07.「日本最高国家機関(大政官), 現竹島・鬱陵島を韓国領土で決定」 というのは歪曲


韓国側が多用するプロパガンダの代表例といってもよい文献であるが、
之には、「竹島外一島」と記載されている。 韓国側は、この外一島を現在の竹島と指摘する。


太政官指令
1877年3月20日に内務省が出した通達(国立公文書館所蔵) 原 文

明治十年三月廿日

別紙内務省伺日本海内竹嶋外一嶋地籍編纂之件右ハ元禄五年朝鮮人入嶋以来旧政府該国ト往復之末遂ニ本邦関係無之相聞候段申立候上ハ伺之趣御聞置左之通御指令相成可然哉此段相伺候也 御指令按


伺之趣竹島外一嶋之義本邦関係無之義ト可相心得事




この時点で、太政官および内務省は、竹島(鬱陵島)と、松島(?)が何であるかあまりわかっていない。一連の竹島考証の話は、そもそも、「竹島」および「”松島”」の開拓願いの話から議論が始まり、地籍編纂へと話がつながるのであるが、
https://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/takeshima-koushou

この当時、日本は竹島を「朝鮮」の鬱陵島としていたが、調べたところ、開拓願いが出されている松島が何であるのかはっきりしていない。
開拓願いや西洋の地図においては、(朝鮮鬱陵島と見做されていた)竹島はアルゴノート島の場所に記載され、松島はダーシュレー島として(結果的には、これは朝鮮の鬱陵島なのだが、)大きな島として記載されている。この、「松島」と呼ばれているダーシュレー島の情報などは、当時の日本および西洋の文献でおおよその内容が伝えれれている(https://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/japan-recognization-of-ulleungdo-width
しかしながら、この島は、明らかに日本が江戸時代に読んでいた松島つまり今日の竹島(Liancourt)ではない。https://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/japan-map-two-ullnegdo-take-matsu

 当時は日本人から日本の属島である松島、竹島の開拓願いが出されており、竹島考証を読めば、結果的にはもちろんこれら「竹島開拓願い」、「松島開拓願い」はともに朝鮮鬱陵島の話であるのだが、松島が何であるか正直日本政府は太政官指令の時代には確実に測量も巡視もしておらず、認識していなかった。 それらを確認するためには当然巡視する必要があるのだが、1876年頃から、「おそらくアルゴノート島は西洋の水路誌等にはPosition Doubtfulと書かれており、之を考慮すると竹島が朝鮮鬱陵島であるのは間違い」で、「松島ダーシュレー島が朝鮮鬱陵島である」ことがだんだん明るみになりつつあり、 この時、内務省が島根県に照会した回答として、「竹島は朝鮮鬱陵島、松島は東南にある二つの小島である事が書かれた江戸時代の日本の古地図「磯竹島略図」が提出され、彼らが思っていた「松島 ダーシュレ島」と、この磯竹島略図に描かれた「松島」つまりLiacnourt Rocksが違う島なので、議論になっていた松島は一体これが何なのか確定できないままであった。当然巡視の必要性が唱えられたが、結局松島Dagelet島は、朝鮮鬱陵島である恐れがあるため、中止となった。このため、磯竹島略図の「竹島」と外一島が何であるかを確定しないまま出されたのが「太政官指令」であり、「松島」がなにであるかこの時点で確定出来ないので、「外一島」とした。もし確定できていれば、「竹島松島」と書いていたと考えられる。

また、このとき、外一島をリアンコールド岩つまり現在の竹島としていたならば、当然軍艦天城は131度52分の位置にある二つの島に行ったはずだが、その島には見向きもせずに最初から130度56分付近の「松島」つまり鬱陵島へ渡航し測量している。この事から

