1882.5月の李奎遠の鬱陵島調査時の滞在者内訳
(この時の人口統計)
A:全羅道興陽三島居 <金 専門>載謹 率格卒二十三名 造船採金 専門云云
B:平海船商崔聖瑞 率格卒十三名 結幕留接
C:慶州人七名 結幕採藥
D:延日人二名 亦結幕刈竹
E:全羅道楽安居 船商李敬七 率格卒二十名
F:興海(専門:興陽)草島居 金謹瑞 率格卒十九名 各結幕造船
G:止宿於坡州居 藥商鄭二X
H:乃是咸陽居 採藥人全錫奎之住接處
I:全羅道興陽三島居 李敬化 率格卒十三名 結幕採藿
J興海(전문 興陽)草島居 金乃彦 率格卒十二名 結幕造船 日暮止宿
K興陽草島居 金乃允 率格卒二十二名 結幕造船
之だけを見ると、全羅道出身が多いように見えるが、次の記録を見ると、ゴッソリ居なくなっている。つまり、一時的渡航者であった可能性が頗る高い。
1883.04江原道鬱陵島新入民戶人口姓名年歲及田土起墾數爻成冊
A:大黄土浦;台霞 : 4世帯 16人, 5ソックジ
慶尚道(1, 中の;安義), 江原道(3, 江陵;江陵)
張徳来 年 72, 本忍冬
妻金さん 年 59, 本安東
息子ギヒョン(〓現),年 33
次男機影(〓英) 年 25
セッチェアドルギヤング(〓良), 年 6
慶尚道の中の(安義)から入って来る. 開墾 2ソックジ
金?泰 年 65, 本江陵
息子鐸郷 年 37
嫁女李さん, 年 35
孫辰燮 年 14
二番目孫 在福 年 2
江原道江陵から入って来る. 開墾 1ソックジ
李回永 年 36, 見た平昌
妻朴さん, 年 36, 本密陽
息子仁甲 年 14
次男義甲 年 11
江原道江陵から入って来る. 開墾 1ソックジ
黄守万 年 24, 本刺身山(桧山)
妻李さん, 年 17, 見た平昌
江原道江陵から入って来る. 開墾 1ソックジ
B:谷浦;南陽 : 5世帯, 5人, 1.5席 15斗落誌.
京畿道(1), 慶尚道(4, 先山, 連日, 競走(2))
背景民(〓敬敏), 年 33, 本金海
京畿道から入って来る.
尹果烈 年 40, 見た坡平
慶尚道先山から入って来る. 開墾 1ソックジ
卞吉良 年 36
慶尚道連日から入って来る. 開墾盤石誌
宋景柱 年 67, 見たヨサン
慶尚道慶州から入って来る. 開墾 5斗落誌
金成彦 年 56, 本競走
慶尚道慶州から入って来る. 開墾 10斗落誌
C:錐峯;錘山 : 2世帯, 8人, 4ソックジ
江原道(1, 蔚珍), 慶尚道(1, 安東)
田在桓 年 33, 本潭陽
妻株さん, 年 34, 見た熊川
息子時竜 年 5
次男越竜 年 3
親族おじさん旒, 年 58
親族弟有桓, 年 31
ブラシである(率人) ベサングサム(〓尚三), 年 32, 居住地大邱
江原道蔚珍から入って来る. 開墾 3ソックジ
朱晋鉉 年 32, 本能性
慶尚道安東から入って来る. 開墾 1ソックジ
D:玄浦洞 : 5世帯, 25人, 4席 5斗落誌.
江原道(3, 蔚珍, 江陵2), 忠清道(2, 忠州)
鄭直源 年 70, 見た連日
息子雲杓 年 31
嫁女及び娘合 5人
江原道蔚珍から入って来る. 開墾 2ソックジ
趙鍾桓 年 39, 本漢陽
忠清道忠州から入って来る. 開墾 5斗落誌
やもめ李さん母女
忠清道忠州から入って来る.
