新羅時代、独島を「舞能島」と呼んで領土と認識~「韓国領独島本部」設立する鮮干栄俊博士[07/17]
http://www.segye.com/content/image/2008/07/17/20080717001101_0.jpg ▲鮮干博士が修復した新羅に服属する前(512年以前)于山国(昔の鬱陵島)が製作した鬱陵島地図。 右側下の部分の島が独島で、于山国がすでに独島を認識していたという証拠資料になる。 「日本は私たちが1900年代初めまで独島(竹島)の存在を知らなかったと主張しているが、独島に対
する領有権は新羅時代異斯夫(イサブ)が于山国(今の鬱陵島)を征腹する以前から形成されて来たの
です。」
「韓国領独島日本公認本部」を設立中の鮮于栄俊(ソンウ・ヨンジュン・56)政策学博士は17日、独島
に対してこのように言って、「日本の独島領有権主張は話にならない」と強調した。
鮮于博士は独島と係わる新羅時代の史料と日本にある古地図などを捜し出して注目されている。以前、
彼は新羅時代、独島を「舞能島(ムヌンド)」と呼び、鬱陵島と独島を意味する「于山武陵」と言う
名称が新羅時代に広く通用し、韓半島帰属領土と認識されていた、という研究結果を発表して注目さ
れた。
鮮干博士は最近、朝鮮時代の鬱陵島・独島地図と朝鮮王朝実録の資料を分析した結果、朝鮮時代に使
われた鬱陵島・独島地図の原型があり、原型地図は于山国が新羅に服属(512年)する前に描かれた地図
が新羅に伝わって朝鮮に伝えられたと推定される、と主張した。
彼は「肅宗実録に肅宗20年(1694年)2月23日、当時領議政ナム・グマンが王様に報告した内容の中で
「新羅島にはこの島がやはり国の名前を持っていた」という文章が出ている」と説明した。彼は現在
存在しない島々が描かれている点、朝鮮時代、新羅から伝わった鬱陵島・独島地図が存在したという
点、独島に武陵島(新羅で独島を呼んだ名称)の地名を書いていない点等をその根拠として提示した。
日本の独島領有権主張を「不合理説」と一蹴した彼は「国際法を見れば領土権主張と領土権否定のう
ち、後者がもっと影響力をもって受け入れられる。日本政府は自国が作った古地図「元緑総会図・
1702年)」「磯竹島略図・1877年」などで独島を日本領土ではないと明示している」と指摘した。
日本外務省が「17世紀、日本漁民たちが竹島を停泊場として利用したから過去から今に至るまで日本
が独島領有権を持っている」と主張したことに関連、彼は「日本外務省が18世紀の国際法学者バッテ
ルの「領土取得による占領」理論を過って理解して誤訳して適用したもので、国際的に恥さらしを買
う事」と批判した。
環境部官吏出身の鮮干博士は2004年、博士論文を準備するうちに日本の竹島の日宣言などの事件を見
て独島に関心を持つようになった。彼は4ヶ月間の証拠収集と集中研究を通じて独島が私たちの土地で
あることを立証できる、という確信を持つようになり、2006年3月から2007年5月まで首都圏大気環境
庁長を勤めた時にも独島歴史研究に力を注いだ。
鮮干博士は「正確な史料を捜すために国内あちこちはもちろん、日本本土と沖繩を行き交うなど研究
過程に難しい時が多かった。しかし、新しい資料を見つけた時に感じる快感とやりがいは、すべての
ものを相殺するに値する」と笑った。
鮮干博士は今年中に人々の意を集めて「韓国領独島日本公認本部」を発足させ、日本を含んだ関係国
政府とメディアなどに独島に対する歴史的事実を積極的に知らせる予定だ。すでに出版した本2冊と来
月発刊予定である「対日平和条約と大韓民国の独立、そして独島領土主権」の著書を日本に送って説
得するという計画も立てている。
ソース:世界日報(韓国語)‘韓国領独島本部’設立する鮮干栄俊博士新羅時‘舞能島’と呼んで領土と認識
http://www.segye.com/Articles/NEWS/SOCIETY/Article.asp?aid=20080717003021&subctg1=00&subctg2=00
とのお話ですが、これもまた、ずさんな説明がなされていますので、見てみましょう。
*「自分が復元した」、とは一体どういうことでしょうか?そもそも復元するような、新羅時代の地図の現存は確認されておりません。そもそもそのような地図 の存在が確認された場合、こんなインチキ「復元」「修復」の報道ではなく、「新羅時代の古地図発見!」「新羅時代の鬱陵島図発見」!と言う報道がなされる でしょう。
新羅圖, 此島亦有國名,については、肅宗 26卷, 20年(1694 甲戌 / 청 강희(康熙) 33年) 2月 23日(辛卯) 3にその記載があります。
是夏, 南九萬白上曰: 東萊府使報: ‘倭人又言, 「朝鮮人入於吾竹島, 宜禁其更入也」 臣見《芝峰類說》,【故判書李晬光所著, 芝峯卽其號。】倭奴占據礒竹島, 礒竹, 卽鬱陵島也。 今倭人之言, 其爲害, 將無窮, 前日答倭書, 殊糢糊, 宜遣接慰官, 推還前書, 直責其回賓作主可也。’ 新羅圖, 此島亦有國名, 納土貢。
http://sillok.history.go.kr/inspection/inspection.jsp?mTr...
