鬱陵島捜討官の鬱陵島詳細図の件と同様に、1694年以前と1694年以降では、地誌の記述に変化がある。
長らく、韓国側は、1694年以前の地誌に、于山島倭松島が記載されているとウソの説明をしていたが東国輿地誌の発見により、これが覆された。
1694年以前は基本的には世宗実録地理誌や、東国輿地勝覧がその元なのに対して、1694年以降の地誌には、「于山島倭所謂松島」が加わるのである。 この文章は、安龍福の言った、「于山倭所謂松島」から引用しているが、これが朝鮮王朝の記録などに引用されていく。 以下は、その記述の変遷である。変遷をたどると、1694年以前には、「于山島倭所謂松島」の文言は使われていないことがわかる。
また、「于山島倭松島」を書き始めた申景濬は、同じような時期に朝鮮地図の政策にに携わっていると言われている。
この朝鮮地図に書かれた于山島は、当然ながら南東90KM先にある竹島の位置でないことは明白で、
その地図の書かれた方角、形状から考えると竹嶼(Boussoule rock)であるとみなすことができる。
つまり、申景濬は、「于山島」である竹嶼を、「日本人は松島と呼んでいる」と勘違いしていたことが証明される。
これについては、Dokdo or takeshimaでMatsu氏が指摘しているので参照していただきたい。。
https://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/pentagram-ullengdo-maps
1656. 『輿地志』 (「東国興地志」巻之七 江原道 蔚珍) 柳馨遠 (PDF)
「于山島鬱陵島 一云武陵 一云羽陵 二島在県正東海中 三峯及業掌空南峯梢卑 風日清明則峯頭樹木 及山根沙渚 歴々可見 風便則二日可到 一説干山 鬱陵 本一島 地方百里」
(*此の文章は東国輿地勝覧からのそのままの引用であり、この時点では于山倭所謂松島の文言が無い)
1615.『東国地理誌』韓百謙 (PDF76-77)
于山島 勝覧云一云武陵一云羽陵二島在蔚珍正東海中三峰及業掌空南峯梢卑風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見風便則二日可到一説于山鬱陵本一島地方百里
(*この文章も東国輿地勝覧からの引用)
これ以前のその他の地誌についても、こちらを参照されたし。
・韓国は、「西暦512年から現竹島は韓国領土」と大嘘を付く 三国史記~高麗史
一島二名と2島説の混在の始まり。鬱陵島の「傍らにある小島」太宗実録以降
・1470年代 「三峯島」は、金漢京の嘘で、その実態は鬱陵島 成宗実録
・見える見えないの議論は朝鮮半島東岸がら鬱陵島が見えるという意味で、鬱陵島から現竹島が見えるという意味ではない。
これ以降の記録では于山島倭所謂松島が記載される事になる。
1745 『春官志』 李孟休
「蓋しこの島(欝陵島.注下條)、其の竹を産するを以ての故に竹島と謂い。
三峯あるが故に三峯島と謂う。于山、羽陵、蔚陵、武陵、礒竹島に至りては、皆音号転訛して然るなり」
1756.『旅菴全書』巻之七、「疆界考」十二、鬱陵島 申景濬
愚按輿地志云 『一說于山鬱陵本一島』 而考諸圖志二島也 一則倭所謂松島 而盖二島 俱是于山國也
(*輿地志から、『一說于山鬱陵本一島』を引用したが、そのあと筆者の見解(而考諸圖志二島也 一則倭所謂松島 而盖二島 俱是于山國也)を足している。
1770.『東国文献備考』「興地考」 申景濬・洪啓禧
于山島鬱陵島 東三百五十里に在り---興地誌伝 鬱陵于山皆于山国地 于山即倭所謂松島
(*輿地志から、『于山鬱陵皆于山国地』を引用し、そのあと筆者のが于山即倭所謂松島 を足している。
1776. 雑同散異海防条鬱陵島 安鼎福
輿地志云 鬱陵于山皆于山国地 于山則倭所謂松島也
(*輿地志から、『于山鬱陵皆于山国地』を引用し、そのあと筆者のが于山即倭所謂松島 を足している。
文献撮録 in 1800年代 高級官吏の元鄭容(1783-1873年)
欝陵島。蔚珍の正東の海中に在り。 清明なれば則ち峯頭山根歴歴として見る可し。 地広く土肥ゆ。其の竹を産するを以って故に竹島と謂う。 三峯あるを以って故に三峯島と謂う。 于山、羽陵、武陵、磯竹に至るも皆、音訛して然る也。 日本の隠岐州と相近い。
1808.萬機要覽 軍政篇.