洪景燮 年 57, 本南洋
妻金さん 年 55, 本江陵
息子在翼 年 34
嫁女金さん 年 36, 見た黄株
孫守曽 年 5
孫娘 年 11
二番目孫娘 年 1
次男在敬 年 20
江原道江陵から入って来る. 開墾 1ソックジ
崔在洽 年 82, 本江陵
息子亨坤 年 50
嫁女金さん 年 40
孫河竜 年 13
二番目孫又竜 年 7
孫娘 年 22
次男桂秀 年 44
江原道江陵から入って来る. 開墾 1ソックジ
1889.07.17.江原道關草 日本人が24隻186人で鬱陵島に来る
越松萬戶 徐敬秀의 牒呈에 따르면‚ 울릉도에 到泊한 日船 24隻과 日人 186명이 전복을 채취하기 위해 入來하였다고 하니 그 作弊를 막기 어려우며‚ 該萬戶의 請由 역시 擅便하기 곤란하므로 統理交涉通商事務衙門에서 임금께 상주하여 분부를 받아달라는 報告. 東營 → 統理交涉通商事務衙門(1889년 7월 17일) 힘써 관칙할 것.
1890.02.28.江原道關草 日本人が5隻30人で鬱陵島に来る
平海郡守兼鬱陵島僉使 梁性煥의 보고에 의하면‚ 2월 28일 巳時에 일본인 30명이 5隻의 어선에 승선하여 와서 울릉군 厚里津에 정박하였는데‚ 海産會社漁網 5機를 싣고 江原道支社監官인 金敏容이 인솔하여 왔기 때문에 安棲하게 했다는 報告. 東營 → 統理交涉通商事務衙門(1890년 2월 28일) 도착했음.
1897.04.08.獨立新聞
一次資料捜索必要
1890.07.18 人口を報告したとの記録(内容わからず)
越松萬戶가 아뢴 鬱島를 檢察한 형편과 民戶 總數 및 墾田 斗數를 구별 成冊하여 의정부에 올려보냈다는 報告. 東營 → 統理交涉通商事務衙門(1890년 7월 18일)
1898.05.26.鬱陵島區域을 地方制度中添入에 關 請議書 戶數 277/ 男女人口1137
鬱陵島가 東溟에 孤立야 海陸隔絶이 固天所限이기로 形便에 如何와 居民의 幾許 猶或未詳이기 粤在開國五百四年八月十三日에 該島島監擇差므로 請議와 同月十六日에 上奏裁可시믈 經기 同年九月二十日에 該島人裵季周로 島監差定고 該島監은 判任官待遇므로 官報에 揭載고 本島管理 專任야 形便과 戶口 從實調査後報來케 온바 該員의 報來成冊을 接準온즉 居民의 戶數가 二百七十七이오 男女人口 合一千一百三十七이오 田土起墾이 四千七百七十四斗落이다온 此 竊査온즉 該島의 人戶數와 土地起墾이 如期온 境遇에 不容不地方制度中添入오미 妥當기 此段勅令案을 會議에 提呈事
1899.09.02 在元山 領事 武藤精次郞 鬱陵島 出張復命書 送付 件]日本人約200人在住
今般鬱陵島ニ在本邦人ノ樹木採伐者禁制ノ爲メ軍艦摩耶ニ便乘同島ニ出張スヘキ旨ノ御電訓ニ接シ客月二十六日元山出發該島ニ向ヒ候處天候不良ノ爲メ達スル事能ハス二十九日釜山ニ寄航致シ候義ハ旣ニ電報ヲ以テ上申待命中ニ有之候然ルニ先般該島ニ赴キタル當釜山港稅關長「ラポウト」氏ノ說ヲ聞クニ該島ニ現在移住スル本邦人ハ男女合シテ凡二百餘名ニ及居候趣ニ有之候然ルトキハ此盜伐者ヲ悉ク軍艦ニ便乘セシムル事能ハサル可キニ付御電訓ノ趣旨ニ基キ嚴シク向後ヲ戒シメ可成速ニ立退ヲ命スヘク候得共便船ナキカ或ハ直ニ立退ク能ハサル事情アルトキハ日數ヲ限リ立退ヲ命ス可ク候得共該島ハ碇泊場ナキ爲メ天候宜シキ時ト雖トモ僅カニ四五時間ノ外碇泊スル事能ハストノ事ニ有之候間其期限內ニ果シテ立退キ得ヘキヤ否ノ點ニ至リテハ到底見屆クル事ヲ得サル可ク若シ然ルトキハ執行濟マテ同島ニ止リ更ニ軍艦ノ回航ヲ待ツヘキヤ何分ノ儀電報ヲ以テ御訓示相成候樣致度此段及上申候 敬具
