という門真市議の方が、「独島が韓国領土だ」、と主張しているようですが、そもそも、今日の竹島問題研究において、
韓国側が1905年2月22日以前に竹島の権原を確立していたかどうか、
是が問われているのですが、それどころか、
1.1905年2月22日以前の朝鮮側の鬱陵島の範囲認識に、竹島が入っていない。
2.1905年2月22日以前に朝鮮側が竹島において行政権を行使した事実がない。
この二点にすべてが集約されます。それらを無視して戸田氏は主張しているようです
http://www.hige-toda.com/_mado01/2012/img/Pamphlet_nihonryoudoniarazu.pdf#11
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★戸田の質疑
14番、無所属・「革命21」の戸田です。
議会における「質疑」は、議場の中にいる人だけじゃなくて、議事録を通じて全市民に明らかにするという事がありますので、一部、同じ様な趣旨と思えるかも分かりませんが、全く違った意見書でありますので、お聞き下さい。 質疑を行ないます。
質問2:
この意見書は「いわゆる『竹島』が日本固有の領土である」という認識が土台になっていますが、
それは間違いであって、
独島(=いわゆる「竹島」)はもともと朝鮮領土であり、明治政府は韓国領と判断し、「日本の領土外」と宣言した島であります。それを日露戦争という時局の中で戦略的に重要な島であると判断し、こっそり日本領へ編入したものであります。
それについての資料は、提案各派に先週末に配布しておきましたので、提案者達が「それでもやはり独島=竹島は日本国固有の領土である」と自分で考えているのならば、私が示した論に反論すべきと思いますが、できますでしょうか?
まず、
・1886年発行の文部省検定歴史教科書「日本史要」
の地図と本文に独島の表記がない事、
・1892年発行の「分邦詳密大日本地図」や1893年発行の 文部省検定の地理付図「万国新地図」
に収録された地図には、独島が韓国領と表示されたり、表記すらされていなかった事、
・1900年発行の文部省検定地理教科書「小学地理」の地図では台湾まで日本領土として赤く色が塗
られたが、独島には何の表示もない事、
・1905年発行の「文部省著作」地理教科書「小学地理用新地図」の「大日本帝国全図」には、独
島が日本領土と表示されていない事、
について、どのように反論されますか?
・日本には独島を日本領とする江戸時代の公文書や官撰地図は存在しない、
という指摘にはどのように反論されますか?
→そもそも、日本の竹島編入は1905年ですから、それ以前の地図に島根の竹島の記載がなくとも特におかしくはありません。
地図は領有権の根拠とは通常ならないのですが、仮に地図の表記を根拠とした場合、
地図に記載がない、との主張で日本の領有権を否定する場合は、当然その原則を韓国にも当てはめて考える必要があります。韓国側のプロパガンダを支持する地球市民や市民連帯を唱える人たちは、韓国側の史料ではどうなっているのか、なぜか検討を回避します。韓国の古地図には竹島や独島の記載はまったくありません。
・1300-1711 Korean antique maps
・1711-1800 Korean antique maps
・1800-1870-korean-antique-maps
・1870-1910 Korean antique maps
また、韓国側は「于山島」が「独島」であると主張しますが、古地図のそれは今日の「竹嶼」もしくは「鬱陵島」を示すものであり、韓国の主張する「独島」ではありません。
・1694年以降の朝鮮王朝の鬱陵島捜討官の製作した鬱陵島詳細図
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(戸田質疑 続き) また、
・1877(明治 10)年、明治政府の最高機関である太政官は、
「日本海内竹島外一島を版図外とする」
との指令を出しました。しかし今の外務省はひた隠しにしております、という指摘にはどのように反論されますか?
