見える見えないの議論は朝鮮半島東岸がら鬱陵島が見えるという話であり、鬱陵島から現竹島が見えるという翻訳ではない。



韓国側がテンプレートの如く出してくるものの一つのうちに、于山島は鬱陵島から見えると朝鮮の地誌に書いてあるから于山島は現竹島である、と強弁してくる。

1452.00.00.
高麗史 地理誌  卷五十八 蔚珍県
蔚珍県本高勾麗于珍也県[一云古□伊郡] 新羅景徳王 改今名為郡 高麗 降為県置令 有鬱陵島[在県正東海中 新羅時称于山国 一云武陵 一云羽陵地方百里 ..................(中略)................
 一云 于山武陵本二島相距不遠 風日清明 則可望見


1454.世宗実録 地理志 江原道襄陽襄陽:江陵の北)
于山、武陵二島在縣正東海中、二島相去不遠、風日清明、則可望見、新羅時、称于山国、一云鬱陵島、 地方百里、恃険不服

韓国側は、于山武陵二島は、(襄陽)縣の東海中にあり、二島は互いに遠くなく、天気が清明であれば、〔二島が)互いに望み見ることができる、と翻訳し、于山島と現竹島に比定して領有権を主張する。

かしこれは不正確であり、そもそも、則可望見という、原文には、たがいに見えるという記述はない。確かに、二島は互いに遠くない距離ではあるが、これがお互いに見えるとしているのではない。朝鮮王朝の地誌においては、「規式」という、地誌における書き方のルールがあり、これに基づいて記述する事になるが、島嶼を書くときのルール=規式には、半島から島嶼に関しての記述は「半島から島が見える」こととしている(詳しくはToron talker.を参照のこと)。現存する文献で、残っている最古の物は慶尚道地理誌に書かれているものである。
慶尚道地理誌 (undated) 河演等編
慶尚道地理志 慶尚道續撰地理誌,1938, 朝鮮總督府 中樞院調査課 編

一、海島。在本邑某方。水路幾里。自陸地。去本邑幾里四面周囘相距幾里。田沓幾結。民家有無。
海の島は、半島からの方角、(半島からの)航路が何里か? 陸地から何里(の距離)か? また、四面の周回の距離、田畑の結数、民家の有無

慶尚道地理誌

では、この規式と再度照らし合わせてみる。


一、海島。在本邑某方。水路幾里。自陸地。去本邑幾里四面周囘相距幾里。田沓幾結。民家有無
縣正東海中、二島相去不遠、風日清明、則可望、新羅時、称于山国、一云鬱陵島、 地方百里

海島。に対応しているものが、 于山、武陵二島
在本邑某方。に対応しているものが、縣正東海中、
水路幾里。自陸地。去本邑幾里 についてだが、この頃は、本邑から鬱陵島への距離等が分かっていないので、
二島相去不遠この二島が、ここ(蔚珍県から共に遠くない、)と記載しているのみなのです。
そして、その距離の程度が、風日清明、則可望、(天気がよければ、(打つ珍権から)見ることが出来る(距離)なのです。
四面周囘相距幾里 に関して、四面周回が分からないので、地方百里と、広さのみを記載している。

田沓幾結。民家有無にかんしては、そこまで情報が無いので書いていない。

この様な規式を踏まえ、世宗実録地理誌にも、海島がいくつか出てくるが、
やはり、半島の拠点から島への距離を各方式である。
世宗実録地理誌の中の、「海島」の記述例と規式


仮に鬱陵島から于山島の距離とした場合、本邑から鬱陵島の距離がどの程度か、地誌に記載が無いことになってしまうわけである。これでは地誌として成り立ちません。

また、上の前述の二つの文章は襄陽縣から則可望見でと書いてある、つまり襄陽縣から望み見ることが出来るという意味である。。しかしながら、韓国側は、原文に書かれていない、”互いに望み見ることができる」と歪曲翻訳をしている。”互いに望み見ることができる」と翻訳を成立させるには、原文に”即可相望”と書かれていなければいけない。 また、これらを知っている朝鮮人達は、きちんと「朝鮮半島から于山鬱陵がみえる」事を知っているので、様々な文章にそれを書いている。ここではそれを羅列していく。


代表的な例は、1692-99年、鬱陵島を巡る日朝間の外交交渉では、輿地勝覧の記述、つまり「半島から鬱陵島が見える」との記述を根拠に鬱陵島領有権主張をした決定的な証拠が残っている。 これらの記録と、鬱陵島から現竹島が超好条件下において高級カメラと望遠レンズで撮影できる話はまったく別の話である。朝鮮のこれらの見える見えないの記録に書かれた于山は、現竹島を全く示していないのである。

朝鮮国礼曹参判李番、奉復日本国対馬大守平公閣下、槎使鼎来、恵□随至、良用慰荷弊邦江原道蔚珍県有属島、 名曰蔚陵在本県東海中、而風濤危険、船路無便、故中年移其民空其地、而時遣公差往来捜検矣、本島巒樹木陸地歴々望見、而凡其山川紆曲、地形濶狭、 民居遺址、土物所産、倶戴於我国輿地勝覧書、歴代相伝、事跡昭然、今者我国辺海漁氓往其島、而不意貴国之人自為犯越、与之相値、反拘執二 氓、転到江戸、幸蒙貴国大名明察事情、優加資此、可見交隣之情於尋常、欽□高義、感激何事、然雖我氓漁採之地、本是蔚陵島、而以其産竹、或称竹島此之一 島而二名也一島二名之状、 非徒我国書籍之所記、貴州人亦皆知之、而今此来書中、乃以竹島為貴国地方欲令我国禁止漁船更往、而不論貴国人侵渉我境、拘執我 氓之夫、豈不有欠於誠信之道乎、深望将此辞意転報東武、申飭貴国辺海之人、無令往来蔚陵島、更致事端惹起、其於相好之誼不勝幸甚、佳領謝、薄物侑緘、統惟 照亮、不宣