1899.09.23 皇城新聞 鬱陵島概況
居民은 男女 約 三百口이니 數十年來로 漸次 船匠商客과 漁人耕夫가 相隨而至하야 居生하는되 海水가 太深하야 魚産은 未益하고다만 海菜의 連出이 每年에 二千 擔에 多至하고 土質은 膏沃하야 糞漑 를 要치아니하고 樹叢燼炭로 覆耕하야 一年兩熱을 得하니 春季에는 大小麥이오 秋季에는 薯와 豆인 되 上年所穫 二萬包, 大麥二萬包, 黃豆一萬包, 小麥五千包이오 地勢가 太斜하야 禾穀은 耕作지 못 하고 材木은 老年巨杉과 各種貴重寶木이 亦多하고 槻木 香木 柏子木 甘湯木이 産有하어라 大陸과 通商이 極少한 되 往往히 商簇의 輸入하는 物資는 食物烟草 布 疋等 數包*이오 其 載出하는 物品은 海菜가 居多하고 板木 도 間(聞?)或 裝* 하더라
1900.06.06 禹用鼎 鬱島記 http://sites.google.com/site/takesimarecords/Home/1900u-jong-tong
(中略)
粵 在皇上 踐祚聖德巍蕩遐通 一體率土之濱莫非王民 頃於壬午 命帥臣李奎遠爲開拓使 在前潛渡日人一千五百餘名 盡爲撤歸後 關東人七八家先入 而嶺南人十餘家 隨入倚巖 爲屋放火菑田 自此以後 八路之人 稍稍移來 漸成村落 然而鼠灾甚酷 田穀無遺 其時島長徐敬秀 告狀政府 領議政沈舜澤 筵奏劃下 三陟蔚珍平海三邑 還穀中三百石 以賑島民 自是以後 生齒日蕃 土地漸闢 儼成一都會 然挽近日人 浸浸潛越 侵虐居民亂斫木料 島監裵季周 自丙申到任以後 禁止不得 屢度報告 內部大臣李建夏 深慮弊源 上年九月 以本部視察官 爲調査委員 使之前往詳察該島情形之意 上奏裁可 而余以不才猥承此 命又與日本公使 會辦外部 迺於本年五月卄五日 發向仁港. 越七日 與日本警部補渡邊鷹治郞 搭乘木曾川丸 直向釜山港. 卄九日 午後 到泊會同 監理署主事金冕秀 海關稅務士法人羅保得 同幫辦金聲遠 日本副領事赤塚正輔 同警部渡邊鷹治郞 我國保護巡檢申泰炫 金亨郁 日本保護巡檢二人 共搭本國蒼龍丸. 三十日 發向鬱島 越翌日 上午八点 遠見本島 峯巒羅列 而雲靄矇籠 至下午一時 始泊道洞浦口 此是本島監私室處也. 其翌日 卽六月一日 與日領事 會同調査 稅務司則在傍參聽一連. 三日 査問日人與島監而所供相反 盖日人則本是潛越犯法 一直飾辭 發明所致更無可査問. 翌日 會同更搭輪船 巡察全島 而住輪下陸 則天府洞之古仙浦 玄圃洞 台霞洞 三洞 而台霞洞洞壑圓開 地勢平鋪 有官舍八間 赤有前人題銘 依舊例致誠于山神堂 曉諭洞民 而日已沉西 故悤悤還島. 五日 各洞民人等狀禀目告訴 還至左酬右應少無間隙且 輪船不可多日留泊 石炭亦告乏 島中民雖欲挽留 事機無奈.