輿地志云 鬱陵于山皆于山國地, 于山則倭所謂松島也
(*輿地志から、『鬱陵于山皆于山国地』を引用し、そのあと筆者のが于山即倭所謂松島 を足している。
1823.海東繹史地理考
文獻備考云 鬱陵于山皆于山國地 于山島卽倭所謂松島也
(*文獻備考から、「鬱陵于山皆于山國地 于山島卽倭所謂松島也」をそのまま引用)
1908.「増補文献備考 輿地考」李萬運
輿地志云 鬱陵于山皆于山国地. 于山則倭所謂松島也
(*輿地志から、『鬱陵于山皆于山国地』を引用し、そのあと于山即倭所謂松島 を足している。)
(*1882年辺りから、朝鮮王朝の「于山」認識は、鬱陵島の古い別名で、鬱陵島松島であるとの認識なので、ここもその于山=鬱陵島=松島と認識していたといえる)
このように、于山所謂倭松島の言葉が、安龍福の事件以降、記載されるようになった。
しかしながら、安が見た島は、「于山島」であって、それを「日本人は松島と呼んでいる」と認識していたが、
はたして、安が日本の「松島」、つまり現竹島を于山島と思っていたとは限らない。安が書いた「于山島」や「松島」の様子が描かれた地圖やスケッチは残っていないからだ。では、朝鮮王朝は于山島をどのような島と認識していたのであろうか?
また、「于山島倭松島」を書き始めた申景濬かは、同じような時期に朝鮮地図に携わっている
この朝鮮地図に書かれた于山島は、当然ながら南東90KM先にある竹島の位置でないことは明白で、
その地図の書かれた方角、形状から考えると竹嶼(Boussoule rock)であるとみなすことができる。
つまり、申景濬は、「于山島」である竹嶼を、「日本人は松島と呼んでいる」と勘違いしていたことが証明される。
これについては、Dokdo or takeshimaでMatsu氏が指摘しているので参照していただきたい。
江戸時代の”松島”は、日本側にとっては現在の竹島を示すのだが、しかしながら、朝鮮王朝の鬱陵島捜討官の製作した鬱陵島詳細図や調査報告では、明らかにこの于山島を鬱陵島の北東部にある 竹嶼であると記しており、かつ朝鮮は現竹島を鬱陵島の範囲と認識していない。一方、安龍福も「于山島」を報告しているのであるが、彼は「朝鮮王朝とは関係の無い人物で、その行動は朝鮮王朝の関わるところではない、」と日本側に正式に通告されている。
この事から、朝鮮王朝は「于山島である”竹嶼”を日本は松島と呼んでいる」と認識をしていたと考えられる。
1746.春官志 鬱陵島争界
「盖 是島 以其産竹也 故謂竹島 以有三峯也 故謂三峯島 至於 于山 羽陵 蔚陵 武陵 磯竹 皆音?轉訛 而然也」
1740.星湖僿說 鬱陵島 李瀷 1681~1763