しかしながら、そもそも、その新羅図に、于山国(鬱陵島の別名:三国史記512年条を参考のこと)の名前が記載されていると、南九萬は述べているものの、 その図が鬱陵島詳細図のような、「分道式、分割式」であることはこの発言からは確認が取れません。朝鮮半島全体図に描かれた鬱陵島の場所に「于山国」とか かれていることも選択肢としては考えられます。
また、「これは新羅時代の鬱陵島地図が粛宗の時まで伝えられたと見られる」ことが、その地図が、後に述べる丸型の鬱陵島詳細図の系譜の地図の原型であるとは確認が取れません。いい加減な主張です。
確認が取れない鮮于の頭の中の妄想の鬱陵島詳細図の存在を元に、18世紀後半の鬱陵島詳細図を参考に捏造してしまったわけです。
引き続き彼はこの「于山国図」は新羅の異斯夫が于山国を征伐した512年より先立って描かれたものであり、鬱陵島と独島の距離と鬱陵島人の漁業などを考慮すると、この地図には独島が描かれたはずだ、と論証した。
とありますが、*鬱陵島島民の漁業を考慮すると、竹島はこの地図には記載されないでしょう。そもそも当時、朝鮮人が竹島で漁業を行っていたような記録はありません。また、竹島を書くとすれば、二島書くことでしょう。一島の南北に細長い島ではありません。 しかし、この地図には東に、南北に長細い島が書かれています。鬱陵島の付属島、竹嶼(Boussoule Rock)とそっくりです。
https://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/ull...
独島は晴れた日、鬱陵島から肉眼でも見える距離にあり、居住民らは独島だけに住むアシカを捉えて油を確保しなければならなかったため、鬱陵島地図に独島を表記しなければならなかったというのだ。
と記載しているようですが、朝鮮人が、鬱陵島にてアシカを取っていた記録はありますが、はるか200朝鮮里の外洋にある竹島において、朝鮮人がアシカを取っていた記録はありません。ここでも虚偽の説明を行っているようです。 (日本人が竹島でアシカを捕っていた記録は日本側の記録にある・)
https://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/yu-...
また、朝鮮の地誌における見える見えないの話は、基本的に朝鮮半島東岸から鬱陵島を見たと言う記述であり、鬱陵島から竹島を見た記述では有りません。
https://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/vis...
ソンウ博士はソウル大奎章閣が所蔵した地図の本「地乗」を土台にこの「于山国図」を復元して于山国の実際の名前と推定される「ウルマ」という題名を付けたが、この地図の南東側に「船」が停泊できる(船泊可居)という説明と共に描かれた島が独島と説明した。
との話ですが、*ソウル大学奎章閣が所蔵している地乗は、学術的には18世紀中~後期の製作と推定されています。つまり、新羅時代の古地図を復元した、というのがこの時点で歪曲であることが確認できます。
・円形の鬱陵島詳細図の系譜(コノ中に地乗が掲載されております)
https://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/rou...
鮮于が製作した鬱陵島詳細図
http://www16.tok2.com/home/otakeshimaoxdokdox/TempPost/Li...