また、どなたの文章家はわからないが、Wikiに非常に興味深い内容があったので参考にここに掲載しておく。
この保坂教授とか島根大学の内藤正中教授が最後の切り札にしていた明治10年の太政官指令の
証拠能力は、以下の新たな歴史観で、消滅したと思えるね。所詮、両者の主張はいろいろある
蓋然性の一つでしかなく、またこの両教授の主張する蓋然性は、下記の仮説に比べれば極めて
低い蓋然性にもとづいてることが明らだと感じる。
明治10年の「太政官指令」での「外一島」(の曖昧)記述については、以下のURLで、すっきり
納得できたな。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%B3%B6%E5%A4%96%E4%B8%80%E5%B3%B6
「・・・つまり、当時の明治政府での海図編纂の権限、機材は海軍省(水路局)にあった
以上、1877年の時点で(前年に海軍省水路局が改編され柳楢悦が初代局長に任命された)、
海軍省水路局の最新技術による調査が済んでない時点で、勝海舟や柳楢悦の権限を越え、
測量技術や天測航法(天体航法、天文航法)などの航海術での先生でもあった両者の隷下
にある海軍省水路局の調査結果を待たずに、前島密が独断で鬱陵島近海での島嶼の比定、
領有権の帰属先について断言するようなことをできるはずもなかったという説である。
「・・・・
前島密としては海事界での大先達の勝海舟(明治政府においても海軍で枢要な地位に置
かれていた。)が編纂した『大日本国沿海略図』での「鬱陵島二重記載」の誤謬を公表
しなければならない立場になってしまったが、それをするのには、海軍省の最新の機材
を利用した調査もなしに断定できるはずもなかった。
(むしろ、初代海軍卿・勝海舟が編纂した海図の誤謬について公表するのは、内務省の
前島密にとっては、海軍省にしてもらうほうが好都合だった、とも言える。)・・・・・」



一例:上 明治9年朝鮮全図 陸軍 (竹島アルゴノート島が点線で記載される
                   松島ダーシュレ島が鬱陵島の形で記載されるが「鬱陵島」の記載なし。

    下:磯竹島略図

 しかしながら、この地理的疑問と当時ロシアや英国が近海を航行することが多くなり、地勢の調査の必要性から、結局は軍艦天城を「松島」巡視に派遣する。 「松島」鬱陵島へ軍艦天城は調査に行くも、現竹島には素通りして無視している上、当時の地図に書かれた松島ダーシュレー島へ渡航・測量し、、つまり磯竹島略圖にかかれた磯竹島、「つまり元禄12年称スル所ノ竹島」であり、「松島ハ古代韓人称スル処ノ爵陵島」へ行き、この時初めて竹島松島が朝鮮鬱陵島」である、一島三名であるという結論にようやく達したのである。この天城の調査で結論に達したことは、北沢正誠が、「事情愈明了ナリ」と書いたことからわかる。つまり天城の調査以前は「「事情愈明了ナリ」ではなかったのである。
また、同時に、「其他竹島ナル者ハ一個ノ巖石タルニ過キサ ルヲ知リ」の記述からうかがえる事は、そのうちの竹島は大きな島ではなく、小さな岩石の島(Boussole)であると言っているので、この調査以前は、竹島、松島はともに大きな二島であるという認識が前提にあったことが推測される。

そして、その後、この太政官指令に書かれた、「竹島外一島」の「外一島」は、「松島」であることが以下の文書で証明されたが、その「松島」は、磯竹島略図に書かれた江戸時代の松島つまり今日の竹島/Liancourt Rocksではなく、「松島Dageletつまり鬱陵島」との認識であったことが確認できた。


1881?日付不明石見国那賀郡浅井邨士族大屋兼助外一名ヨリ松島開墾願書
島根県那賀郡(なかぐん)浅井村の士族大屋兼助が、島根県に提出される。
 

1881.11.12. 「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」
発:  島根県令境二郎(明治9年県参事として内務省に伺い書を出した。)
宛:  内務卿山田顕義 と、 農商務卿西郷従道 に提出
件名:「(私注:大屋の)日本海内松島開墾之儀ニ付伺」
『明治十四(私注:1881)年、明治十五年県治要領』「明治15(私注1882)年1月の条」
「三十一日 去年(私注1881)十一月十二日付ヲ以「日本海内松島開墾ノ義」内務農商務ノ両卿ニ稟議 シ至是内務卿ヨリ其指令ヲ得ル如左 書面松島ノ義ハ最前指令ノ通本邦関係無之義ト可相心得依テ開墾願ノ義ハ許可スへキ筋ニ無之候事但本件ハ両名宛ニ不及候 事」

