「竹島渡海船の葵御紋入船印(衝立仕立) 江戸時代、幕府から許可を受け鬱陵島に渡り漁業活動をしていた米子(鳥取県)の町人大谷家が徳川家から下賜された葵御紋印入りの船の旗(資料名「竹島渡海船の葵御紋入船印(衝立仕立)米子市立山陰歴史館所蔵) (竹嶋=鬱陵島) Web竹島研究所
1656?「松嶋絵図」(写真)米子市立山陰歴史館所蔵 1656年頃か?村上家
「竹嶋絵図」(写真)米子市立山陰歴史館所蔵 村上家
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/tottori-museum/1724-04/8439.jpg竹嶋之図 - 請求資料番号:8440竹嶋之図 - 請求資料番号:8441大谷家由緒実記 地図 (米子市立山陰歴史館所蔵)
岡嶋家資料 『竹島考』上巻
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima04-n.html
P8 竹島図説考 竹島松島の図
P9 図書編 日本国図
P11 登壇必究第二十一 四夷総図 日本国図
P6 竹島松島の地理
元禄竹嶋一件に関する「竹嶋」詳細図 (今津屋八右衛門関係)1830年代
1833.八右衛門の竹嶋図に近いとされる、「権吉」の竹嶋之圖 (天保四年/1833) 杉原氏のPDF中
国立公文書館 右
1877.10.竹嶋之図」:明治10年(1877)写【177-217】第1号(A圖/PDF1ページ目)と同じ圖か?『天保4(1833)年7月隠岐国島後の福浦で順風を待ち同月17日出船、21日竹島へ入津したこと、8月23日竹島を出船し同月27日に石州浜田浦へ入津したこと、この絵図を天保4年11月19日夜入手し、持ち主は権吉と記載がる。』
1835.01.03渡部円太夫の、 「八右衛門の竹嶋之圖」を写した図 (天保六年/1835) (森須和男氏所有) 杉原氏のPDF中2ページ目(B圖)『天保6(1835)正月03日に八右衛門から、隠岐の国島前崎村で渡部遠田祐なる人物が写させてもらった』
『天保4年石州浜田町人金屋清右衛門(八右衛門の父は金屋清助と言い、俗に金清と呼ばれており、八右衛門も俗にこう呼ばれていたと思われる)が渡海帰帆し翌5年、さらに6年にも竹嶋に渡ったのでその折この圖を移させてもらったと書かれている。』
1849.竹島圖説 松江藩の学者 金森兼策 松江藩主松平斉貴に提出 八右衛門のものと同様の圖が添付
杉原氏のPDF中二ページ目(C)
1.竹嶋関係文書集成中にある地圖1
2.竹嶋関係文書集成中にある地圖2 杉原氏のPDF中2ページ目(D)
3.鳥取県米子市立郷土歴史館 右 杉原氏のPDF中
三ページ目(E)左の「竹嶋絵図」:江戸時代後期米子市立山陰歴史館所蔵と同じ可能性「自隠岐国七十里「島周大大聚十六里」
意外だったのが、私が鬱陵島へ行って日本制作の竹嶋地図(鬱陵島)と朝鮮制作の鬱陵島詳細図を確認して、
この地図が一番竹嶋(鬱陵島)の描写に近いことが判った。違いは、竹嶼がやや南よりにあることくらいである。
しかし、芋洞から北芋巖越しにみえる竹嶼をうまく表現している。
4.国立公文書館 杉原氏のPDF中3ページ目(F)
1877.10.竹嶋之図」:明治10年(1877)写【177-217】 第三号之と同じと考えられる ←田中邦貴氏のWebsiteの画像をを180度反転させた。 (三仙岩を北東の場所に位置させるため) ←田中邦貴氏のWebsiteの画像をを180度反転させた。 (三仙岩を北東の場所に位置させるため) の4枚
「文鳳堂雑纂」第十六 地誌部 竹島図説 (金森謙増補)? 217-0036?
