日本人、朝鮮人は現竹島をどのような呼称で呼んでいたか?

表題の件、1890年代から1910年代まで、日本人と韓国人がどのような呼称で現竹島を呼んでいたかを列挙し、それを表でまとめた。別項で記載するが、この呼称の変化は漁業の進展とともに変化していく節がある。
基本的に、日韓ともに「ヤンコ島」という、Liacnourt Rocksの日本語名を使用していた。これは、日本人に雇用されるようになって現竹島での漁を知るようになったためだと思われる。現竹島がリアンコールド岩から、"竹島”と名称変更されるのは1905年2月22日である。(ただ、例外として、日本がりゃんこ島を江戸時代の名称"松島”と呼んでいると記載されている文章がまれにあるが、1900年前後、基本的には松島は鬱陵島の事である。、)
日本側の記録で「獨島」が出てくるのは1904年、一方韓国側のそれは1906年まで出てこない。
また、韓国人は、此の島を”石島”や"于山島”と呼んでいた形跡が無い。(ただし、1907年の張志淵の新大韓地誌には、于山島が現竹島をほのめかす一文があるが、それ以外は全くない。)


   指定なし 俗称 日本人 韓国人
 1894.02.18 山陰新聞 朝鮮竹島探検(松江佐藤狂水生投)/ 俗にリランコ島と云ふ   
 1894.10.18山陰日報 一方朝鮮竹島探檢 (松江佐_狂水生投) リランコ島   
 1901.04.01帝国新聞
http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/57649209.html
    やんこ島(日本人からの情報)
 1901.04.中旬 在京の新聞 (出展不明) やんこ島  
1901.04.15 地学雑誌13巻5号 301-302に”日本海中の一島嶼(ヤンコ)” やんこ島   
 1901.06.15 黒龍界 韓国沿海事情   韓人及び本邦漁人は之れをヤンコと呼び 韓人及び本邦漁人は之れをヤンコと呼び
 1902.10.10 外務省通商局編纂 通商彙纂  付録 韓国鬱陵島事情 リャンコ島ト云ヒ  本邦人ハ松島ト稱ス 
 1903.01.01 『韓海通漁指針』葛生修吉 ヤンコ島
  韓人及び本邦漁人は之れをヤンコと呼び 韓人及び本邦漁人は之れをヤンコと呼び
 1903.05.23 『水産貿易要覧』 リヤンコ島  本邦人は松島と称す 
 1904.07 最新韓国実業指針 ヤンコ島  
 
 1904.09.25 戦艦新高行動日誌 リアンコルド岩  本郡邦漁夫等略シテリヤンコ島ト略稱セリ 韓人之ヲ獨島ト書シ
 1904.09.29 リャンコ島領土編入並二貸下願リャンコ島
 俗二リャンコ島ト称スル  
 1904.11.30 乙庶第152号(11.15庶1073号への返答) 名称を転用し竹島の通称を新島に冠せしめ   
 1905.01.15 第67号 対馬艦長海軍中佐・仙頭武英より水路部長に提出せるリヤンコール島概要 リアンクル島   
 1905.02.24 山陰新聞 竹島   
 1905.05.29 官報 日本海海戦戦報  「リアンコールド」   
1905.04.15
 地学雑誌 竹島   
  官報 日本海海戦戦報  「リアンコルド」   
 1905.06.01 読売新聞 リヤンコルド岩(一名竹島)   
 1905.06.01  皇城新聞 ジウンコルド巌  
 ジウンコルド巌
 1905.06.02 皇城新聞 안고후島   안고후島(アンゴフ島)
 1905.06.05 官報 訂正 「リアンコールド岩」を孰も「竹島」に訂正   
 1905.06.12 明治三十八年六月十二日海軍技手木口吉五郎ノ提出セル竹島視察報告 リヤンコールド岩   
 1905.06.13 橋立戦時日誌  竹島[リアンコルド岩]   
1905.06.14  竹島   
 1905.06.15  竹島   
 1905.06.24 1905年6月24日の照会 リヤンコールド   
 1905.07.13 山陰新聞 竹島(リヤンコールド岩)   
 1905.07.31 『通商彙算 50号』釜山駐在領事館報告 ランコ島   
 1905.08.06 山陰新聞 竹島   
 1905.08.15 地学雑誌200 隠岐国竹島に関する舊記 竹島/リアンコールト岩   
1905.08.22 山陰新聞 竹島   
1905.09.07 韓国新地理 田淵友彦 
 俗に之れをヤンコ島と称す。  
1905.09.15 地学雑誌201 竹島 本邦の漁夫等は一般に「リアンコ」島と称せり韓人は之を獨島と書し
1905.09.18 釜山駐在日本領事有吉明報告 ランコ島   
1906.03.06 隠岐島司の竹島視察 竹島   
1906.04.01 山陰新聞 竹島       
1906.04.04 鬱島郡守 沈興澤 報告書 獨島   
1906.04.04 梅泉野錄 黃玹    
1906.04.08 山陰新聞"竹島渡航日記" 竹島   
1906 明治39年度業務執行顛末(竹島漁撈合資会社)(川上226) 竹島   
1906.04.29 春川郡守・李明来の中央政府への報告 獨島   
1906.05.01大韓毎日申報
 独島   
1906.05.09 皇城新聞 獨島   
1906.06 『梅泉野錄』 제5권 獨島   
1906.06 地学雑誌 竹島   
1907新大韓地誌 張志淵 于山島X其X東南X在   
1907 朝鮮水路誌第二版 竹島Liancourt Rocks)  本邦漁夫はリアンコ島と曰く 韓人は之を獨島と書し
1907 新編 大韓地理俗稱 “양고”島
  