鬱陵島在東海中 一名于山 遠可七八百里 自江陵三陟等地 登高望之 三峯縹緲隱見. 新羅智證王十二年 其人 持强不服 何瑟羅州軍主異斯夫 以木獅威服 何瑟羅卽今江陵也. 高麗初來獻方物 毅宗十一年遣金柔立 往審羽陵島 從山頂東行 至海一萬餘步 西行一萬三千餘步 南行萬五千步 北行八千步 有村落基址七所 有石佛鐵鐘石塔 地多岩石 不可居 然則是時已成空地矣. 本朝適民多入居 太宗世宗時 皆往搜盡俘還之. 芝峰類說云 鬱陵島壬辰後被倭焚掠 無復人烟 近聞倭占據礒竹島 或謂礒竹卽鬱陵也. 倭以漁氓安龍福犯越事來爭 以芝峰類說及禮曹回答 有貴界竹島之語爲證. 朝廷遣武臣張漢相 往審之南北七十里 東西六十里 木有冬栢紫檀側栢黃蘗槐椵桑楡 無桃李松橡 禽獸有烏鵲苗鼠 水族有嘉支魚 穴居巖磧 無麟有尾魚身四足 而後足甚短 陸不能善走 水行如飛 聲如嬰兒 脂可以燃燈云. 於是朝廷費辭往復彌縫乃止
余謂此事非難判 當時胡不曰 鬱陵之服屬新羅 自智證王始時 卽貴邦繼體之六年 未知威德遠被史乘 特書有 可以考見者耶 至於高麗 或獻方物 或空其地 史不絶書 今千有餘年 今者何故突然惹此爭端 卽無論羽陵礒竹之何指 鬱陵之屬我邦 則百分明白 而其旁近島嶼亦不過鬱陵之屬島 與貴邦絶遠 其乘隙占據
所宜羞吝 而不合誇言者也 設或中間爲貴邦冒奪 兩國約和誠信之後 悉宜還其舊田之不暇 況未曾著在貴邦之版籍也耶 旣在我界則 我氓之漁獵往來 理固宜然 何與於貴邦如是 則彼雖巧黠 將無復容其喙矣.安龍福者 東萊府戰船櫓軍也 出入倭館 善倭語 我肅廟十九年癸酉夏 漂迫鬱陵島 倭船七艘先到 時倭已惹爭島之端 龍福與倭辨詰 倭怒執以歸拘五浪島 龍福謂其島主曰 鬱陵芋山本屬朝鮮 朝鮮近 而日本遠 何故拘執我不歸 島主送諸伯耆州 伯耆島主待以賓禮 賚銀許多 辭不受. 島主問汝欲何爲 龍福又言其故曰 禁止侵擾 以厚交隣 是吾願也. 島主許之 稟于江戶 成契券與之遂遣 還行到長崎島 島主黨馬島 奪其券 送之馬島 馬島主囚之 聞于江戶 江戶復爲書契 令勿侵兩島 且令護送 馬島主復奪其書契 囚五十日 押送東萊倭館 又留之四十日 送之東萊府. 龍福悉訴之 府使不以聞 以犯越刑之二年. 乙亥夏 龍福憤鬱不已 誘販僧五人及掉工四人 復至鬱陵 我國三商船先泊 魚採斫竹有 倭船適至 龍福令諸人縛執 諸人懼不從. 倭云我等魚採松島偶至此卽去. 龍福曰 松島本我芋山島 明日追至芋山島 倭擧帆走 龍福追之 漂迫于玉岐島 轉至伯耆州 島主歡迎 龍福自稱鬱陵搜捕將 乘轎入 與島主抗禮 言前後事甚詳 且云我國歲輸米一石必十五斗 綿布一匹三十五尺 紙一卷二十張 馬島偸損 謂米石七斗 布匹二十尺 載紙爲三卷 吾將欲直達于關白 治欺誑之罪 同行有稍解文字者製疏 示島主 馬島主父聞之 乞憐於伯耆州 事遂已. 慰諭送還曰 爭地事 悉如汝言 有不如約者 當重罰之.