*これは鬱陵島を巡って、日本の対馬藩と朝鮮との外交交渉にお いてのやり取りだが、朝鮮側は、輿地勝覧に、(朝鮮半島の)陸地から、鬱陵島の樹木が歴々みえるので鬱陵島が朝鮮領土と説明している。つまり1531年の 輿地勝覧の解釈が半島から鬱陵島が見える、という解釈の決定的証明である。


この與地勝覧の朝鮮側の解釈は、朝鮮側日本側共に残っているのである。
また、鬱陵島問題を討議している南九萬等の鬱陵島についての検討討論においても、半島から見える島が鬱陵島である、と述べている。
承政院日記粛宗20年5月24日
http://sjw.history.go.kr/inspection/insp_result.jsp?mode=k&sjwid=SJW-D20051240-01900
南九萬曰, 臣於向者, 登大關嶺, 望見其地勢, 則其島與蔚珍縣相對, 其中多有崇山峻嶺, 地方可百餘里矣。
申汝哲曰, 臣適往觀魚臺, 望見其島, 則其間相距, 不甚遼遠, 視若南山之近矣


これらの記録は、于山は単に鬱陵島の旧名であるとする一島二名説と、鬱陵島の傍ら、とくに古地図においては1694年の鬱陵島調査前までは鬱陵島の西側にある小島と考えられていた一島二名節が混在している。これらの認識は1694年の張漢相の鬱陵島調査で変化するが、これは別のところで説明する。
また、ある一定の地点や標高から鬱陵島を見ると、本来一島であるはずの鬱陵島が雲のかかり方、および標高による視界の変化で、一等であるはずの島が二島にみえることが試算によって結果が出ている。


また、地図によっては、鬱陵島-三陟の東 于山島-平海の東との説明があることは、ひょっとすると三陟から見える鬱陵島と平海から見える鬱陵島の大きさ、姿が違っていた為を別々の二島と勘違いして認識していた可能性もありうる。(鬱陵島に近い三陟のほうが、鬱陵島から遠い平海よりも大きく見える)
これが、一島二名説と関係があるのではないかと個人的には考えている。

(画像は、望洋亭からみた鬱陵島の絵 朝鮮時代 金尚星(英祖時代) 三陟博物館にて(所蔵はソウル大学との事)) 





参考:
鬱陵島北部116kmの海上0mから見ると、鬱陵島はまるで二島あるかのように見える。北から見て左側、即ち東側に大きな島、そして右側つまり西側に小さな于山島がみえる状態になる。これは1694年以前の朝鮮の地図に記載された于山島と同じ構図である。   しかしながら、100km北の海上0mでは一島に見える。このように場所の違いで見え方が変化する。


より大きな地図で 風日清明則可望見 を表示
江陵から于山鬱陵が見えるという記述 
(参考:江陵からの
50mm200mmレンズによるシミュレーション/標高12m-25m-50m-100m-200m-300-400m
標高300m附近あたりで一島であるはずの鬱陵島が双子の島であるように見える?
標高400m附近で南(右)に小島、左に大きい島二島といった形に見える?

1454.世宗実録 地理志 江原道襄陽襄陽:江陵の北)
于山、武陵二島在縣正東海中、二島相去不遠、風日清明、則可望見、新羅時、称于山国、一云鬱陵島、 地方百里、恃険不服

1859『東寰録 于山』 (
溟州[주:今江陵)
于山者。今鬱陵島也。○三國史云。新羅智證麻立干十一年。于山國。歸服。歲以土宜爲貢。于山國。在溟州正東海島。或名鬱陵島
于山は今は鬱陵島。つまり一島二名説


三陟から于山鬱陵が見えるという記述
(参考:三陟からの050mm200mmレンズによるシミュレーション/標高12m-25m-50m-100m-200m-300-400m
100m附近で、なんとなくかすかに本来一島であるはずの鬱陵島がら二島に見えます。北に小島があるように見える?

・1445.08.17
諭江原道監司:世傳東海中蓼島久矣, 且云見其山形者亦多, 予再遣官, 求之不得。 今甲士崔雲渚言: “三陟烽火望見。其後因往茂陵, 亦此島。” 南薈言: “年前在洞山縣亭上, 望見海中, 質諸其縣吏, 答曰: ‘此山, 自古有之。’ 使其吏終日候之, 曰: ‘非雲氣, 實山也。’” 予謂此島, 海中必有之, 然島山平微, 海浪連天, 在岸者未得詳見。予之尋訪此島, 非以闢土地, 亦非欲得其民而使也。 無賴之徒, 聚居海中, 無倉庫糧餉之備, 一遇凶荒, 必至餓莩, 其誰救之哉? 道內之民, 深入海中, 以釣魚爲生, 其中豈無親見其島者哉? 又豈無詳知在某處者乎? 但畏私往之罪, 轉相隱諱耳。 然愚民之事, 國家必不罪之。倘有告者, 因而得之, 則良民超等賞職; 公賤限己身免役, 賞緜布五十匹; 私賤賞緜布一百匹; 鄕驛吏之類免其役; 入居者放還鄕里。終有大功者, 良民, 超三等賞職; 公私賤, 永放爲良; 鄕驛吏之類, 世免其役, 超等賞職; 入居者, 放還鄕里, 仍復其家。 卿以此意, 徧令曉諭。 且聞南薈之言, 悉心尋訪。

・1445.10.08 世宗 109, 27( 1445 을축 / 정통(正統) 10) 8 17 무오 1번째기사
戊午/權孟孫啓: “前司直南薈與臣言‘蓼島三陟府海中, 望見。’今若遣薈, 則庶或可得。”時薈丁憂在家, 特命起復, 賜衣一襲笠靴遣之。

・1600年代から1900年代のいくつかの小地図の記載
于山島三陟之東 鬱陵島平海之東 六日程地
*此の文章では于山は三陟の東にあり、鬱陵は平海の東にあると説明している。つまり二島説

