北西から見て行く。
北西の沖には、小さな小岩がこの地図に記載があるが有るが、これは恐らくは香木亭の沿岸に有る危ない岩である。
http://www.panoramio.com/photo/26024030
http://www.panoramio.com/photo/26023973
次に東を見ていくと、中央部付近、「北:」と記載された場所の沿岸に穴巖があるが、これは孔巖(象岩)である。
http://www.panoramio.com/photo/26398779
その隣の石峯が何かわからず。
孔岩のすぐ脇には、一本の折れたような石峯形状の岩がある。
また、孔岩の対岸の陸にある錐山かもしれないが、確証がない。
この前洋に、斫冬栢(トンベク/ヒャク・ハク(椿の事))刻標と表記が有るが、これが何なのか、定かでない。
ほかの丸型鬱陵島地図に書かれた椿田と同じなのであろうか?ただ、ほかの地図における楮田は、地図によってまちまちで、この地図のように鬱陵島北東部に有るものもあれば、鬱陵島東南部にかかれたものも有る。
この辺りで豊穣そうな地名は、玄圃と天府であるが、確証がない。
玄圃
http://www.panoramio.com/photo/26069899
天府
http://www.panoramio.com/photo/26069981
天府
次いで、二つの列岩だが、之が不明。
玄圃と天府の間の老人岩と錘峯出るとも考えられるが、確証がない。
http://www.panoramio.com/photo/26069899
http://www.panoramio.com/photo/26069981
一つ目立った大きい岩が有るが、これが恐らくは竹岩
http://www.panoramio.com/photo/26123466
更に東にも二つの列岩があるが、これが兄弟岩だけを書いたのか、
もしくは牛角岩+兄弟岩を書いたかは不明
韓国側は、この二つの岩を、芋洞沖に有る立岩と北芋岩と弁解している論者がいるが、
そうであるとすると、では、それよりもはるかに目立つ竹嶼は、どの島なのか? 説明が付かない。
http://www.panoramio.com/photo/26024480
この古地図の、二つの立岩の南に、
所謂佇(チョ・ジョ)田洞民人可居所とある。
これを韓国側は現在の芋洞であると解釈するが、
川の位置、この場所のさらに南(東南)に書かれた窟の位置(恐らくは杏南から道洞一体の海蝕洞窟が多数ある海岸付近)と、其の近くの道洞の位置、道洞から、所謂佇(チョ・ジョ)田洞民人可居所の地図に書かれた距離を勘案すると、ここは現在の芋洞ではない。
http://www.panoramio.com/photo/26069420
船舶可居倭船倉民人可居は、
対岸が所謂于山島・海長竹田と書かれた竹嶼の前に有ることを考えると、
おそらくそこは三仙岩の東の島項北一体から、島項の南で、臥達里の南の断崖の更に美並に有る内守田や芋洞近辺と思われる。
(島項南・船倉)
(内守田)
刻石立標所は、鬱陵島博物館に飾られている朴錫易の碑文で有るが、
博物館に於いては、道洞の海中から発見された、と一次資料を明示せずに説明して
この倭船倉を道洞である、と主張し、道洞の近くに有る島は竹島(Liancourt)で有ると説明しているとの話だ
朝鮮日報?2008年6月18日の記事
http://san.chosun.com/site/data/html_dir/2008/06/18/2008061800736_12.html
個人ブルログ
http://blog.naver.com/PostView.nhn?blogId=jbgs34737&logNo=10076344902
一方で、1967年の新聞には、道洞の鬱陵郡の庁舎の倉庫から発見されたと記録に残っており、鬱陵島博物館が嘘をついている可能性が有る。
東南部、巽〔東南〕に書かれた、船舶民人可居の場所だが、一つの川に、上流に支流が三つ、中流に支流が一つ有ることを考えると、この川は、朱沙川であると思われるが、朱沙川は、本来は芋洞に流れている。
しかし、「船舶民人可居」の北東に記載された”窟”と、西の「陸上』に書かれた『石峰」の位置をを考慮すると、
船舶民人可居は恐らくは道洞付近で有る可能性が高い。
これは道洞と芋洞の間は海蝕洞窟が点在して顕著な場所となっているためである。
(芋洞)
http://www.panoramio.com/photo/26400993
(道洞)
道洞の西の高台にある尖岩
北西部から、反時計回りに見て行く。
北西の沖には、小さな小岩が有るが、これは恐らくは香木亭の沿岸に有る危ない岩である。
http://www.panoramio.com/photo/26023973
次いで、南に、岩間朱土窟所とあるが、これは臺霞にある黄土窟
其の南、大きな川の河口に、船舶所待風 一島最大処、とあるが、ここが恐らくは臺霞洞
http://www.panoramio.com/photo/26123657
其の川の上流域に、大川流出、寛車害とかかれているが、これが定かでない。
大川流出が有るとされる滝は、恐らくは、伏虎瀑であると思われる。
刻板立標識とは、川の中腹辺りの大地に見える、しるしのような立岩か、
もしくは、臺霞洞にある屏風岩のどちらかではないか?