秋八月還泊襄陽 方伯狀聞 拿致龍福等于京 諸人納倂如一 朝議以犯越挑釁 將斬之. 惟領敦寧尹趾完曰 龍福雖有罪 馬島從前欺詐者 徒以我國 不得專通江戶故耳 今知別有他路 勢必恐怯 今誅龍福非計也. 領中樞南九萬曰 馬島之欺詐 非龍福無以畢露 其罪之有無姑置 爭島事 不可不因此機會 明辨痛斥之 書問馬島曰 朝廷將別遣使 直探其虛實云爾 則馬島必大恐服罪 然後龍福事徐議其輕重未晩 次上策也. 不然使萊府送書島中 先陳龍福擅自呈文之罪 次陳本島假稱竹島奪取公文之失 待其回答 而龍福斷罪之意 決不可及於書中 次中策也. 至若不問馬島奸欺之狀 而先殺龍福 以快其心 彼必以此籍口 侮我脅 我將何以堪之 此下策也. 於是朝廷用中策 島主果自服罪 歸於前島主 不復往來鬱陵 朝廷乃減龍福死配去云.
愚按安龍福直是英雄儔匹 以一卒之賤出 萬死之計 爲國家 抗强敵 折奸萌 息累世之爭 復一州之土 比諸傅介子陳湯 其事尤難 非傑然者不能也. 朝廷不惟不之賞 前刑後配 摧陷之不暇 哀哉. 鬱陵縱云土薄 馬島亦土無數尺 而爲倭所窟宅 歷世爲患 一或見奪 是增一馬島也 方來之禍 何可勝言 以此論之 龍福非特一世之功也歟. 古今稱張循王花園老卒 爲人豪然 其所辦 不過大賈販殖之間 其於國家計策 未必優焉 若龍福者 當危難之際 拔之行伍 借之翼角 得行其志 則所就豈止於此.
1834-1849 硏經齋全集 > 硏經齋全集續集册十一 > 文三 > 최종정보 題安龍福傳後 성해응(成海應)
安龍福傳。載於李孟休所著春官志。我之欝陵島。不被倭人侵牟。龍福功也。考龍福所抵伯耆州。 卽倭山陰道中一州也。考其界。似與我關東。隔一海耳。甞聞襄陽人漁採。爲風所驅。過水宗甚峻。舟緣之上下。遂至倭境云。想伯耆境耳。龍福發馬島。欺倭狀 曰。我國所送幣米。十五斗爲一斛。馬島以七斗爲斛。布三十尺爲一疋。馬島以二十尺爲一疋。紙二十番爲一束。馬島截爲三束。馬島之居中。乾沒可知。而介于兩 國。設機詐以食。終必搆釁。搆釁則路必梗。伯耆之船路。固宜講之。然終古嶺東少倭冦者。海路險故也。昔渤海之通倭。往往由鰕夷國及出羽能登加賀之地。出 羽。倭東山道也。能登加賀。倭北陸道也。與我咸鏡北道相對。倭約渤海使。路由龍原。泊筑紫道。筑紫者。筑前也。然渤海使舶。多出於能登。至修餙停宿之所。 不惟路便。其無險阻可知。熟於海路者。自當知之。壬辰之亂。加賀守直茂。從淸正入北路。欲審此路也歟。
1834-1849.碩齋稿 碩齋稿卷之九 海東外史> [安龍福] 287_146d 윤행임(尹行恁)