1881.11.12.「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」
 当管内石見国那賀郡浅井邨士族大屋兼助外一名ヨリ松島開墾願書差出シ
 其旨趣タル該島ノ義ハ同郡浜田ヨリ海上距離凡八十三里酉戌ノ方位ニ当リ無人ノ
 孤島ニ有之候処、東京府下大倉喜八郎 設立ノ大倉組社員片山常雄ナルモノ木材
 伐採ノ為メ海軍省第一廻漕丸船ニテ本年八月該地渡航ノ際、右兼助浜田ヨリ
 乗込同航実地見分候処、其景況東西凡四五里南北三里余周廻十五六里、島
 山ニシテ海岸ヨリ頂ニ至ル凡一里半雑樹森在古木稠茂シ其間幾多ノ渓流
 ツハ平坦ノ地アリ地味膏腴水利モ亦便僅カニ一隅ヲ拓クモ数十町歩ノ耕地ヲ得ヘク
 其他採藻漁業ノ益全島ノ福利測ル可ラ ズ移住開墾適当ノ地ニ付同志ヲ浜田地
 方ニ募リ資金ヲ合セ自費ヲ以テ草莱ヲ開キ大ニ遺利ヲ起サントノ義ニ有之候処
 該島ノ義ハ過ル明治九年地籍取調ノ際 本県地籍編入ノ義内務省ヘ相伺候処
同十年四月九日付書面竹島外一島ノ義は本邦関係無之義ト可相心得旨御指令相成
 然ルニ前述当度大倉組渡航伐木候場合ニ就キ推考候得は、十年四月御指令
 後或ハ御詮議相変リ本邦版図内ト被定候儀ニ可有之歟、該島果シテ本邦地盤ニ候
 得は兼助等願意事業経費ノ目論見資金支出ノ方法及同志者規約等詳
 悉取調更ニ相伺候様致シ度別紙相添此段相伺候也
  明治十四年十一月十二日
        島根県令境二郎
 内務卿山田顕義殿
 農商務卿西郷従道殿
*この文章から見る限り、松島=鬱陵島をさす。)

1881.11.29 外務省記録8324「内務書記官 西村捨三の外務省書記官宛照会」
内務省が「竹島と松島を版図外とした先述の太政官の指令書」を島根県令から「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」に付して、大蔵組社員が船到伐木しているとして外務省に欝陵島の現状を照会し注意喚起を行った(25)。
(発:内務権大書記官西村捨三  →宛:外務書記官 )
島地第一一一四号
日本海ニ在ル竹島松島之義ハ別紙甲号  之通去明治十年中本邦関係無之事
 ニ伺定相成爾来然カ相心得居候処今般島根県ヨリ別紙乙号之通申出候次
 第ニヨレハ大倉組社員ノ者航到伐木候趣ニ相聞候就テハ該島之義ニ付近頃朝
 鮮国ト何歟談判約束等ニ相渉リタル義ニテモ有之候哉一応致承知度、此段及御照
 会候也
 明治十四年十一月廿九日 内務権大書記官西村捨三
 外務書記官
       御中

内務権大書記官西村捨三

別紙甲号
内務権大書記官西村捨三発、外務書記官あて照会 別紙甲号(太政官指令、明治10年3月29日)
甲号
 日本海内竹島外一島地籍編纂方伺(外一島ハ松島ナリ)
 竹島所轄之義ニ付島根県ヨリ別紙伺出取調候処、該島ノ義ハ元禄五年朝鮮人入
 島以来別紙書類ニ摘採スル如ク元禄九年正月第一号旧政府評議ノ旨意ニヨリ二号
 訳官へ達書三号該国来柬四号本邦回答及ヒ口上書等ノ如ク則チ元禄十二年ニ至リ
 夫々往復相済ミ本邦関係無之相聞ヘ候得共版図ノ取捨ハ重大ノ事件ニ付別紙書
 類相添 為念此段相伺候也
  明治十年三月十七日  内務少輔
    右大臣殿       (付箋書類略ス
指令
 伺之趣竹島外一島ノ義本邦関係無之
 義ト可相心得事
  明治十年三月廿九日