山城屋忠兵衛の編纂
「竹嶋絵図」:江戸時代後期米子市立山陰歴史館所蔵 の写しの可能性「自隠岐国七十里「島周大大聚十六里」隠岐国松島西島(松島の一小属島なり土俗呼ぶ次島と做す) より海上道規凡そ四十里許北方に一島あり名を竹島と曰ふ此の島日本に棲し朝鮮(竹島より朝鮮へ海上道規四十里許と云此説は享保九年昔?凌島渡島せる一老捜に詰問せられしき其答に伯耆?会見郡湊野日三柳村より隠岐の後島へ三十五六里あり是遠見の考を以て竹島より朝鮮山を見は少く遠く見えれは凡四十里許かと云り ○謙按に那朝鮮山と云ゆるは恐は朝鮮の爵陵山ならん) に隣し地形三角に〆周囲凡そ十五里許(是十五里と云も只其大概を云のみ)
樟夫の言に東西特に長?東の甚?知へからす且竹木尤も繁茂人を〆敢て入可らしめさるの地往々少からすと)
産物尤も多き一奇島なり島の東南辺を総て古大阪浦と曰く此の辺は多くは大竹藪に〆極めて大なるは周囲二尺許
と云り此の浦西島を浜田浦と云ふ此の中間に小流あり其の水原は山中の瀑布より出て東方の大河二流を合て
大小三岐に流れて海に入る但し中条の加水には年奐?を生する?尤も多しとす又此の浜田浦の少し西方を竹浦と
名く舟を寄るに便なる所なり然れも南風激き?は繋ぎ難きか故大抵居舟に做れ置なり此の浦の西方に大
河一条ありて流て海に入る此大河の西方に又小流一条あり合め斯にながる此の西に又一島あり未
其名を知らす此島の西方に小川一条あり此小川も東方の大河と共に其水原は那の山中の瀑布に因て
さるなり此小川の西島を北国浦と名け微し北を柳浦といふ此柳浦の稍北方に又一流あり此は那東
方の小川二流の水原にめ頗る大なりとす此流
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北辺に?て葦原あり斯れより頗る東による所に大坂浦と云ふ地あり又島の中央瀑布より僅に東に当る山中に一井あり其水清く味甘美なり一日に漸に?許り湧出し来ると云り 謙按に所謂甘露水の??伯?米子より竹島にて海上道規百六十里許あり米子より出雲へ出隠岐の松島をへて竹島に至るなり但し隠岐の福島(一謂福浦)より松島にて海上道
規?六十里許松嶋より竹島にて四十里許と云ふ
以上の諸説は享保九甲辰官府(江府)の叩同に依て米子の市人大谷九右?門、村川市兵?が 貴荅の上各に原けり
(ここに地図が添付される)
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日本人隠岐の北海に竹島ある?を知て漁猟を創めれは伯州の一漁父なり是甚だ朝鮮に隣すれも昔時は鮮人却て之を知らす此島の次北三里許に亦た一島ありて上好の鮑最多し因て朝鮮より三五年に一回漁人を遣て鮑を取しむと云り彼曽此竹島を知らさりしに我元禄五年の春此島に漂流〆初めて竹島ある?を知るなり
此説は元禄六年四月伯州の漁夫等か訴訟の状態に由て繁然たる所なり
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松浦武四朗の竹嶋地図
1854.安政元年「他計甚麼雑誌」 松浦武四郎 杉原氏のPDF中3ページ目(G)
http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/kyuki/doc/0A032130000000.html
松浦武四郎 武四郎は伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松坂市)で、文政元(1818)年に生まれました・・・・・省略・・・・・天保7(1836)年に彼は山陰地方にも姿を見せ、出雲大社や益田の柿本人麿神社を詣で、山口県の萩まで足を延ばしています。山陰の石見地方の宿屋 の主人から、享保期に鬱陵島へたびたび渡った浜田の船頭長兵衛のことを聞いたと自伝で語っています。なお、彼が山陰へ来る直前、鬱陵島への渡海が発覚して 逮捕、処刑される今津屋八右衛門の事件が起こっていますので、八右衛門のことも聞いた可能性があります。 その後九州を一周し、対馬へも渡っています。その彼が大変驚いた出来事が、イギリスが清を武力行使で多くの港を開かせた天保11年からのアヘン戦争です。また、日本周辺への外国船の出現も彼に危機感をもたせました。