・1539-1609.c.a.李山海's 『鵝溪遺稿』「蔚陵島説」cf:李山海 1539-1609c.a.
蔚陵島。在東海之中。距海濱不知其幾百里也。每秋冬之交。陰曀捲盡。海氣澄朗。則自嶺東望之如一片蒼煙。橫抹於水天之間。獨眞珠府此島最爲相對。故行 人之登召公臺者。或見其林木岡巒之狀。了了然可辨。以此知不甚遠也。箕城人嘗言。麋鹿蘆竹。往往浮出於沙渚之間。禽鳥之不知名者。亦翩翩渡海而來。及至海 濱。垂趐自墮。爲兒童所捕者數矣。漁人舟子。或漂到島傍。見菜根蔬葉隨水出來。而四面皆蒼巖鐵壁。只有一洞門。可捫蘿而入。慮有防守者。彷徨躅躑。不敢近 而回棹者有之。居是島者。未知爲何許人。或疑其避役逃罪之輩。自相婚嫁。漸至繁盛。或疑其獠蠻之種。據有是島。非自近始。或疑其果有之。則豈無一番舟楫之 往來。豈無一物可交貨有無於他境乎。疑者不一。無所歸宿。終置是島於茫昧恍惚無何有之鄕。豈退之所謂桃源之說誠荒唐者歟。噫。神仙之說。尙矣。所謂蓬萊方 丈瀛洲。未知果眞有。而崑崙玄圃。見之者抑誰歟。如使神仙不有則已。有之則是島也安知蓬萊崑崙之一。而異人仙客之所在耶。一幅布帆。便風高掛。則不過一晝 夜之頃。可以致身其間。而世之群疑衆惑。從此可破。旣不得此。則令人徒費引領東望。而空入於夢想吟咏之中。悲夫。

・1629-1703.『臥遊録』『蔚陵島説』  (注:
眞珠府=三陟) 鵝溪李山海「鵝溪遺稿」鬱陵島説からの引用
鵝溪蔚陵島在東海之中 距海濱不知其幾百里也 秋冬之交陰曀捲盡海氣澄朗 則自嶺東望之 如一后蒼烟撗抹 於水天之間 獨眞珠府此島最爲相對故行人之公臺者或見其林木岡巒之狀了了然可辨以此知不甚遠也 箕城人嘗言麋鹿蘆竹往往浮出於沙渚之間禽鳥之不知名者 亦翩翩渡海而來及 至海濱垂趐 自墮爲光童所捕者數矣漁人舟子或凜 到島傍見萊根蔬葉隨水出來 而四面皆蒼岩鐵壁 只有一洞門 可捫蘿而入慮有防守者彷徨躅躑不敢近而回棹者有之居是島者未知爲何許人或疑其避役逃罪之輩自相婚嫁漸至繁盛或疑其獠蠻之種據有是島非自近始或疑其果有之 則豈無一番舟楫之往來豈無一物可交貨有無於他境乎疑者不一無所歸宿終置是島於茫昧恍惚無何有之鄕豈退之所謂桃源之誠荒唐者歟噫 仙神之說尙矣所謂蓬萊方丈瀛洲未知 果眞有而崑崙玄圃見之者抑誰歟如使神仙不有則已有之則是島也妥知蓬萊崑崙之一而異人仙客之所在耶 一幅布帆便風高掛則不過一晝夜之頃可以致身其間而世之羣疑衆惑從此可破旣不得此則令人徒費引領東望而空入於夢想吟咏之中悲夫

此の文章の後半部分は、韓国側学者によって、鬱陵島から現竹島が見えると書いてある、と主張するが此の主張は歪曲である。韓国側の主張は「去此」つまり寧海を意図的に抜かして翻訳しているのであるがこれは別に説明する。

・1658-1747?『玉川先生文集』卷之七 雜著 關東 戊子四月佐幕時 著者:趙德鄰
二十日。三陟葛峴海。人言雨霽天晴時。可辨海中島嶼若鬱陵于山之屬云。而適雲陰不見。是日到沃原。日尙早。仍留宿

・1740. 『星湖僿說 鬱陵島條』

鬱陵島東海中 一名于山 遠可七八百 自江陵三陟等地 三峯縹緲隱見
*此の文章では于山は鬱陵島の別名であるとしている。 つまり一島二名説

1753.c.a.18世紀中旬『択里志』李重煥
同:(平凡社東洋文庫751, 2006
鬱陵島、江原三陟府海中、天晴、或望見如雲気、 粛廟朝 三陟営将張漢相、自咸鏡安辺府 因順流発船 向東南尋之 風便二日始至 見大石山 立海中 上岸無人居 而有古人遺址 内有石壁石潤 洞堅甚多 有猫鼠極大 不知避人 竹大如X 亦有桃・李・桑・拓X・菜茄之属 珍木異草 不知名者亦多 疑即古于山国也 然東海 処倭与我国之間 旧有水宗如嶺 彼此不相通 近以水勢漸変 倭船多漂至嶺東 此可慮也
*此の文章では于山は鬱陵島の別名であるとしている。 つまり一島二名説

梅月堂詩四遊錄
三陟
登望洋亭 看月
十里沙平望大洋 海天遼闊月蒼蒼 蓬山正與塵寰

望羽陵島
玄洲蓬島飽曾聞 思欲仙遊謝世氛 人說羽陵堪避 隱 登高試望渺如雲
海濤咀嚼似奔雷 嘠嘠沙禽去復回 明月滿汀淸不寐 此身疑已入蓬萊
海岸有石峯 高聳而頂平 上有白沙 萬年松纏繞峯腰 石罅異草敷榮 海棠爛開 亦一佳境也ᅠ賞翫久之 因宿其上

1923.朝鮮八道秘密地理市 李重換
鬱陵島X在江原之三陟府XX海中X天晴XX登高而望見XX如雲気X 


1959年刊行『江原道誌』上巻絵図名:「江原道古地図」(朝鮮時代後期の絵図と推定される)
ここより参照http://blog.goo.ne.jp/takeshima-2005/c/80fd36a94e087a70fe71530a8388ee0a
鬱陵于山両島 天気清明蔚三両地登高皆見 (蔚三珍・陟の事を表す)