→ひた隠しどころか、デジタルアーカイブ上で公開されている内容で事実誤認。
竹島外一島については、これが出された時点で、「江戸時代の古地図における竹島と松島」が添付されているので、その時点では近代的な海図等上における明確な島の比定が無いまま「竹島」「松島」を放棄した可能性もあります。
当時の海図等では、竹島はJames ColnettのArgonaut島(Tako-sima) 松島はLa PerouseのDagleet(Matsu-sima/今日の鬱陵島)です。そして、リアンコールド岩(今日の島根竹島)が記載されています。このような現代的な認識と、江戸時代の竹島松島図という二つの物があったわけです。この疑問は、竹島考証の通り、軍艦天城の松島調査まで疑問が解決されないままでした。
しかしながら、1880年の軍艦天城の「松島」調査後、この「外一島は松島」であり、その松島は「朝鮮鬱陵島」であると定義されていますので、今日の竹島を版図外にした、と断定は出来ません。
1877年時点での日本政府の版図認識を根拠として主張する場合、当然その原則を韓国にも当てはめて考える必要があります。朝鮮王朝の当時の版図認識も主張も検討してみる必要があるでしょう。韓国側のプロパガンダを支持する地球市民や市民連帯を唱える人たちは、韓国側の史料ではどうなっているのか、なぜか検討を回避します。
竹島外一島の時点どころか、1905年2月22日以前に当時の朝鮮王朝ならびに大韓帝国が竹島を領域内とみなしていたこともありませんし、領有していた記録もありません。
・朝鮮領土の東限の記述は、鬱陵島竹嶼までで、現竹島は含まれない
また、
・1905年の領土編入が、1877年の太政官指令に反するのみならず、他国の領土を自国へ編入するのは明らかに国
際法違反だから、内密裡に処理され、政府はその決定を官報に公示せず、政府官報すら新名称である「竹島」の
名を使用せずに「リアンコルド岩」という外国名を用いたほどであり、
わずかに島根県が独島を新発見地であるかのように装って、島根県告示第四十号で島の位置のみを明示し、
「竹島と称し、本県所属隠岐島司の所管と定めらる」と布告のみだった。
他国の領土を自国へ編入するのは明らかに国際法違反だから、内密裡に処理され、政府はその決定を官報に公示せず
→そもそも、1905年の時点で大韓帝国が「リアンコールド岩」を領土として行政権を行使していた記録はありません。それ故、「他国の領土を自国へ編入する」には該当しません。
おそらく、内密裡の話は、公示や通知をしていないゆえに編入の手続きに瑕疵があるという韓国側の主張を支持しているのかもしれませんが、そのような韓国側の主張は間違いです。そもそも、「パルマス島、クリッパートン島の判例では明確に通知義務を否定し、国際法学者も通知を必要とはしていない」のです。
2.1 通知義務 http://takeshima.cafe.coocan.jp/wp/?page_id=70 Oppekepe氏サイト
この事から、内密裡に処理することは問題ありません。そもそも、無主地があり、それを他国の領土かもしれない、と思い、善意で先方に問い合わせた結果、本来ならば先占できた無主地を先に先方に「先占」されてしまう恐れある為です。それであれば、すぐに日本は先占すればいいだけではないか?という反論があるでしょう。 是に関しては、仮に該当の土地が外国領土だと仮定して、様子も見ずに先占した結果、領土を侵略したとみなされ、紛争やしこりが残る可能性がある。それを考慮し、支配が及んでいるか及んでいないか、様子を見て慎重に動いたことはむしろ日本の国際法的感覚が慎重であったと見ることが出来ます。
島根県告示第四十号で島の位置のみを明示し、「竹島と称し、本県所属隠岐島司の所管と定めらる」
→布告だけではなく、その後のの行政権の行使の事実がありますので、先占の要件としての行政権の行使を満たしています。
・「島根県知事による竹島の面積調査令(島根県地第90号)」
・「官有地台帳登録(第32号隠岐国、周吉、穏地、海士、知夫郡官有地台帳)
・「島根県知事による中井等への海驢漁の許可(乙農第805号)」
2.3 島根編入後の実効支配-1 日本による行政権等の発現を参照の事
http://takeshima.cafe.coocan.jp/wp/?page_id=70 Oppekepe氏サイト
政府官報すら新名称である「竹島」の名を使用せずに「リアンコルド岩」という外国名を用いたほどであり、
→日本海海戦のときの「リアンコルド岩」の話でしょうが、これは、訂正が入り、「竹島」とキチンと名称を使用しています。「リアンコルド岩」と用いたのは、日本海軍が海図に記載されている「リアンコルド岩」をそのまま報告に使った程度でしょう。
1905 - May 29 , 30 & June 5- 官報号外「日本海海戦戦報」
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2008/09/1905-may-29-30-june-5.html Dokdo or takeshima
そこでも旧島名の記述もなければ、領土編入という言葉すらなかった。
→国際法上、旧島名の記述を記載しなければいけないという判例はないです。
緯度経度により、どの島を隠岐の管轄とするかが明記されているので、この事実、ならびに漁業法令とうの行政権の行使の事実により、日本の権原が確立されています。
この日本の行政権の行使に優越する権原を日本の島根県告示以前に韓国が行使していた証拠の提示が必要ですがありません。
「日本固有の領土だ、とみんなが言うから日本固有の領土だ」と信仰しているだけだとなりますが、そんな事で良いのでしょうか?