別紙号)
内務権大書記官西村捨三発外務書記官あて照会 別紙乙号日本海内松島開墾之儀ニ付伺、明治14年11月12日)
日本海内松島開墾之儀ニ付伺

 当管内石見国那賀郡浅井邨士族大屋兼助外一名ヨリ松島開墾願書差出シ
 其旨趣タル該島ノ義ハ同郡浜田ヨリ海上距離凡八十三里酉戌ノ方位ニ当リ無人ノ
 孤島ニ有之候処、東京府下大倉喜八郎設立ノ大倉組社員片山常雄ナルモノ木材
 伐採ノ為メ海軍省第一廻漕丸船ニテ本年八月該地渡航ノ際、右兼助浜田ヨリ
 乗込同航実地見分候処、其景況東西凡四五里南北三里余周廻十五六里、島
 山ニシテ海岸ヨリ頂ニ至ル凡一里半雑樹森在古木稠茂シ其間幾多ノ渓流且
 ツハ平坦ノ地アリ地味膏腴水利モ亦便僅 カニ一隅ヲ拓クモ数十町歩ノ耕地ヲ得ヘク
 其他採藻漁業ノ益全島ノ福利測ル可ラズ移住開墾適当ノ地ニ付同志ヲ浜田地
 方ニ募リ資金ヲ合セ自費ヲ以テ草莱ヲ開キ大ニ遺利ヲ起サントノ義ニ有之候処
 該島ノ義ハ過ル明治九年地籍取調ノ際本県地籍編入ノ義内務省ヘ相伺候処
 同十年四月九日付書面竹島外一島ノ義は本邦関係無之義ト可相心得旨御指令相成
 然ルニ前述当度大倉組渡航伐木候場合ニ就キ推考候得は、十年四月御指令
 後或ハ御詮議相変リ本邦版図内ト被定候儀ニ可有之歟、該島果シテ本邦地盤ニ候
 得は兼助等願意事業経費ノ目論見資金支出ノ方法及同志者規約等詳
 悉取調更ニ相伺候様致シ度別紙相添此段相伺候也
  明治十四年十一月十二日
        島根県令境二郎
 内務卿山田顕義殿
 農商務卿西郷従道殿

(*甲で、竹島外一島のうち、外一島は松島と言っている。そして、乙を見てみると、乙に出てくる松島は朝鮮鬱陵島であることがわかる。つまり外一島の松島は松島Dagelet島と認識しており、江戸時代の松島Liacnourt Rocksではない。


1881.11.30.
発: 外務省
宛 内務権大書記官西村捨三殿、外務権大書記官光妙寺三郎
明治十四年十一月三十日起案文 「公第二六五一号
   内務権大書記官西村捨三殿外務権大書記官光妙寺三郎へ
朝鮮国蔚陵島即竹島松島之儀ニ付御聞合之趣閲悉候右は先般該島江我人民ノ渡航漁採スル者有之趣ニテ朝鮮政府より外務卿江照会有之候付査究候処果シテ右様之事実有之趣ニ付既ニ撤帰為致爾後右様之儀無之様申禁ニ及置候旨該政府江照覆置相成候右回答申達候也
     十四年十二月一日
*この文章から、竹島=松島=朝鮮鬱陵島。 江戸時代の松島すなわちリアンコールド岩は文章中には関係がないことがわかる。
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/sugi/take_04g08.html
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/index.html

https://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/ulluengdo-another-name-takeshima-matsushima


つまり、この太政官指令において、韓国が主張するような、「外一島の松島」が「Liancourt Rocks」であるというのは、間違いであることが分かった。



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