(中略)
吠全島長可為七十里 広可為四十里 周迴亦可為一百四五十里 而自壬癸開拓以後 至今居民為四百余家 男女共為一千七百口 起墾火田為七千七百余斗落 而厥土沃●播穀豊 登所種則大小麦黄豆甘藷 家家足粮水利 則採●
1900.06.12.在釜山 領事官補 赤塚正輔 [鬱陵島 調査槪況 및 山林調査槪況 報告의 件]
第四. 島治
島民戶數五百二十餘人口二千五百有餘島監ナル者アリテ島治ヲ司ル島監ノ下ニ各村ニ村長ナルモノアリ村ノ世話役ナリ島監役場ハ今マ道洞ト稱スル所ニアリテ現島監ヲ斐季周ト稱ス韓廷ヨリ一文ノ俸給ヲ受ケス又嶋民其他ヨリ收入少キヲ以テ貧窮ニシテ無勢力ナリ加フルニ權力ナキヲ以テ島民ノ八分ハ尊敬シテ其命ニ服セス故ニ治績擧ラス島民相互ノ間ハ隣保相親シミ能ク共同生存ノ秩序ヲ保テリ斐島監ハ日本ニ三度到リタルコトアリテ稍々日本語ヲ解シ日本人ノ爲メニ頗ル便利ナリト雖トモ彼レ日本ニ到リ槻木材ノ日本ニ於ケル價値ヲ知レル故ニ常ニ自ラ伐採シテ日本人ノ一人ニ結托シ利益ヲ專ニセントノ考アリ昨年以來彼レカ韓廷內部ニ向テ日本人槻木盜伐云々ヲ報告シ又ハ島民槻木ヲ視ルコト生命ノ如シナト云ヘルハ全ク右ノ魂膽ニ出ルモノニシテ島民ハ槻木ノ價ヲ解セス山ニ入リテ見ルニ皆之ヲ薪炭用トシテ伐採シ居レリ此ノ如キヲ以テ島監ト日本人ノ間ハ感情面白カラス
第五. 在島日本人
在島日本人ハ重モニ島根縣人ナリ其數ハ年ト時ニ依リテ增減アリ一定セス現在ノ數ハ百人內外ナリ在嶋日本人ノ話ヲ聞クニ日本人ノ該島ニ初メテ來リタルハ明治二十四年黐製造ノ爲メ七人渡航シ來リタルヲ始メトシ其後續テ入リタルモ二十五年ヨリ二十八年迄ハ明ナラス二十九年以後二百人內外在嶋セリ重モニ欅木伐採者竝ニ其附屬員ナリ目下在島ノ百人ハ日本ヨリ元山若クハ釜山ニ向ツテ渡航ノ途中天氣ノ都合ニ依リ寄港シタル者及態々來島シタル者ナルカ船舶ノ出港免狀及旅券ハ多ク元山若クハ釜山宛テナリ彼等ハ道洞ト稱スル村ヲ中心トシテ集マリ其他各所ニ散在ス彼等ハ一ノ組合ヲ作リ幹事ヲ置キテ相互ノ秩序ヲ維持ス
1900.12.08
右 該島가 東溟에 特立야 大陸이 遠隔온바 開國五百四年에 島監을 設置야 島民을 保護고 事務 管掌케 該島監 裵季周의 報牒과 本部視察官 禹用鼎과 東萊稅務司의 視察錄을 參互節査온즉 該地方이 蹤可八十里오 橫爲五十里라 四圍峭壁에 中有巨山야 自北止南고 間有大川야 深廣이 幾容舟楫고 其土가 沃腴고 其民이 質野야 自數十年來로 民蓄이 蕃殖야 戶數가 爲四百餘家오 墾田이 爲萬餘斗落이라 居民의 一年農作擔包數爻가 藷爲二萬餘包오 大麥이 爲二萬餘包오 黃豆爲一萬餘包오 小麥이 爲五千包라 오니 大率戶數와 田數와 穀數 陸處 山郡에 較計오면 數或不及이오나 不甚相左더러 挽近外國人이 往來交易야 交際上도 亦有온지라 島監이라 稱號오미 行政上에 果有妨碍기로 鬱陵島 鬱島라 改稱고 島監을 郡守로 改正오미 妥當기 此段勅令案을 會議에 提呈事
1901.01.朝鮮開化史 東亜同文会蔵 国友重章 恒屋盛服
金崗山の一支東海に入る六十余里峙立しして鬱陵島となる一に蔚陵と書す即ち古于山国なり後新羅に入る別名は武陵、羽陵共に而音相近きに因る大小六島あり其中著名なるを于山島(日本人は松島と名く)竹島といふ全島の面積約七十五方哩島中耕作すべきの地多からず樹木は海浜より山嶺に至るまで欝密す山高さ四千英尺にして海岸X峻三哩内海中の水深六千英尺より九千六百英尺に至る居民は男女三百口数十年以来船匠商買及漁、大農夫合相XでXり住居ス海水甚だ深きを以て魚産未だ盛んならずと雖も海菜の運出毎年二千荷を超え土質X沃にして肥料灌漑を要せず只樹業X灰を以て覆耕す春作は大小麦にして秋作はX及び豆の頻なり林産は老巨の杉松及各種ノ実木にして亦多く塊木、香木、柏子、甘湯木を讃す今王二十三年韓廷金玉均をもって東南諸島開拓史兼捕鯨使に任じ白春培を以て従事官となし該島開拓事務をX理せしめたるが翌年形京白の変ありて果さず其後島民徐敬秀を以て越松萬戸に差定し該当人民を繁殖し外国人の樹木伐採を防禁せしめたり。
1901.06.15.黒龍界 韓国沿海事情 P13 第一巻第二号 葛生修吉