→「日本固有の領土」の定義とは、政府答弁所にも出ている通りです。
平成十七年十月二十八日提出 質問第三九号
南樺太、千島列島の国際法的地位などに関する質問主意書
提出者 鈴木宗男
http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumo...
(部分抜粋)
一 固有の領土の定義如何。
二 竹島は日本国固有の領土か。
平成十七年十一月四日受領 答弁第三九号
内閣衆質一六三第三九号
平成十七年十一月四日 内閣総理大臣 小泉純一郎
http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumo...
(部分抜粋)
一について
政府としては、一般的に、一度も他の国の領土となったことがない領土という意味で、「固有の領土」という表現を用いている。
二について
竹島は、我が国固有の領土である。
です。この質問2についての説明で、韓国側の史料等では、現状1905年の日本の編入に優先する根拠はありません。よって、「竹島が日本固有の領土だ」という主張は間違っては居ませんし、質問2の戸田氏の主張する「独島(=いわゆる「竹島」)はもともと朝鮮領土であり」、は否定されます。
www.hige-toda.com/_mado01/2012/img/Pamphlet_nihonryoudoniarazu.pdf#11
そして、この問題となっている「1905年前後」というのは、どういう時代であったのか?
まさに日露戦争が行なわれ、日本海大決戦が行なわれ、ロシア艦隊がその近くを通って行くという「戦略的重要性」が~これは日本にとってですよ~、認識されるという、こういう時代でありました。
これが日露戦争の中で行なわれて、侵略植民地化のひとこまであった事は否定できないと思います。
・1904年8月には、日本と韓国との間で「第1次日韓協約」が結ばれて、この協約で、
「財務に関する事項」は全て日本人側の財政顧問の意見に従う事、
「外交に関する事項」は全て日本政府の推薦する外国人顧問の意見に従う事
「重要な外交案件」はあらかじめ日本政府と協議する事
を韓国政府は強制されました。
・そして 1905 年 11 月の「第2次日韓協約」では韓国統監府の設置が決められ、外交・内政全般にわたり日本の支配権が確立されて、韓国は日本の「保護国」となりました。
・そして 1907 年の「第3次日韓協約」を経て、
・1910年の「韓国併合」へと一瀉千里に突き進み、日本の植民地になります。
このような状況で行われた、日本のいわゆる竹島領有に対して、
当時の韓国が抵抗する手段を奪われていった事は明白です。
→日露戦争と日韓協約を根拠に、「竹島」は日本が韓国から奪った島、というミスリードを行うのは、韓国側に多い主張ですが、そもそも1905年2月22日以前に韓国が竹島を領有していた事実はありません。
そして、竹島のような小さくて沖から離れている岩礁は、漁業や灯台設置等くらいは出来ますが、当時の大韓帝国を武力で侵略するような兵站を置くことができない島です。「植民地侵略」のために、日本がそのような小島を「侵略」する意味はありません。兵站を考えるなら、それこそ「鬱陵島」や「釜山」など直接「侵略」に役立つ場所を確保すれば済むだけの話です。「植民地侵略ガ~」は単なる感情的な主張に過ぎません。
韓国が竹島領有に抵抗する手段は、統監府設置後も存在しております。しかし、それを行使しなかった、というのが正しい認識でしょう。
そもそも日韓協約において、韓国は第三国との外交を確かに日本が監督することになりましたが、
それは何も、韓国と日本の交渉・抗議を禁止する性質の物ではありません。「韓国施政改善ニ関スル協議会」等もあり、そして、韓国側は日本に抗議した例は存在します。(→・1905年のりゃんこ島(現竹島)編入後、韓国から外交上抗議はなかった。)