召公臺
-三陟と蔚珍の間  恐らく(山を除いた)東海岸沿岸で、最も鬱陵島がよく見える場所と思われる。
http://blog.naver.com/wnsufl?Redirect=Log&logNo=80044504074
惕齋集卷之三 詩○七言律詩 李書九
召公臺望欝陵島
風引輕舟轉杳冥。神山縹緲隔層溟。明粧照日開雙萼。澹翠浮空點一萍。獅子不來雲水白。蝦夷相去海天靑。仙區物色無人見。漆匙花應滿地零。漆匙花。見酉陽雜俎。

靑城集卷之一 昌山成大中士執著 成大中
召公臺。見欝陵島
三峰竦秀海中央。宛有神人遠放光。雲氣渺冥常自248_344c隱。秋空開豁忽相望。靈山一面曇花現。金闕千重蜃氣翔。只向塵間招妄想。靑童去路月茫茫

九畹先生集卷之一  李春元
召公臺。望鬱陵島
玉兔金烏不暫閑。安期海上閱人間。秦童去後無消息。萬古雲濤一抹山。
雲山千疊隔中州。滄海浮空靜不流。今日召公臺上望。蓬萊咫尺使人愁

白洲集
召公臺 以御史赴嶺東時
http://www.itkc.or.kr/index.jsp?bizName=MM&url=/MM/MM_NODEVIEW.jsp%3Fseojiid=kc_mm_a343%26gunchaid=av005%26muncheid=01%26finid=074
積水南溟近。遙山北極來。天晴鬱陵島。日落召公臺。王事身仍病。鄕書雁未回。東風吹客袂。歸路海棠開。

忘窩集 天
召公臺霧中口占
http://www.ugyo.net/cf/frm/ykFrm.jsp?CODE1=01&CODE2=01&CLSS=&B_SUJI_ID=KSAC_M_A04000024&B_BOOK_ID=KSAC_T_A04000024_002&B_KWON_ID=001&B_STYLE_ID=001&B_KISA_ID=00072
海氣成霾晝日昏、鴻濛疑未闢乾坤。誰知遊子衣巾上、猶帶三山島霧㾗



竹濱、蔚珍から于山鬱陵が見えるという記述
(参考:竹濱からの050mm200mmレンズズによるシミュレーション/標高12m-25m-50m-100m-200m-300-400m
25mおよび50m附近で本来一島であるはずの鬱陵島が二島に見えます。北に小島があるように見える?

・1452.00.00.
高麗史 地理誌  卷五十八 蔚珍県
于山、武陵二島縣正東海中、二島相去不遠、風日清明、則可望、新羅時、称于山国、一云鬱陵島、 地方百里
*二島説を冒頭で説明しているが、最後で一島二名説も説明している。両論併記

・1531.『新增東國輿地勝覧』巻之四十五、蔚珍縣 于山島 鬱陵島
蔚珍縣 于山島欝陵島 一云武陵一云羽陵 二島在縣正東海中 三峰岌業撑空 南峯稍卑 風日清明 則峯頭樹木及山根沙渚 歴歴可見便則二日可到 一説于山欝陵本一島 地方百里
*二島説を冒頭で説明しているが、最後で一島二名説も説明している。両論併記

1696.
朝鮮国礼曹参判李番、奉復日本国対馬大守平公閣下、槎使鼎来、恵□随至、良用慰荷弊邦江原道蔚珍県有属島、 名曰蔚陵在本県東海中、而風濤危険、船路無便、故中年移其民空其地、而時遣公差往来捜検矣、本島巒樹木陸地歴々望見、而凡其山川紆曲、地形濶狭、 民居遺址、土物所産、倶戴於我国輿地勝覧書、歴代相伝、事跡昭然、今者我国辺海漁氓往其島、而不意貴国之人自為犯越、与之相値、反拘執二 氓、転到江戸、幸蒙貴国大名明察事情、優加資此、可見交隣之情於尋常、欽□高義、感激何事、然雖我氓漁採之地、本是蔚陵島、而以其産竹、或称竹島此之一 島而二名也一島二名之状、非徒我国書籍之所記、貴州人亦皆知之、而今此来書中、乃以竹島為貴国地方欲令我国禁止漁船更往、而不論貴国人侵渉我境、拘執我 氓之夫、豈不有欠於誠信之道乎、深望将此辞意転報東武、申飭貴国辺海之人、無令往来蔚陵島、更致事端惹起、其於相好之誼不勝幸甚、佳領謝、薄物侑緘、統惟照亮、不宣
*これは鬱陵島を巡って、日本の対馬藩と朝鮮との外交交渉においてのやり取りだが、朝鮮側は、輿地勝覧に、(朝鮮半島の)陸地から、鬱陵島の樹木が歴々みえるので鬱陵島が朝鮮領土と説明している。つまり1531年の輿地勝覧の解釈が半島から鬱陵島が見える、という解釈の決定的証明である。

1662 陟州誌 許穆:1595-1682
或云于山鬱陵一島方百里在海中蔚珎之東
*つまり于山鬱陵は一島説

・1742.朝鮮八道総図 
萩藩当職山内広通と浜崎代官清水親全の命により描いた彩色図
   matsu@dokdo-or-takeshima
欝陵島上に、
蔚珍之内風日清明即峯頭樹木及山根沙渚歴々可見風便二日可渡海有林落基址七即今空虚』と記載がある事。
有大山従山頂 向東行一万余歩 向西行一万三千歩  向南行一万五千余歩 向北行八千余歩
との記述
これ等は東国輿地勝覧から参照。つまり、東国輿地勝覧の解釈を反映している。

・1776.
水道提綱   斉 召南, 1706-1768
 〔中国)  Waseda Univ.
Volume 8 朝鮮国諸水 (PDFP52)
又東南経江陵東又南百里経三陟浦東又東南折而西南百里蔚珍白東其東南隔海曰千山島曰菀陵島東十三度極三十六度八分 又南西数十里経平海白東南有小水口、水西出奉化城東大山合両源東流百里入海海口対千山島

1823.海東繹史 續集 14 地理考 14山水 2()(See:P3) 水道提綱からの引用
水道提綱朝鮮国.....省略......経蔚珍城東。其東南隅海。曰于山島謹素千当作于。菀陵島東三十度極三十六度八分 西南数十里。経平海城東南。有小水口 水西出奉化城東大山。合両X。東流百里入海。上X口正為于山島
*蔚珍の東にある島は于山島であり、鬱陵島である、つまり一島二名説

[兩朝平攘錄]
萬歷二十五年倭分屯松島蔚山釜山鎭書 謹案文獻備考卽倭所謂松島也 輿地勝覽 于山鬱陵本一島地方百里新羅智證王時討服其國在今蔚珍縣正東海中 
水道 提綱 蔚珍東隣海曰千山島曰 菀陵島千山卽于山之誤 菀陵卽鬱陵也.拾遺記 蓬萊山 高二萬里有鬱夷國王維送日本晁監序扶桑 若薺鬱島如萍鬱夷鬱島似指鬱陵島也.