安龍福者。東萊府人也。隷水軍。善倭語。肅廟乙亥。漂海入欝陵島。遇倭被拘於日本之五浪島。時對馬島主欲占欝陵。與邊臣爭不已。而倭酋實不知也。龍福謂五浪島主曰。自欝陵距我國一日。距日本五日。非屬我國者乎。 朝鮮人自往朝鮮地。何拘爲。島主知不可屈。解送伯耆州。州太守厚遇饋銀幣。龍福不受曰。願日本勿復以欝陵島爲辭。銀幣非吾志也。太守遂禀關伯。作書契授 之。言欝陵非日本界。時舘倭若將生釁。國人憂之。而不知爲馬島所瞞也。龍福憤甚。走蔚山海邊。有商僧雷憲艤舟。龍福誘之曰。欝陵島多海菜。吾當爲汝指其 路。僧欣然從之。遂擧帆三夜。泊欝陵島。時倭舶自東至。龍福目諸人縛之。舟中人 㥘不發。龍福獨前憤罵曰。何故犯我境。龍福追至松島又罵曰。松島卽芋山島。爾不聞芋山亦我境乎。麾杖碎其釜。倭大驚走。龍福轉至伯耆州言 其狀。太守悉捕治之。龍福乃詭稱欝陵監稅官。升堂與太守抗禮大言曰。馬島之居間矯誣。豈獨欝陵一事。我國所送幣貨。馬島轉賣日本。多設機詐。米十五斗爲一 斛。馬島以七斗爲斛。布三十尺爲一匹。馬島以二十尺爲匹。紙一束甚長。馬島截爲三束。關伯何從而知之。不能爲我達一書於關伯乎。太守許之。馬島主父時在江 戶。聞之大懼。乞於太守曰。書朝而入。則吾兒夕而死。子其圖之。太守歸語龍福曰。毋庸上書。且速歸馬島。如更爭界者。可差人賫書來。於是倭知不可復誑。貽 書萊府謝曰。不敢復遣人至欝陵。當是時。朝廷議割欝陵島以予倭。彼龍福者。非有職司之重命令之嚴。而出萬死之力。跋涉水陸萬有餘里。叱狡夷如小兒。折馬島 之奸謀。使欝陵全島不入於倭。其功可謂壯矣。
安龍福者東萊府人也隷水軍善倭語肅廟乙亥漂海入鬱陵島遇倭被拘於日本之五浪島時對馬島主欲占鬱陵與邊臣爭不已而倭酋實不知也龍福謂五浪島主曰自鬱陵距我國一日距日本五日非屬我國者乎朝鮮人自往朝鮮地何拘爲島主知不可屈解送伯耆州州太守厚遇饋銀幣龍福不受曰願日本勿復以鬱陵島爲辭銀幣非吾志也太守遂稟關白作書契授之言鬱陵非日本界時館倭若將生釁國人憂之而不知爲馬島所瞞也龍福憤甚走蔚山海邊有商僧雷憲艤舟龍福誘之曰鬱陵島 海菜吾當爲汝指其路僧欣然從之遂擧帆三夜泊鬱陵島時倭舶自東至龍福目諸人縛之舟中人怯不發龍福獨前憤罵曰何故犯我境龍福追至松島又罵曰松島卽芋山島爾不聞芋山亦我境乎麾杖碎其釜倭大驚走龍福轉至伯耆州言 其狀太守悉捕治之龍福乃詭稱鬱陵監稅官升堂與太守抗禮大言曰馬島之居間矯誣豈獨鬱陵一事我國所送幣貨馬島轉賣日本多設機詐米十五斗爲一斛馬島以七斗爲斛布 三十尺爲一匹馬島以二十尺爲匹紙一束甚長馬島截爲三束關白何從而知之 不能爲我達一書於關白乎太守許之馬島主父時在江戶聞之大懼乞於太守曰書朝而入則吾兒夕而死子其圖之太守歸語龍福曰毋庸上書且速歸馬島如更爭界者可差人齎書 來於是倭知不可復誑貽書萊府謝曰不敢復遣人至鬱陵當是時朝廷議割鬱陵島以予倭彼龍福者非有職司之重命令之嚴而出萬死之力跋涉水陸萬有餘里叱狡夷如小兒折馬 島之奸謀使鬱陵全島不入於倭其功可謂壯矣[주:碩齋稿]