かなり古い論文(昭和38年)ですが、皆川洸元一橋大学教授が『竹島紛争と国際判例』で「抗議については、実際に抗議しようとして、それを日本の責めに帰 せられるごとく阻止された事実が記録されているかどうかが問題である。回顧的に、現在の韓国政府であったならば抗議したであろうとか、仮説的に、かくかく の事情がなかったならば抗議しえたであろうとか云うのでは問題にならない。」と述べています。
また、川崎孝子(東京国際大)は『日本と国際法の 100年第2巻 陸・空・宇宙』(平成12年)の中で、「韓国は、朝鮮政府は当時日鮮協定により、日本政府の完全なコントロール下にあったから、抗議する 術がなかったと主張している。知っていたが抗議できなかったというのは、日本が抗議を阻んだ事実が証明されない限り理由にならない。したがって、1905 年の日本による正式な領土編入措置と爾後の国家機能の発現は、実効的先占という同島の主権に関する決定的な意味をもつものであり、この事実に基づく「確定的権原」は、仮に韓国が竹島に対する何らかの権原を有していたとしても、そのような「仮説的タイトル」に優先する。」と述べています。
結論的に言いますと、「韓国が抗議しようとしたところ、それを日本が妨害したという具体的な記録を出せ。」ということで、出せなければ抗議できなかったことにならないということです。
こ れらの専門家の意見を念頭に置くと、杉野洋明氏が発見された皇城新聞1906年7月13日の意味の大きさが判ると思います。統監府が朝鮮政府に対して鬱陵島の所属島嶼を照会して、「該郡所管島はチュク島と石島で、東西が六十里で南北が四十里なので、合せて二百余里だという。」という回答をしていますが、 「抗議できなかった。」というのであれば、このときの朝鮮政府の内部文書を公開すべきなのです。統監府の側から照会してるくらいですから、鬱陵島に独島が 所属していると回答したところで問題になるとはとても考えられません。
そして日本の敗戦後、
・1946 年1月 29日のGHQの訓令 677 号で、いわゆる竹島は「日本から除外される地域」に指定されました。
・また、最初の「対日講和条約」の草案の中でも、いわゆる竹島は朝鮮領に含められていました。
これは連合国が当時そういう認識持っていたという事を示します。
しかし、何かの変化があって、1951年に調印された「サンフランシスコ講和条約」ではいわゆる竹島は「日本領」とされました。ここに「片面講話」=アメリカの意向、というのが強く働いたであろう事は優に想像できます
→Scapin 677については、それは最終決定ではない事を日本側に度々び文書で説明がありますので、根拠とはなりません。
(→・SCAPIN指令によって、一度竹島は日本の行政権から分離され、連合国に移管される)
また、連合国草案にも確かに初期の草案には竹島は朝鮮領に記載されていましたが、途中からこれは日本領に含められます。
竹島がサンフランシスコで日本領とされたのは、Minor island adjecent to Japanを思い出したシーボルトが、竹島は島根県の行政区域である故にそのように修正がなされた経緯があります。
(→・竹島回帰-サンフランシスコ平和条約が作成されるまでの草案の過程)
これに対して、同条約が発効する 1952 年4月 28 日の直前に、韓国の李承晩=イ スンマン政権は、いわゆる「李ライン」の設置を宣言し、いわゆる竹島が韓国領である事を主張し、現在に至っています。
この時の李承晩独裁政権が、なぜこういう行動に出たのか?
それは李承晩政権が、いわゆる「対日協力者」を中心とした政権であり、アメリカと日本に尻尾を振る政権であって、正当性が薄い事の、カムフラージュとして日本の対して強い対応に出る、という行動であったと、私は考えます。
このような経過において、「正当な領有権」を語る事は到底出来ない、という事をまず指摘しておきます。
→日本が竹島を編入したときは、朝鮮人に犠牲者などは誰一人でませんでした。韓国の李承晩=イ スンマン政権が、当時の国際法違反ともみなされる一方的な宣言を行い、各国から抗議を受けている上、日本漁船を拿捕し日本人漁民を拉致誘拐し、このような行為と平行して日本の竹島を侵略したことを考えると、韓国は「正当な領有権」を語ることは到底出来ませんね。