1864.大東地誌 金正浩 (蔚珍)
鬱陵島在本縣正東海中(中略)自本縣天晴而望見則如雲氣 純是石山自本縣天晴而登高望見則如雲氣便風二日

漁村集卷之四 東關錄○詩 沈彦光
蔚珍路上。望鬱陵島
積海長天縹緲間。分明一點似彈丸。林泉土石千年勝。024_136b日月風煙百代間。王母來時金鼎熱。瀛洲深處玉膏寒。何緣得遂乘桴計。採藥茲山永不還。
蒼海微茫望眼昏。薄雲爲崇蔽天根。憑誰學得飛昇術。直跨仙山訪羨門

・望洋亭記 鵝溪 李山海 http://blog.naver.com/zxcvbnm7997?Redirect=Log&logNo=10045358329
余自少時。喜爲文辭。以爲文可學而能也。求古人之書而讀之。記於心而誦於口。久之。試書之。文雖成而陋不足觀。旣而思之。文者。以氣爲主。氣之不充而能爲 文者未之有也。昔太史公周覽四海名山大川。得於氣而發於言。故其文疏宕奇健。變化無窮。余則生乎偏方。而亦不能盡國中之奇觀。無怪乎文之鹵莽如是也。及謫 嶺東。過洛山而觀日出。過臨瀛而望鏡浦寒松之勝。過召公臺而望蔚陵之縹緲。中心已自喜幸。而及登望洋亭見天容海色之蒼然淵然。而其大無外。其闊無涯。其 深無極。然後始有以盡平生之壯觀。而浩浩乎匈中。若與曩時異矣。百川滔滔。日夜不止。則知氣之必養其本原。而爲文不可不混厚深遠。三光繞天。出沒無停。則 知氣之不使有間斷。而爲文不可不純實猛健。蛟龍鯨鯢。噴薄紛挐。則知氣之務要雄勇。而爲文不可不動盪發越。蜃樓鰲嶼。隱現明滅。則知氣之務要沈着。而爲文 不可不奇古幽眇。風濤怒號。振撼坤軸。銀山玉峯。素車白馬。橫馳逆走於雪花氷雹之中。則知氣之務要凌厲。而爲文不可不巉截峻拔。風恬波靜。鏡面如拭。上有 一天。下有一水。而水天相涵於空明有無之中。則知氣之務要凝定。而爲文不可不溥博淵泓。凡天地之間。萬物之變。可驚可愕。可喜可娛。使人憂。使人悲者。無 不收攬於是亭之上而助吾之氣。則其發於文者。衆體百態。無不兼備。而其視前日之記誦剽竊者。果何如也。噫。以眇然之身。登亭而俯仰。則不啻如糠粃蜉蝣之 微。而天之蒼蒼。地之茫茫。海之浩浩。物之林林。百怪千變。無不驅入於方寸之中。而爲己之用。則其亦壯矣。一壺村釀。自酌自飮。蒼顔白髮。兀然頹於其中。 則天地一衾枕也。滄海一溝瀆也。古今一須臾也。是非也得喪也榮辱也欣戚也。無不消融蕩滌。而與造物者相揖於混沌鴻濛之域。其亦快矣。其壯也如是。其快也如 是。則氣焉有未充。又焉有餒之者乎。然後把筆伸紙。試書吾胸中之所有。則其必有擊節而嘆賞者矣。余之有得於是亭者。不其韙歟。亭在郡北三十里濱海斷岸之 上。故太守蔡候所建云。月日。記。

臥遊錄v9
http://yoksa.aks.ac.kr/jsp/aa/VolView.jsp?aa10no=kh2_je_a_vsu_24513_009&aa15no=009&aa20no=24513_009_0026
鵝溪余自少時喜爲文辭以爲文可學而能也求古人之書而讀之記於心而誦於口久之試書之文雖成而陋不足觀旣而思之文者以氣爲主氣之不充而能爲文者未之有也昔太史公周覽四海名山大川淂於氣而發於言故其文踈宕奇健變化無窮余則生乎偏方而亦不能盡國中之奇觀無怪乎文之鹵莽如是也及謫嶺東過洛山而觀日出過臨瀛而望鏡浦寒松之勝過召公臺而望蔚陵之縹緲中心已自喜幸而及登望洋亭見天容海色之蒼然淵然而其大無外其濶無涯其深無極然後始有以盡平生之壯觀而浩浩乎胸中若與曩時異矣百川滔滔日夜不止則知氣之必養其本原而爲文不可不混厚深
遠三光繞天出沒無停則知氣之不使有間斷而爲文不可不純實猛健蛟龍鯨鯢噴薄紛挐則知氣之務要雄勇而爲文不可不動盪發越蜃樓鰲嶼隱現明滅則知氣之務要沈着而爲文不可不奇古幽眇風濤怒號振撼坤軸銀山玉峰素車白馬橫馳達走於雪花氷雹之中則知氣之務要凌厲而爲文不可不巉截峻拔風恬波靜鏡面如拭上有一天下有一水而水天相涵於空明有無之中則知氣之務要凝定而爲文不可不溥愽淵泓凡天地之間萬物之變可驚可愕可喜可娛使人憂使人悲者無不收攬於是亭之上而助吾之氣則其發於文者衆體百態無不兼備而其視前日之記誦剽竊者果何如也噫以眇然之身登亭而俯仰則不啻如糠粃蜉蝣之微而天之蒼蒼地之茫茫海之浩浩物之林林百怪千變無不駈入於方寸之中而爲已之用則其亦壯矣一壺村釀自酌自飮蒼顔白髮兀然頹於其中則天地一衾枕也滄海一溝瀆也古今一須曳也是非也淂喪也榮辱也欣戚也無不消融蕩滌而與造物者相揖於混沌鴻濛之域其亦抉矣其壯也如是其快也如是則氣焉有未充又焉有餒乏者乎然後把筆伸紙試書吾胸中之所有則其必有擊節而嘆賞者乎余之有淂於是亭者不其韙歟亭在郡北三十里濱海斷岸之上故太守蔡侯所建云月日記