これら、円形の鬱陵島詳細図の系譜すべてに、東にある南北に細長い島に、于山島と記載されています。長年、韓国側は、この于山島が竹島であると領有権の根拠として主張してきました。しかしながら、今回、その于山島根拠を放棄した様にも思えます。それは、その他すべての丸型の鬱陵島詳細図に記載された、于山島を竹島であると主張 しているのではなく、今度はその下、つまり南東に記載された島を竹島であると主張し始めたからです。しかし、これもいい加減な説明です。
1:南東に記載された島は、鬱陵島のすぐ近くに記載されています。 2:この島は、「一つ」であり、竹島のような、二つの岩島で構成された島ではありません。 3:これら丸型の鬱陵島詳細図の系譜の地図には、次ページに、鬱陵島の範囲を示す記述が掲載されており、周200里 東西80里南北50里といった記載があります。 竹島は、この範囲の中に存在しておりません。https://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/kor...このことから、この地図の南東に記載された島が竹島であると特定することはできません。 この南東の一島と、南の四島が何なのかは、現在学術上特定されておりません。彼は1800年以前に製作された地図の「大東総図」と「八道輿地図」、「地乗」などに収録された鬱陵島が「鬱陵島 に実際に居住する人でなければ描けない地図」という点を強調した。その根拠として、これら地図が島内の6つの河川を中心に製作されている点を上げた。河川 が中心になったことは飲料水が得られにくい「島での生活」と関連するというのだ。
また、これら河川の中の一つには「大川流出」と書いてあるが、地図製作のため少しの間、ここを現地調査した外部の人なら陸の河川に比べて途方もなく小さい規模の河川を'大川(テチョン)'といいはしなかったろうと見た。
地図に中峰(チュンボン、今の聖人峯(ソンインボン))から郊外周辺5ヶ所までの距離が体系的に示された点も重要根拠として提示された。ソンウ博士はこの ような情報は少しの間そこに留まった人々なら調査できず、調査しなければならない必要性もないことで、そこに高度な行政体系があった時に調査されたと見な ければなければならないと断言した。
*「鬱陵島に実際に居住する人でなければ描けない地図」「少しの間そこに留まった人々なら調査できず」と述べていますが、張漢相は実際に居住していた人間 ではなく、1694年の調査で、「少しの間そこに留まった人」ですが、きちんと調査して詳細な記録を残していますし、川について、この記事に出てくる「復元地図」よりもさらに詳しい地理情報が記載されています。。少しの間底にとどまる人にとっても、飲 料水の問題は大事であるため、それがなにも、「実際に居住」していた人だけの問題では有りません。
https://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/rep...
https://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/rep...
また、その後1711年に鬱陵島調査詳細図を残した朴易錫も「少しの間そこに留まった人」と考えられますが、調査し、綿密な地図を作成しているわけです。
https://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/cho...
よって彼の主張は根拠とはならないと判断されます。
その他、島が実際の形と同じように丸い形に描かれたが、島周囲の「利用価値がない」奇岩怪石を表記しなかった点も 居住民の立場から描かれた根拠と付け加えた。しかも、これら地図の形と表記情報が互いにほとんど似ているという点から推し量ってみると、これに先んじた時 期に作られた原形があることが分かるが、その地図がつまり粛宗実録に出てくる「于山国図」と結論した。512年に異斯夫が于山国を征伐した後には鬱陵島に 精密な行政体系があったことがなかったためだ。
確かに、512年に異斯夫が于山国(鬱陵島)を征伐したことは確認が取れますが、しかしながら、この範囲に竹島が含まれていたような記載は確認が取れません。
【新羅将軍、異斯夫の夢航海『異斯夫を起こして独島をまた見る』~なぜあの海は東海で独島は私たちの土地なのか[11/14]】
【于山国は鬱陵島の事であり、竹島が含まれている記述はありません。】
また、「粛宗実録に出てくる「于山国図」が 丸型の鬱陵島図の系統の原型であると言うのは、推測に過ぎず、これを主張するのには、「于山国図」を提示しなければなりません。それを主張するために、想像で勝手に製作してはいけません。
今回のこの画像の地図、つまり、この鮮干博士が”製作”した地図が、新羅時代以前に書かれた鬱陵島図を”修復して”製作されたような印象操作を図っていますが、実際は、新羅時代の地図ではない、「地乗」を参考に勝手に書いただけのものであります。
再度述べるますが、新羅時代の鬱陵島詳細図など、粛宗実録に記載がある程度で、その地図の実在が確認されていません。ないものを、”修復”したと大捏造を行っています。
つまり、18世紀初期~後期に見られる円形の鬱陵島詳細図の系譜の地図と、新羅時代の地図を結び付けるには、新羅時代の地図を提示する義務があります。そのような地図の存在は確認されておりません。
つまり、「インターネットで見た」のを証拠・根拠にするような韓国人の愚かしい習性に、新たに、
「証拠がないので証拠として錯誤させる材料にするために、製作してしまった」という朝鮮人のインチキな行動がまた一つ増えたわけです。
こういった品性と素養の低い人間が教授をしている韓国の学会のレベルは本当に酷いものです。