本島は、往時は住民極めて稀すくなりしも、近世に至りて商売及び農夫漁夫等のXり住する着相Xき、本邦人亦た此XにX居し、韓人の戸数約四五百に達し、本邦人亦た此聞迄は其数殆んと三百人に達したりしが、一時本邦政府より退去の命令ありてより減少して今は百四五十人の居住に過ぎXと云ふ、是れ等の本邦人は概ね鳥取県下より直接渡航したるものにして樹木の伐採及び大豆、石花菜等の密輸出を以て営業とし純然たる日本村を成し、中には避け、煙草、紙、油其他日用の雑貨店あり、二三の料理店を開き酌婦の来り住するもの亦た之れありと云ふ
1902.10.10.「通商彙纂」 第234号
「本島韓民は古来永住の者なく今を経る廿一年前江原道より裴季周、金大木、下(?)敬云、田士日の四名来航し同行者は協力以って山間を開拓し、畠地を作りて農 耕を業とせり、然るに其翌年に至り江原道江陵地方より黄鐘海、崔島守、田士雲、金花淑、洪奉堯、李孫八及全羅道地名不詳張敬移の七名来島せし以来年々歳々 江原慶尚威鏡全羅の四道より移住するもの多くして・・・」
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/tsushoisan-1902/
1903.08.10.皇城新聞, 雜報 鬱島報告 http://search.i815.or.kr/ImageViewer/ImageViewer.jsp?tid=ns&id=HS1903081002
鬱島郡守 沈興澤氏가 內部에 報告하되 該島居民이 各處에 居하야 十五洞이오 戶數난 五百戶이고 所産之物은 麥太甘藿이라. 其○○組織하난 節次난 人民의 方便을 隨하야 磨鍊하려니와 在鄕 各浦에 在한 日人이 六十三戶인 日日伐木이 無限故로 郡守가 來駐하난 日檢을 請하야 談辦하기를 外國人이 內地에 入하야 材木을 伐去이 當初不法일더러 今己設部하얏슨 則 鬱島郡守의 管轄하난바 已往事난 勿論하고 玆今以後로난 不可伐木이오 ○○도亦嚴禁하라한즉 日巡査言內에 此島內에 伐木이 已過數十年이오 又貴政府와 日公使가 交涉하야 ○○○○가 無한즉 巡査난 不能禁斷이라하니 日公使에게 照會하야 妥商하라하얏더라.
1906.奥原碧雲著「竹島及鬱陵島」 出版明治40年
「在島韓人は、主として、江原道慶尚道地方より移住せしものなり。」とある。
http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/ishijima2.html
1907. 明治40年05月調査 韓国戸口表 政府財政顧問本部 P192
慶尚南道 鬱島郡
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994116/100
1909.05.13. 皇城新聞 鬱陵島戸数
https://search.i815.or.kr/ImageViewer/ImageViewer.jsp?tid=ns&id=HS1909051302
韓国人4661人899戸
日本人0713人/213戸
1909.08.21 皇城新聞 鬱陵島戸数
鬱陵島 釜山から180浬
https://search.i815.or.kr/ImageViewer/ImageViewer.jsp?tid=ns&id=HS1909082103
韓国人7000余人
日本人0673人
1910.07.19.
https://search.i815.or.kr/ImageViewer/ImageViewer.jsp?tid=ns&id=HS1910071901
韓国人891戸
日本人209戸
「朝鮮人たる住民は江原道沿岸及び慶尚北道の移住者大部分を占め」とあります。
「暮らしのなかの技術と芸能」(平凡社)
「鬱稜島は1882年(明治15年)に開拓令が出され韓国人が定住するようになったが、それまで国家の空島政策により韓国人の定住がなかった。その定住の経緯を李永官氏(1921年生まれ)は次のように語っている。
鬱稜島の90パーセント以上の人が江原道、慶尚北道、慶尚南道から移住してきた人々である。全羅道からは機帆船、船を造るための材木を運ぶ目的で 鬱稜島へ来ていたが住み着く人はほとんどいなかった。 」