まず、朝鮮王朝の捜討官が書いた鬱陵島詳細地図の地名と配置を検証してみると、以下のようになる。
孔巌から芋田附近まで反時計回りに地名を見る。
孔巌から時計回りに南西通九味までを検証
鬱陵島の地勢が詳しく判る1917.18年総督府地図を基に検証する。
まず、最初に、中心地店の確認。
A:歴代の朝鮮王朝の捜討官は、中峯から四方の距離を算出しており、更に目印として船を止めるところ、沿岸の附属の岩、住居・竹田、石葬などを書いている。よって、中峯・聖人峯地点を”A”基点とする。
次に、鬱陵島南端の可頭峰を目印にしたいが、地図によって書かれていたりかかれて居なかったりとまちまち。
よって、凡その詳細図に書かれている鬱陵島南南西に位置する通九味をB基点、および鬱陵島北部に書かれる孔巌をC基点と考える。
総督府地図を見てみると、A聖人峯から東南方向、芋洞へ注ぐ芋田川が流れている事がわかる。ここは朱沙谷と書かれており、おそらく聖人峯附近から流れ出る” 朱沙”が堆積したりしていることからこの川が東部の川で一番顕著なものである。この大きい川と芋田の組み合わせを”D"とする。
また、この芋洞附近は、芋洞をはさんだ北即ち乃守田に、山から流れる川あり、南即ち大中芋洞にもこの朱沙谷からの川が流れている。つまり川が集まる顕著な場所と認識できる。
また、1882年の鬱陵島内圖をみると、聖人峰の南から東南に流れる1本、峰の北から東に流れる2本の川が確認できる。
于山島が書かれている場所を比較する。特に、南西にある場所、および対岸にある場所を検証する。
1711 山から流れる最も顕著な川の下流・舡泊可居䖏の北東に所謂于山島
所謂于山島の前に川あり。此のあたりを倭舡倉と刻石立標
倭舡倉の更に北に所謂佇田洞あり
1750.山から流れる一本の長い川の下流・道荘邱尾の北(東)に所謂于山島
所謂于山島の前に二手に分かれる川あり。此のあたりを倭舡倉と刻石立標
倭舡倉の更に北に所謂芋田洞あり
韓中 芋田・川・倭船倉の北東に大于島(竹嶼)
竹嶼の前にも川あり。
竹田あり
三陟 芋田・倭船倉・川の北東に大于島(竹嶼) 竹嶼の前にも川あり。
1882.芋田の北東に竹嶼
竹嶼の前に雄通邱尾、
その北、島項の前に船板邱尾
1883 大芋浦・小芋浦が、「碇が浦」と認識されており、その北東に竹嶼がある。
竹嶼の対岸は臥達里とかかれている。
臥達里の北には観音埼と島項
1900 芋浦、古芋浦の北東に竹嶼がある。
竹嶼の対岸は臥達里とかかれている。
臥達里の北には観音埼と島項,亭石圃が書かれている。
1711年と18世紀中旬の地図においては、所謂于山島は、「舡拍可居䖏」および「道荘邱尾」の北東、
もしくは、倭船倉東対岸に所謂于山島があり、さらに北に芋田が書かれている。
道荘邱尾には、二つの立岩が書かれているので、此の附近が芋洞や道洞であることが考えられる。
つまり、1711年の地図の、東南の舡拍可居䖏が現在の芋洞附近であったと思われる。
三陟圖と韓国中央図書館圖・李奎遠の圖には、 竹嶼(大于島)は、芋田や倭舡倉の北東にある。
李奎遠圖にかんしては、竹嶼対岸に雄通邱尾があり、その北に舡板邱尾がある。
1883年の地図および1900年の地図および1902年の報告によると、てっせみ島(竹嶼)は臥達里の前洋にあるので、、竹嶼の前にある地名即ち臥達里は、1711/1750の地図だと倭舡倉であり、1882年の地図であると雄通邱尾であると考えられる。ただ、乃守田附近も竹嶼の前にあるともいえるかもしれない。 或る韓国人は、刻石立標がでてきたのは道洞であるので、1711年の地図における、倭船倉-道洞の刻石立標の前にある島は竹嶼ではない、と主張する。
ただ、これは、刻石立標は、道洞の港の改修工事の際、事務所にあったのを発見したのであり、道洞港から出てきたものではないが、”独島”博物館では、なぜか話が”海の中からでてきた話”に摩り替わっている。
また、1711年の 左から、「孔巌+中 小小 大 小小 所謂于山島」の石峯のうち、孔巌+中の東に有る 「小小大」(赤で5と囲まれているもの)を三仙人岩とし、残った小さい二つの岩(赤で4と囲まれているもの)を