梅月堂詩四遊錄
登望洋亭 看月
http://buddha.dongguk.edu/bj.aspx?seoji_id=DGUL_BJ_T_0129_001&gisa_id=DGUL_BJ_T_0129_001_176
望羽陵島
玄洲蓬島飽曾聞 思欲仙遊謝世氛 人說羽陵堪避隱 登高試望渺如雲
海岸有石峯 高聳而頂平 上有白沙 萬年松纏繞峯腰 石罅異草敷榮 海棠爛開 亦一佳境也賞翫久之 因宿其上

天鏡集
http://buddha.dongguk.edu/bj.aspx?seoji_id=DGUL_BJ_T_0205_001&gisa_id=DGUL_BJ_T_0205_001_143
蔚珍望洋亭
遙望滄溟千里外 茫洋鬱島杳無涯 風濤浩浩鷗邊
闊 烟樹蒼蒼岸上斜 紅映蜃樓波吐日 紫籠鰲闕岫
橫霞 高亭俯視東西落 半是漁家半酒家

海中三島
遙望靑螺海上峯 兀然聳出玉芙蓉 星光錯落波千
丈 桂影寒沈水萬重 棹外常聞漁子曲 島中又有謫
仙蹤 老龍長吐烟霞氣 寂寞銀河雨政濃

艮翁集
登城津望洋亭。觀出日記事
http://www.itkc.or.kr/index.jsp?bizName=MM&url=/MM/MM_NODEVIEW.jsp%3Fseojiid=kc_mm_a542%26gunchaid=av004%26muncheid=01%26finid=131
余甞聞出日爲海上壯觀。願見而不得。昨年奉使萊海。登沒雲㙜而求觀焉。萊人云日短時日出巽方則可見。而今當中夏。日出於寅地。此㙜之左有山遮攔。故不可以見。余試驗之。果如其言。今來北關也。登居山之侍中㙜而求觀焉。土人之言又如萊人之言。而已亦驗。又聞城津之望洋亭。亦臨出日之海。故來宿其下以待之。是夜霧雨霏霏。海色黯慘。居人又曰秋冬天晴無氛時可見出日。而春夏則雖晴日。海多氛霧。未易得見况今霧雨如此。必不可見矣。余聞其言而甚恨之。遂爲文以焚之。望海而拜告。其文曰天下號壯觀。日出東海。宇內稱奇。士雲遊八方。願一覲扶桑之耿光。廼今至望洋之高頂。獨恨夫老蜃騰霧。潛龍出雲。十洲冥濛。愳暘烏之韜彩。大荒黯慘。愍羲馭之淪精。慨好事之多魔。至于永歎。耿終夜而不寐。籲玆明神。衡岳開雲。縱愧韓吏部之誠意。登州列市。庶察蘓學士之願言。要慰遠人之觀瞻。盍洗太淸之滓穢。敢暴衷曲。恭俟指揮。告訖終夜不睡。以待晴霽。旣五更。霧雨雖歇。雲海晻曖。居人又曰天猶曀未可。余雖信其言。試登其亭以望之。西北南三方。屯雲重疊。惟正東一方天色開豁。無一點靄。漸見彤雲如血。金波蕩漾。一輪紅日。浮出水面。傍人驚喜。以爲異事。只恨東邊有一麓細如眉者橫在海中。故日離海半尺許。始乃見之。安得借來剗却君山手耶。余旣引韓蘓二子事以告海。而其獲冥應又如二子之事。以余之久孤於世。而見答於天。則又於蘓子所謂能於天不能於人。始知人厄非天窮等語。又安得不俛仰徘徊感念歎咜也哉。遂作詩以識其事。

柱江集 乾
望洋亭板上韻
http://www.ugyo.net/cf/frm/ykFrm.jsp?CODE1=01&CODE2=01&CLSS=&B_SUJI_ID=KSAC_M_A08000050&B_BOOK_ID=KSAC_T_A08000050_001&B_KWON_ID=003&B_STYLE_ID=001&B_KISA_ID=00097
西風匹馬老書生、來上仙槎望洋亭。雲擁簷端環似帳、水高天際匝如城。扶桑早旭紅輪轉、蔚島殘嵐翠黛橫。樓上莫嫌留一醉、此間曾是夢生平。

 



平海から于山鬱量陵島が見えるという記載
(参考:平海からの050mm200mmレンズによるシミュレーション/標高12m-25m-50m-100m-200m-300-400m
100m附近で、本来一島であるはずの鬱陵島が二島に見えます。北に小島があるように見える?
平海越松亭http://blog.naver.com/jw1405?Redirect=Log&logNo=63135490

1435-1493頃 眉叟記言 淸士列傳 (P2)(金時習 1435~1493 )
出東X登臨楓嶽五台窮海X遊越松望欝陵于山至 
(*楓嶽=金剛山)