安龍福者東萊府人也隷水軍善倭語肅廟乙亥漂海入鬱陵島遇倭被拘於日本之五浪島時對馬島主欲占鬱陵與邊臣爭不已而倭酋實不知也龍福謂五浪島主曰自鬱陵距我國一日距日本五日非屬我國者乎 朝鮮人自往朝鮮地何拘爲島主知不可屈解送伯耆州州太守厚遇饋銀幣龍福不受曰願日本勿復以鬱陵島爲辭銀幣非吾志也太守遂稟關白作書契授之言鬱陵非日本界時館 倭若將生釁國人憂之而不知爲馬島所瞞也龍福憤甚走蔚山海邊有商僧雷 憲艤舟龍福誘之曰鬱陵島多海萊吾當爲汝指其路僧欣然從之遂擧帆三夜泊鬱陵島時倭舶自東至龍福目諸人縛之舟中人怯不發龍福獨前憤罵曰何故犯我境龍福追至松島又罵曰松島卽芋山島爾不聞芋山亦我境乎麾杖碎其釜倭大驚走龍福轉至伯耆州言 其狀太守悉捕治之龍福乃詭稱鬱陵監稅官升堂與太守抗禮大言曰馬島之居間矯誣豈獨鬱陵一事我國所送幣貨馬島轉賣日本多設機詐米十五斗爲一斛馬島以七斗爲斛布 三十尺爲一疋馬島以二十尺爲疋紙一束甚長馬島截爲三束關白何從而知 之不能爲我達一書於關白乎太守許之馬島主父時在江戶聞之大懼乞於太守曰書朝而入則吾兒 夕而死子其圖之太守歸語龍福曰毋庸上書且速歸馬島如更爭界者可差人齎書來於是倭知不可復誑貽書萊府謝曰不敢復遣人至鬱陵當是時朝廷議割鬱陵島以予倭彼龍福 者非有職司之重命令之嚴而出萬死之力跋陟水陸萬有餘里叱狡夷如小兒折馬島之奸謀使鬱陵全島不入於倭其功可謂壯矣
本朝紀
丙子二十二年
冊沈氏 靑恩府院君浩女 爲世子嬪
○遣武臣張漢相往審鬱陵島,
先是, 倭人以鬱陵島壬辰後爲倭占據, 引李晬光 芝峯類說爲證, 首譯朴再興辨斥之, 又有東萊檀軍安龍福善倭語入海漁採, 漂到鬱陵島被拘入馬島, 乃曰, 鬱陵距我國一日程, 距倭五日程, 非屬我國者乎, 朝解人自往朝鮮地何拘爲時, 馬島主利鬱陵之魚竹僞藉關白, 命數以島爭之, 其實非關白意也, 領相南九萬以爲此島高麗得之於新羅, 我朝得之於高麗, 又非日本之地, 屢書辨明, 島主知不可誑, 抵書萊府, 謝曰, 不敢復遣, 人至鬱陵自是三年一審, 以三陟營將月松萬戶相遞,
拿鞫張希載奴業同遠竄, 李弘渤杖斃,
有 姜五章者, 投疏告世子外家近曙墓有埋㐫穢, 又得兵判申汝哲奴應先號牌於其塜傍, 命設鞫應先嚴刑不服死, 適又有人告變言, 張希載奴業同裏糧出來留數日, 自言數日後當有變怪, 其日果得埋凶之物, 於是更鞫業同, 頗有踪跡而不肯盡吐, 領相南九萬議曰, 自古巫蠱獄必欲窮治, 其禍必至難言, 且此非宮中埋㐫者, 比之梁武帝時昭明太子之母丁嬪墓有埋蠟鵝者, 將窮其事, 菐尉徐勉固
諫而止, 其意非不忠而然也, 乃與左相柳尙運, 右相申翼相請對言其不可以疑事, 成獄, 上曰, 鄕等之言政合予意, 遂命放業同, 三司力請更鞫, 業同受刑就服希載家自作木人自埋其墓, 使人誘致應先於酒家, 乘醉竊其號牌, 欲先殺汝哲去其兵權仍爲網打西人之計, 李弘渤 義徵子 實主其謀, 云弘渤杖斃, 其餘遠竄,
吏曹判書崔錫鼎請許通庶孽, 議不行,