http://www.panoramio.com/photo/26123689
南西に有る二手に分かれている川の河口が、南陽洞
三つの竹田・石葬十余処ある。
船舶民人可居所とあるので、このあたり、南陽洞と通九味のあいだの岸壁がちな部分と考えられる。
其のすぐ東に、基祉六.七所とある。ここが通九味と考えられる。
南陽洞
http://www.panoramio.com/photo/26019849
1710.09.27 朴錫昌が三陟営将に任命されている。 承政院日記
http://sjw.history.go.kr/inspection/insp_result.jsp?mode=k&sjwid=SJW-D36090270-00500
しかし、地図と碑文は残っているのだが、 なぜ、彼の鬱陵島捜索の記録は備辺司、承政院日記、實録等に記載が無いのであろうか?
この碑文だが、1962年 考古美術 7月 第三巻7号、通巻24号には、
昭和11年(1937年)11月20日、この碑文は、ただ単に道洞港工事現場の旧漁業組合の倉庫から発見された、と記されている。
昭和12、11、20 鬱陵島道洞築港工事場、旧漁業組合倉庫跡発見、二個内、其二
しかしながら、韓国側は、この碑文が道洞港を工事していたときに、海中から出てきたと鬱陵島博物館では別の説明をしている。それゆえ、道洞を倭船倉とし、この倭船倉の前に有る于山島は、竹嶼ではないと主張しているようだ。
http://blog.naver.com/PostView.nhn?blogId=cms1530&logNo=10033192287&widgetTypeCall=true
慶尚北道(キョンサンブクト)文化財資料
この碑石は1937年道洞(トドン)築港公社(工事)の時海で引き揚げしたのだ。 当時2ギガあったが現在1機だけが残っている。
各石門の内容中"三陟(サムチョク)令状兼初め節制社パク・ソクチャン"は1711年1月から1712年12月まで三陟(サムチョク)令状で再任(在任)した事実がある。 当時朝鮮調整では定期的に鬱陵島(ウルルンド)を水土(居住民を本土に移住させる政策)してきたが当時三陟(サムチョク)令状で在任中だった平たく切り出した石創痍1711年5月鬱陵島(ウルルンド)を水土したし,この刻石文(門)は当時に彫られたことで非情だ。 記録された内容は水土観一行の名簿等で見える。 碑石は横70cm縦80cmの不定形玄武岩で平坦面に2段で各自した。 各者の大きさは2cm内外だ。
この刻石文(門)は約300年前朝鮮調整が定期的水土の目的で三陟(サムチョク)令状などを鬱陵島(ウルルンド)に派遣したという生き生きした証拠として'テ下痢壬午名刻石文(門)'および'テ下痢光署名刻石文(門)'とハムことが近世鬱陵島(ウルルンド)開拓気の流れを立証する貴重な郷土飼料だ。
[出処]欝陵島図形|作成者モチンマンドゥ
二三年前、この発見されたときの新聞をDigital Archiveで見ることができ、私も倉庫内にあったとの記載を呼んだ記憶があり、簡単に検索にかかっていたのであまり重要視していなかったのだが、昨年位から、検索にかからなくなってしまった。