、18世紀中旬頃の海東地圖の、道荘仇尾付近の2本の立岩にあてはめ、1711年の所謂于山島 は、二本の立岩の南に或ると指摘するつまり倭船倉を道洞、箸田を芋道とし、所謂于山島は道洞前にあるので、これは現竹島だと主張するのがいる。 また、彼らの主張は、「1711年の鬱陵島圖形において”佇田”(赤で3)に相当する場所は、現在の芋洞”であるので、芋洞の南にある道洞が倭船倉であると主張し、つまり東南道洞に竹嶼はないので、これは現竹島だと主張するのが要る。まず、1711年の鬱陵島圖形に書かれた、聖人峯から東南方向に向かう大きな川は、無名の「舡泊可居䖏」に注いでいる。この周りは、川を挟んで、それぞれ2・3箇所の基址があり、居住場所としては顕著である事が言える。前述の、「于山島が書かれている場所を比較する。特に、南西にある場所、および対岸にある場所を確認する。」で述べたとおり、竹嶼の前洋にあるのは臥達里であるので、1711年の倭船倉は現在の道洞ではない。芋洞や道洞附近と考えられる場所は、1711年の圖形においては、山から流れ、顕著な居住場所がある「舡泊可居䖏」へ注ぐ川と考えられる。
次に、韓国側が主張する、「小さい二つの岩(赤で4と囲まれているもの)は、道洞附近の二つの岩で有る」と云う主張が妥当であるか考える。
これも、他の捜索討官の地図等と同様に比べてみる。どの捜討官の地図は、大凡、孔巌・錐山・錐峰・竹岩・三仙岩を書いている。韓国中央図書館と三陟博物館(左と右)をよく見てみると、
竹岩と三仙巌の描写は、どうも 1(蟻竹岩)+3ではなく、地図によっては1(蟻竹岩)+2(龍巌)に書かれている。国中央図書館の地図は、蟻竹岩(竹岩)の横に大きな一本と、更にその右に2つの岩が「龍岩」が書かれている。これは1883年の地図において、「大岩(竹岩)+燭台岩+兄弟岩に相当する。1+3として書かれている。三陟博物館圖には、蟻竹岩(竹岩)と龍 岩(1883年の兄弟岩)は書かれているが、燭台岩がかかれていない。つまり1+2として書いている。韓国中央図書館の地図は、蟻竹岩(竹岩)の横に大きな一本と、更にその右に2つの岩が「龍岩」が書かれている。これは1883年の地図において、「大岩(竹岩)+燭台岩+兄弟岩に相当する。1+3として書かれている。三陟博物館圖には、蟻竹岩(竹岩)と龍 岩(1883年の兄弟岩)は書かれているが、燭台岩がかかれていない。つまり1+2として書いている。これは3本あると見える三仙巌の東側の巌は、”一頭両根の巌”とも云われるので、これを”2”と勘定せず”1”と認識して書いたとも言える。よって、1711年の地図における「小さい二つの岩(赤で4と囲まれているもの)が1750年の地図における道荘邱尾つまり今日の道洞にある二つの立岩と同じもので有ると云うのは間違っており、さらに、即ち道洞の前にある「所謂于山島がが現竹島で有る」」というのはむりである。
では、1711年の地図に記載された所謂于山島の対岸に記載された”倭舡倉”と、その北に有る”佇田洞”はどこか?と言う話になる。
このヒントは、日本圖に有る。
日本圖の検討
これらの日本の地図は、おもに1696年の鬱陵島・現竹島・隠岐の地理認識に基づいて記載されている。これらは、ちと、詳細図というには心もとなく、
特に、西部及び北東部が弱い。磯竹島略図だけ若干、地名と場所が此処にあげるほかの鬱陵島圖と違っているが、
大凡、、大阪浦が天府洞、古大阪浦が臥達里、濱田浦が芋洞、道洞に当てている観がある。
濱田浦は、どの地図を通じて、一番顕著な港になっている。更に、「いがしま(竹嶼)」から南西にあるのも踏まえ考慮すると恐らく芋洞や道洞であろう。
古大阪浦は、濱田浦の北側に有り、かつ、いが島の対岸に書かれている。恐らく、現在の臥達里と考えられる
”古”大阪浦の前にいが島(竹嶼)が書かれ、其北に間の島(観音島や三仙巌)が書かれている。
古大阪浦とは別に大阪浦が有ることを考えると、当初は”古大阪浦”に居たものの、利便性を考え、”天府”であると考えられる”大阪浦”に移動した可能性が高い。