1910-11 朝鮮産業史 やんこ島と呼べる   



1894.02.18 山陰新聞
 朝鮮竹島探検(松江佐藤狂水生投)/
客歳水産上に関し隠岐国各漁村遊歴の際、偶々竹島出航の議あり、余兼ねて遠海漁業の必要を感じ常に誘導し居るも、未だ其業を果さざるを憾めり、依って茲に端緒を開かんと欣然其の挙を賛成し奮って準備に着手す、遂に漁夫其他乗組員十一人にて船を艤し六月四日島前解覧、島後福浦港に順風を待つ、同月二十四日を以て出帆したり、元来我一行の乗込める船はは鰤釣に使用するものにて船体差程堅牢ならず、加ふるに糧食器具等充分に積荷せるを以て殆んど船中に満つ、僅かに居処を存するのみ、故に船は吃水線より露出する尺余なり、之を以て一意海上平穏を祈れり
竹島は隠岐より西北八十余里の洋中に孤立し、船を 駛する五十余里に至る頃ろ一ケの孤島あり、俗之れ をリランコ島と云う。其周囲凡そ一里許りにして三 ケの島嶼より成れり、此島に海獣海驢棲息し数百頭 を以て数うべく其叫声轟々として喧しく此近海は 鯨族の群遊ありて実に無比の捕鯨場たり、鯨種は充 分の調査を遂けざるも多分長須坐頭ならん、之れを 捕ふるには遠洋漁業の仕組にて汽船或は風帆船の 補助を仰ぐにあらざれぱ能はざるべし、此より三十 余里を隔てゝ竹島あり、海流に就て日はんにリラン コ島は寒暖海流の堺界線として可なるべし、何とな れば日本領海より此の島までは暖流即ち黒潮の支 流にして以北は寒流即ち来満派の流域なり、蓋し暖 気は北赤道海流を源とし其一支派台湾の東を流れ 冲繩島に沿い分岐して、其本流は太平洋の方に向い、 支流は九州の西部より対馬海峡より日本海に入る、 寒流は阿哥科海の北酉より来り黒龍江の前面を過 ぎ日本海の西の半分を流るゝ派なり、鯨族のリラン コ近海に出没するは即はち寒流暖流の相交る処に して海水の温度能く其来遊に適するならん。

1894.10.18.山陰日報 一方朝鮮竹島探檢 (松江佐_狂水生投)
リランコ島と云ふ其周凡そ一里許りして三ケの島嶼よりなれり此島X海獣海ど棲息し数百等を以って数XふへくXXXXとして宜しく此近海は鯨族の群遊ありて実に無比の捕鯨場たり鯨種は十分の調査を遂けさるもたぶん長須座頭あらん之を捕ふるXは遠洋漁業の仕組みXて凛船或は風帆船の補助を仰くXあらされXX能ハさるへし此より三十余里を隔て、竹嶋あり海流XXte白いんよリランコ島は寒暖海流の境界線として可Xるへし何XXXX日本領海より此の嶋までは暖流即ち黒潮の支流Xして以北は還流即ちXXXの流域Xり蓋し暖気ハ北赤道海流を源とし其の一支XXXの東を流れ沖縄島X沿ひ分岐して其本流は太平洋の方X向ひ支流は九州の西部より対馬海峡より日本海X入る還流は阿X科海の北西より来X黒竜江の前面を過ぎに本会のXの半分を流るる派あり鯨族のリランコ近海X出没Xるハ即ち還流暖流の相交る処として海水の温度Xku其の來遊X適むるあらん。


1901.04中旬(明治34年4月中旬)の新聞記事
ヤンコ島

1901.04.01 帝国新聞(韓国の新聞)
鬱陵島東南三十里海中のヤンコという島を日本で・・・・・・が、その島は天下地図に上がっておらず、産物は魚物で、海中の物が一番多く、漁夫たちを大いに・・・・・するという。
http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/57649209.html 茶阿弥氏 日韓近現代資料集

不明:地学雑誌13巻5号 301-302に”日本海中の一島嶼(ヤンコ)”
明治34年4月中旬の新聞記事からの引用としてヤンコ島を紹介
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=17609


