・1880年の戦艦天城の鬱陵島調査の前と後の公的な地図の変化
参考:竹島考証の参考文献(北沢)
朝鮮書 東國通鑑 東國輿地勝覽 高麗史 通文館志
支那書 右武備志 登壇必究 圖書篇 八篇類纂 朝鮮賦
國書 大日本史 竹島雜志 竹島圖說 朝鮮通交大記 善隣通書 竹島紀事 竹島考 磯竹島覺書 因府年表通航一覽 公信類 竹島書類雜纂 松島之議 松島關係書類 浦潮斯德來信 浦潮港日記
この「松島は朝鮮鬱陵島に属する于山」は、北沢正誠の竹島考証の中にある、田辺の発言として以下に出てくるものであるが、これを検証してみる。
第二十壹號 松島巡視要否ノ議 公信局長 田邊太一 (1878.08.15以降)
丁 第二十三號 公信局長 田邊太一 → 記錄局長 渡邊洪基
基本的に、”于山島”と言う語句は、どこからきているかを考えると、
①朝鮮の地誌・文献
竹嶋考証の参考文献は何かと言うと、
朝鮮書 東國通鑑 東國輿地勝覽 高麗史 通文館志
支那書 右武備志 登壇必究 圖書篇 八篇類纂 朝鮮賦
國書 大日本史 竹島雜志 竹島圖說 朝鮮通交大記 善隣通書 竹島紀事 竹島考 磯竹島覺書 因府年表通航一覽 公信類 竹島書類雜纂 松島之議 松島關係書類 浦潮斯德來信 浦潮港日記
しかし、竹嶋考証の参考文献を見ると、于山が書かれているのは、
東國輿地勝覽
高麗史
竹島考 (子山)
である。
次に、”于山”が書かれているものは、
②朝鮮や、朝鮮の認識をもとに作った朝鮮図に書かれた鬱陵島の傍らに書かれた”于山”
②の于山が書かれた地図で該当しそうなものは、以下のようなものがあるが、
さて、彼らは、これを、江戸時代の松島つまり明治当時のLiacnourt Rocskだと思ったであろうか?
もちろん、この時代はまだ鬱陵島に測量に行っていないので、鬱陵島の近くにBoussole Rockがあるとも、竹嶋Argonaut島が存在するかしないか、確信が持てない状態だと思われる。西洋の水路誌には、アルゴノート島は存在しないと書いてあり、松島Dageletの近くにはBoussole Rockが記載されてはいる桃の、彼らはまだ実検を行っていないので、恐らくは彼らの頭の中には、鬱陵島の傍らに、何か小島がある程度くらいしかわからず、それが”于山”だと思っていたのではないか、と考える。
外務省 (左)
1531.東国輿地勝覧添付図 八道総図/ 1488?.朝鮮賦
どうも、他の日本人の地図を見る限り、”鬱陵島と于山”の組み合わせを”竹嶋”と称し、それとは別に松島Dageletを書いている。
日本は、竹島は鬱陵島だと思っている。そして、それは西洋の地図ではArgoanut島にある。
磯竹島略図の中に書いてる”竹嶋”は確かに鬱陵島で、”松島”は現在の竹島であるが、
しかし、こういった朝鮮の地図、日本の地図、西洋の地図を比較すると、それぞれが違っているので当時、西洋の地図は最新の技術で最も信頼されている節があり、其の為に恐らくは磯竹島略図の認識も朝鮮の地図の認識も確信が持てなかったと推測される。それ故に、「外一島」とあいまいのまま太政官文書になったと思われる。
また、これはまだ確認が取れないのであるが、第拾貳號 松島之議ニ において、以下のような話が出てくる
二十三里餘トナル[
尤曲屈出 入ヲ合セ沿岸]去レハ彼松島卽チ「タゼラ」島ノ周圍ト異ナル事少々ナラ11ス、
圖中
南隅ニ一里半周圍ノ一島ヲ載ス、是于人島ナルベシ、
おそらく戸田敬義が提示したと思われる圖には、松島の周囲が二十三里であると書いてあり、また、その南隅に、一里半周圍ノ”1”島が記載されていると思われ、この南隅に書かれた島が何であるかで、彼らが考えていた「于山」がどれか判明すると思われる。この地図の発掘が求められる。
結局、この顛末は、1880年の戦艦天城の調査で、松島に直行し、”松島”が「鬱陵島」であると確認し更に”竹島”が「竹嶼」であると確認した。
彼らが、「竹島外一島」の「外一島」の対象を「江戸時代の松島」で、それがリアンコールド岩と考えていたならば、131度55分にあるその二つの岩島に天城を派遣していたであろう。しかし、そうではなかった。彼らは130度56分付近にある「松島」つまり鬱陵島に行ったのである。
そして、「外一島は松島」と新たに添え書きが加えられた太政官文書の写しと、その松島の内容が書かれている文書を添付したが、その内容は鬱陵島の話であったのである。