錫鼎疏陳序官求才之方, 有, 曰我國用人專尙門地, 已乖立賢無方之義, 至於庶孽防塞, 本非古制, 徐選倡之, 姜希孟繼之, 百餘年間禁錮成俗, 李珥始發許通之論, 赴文武科而淸要諸職格而不許, 臣祖鳴吉箚陳時弊, 通庶孽居其一, 以登科以後許要 戶刑工三曹郞官 稟旨, 因而不行, 又過戶十年矣, 天之生才貴賤非爾殊也, 中國及前朝所無之法, 我朝獨行之, 許多人中豈無才俊之士而祜項黃馘駢死於蓬戶之下, 匹夫含冤足傷天和, 況其麗不億者乎, 如宋翼弼之學術爲世大儒而終於布衣, 近世辛喜季之文章, 禹敬錫 柳時蕃之才諝, 俱未能展唭驥足, 局於末官下邑而止, 可勝惜
哉, 卽今世道迫隘習俗已痼, 雖未能頓革舊弊, 稍寬其路俾無遺才之歎, 納米許通得時措之宜, 而若干納米不歸於經費, 貪無粟者無以自拔行之旣久弊亦隨生, 宜除納米之法, 改請通之名矣,
王妃及世子嬪宮展謁太廟,
儒 臣以李晬光箚子及大明會典爲據, 請世子嬪謁廟, 又有王妃展謁之議, 詢于大臣南九萬曰, 考諸古禮及家禮行之無疑, 而惟五禮儀無其文, 臣見則猶不能無重難之意, 且集禮與會典均是大明之禮, 而一有一無, 未知會典雖具其文亦有未及盡行者耶, 李晬光箚列如此, 聖祖許之耶, 且不許之耶, 此等故事必皆考得其實然後似可無疑矣, 右相申翼相議今以從周之義, 倣而行之, 雖自嬪宮廟見爲始尙多妨礙, 況王妃殿之不行廟見出於列聖遺制, 與應行而未及行者有異, 而追擧於過, 冊禮十數年之後, 尤非懵陋之見所及也, 竟從他議行禮, 王妃廟見始於此,
以柳尙運爲領議政, 尹趾善爲左議政, 李世白爲右議政, ○庭試 上候平復慶 取李晩成等九人, 式年科取姜楧等三十五人, ○吏曹判書朴泰尙卒,
泰 尙字士行號晩休, 天姿近道性又峻潔, 嘗, 曰人之惡德莫甚於躁, 千罪萬過皆從此出, 見人躁竸不啻, 若凂, 爲詩文理暢辭潔尤善於鑑識, 嘗就候外舅趙涑, 涑飭衣冠而後見, 曰此大儒不可以年少恐之, 金錫胄謂人曰, 今人數知禮之家必稱林下科苐立身者, 輒皆輕視, 然博學而該於禮者無踰朴士行也, 及卒歛具待贈襚筮無遺衣, 徐文重, 曰見其內堂湫隘樸陋, 殆甚寒士家, 信乎淸素可敬也,
以崔錫鼎爲大提學, 左議政尹趾善請撤宋時烈道峯院享, 從之, 旋命寢之,
初 儒生李箕翊等, 請竝享時烈於趙光祖道峯書院, 朝廷拜許之, 儒生李濟億 朴繲等上疏非斥之命, 竝遠配, 趾善言, 時烈道學行義人所共慕, 而至於配享道峯書院臣亦以爲不可, 設院以來後賢道德之可以共享者, 非一二而先輩曾無陞配之議, 意非偶然, 年少士子輕發重論, 及取其辱臣實慨然, 上曰, 合享雖出於尊慕之誠, 而論議不一, 姑寢無妨, 仍宥, 濟億等政院以享禮已成, 更稟上, 乃命仍置,
1900-1910頃か?國朝人物志v3 (肅宗朝)安龍福 安鐘和 (1905-1910年頃か?)