つまり古大阪浦は、竹嶼の前に有るが不便そうな場所つまり臥達里で有る可能性が高い。これが1711年時、倭船倉だった可能性が高い。(島項の付け根には、舡倉という地名が一応有る。) 天府に移動した理由は、居住するに良い条件が揃っているからである。上の写真を見ると、確かに対岸には多少平地があり、その向こうは山が急に切り立っている感がある。なお、1882年の李奎遠の地図においては、倭船倉は天府の場所に記載されている。芋洞の北東にある竹嶼の対岸臥達里の北には、観音崎(島)があるが、その対岸は何であるか検討する。また、1883年の地図において、観音埼の対岸にある場所は島項(半島)および臥達里、その西に大岩や倭船倉がある。
1900年の地図において、観音埼の対岸にある場所は島項,亭石圃が書かれ、その西に竹岩洞がある。
これを、韓国の古地図に当てはめて検討すると、
1711 「舡泊可居䖏」の北東に「所謂于山島」、その対岸に「倭舡倉と刻石立標」があり、
倭舡倉の更に北に所謂佇田洞あり、観音島は無いが、すぐ近くに三仙岩などがある。
1750.「道荘邱尾」の北(東)に「所謂于山島」、その対岸に「倭舡倉と刻石立標」があり、
倭舡倉の更に北に所謂芋田洞があり、観音島は無いが、すぐ近くに三仙岩などがある。
韓中 「芋田・川・倭船倉」の北東に「大于島(竹嶼)」があり、対岸には地名はない。(人がいないのか?)
その「大于島」の北に竹田があり、対岸に「小于島」があり、更に北に三仙岩などがある。
三陟 「芋田・川・倭船倉」の北東に「大于島(竹嶼)」があり、対岸には地名はない。(人がいないのか?)
その「大于島」の北には特に地名はないが「小于島」があり、更に北に三仙岩などがある。
1882.「芋田」の北東に「竹嶼」があり、その対岸が 「雄通邱尾」
「雄通邱尾」の北、島項の前に「船板邱尾」
1883 大芋浦・小芋浦である「碇が浦」の北東に「竹嶼」があり、対岸は臥達里とかかれている。
「臥達里」の北には観音埼と島項
1900 芋浦、古芋浦の北東に「竹嶼」があり、その対岸は臥達里とかかれている。
臥達里の北には観音埼と島項,亭石圃が書かれている。
此の事から、1711年の地図に書かれた所謂苧田は石圃や島項の付け根”舡倉”附近であった可能性が高い。
ちなみに、Naesyhibg乃守田から、観音島と竹嶼がみえる。Videoを見てみると、此の附近は楮が生えている。
http://video.aol.com/video-detail/span-from-the-naesujeon-sunrise-observatory/314566470
日本圖において、可頭峰と思われる鬱陵島南部は恐らく唐船が鼻である。 朝鮮圖では余りはっきりしないものの、日本圖ではしっかり認識している。
この後、今津屋八右衛門がしるした1830年代の地図を基にした鬱陵島圖は、地名名称は入っていないものの、島の大きさ、位置等は地図として使用できる精度であると考える。
日本圖、および朝鮮王朝の捜討官の詳細地図は、近代的測量による地図ではないものの、
おおよそ正しい鬱陵島の地形を網羅している。多少巌の位置の間違いやばらつきが有るものの、これは正確といえる範疇と観てよい。
韓国側は、これら絵図は、当時の朝鮮王朝が間違ったからだと無理な言い訳をするが、
それは、現在の彼らにとってこれら地図が間違っている事にしないと、現在の彼らの歪曲を隠せないからである。
これらを総括すると、
1.所謂于山島には、海長竹が生えている。 当然現竹島りゃんこには竹は生えていない。
2.所謂于山島は、鬱陵島の東にごく近距離(5里?)書かれている。 しかし、現竹島と思われる島は、東南300里以内の場所に有る。
3.鬱陵島圖形の範囲は、東西80里南北50里周囲200里である。張漢相は、鬱陵島単体では周囲150-160里としている事から、周囲200里は竹嶼 や孔巌など、周辺の附属島を含めた値であると思われる。 しかしながら、東南300里以内に有るとされる現竹島はこの中に入る事ができない。
よって、やはり所謂于山島も竹嶼であり、現竹島ではないのである。
香木亭
玄圃から小錐山と錐山をみる。
錐山 小
孔巌
錐山 大
天府
三仙巌
観音島
竹嶼から対岸臥達里(船板邱尾?)と雄通邸尾、観音島
臥達里
乃守田から竹嶼、観音島
芋田
芋洞と道洞の間
道洞
道洞~可頭峰
通九味・亀巌
南陽洞 ・獅子巌