1600年代から1900年代ころの一部の小地図の記述
于山島三陟之東 鬱陵島平海之東 六日程地
*つまり二島説

1786.07.04原春監司、李致中復命(日省録)  (海上にて)
原春監司 李致中 狀啓 鬱陵島 搜討乙巳年爲次第而因嶺東 慘歉前 監司 徐鼎修 狀聞停止今年搜討官當次 越松萬戶 金昌胤牒呈內 四月十九日候風于平海丘尾津二十七日午時分四船與倭學李裕文上下員役沙格竝八十名齊發二十八日卯時船格等指曰彼黑雲底乃島中上峯云云未過數時 最高三峯宛然入望四更未四船同聚悲喜交極各陳危怖之狀
*鬱陵島の記載だけだが、この時、三峯をみている(三峰:三峯島Sambondo)


寧海丑山から于山鬱量が見えるとの記述
(参考:丑山からの050mm200mmレンズによるシミュレーション/標高12m-25m-50m-100m-200m-300-400m
400m附近で、なんとなく微妙に2島に見えるので、恐らく標高を少し下げると2島に見えるようになる?
この場合、北に小島が、南に鬱陵本島が見える形となる。

1650.c.a. 臥遊録 /    西渓雑録「鬱陵島」朴世堂(16941703)(臥遊録+鬱陵島事蹟).
鬱陵島 (新羅史曰于山國島名鬱陵) 地誌鬱陵或曰武陵亦曰羽陵 望之 三峰岌撑空 而南峰稍低 日初出時風恬浪靜 則衆峰攢靑岩壑呈露沙汀樹木 歷歷可指---------………
大山三峰 尤峻發島 三面皆壁立 萬仞南邊稍開豁然亂山若犬牙撑列 水底舟道極險狹 難入登岸 則白沙平鋪 長松列植 山開望濶 而江水流出 江行十餘里 則篔簹作藪 不見天日 大君梁柱小不减椽杠又穿 藪行十餘里 則竹林其脩大若篔簹竹林窮而原野夷曠有村居墟落山多珍木藥草 倭方伐竹 採藥 留渠守船鄰船適 有同俘七人 夜與相語 天將曉發船 以來日纔晡已到寧海地面 云盖二島不甚遠 一颿風可至 于山島 勢卑不因海氣極淸朗 不登最高頂 不可見
  鬱陵 稍峻風浪息 則尋可見  麋鹿態獐往往越海 出來朝日纔高三丈 則島中雀群飛來 接竹邊串[:島中竹實特時漂出形如大慱暴海女拾之爲雜佩篔簹及竹亦或漂出一節有數尺者宜箭筒比多有之]

*此の文章は、三陟の項で紹介した文章の後半の別部分である。此の文章は最近韓国側学者によって、2008年、鬱陵島から現竹島が見えると書いてある、と歪曲主張し始めたが彼らの主張は歪曲である。韓国側の主張は「去此」つまり寧海を意図的に抜かして翻訳しているのであるがこれはまず、構文を検証すると、
天將曉發船 以來日纔晡已 到寧海地面云盖
二島 去此不甚遠 一颿風可至
于山島 勢卑不因海氣極淸朗-不登最高頂-   不可見 
鬱陵     稍峻風浪息-                                   尋常可見  
麋鹿態獐往往越海出來
朝日纔高三丈 則島中黃雀群飛來 接竹邊串[島中竹實特時漂出形如大慱暴海女拾之爲雜佩篔簹及竹亦或漂出一節有數尺者宜箭筒比多有之]
となる。つまり、「一颿風可至」できるのは、「寧海(此)」から近い「二島(于山島・鬱陵島)」であり、
「于山島」は、形状が小さいので海が清明でなく、山頂に上らないと、見ることは出来ない」とある。
韓国側は、この「最高頂」を、鬱陵島と解釈する。
しかしながら、是が、寧海附近の「最高頂」から~が見える、と言う規式である事は説明済。



その他

襄陽府-靑臺上 通川縣-堂山 登望からだと、 子丑(北)の方角に見える
吉州-無時串   洪原縣-蒲靑社 登望見 からだと、 巳午(北北西?)の方角に見える

1430.04.04 『世宗実録(1454)』 48권, 12년( 1430 경술 / 명 선덕(宣德) 5년) 4월 4일 계유 7번째기사
○傳旨咸吉道監司: 鏡城無地串、洪原蒲靑社, 使人登望, 則可見蓼島。 其令首領官, 或詳明守令一人, 偕今去金南連, 望見蓼島形勢及水路夷險以啓。 若有偕南連往還蓼島者、居海邊望見者, 詳問本道形勢遠近以啓

1430.10.23.『世宗実録(1454)』50권, 12년( 1430 경술 / 명 선덕(宣德) 5년)
先是, 傳旨于江原、咸吉道監司曰: “今所訪蓼島, 在襄陽府靑臺上、通川縣堂山登望, 則見于子丑間; 在吉州無時串洪原縣蒲靑社望見, 則見于巳午間。 其令詳明勤恪人望見以聞。” 至是, 咸吉道監司報: “令殿直田闢等四人, 往無時串登望海中, 有東西二峯如島嶼, 一微高, 一差小, 中有一大峯。 立標測之, 正當巳午間。” 遂送闢于京。

海上から遠くに鬱陵島が雲の中に見えた
・1794.06.06江原道觀察使沈晋賢啓言(on the sea)
二十二日寅時, 怒濤漸息, 只見遠海之中, 二隻船帆自南而來。 格軍輩擧手指東曰:彼雲霧中隱隱如雲者, 疑是島中上峰也詳細遠望, 則果是島形也。親自擊皷, 激勵格軍, 爲到泊於島之西面土邱尾津

1693.11.18.肅宗實錄 卷 二十五, 肅宗 十九年 十一月 丁巳條
蔚山漁人 自海邊漂至鬱陵島 島上三峰接天 中有數十戶人家遺址 草木則多竹葦 禽獸則多烏鳶猫狸 爲倭人所執去 自其島至伯耆洲 七晝夜 時倭請以犯境之罪 罪漁人 太宗朝 宰臣申叔舟 浮海入審鬱陵島 記其形止而來 今漁人所言 與其記言相符 議者皆以爲 此明是鬱陵島 而廟堂乃以爲等棄之地而不欲辨爭 其計誤矣