東萊府人善倭語肅宗乙亥漂海入鬱陵島遇倭被拘於日本之五浪島時對馬島主欲占鬱陵與邊臣爭不已而倭酋實不知也龍福謂五浪島主曰自鬱陵距我國一日距日本五日非屬我國者乎朝鮮人自往朝鮮何拘島主知不可屈解送伯耆州州太守厚遇饋銀幣龍福不受曰願日本勿復以鬱陵島爲辭銀幣非吾志也太守遂稟關白作書契授之言鬱陵非日本界時館倭若將生釁國人憂之而不知爲馬島所瞞也龍福憤甚走蔚山海邊有商僧雷憲艤舟龍福誘之曰鬱陵島多海菜吾當爲汝指其路僧欣然從之遂擧帆三夜泊鬱陵島時倭舶自東至龍福目諸人縛之舟中人怯不發龍福獨前憤罵曰何故犯我境龍福追至松島又罵曰松島卽芋山島爾不聞芋山亦我境乎麾杖碎其釜倭大驚走龍福轉至伯耆州言 其狀太守悉捕治之龍福乃詭稱鬱陵監稅官升堂與太守抗禮大言曰馬島之居間矯誣豈獨鬱陵一事我國所送幣貨馬島轉賣日本多設機詐米十五斗爲一斛馬島以七斗爲斛布 三十尺爲一匹馬島以二十尺爲匹紙一束甚長馬島截爲三束關白何從而知之不能爲我達一書於關白乎太守許之馬島主父時在江戶聞之大懼乞於太守曰書朝而入則吾兒夕 而死子其圖之太守歸語龍福曰毋庸上書且速歸馬島如更爭界者可差人賚書來於是倭知不可復誑貽書于東萊府謝曰不敢復遣人至鬱陵[주:碩齋稿]
1908『増補文献備考』
初東莢安竜福隷能櫓軍、善倭語、粛宗十九年夏、入海漁採、漂到欝陵島、遇倭船、被拘入日本五浪島、竜福言於島曰
島主知不可屈、解送伯耆州、州大守厚遇、餽銀幣、竜福不受曰、願日本勿復以鬱陵島為辞、受銀非吾志也、太守遂稟関白、作書契授之、言欝陵非日本界 行至長崎島、島主即馬島之党也、求見書契、出示之、奪不還 送竜福干馬島、時馬島主、偽籍関白命、数以欝陵島争之、其実非関白意也、欝陵饒魚竹、倭利其有、且差倭至、則国家待之、豊厚、倭因此来往不止 至是恐、竜福尽発其奸状、牢囚久之、押送東莢、又囚干館、前後九十日、始還 竜福、言於府使、竟不聞、明年接慰官、至東莢、竜福又訴前事、朝廷亦不之信也、時差倭累至、若将生釁、国人憂之、而不知為馬島所瞞
竜福憤甚、走蔚山海辺、有高僧雷憲等艤舟、竜福誘之曰、欝陵島多海菜、吾当為汝指其路、僧欣然従之
遂挙帆三昼夜、泊欝陵島、倭船自東至、竜福目諸人縛之、船人怯不発 福転至伯耆州、 言其状太守悉捕治之、竜福乃詭称欝陵監税関、升堂与太守抗礼、大言 大言馬島之居間矯誣、 覚但欝陵一事、我国所送幣貨、馬島転売日本、多設機詐、米15斗為一斛、馬島以七斗為解、布30尺為一疋、馬島以て二十尺為疋、紙一束甚長、馬島戴為、三 束、関白何従而知之、不能為我達一書於関白乎
大守許之、馬島主父、時在江戸、聞之大懼、乞於大守曰、書朝而入、則吾児夕而死、子其図之、大守帰語竜福 曰、母庸上書、且速帰、馬島如更争界者、可差入もたらす書来 竜福還泊襄陽、告于官、且献在伯耆時、皇太守文、以証前事