武四郎は安政元(1854)年「他計甚麼雑誌」(たけしまざっし)という冊子を作り、人々に配布しました。そこには「去夏外国船(墨夷赤狄)、 東西に滞船し国事が杞憂すべき状態にある」、「竹島は朝鮮と我が国の間にあり人が居住していないので、ここに外国船が集まり、山陰の諸港に出没すればその 害は少なくない」と書かれています。
彼は元治2(1862)年には書名の字を変えて「多気甚麼雑誌」(たけしまざっし)、明治3(1870)年には「竹島雑誌」(たけしまざっし) を書きました。そこには「日本の有志の士がかの地(竹島・鬱陵島のこと)に渡り、外国船と誠信を通じ、世界の情勢を探知すれば得策となることこの上な い」、「蝦夷、樺太、伊豆七島等に比して竹島はあまりにも知られていない」等と自分が考える竹島への思いを記しています。
武四郎の訴えに反応したのが、長州藩(現在の山口県北部の藩)の吉田松陰等でした。松蔭の松下村塾(しょうかそんじゅく)の塾生桂小五郎(のち木戸孝允と改名)は代表して、藩主に「竹島開拓願い」を提出しますが、これは実現しませんでした。
武四郎は3回にわたり、共通して「たけしまざっし」と読める冊子を刊行しました。彼は引用文献を記していますが、その中に松江藩の蘭学者であっ た金森建策(かねもりけんさく)の「竹島図説」や「金森建策筆記」、鳥取藩の「伯耆民談」(ほうきみんだん)もあります。武四郎の3冊の冊子には、それぞ れ形状を少し変えた竹島の図が載っていますが、地勢を表現する書き込み等から金森建策が嘉永2(1849)年に藩主松平斉貴(なりたけ)に提出した竹島の 図を原図としていることがわかります。
一方、金森建策の竹島の図も、14年前に逮捕、処刑された浜田の今津屋八右衛門が作成した図を利用していることが判明しています。結局、天保7 年の19歳の時、浜田方面を旅した松浦武四郎が、直前に処刑された浜田の八右衛門の図を松江藩の金森建策を介して受け継いだことになり、ある種の因縁を感 じます。
杉原通信「郷土の歴史から学ぶ竹島問題」 第13回 松浦武四郎について
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/sugi/take_04g13.html
1864.元治二年「多気麼雑誌」 松浦武四郎 杉原氏のPDF中4ページ目(H)
1874.「竹島雑誌」 松浦武四郎 杉原氏のPDF中P5(I)
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/takeshimazasshi-1871/
←田中邦貴氏のWebsiteより・日本輿地路程図も添付
1877.10.竹嶋之図」:明治10年(1877)写【177-217】第1号 Web竹島研究所請求番号] 177-0217 [数量] 2鋪 [書誌事項] 写本 ,明治10年 [旧蔵者] 外務省 1877.10.竹嶋之図」:明治10年(1877)写【177-0217】 第三号Web竹島研究所請求番号] 177-0217 [数量] 2鋪 [書誌事項] 写本 ,明治10年 [旧蔵者] 外務省 1877.磯竹島略図 公文録
磯竹島略図 全体圖磯竹島とその右下に松島が記載。享保期の絵図を参考に作ったとする「磯竹島略図」なる図「竹島外一島之儀本邦関係無之儀ト可相心得事」