頭里山の烽台から牛が伏せた形をしたような三峯島がみえるの記載
1728.06.09 英祖実録 18 ( 英祖4, 1728 6 9)
更推黃溥。 刑一次, 溥供: “慶源人南龜錫持巡營軍官傳令, 來慶興,言于臣曰: ‘巡使道謫慶源, 三峰島, 使渠訪問, 以爲推得之地。’臣問其探知與否, 則龜錫曰: ‘有一人言: 頭里山烽臺, 値日晴, 則僅見其島形, 如臥牛。」云。"

・『記言卷之二十八 下篇 山川 東界
于山鬱陵一島三峯岋嶫。海晴則山木可見。山下白沙甚遠。古于山國
*つまり一島二名説

耘谷行錄卷之一 元天錫
登知峴望蔚陵
數點稀微浩渺間。人言此是蔚陵山。若爲駕彼靑田鶴。橫截滄溟往復還

三淵集卷之八 詩 8 金昌翕
望鬱陵島不見
一鶴東飛遠目勞。鬱陵消息占雲濤。人間節序桃花老。鰲背春風竹藪高。可使靑衣潛犯界。未妨黃帽稍通舠。誠知鷁路風爲解。乍望令人亦足豪

訥隱先生文集卷之一 李光庭 
鬱陵島
東海漭漭幾萬里。孤嶼隱隱中高起。一山高衆峯低。巖巒縹緲分明視。是日霜空海天闊。一葦溟波若可越。聞道山中多秘異。海客搜奇時出沒。丹崖四圍紫翠積。石門東呀纔通跡。團團樹葉冬不凋。紫檀深篁一色碧。竹實如拳赤而光。檀華拂衣終年香。異鳥來萃不知名。怪獸蹌蹌迫不驚。往往破竈欹古鼎。丹成幾時去玉京。一島煙霞八十里187_148c 有泉可飮田可耕。寫竹爲瓦香作室。飽魚蛤飧參朮。嗽口沆瀣之夕波。晞髮扶桑之朝日。縱不能羽化去驂鸞。猶可瓊㪺而玉餐。君不見東魯擊磬襄。君不見漢時管幼安。絶影離羣豈所好。丈夫見幾貴能早。茫茫遼海且無難。何况眼前鬱陵島

溪村先生文集 二
毗盧峯[毗盧者、金剛之主峯也。自摩訶東、至妙吉祥數里、又北入洞數十里、遇石磧匍匐以上數千步、峯頭可望數千][里、東臨大海、西俯平陸、鬱陵北關、皆在指點中、] ( 毗盧峯[毗盧者、金剛之主峯也。自摩訶東、至妙吉祥數里、又北入洞數十里、遇石磧匍匐以上數千步、峯頭可望數千里、東臨大海、西俯平陸、鬱陵北關、皆在指點中、] )
凌霄屹峙作山酋、萬二兒孫膝下周。關嶺北分楛矢野、雲霞東指鬱陵洲。滄溟灝氣天爲際、崖壑楓光錦欲浮。不是此身生羽翰、如何能踏玉淸遊。

動安居士行錄卷第一 (1359年刊)
行錄
望武陵島行 幷序 002_394b

越癸丑秋。因避胡寇。一方會守眞珠府蓼田山城。城之東南面。溟浡際天。而四無涯極。中有一山
浮沈出沒於雲濤煙浪之間。晨昏媚嫵。若有爲之者焉。父老云。武陵島也。江陵田使君命予賦之。聊以鄙語形容云。


[출처] 그러면, 강원도에서 울릉도는 보이나? (동안거사행록)|작성자 머찐만두



その他メモ
월하문집 (月下文集) 越松亭 ( 越松亭 ) 關嶺多名勝、越松天下靑。乾坤萬里眼、湖海一孤亭。雪白平沙遠、烟生古島冥。蓬萊何處是、衰髪問仙經。

頤齋遺藁卷之二十四 雜著 越松黃氏先跡考 丁未 246_526b
或云自郡東北行海。便風二日至鬱陵島。島有三峯地周可二百五十里古芋山于山羽陵國。葢亦休忍荇人國也。其西厓有黃土朱土二窟。各呼仇味。諺稱黃將軍初居黃土窟。及其出陸而居崛山。以其初居地名。移寓於此曰鬱陵。其後音轉而爲越松。此前後海氓冐禁入島中。採蔘伐材者所共傳云。

西坡集卷之三 詩○東遷錄 癸亥夏。從亞諫出補蔚珍縣。丙寅春。召還。
越松亭。次任大年韻。 152_048a
縱目乾坤一蕩胸。扶桑瑞色鬱陵通淸都咫尺三山近。碧海東南大地窮。驚浪噴騰空裏雪。亂帆飛飽夕陽風。越松大抵饒奇勝。始信玆臺最擅雄。

豊墅集卷之三 
早過大峙見欝陵島
雲日吐呑劈紫瀾。海天光恠暎行鞍。欝陵翠色從人指。鰲背三峯馬首看

白洲集卷之一 六言絶句
題蔚陵主人壁上
家家翠竹蒼松。處處晴沙白石。依然三月風光。097_235d政似江南村落

梨山文集
送李秀才天駿歸蔚陵島
細雨初晴夕日低, 故人南去蔚島棲, 亦知求友鶯遷木, 頻賀歸程鷰蹴泥, 白雲持贈心還鬱, 明月相思意倍悽, 回頭 悵立春天暮, 垂柳藤蔓一樣齊.

葵窓遺稿卷之二 七言絶句 李健
過鬱陵島
銀海金波眩兩眸。祥雲瑞霧接天頭。何方飛入鬱陵島。一滌人間流竄愁。

天坡集第三 吳䎘
病中。寄別三陟朴使君弘美。 095_069
東極蓬瀛是十洲。仙居最說竹西樓。川源遠遡頭陁邃。地勢平分鬱島浮。天遣詞人付陶寫。君兼隱吏任優游。試看壁陷紗籠字。多少當年物色留



メモ 
召公臺-三陟と蔚珍の間
葛峴-不明 三陟附近
通川縣堂山
吉州無時串
洪原縣蒲靑社