1901.06.15 黒龍界 韓国沿海事情 P13 葛生修吉 △ヤンコ島
鬱陵島より東南の方三十里、我が隠岐国を西北に距ること殆ど同里数の海中に於て、無人の一島あり。晴天の際 鬱陵島山峯の高所より之れを望むを得べし。韓人及び本邦漁人は之れをヤンコと呼び、 長さ殆んど十余町、沿岸の屈曲極めて多く、漁船を泊し風浪を避くるに宜し。然れども薪材及び飲料水を得るは頗る困難にして、地上数尺の間は之を牽けども容易に水を得ずと云う。  此島には海馬非常に棲息し、近海には鮑・海鼠・石花菜等に富み、数年以前山口県潜水器船の望を属して出漁したるものありしが、潜水の際、無数の海馬の為に妨げられたるど、飲料水の欠乏との為に充分営業することを得ずして還りたりと云ふ、察するに当時の季節は恰も五六月にして、海馬の産期に当たりを以て、特にその妨害をうけたるものならんか。 また、付近に鱶漁の好網代あり。数年以来五六月の候に至れば大分県鱶縄船の出漁するものあり。昨年春季同処より帰航したる漁夫に就て之を聞くに、出漁した出漁未だ二三回に過ぎざるが故に、充分の好果を得たりと云うべからずと雖も、毎季相応の漁獲あり。従来の経験上、其網代の状態及び鱶類棲息の棲息多きとより観察するに、必ずや良好の漁場たるを疑わずと、盖し営業者の為には尚充分探検の価値あるべし。(其要領は会報第一集にのれたり参照せよ)

1902.10.10外務省通商局編纂 通商彙纂  付録 韓国鬱陵島事情  第一:鬱陵島の地勢
第七、漁業の現状 
本島ノ漁業季節ハ例年三月ヨリ九月迄ニシテ収穫物ハ鮑、鰒(ふぐ)、天草、海苔、若芽ノ数種ニ過ギス、漁業者ハ多ク熊本ノ天草、島根ノ隠岐、三重ノ志摩地方ヨリ渡来ス而シテ韓人漁夫ハ皆無ノ有様ナレトモ毎年全羅道三島地方ヨリ多数ノ漁夫等渡来シテ海岸ニ満生スル若芽ヲ採取セリ本年ハ天草隠岐ノ漁業者都合水潜器船八隻道洞ヲ本拠(?)ト定メ又志摩ノ蜑船(タンセン・あま船)二隻天草ノ海士船一隻ハ苧洞(ちょどう)ニ仮小屋ヲ構ヘ何レモ全島ノ海岸ヲ巡漁セルモ今年ハ昨年ニ比シ餘程不漁ナルニヨリ利潤オオカラサル見込ナリト至ヘリ、 又本島ノ正東約五十海里ニ三小島アリ之ヲリャンコ島ト云ヒ本邦人ハ松島ト稱ス、同所ニ多少ノ鮑ヲ産スルヲ以テ本島ヨリ出漁スルモノアリ然レトモ同島ニ飲料水乏シキニヨリ永ク出漁スルコト能ハサルヲ以テ四五日間ヲ經ハ本島ニ歸港セリ


1903.01.01『韓海通漁指針』葛生修吉
P122.あしか
目下は本邦獲船八隻米英X国船角二隻XX,鬱陵島XをXXXして盛んに捕獲に従事中なりと云ふ。///韓海至る所に出没するなれども、江原咸陽道沿海には殊に多く、中鬱陵島の南東遥かの沖合に位する、やんこと通称する孤島には其棲息まことに夥しきものありと云ふ、未だ専ら之が捕獲に従事するものはなしと雖も、其皮は工業上の用途頗る広きものなるが故に、販路を求めて之が捕獲に従事すれば将来有望のXたるべし。

△ヤンコ島
ヤンコ島。鬱陵島より東南の方三十里、我が隠岐国を西北に距ること殆ど同里数の海中に於て、無人の一島あり。晴天の際 鬱陵島山峯の高所より之れを望むを得べし。韓人及び本邦漁人は之れをヤンコと呼び、 長さ殆んど十余町、沿岸の屈曲極めて多く、漁船を泊し風浪を避くるに宜し。然れども薪材及び飲料水を得るは頗る困難にして、地上数尺の間は之を牽けども容 易に水を得ずと云う。  此島には海馬非常に棲息し、近海には鮑・海鼠・石花菜等に富み、数年以前山口県潜水器船の望を属して出漁したるものありしが、潜水の際、無数の海馬群に 妨げると。飲料水欠乏との為に、満足に営業すること能わざるして還りたると。察するに当時の季節は恰も五六月にして、海馬の産卵に当りしが故に、特にその妨害をうけたるものならんか。 また、付近に鱶漁の好網代あり。数年以来五六月の候に至れば大分県鱶縄船の引き続き之に出漁するものあり。昨年春、同処より帰航したる漁夫に就いて之を聞くに、出漁した二三回に過ぎざるが故に、未だ充分の好果を得たりと云うべからざれ共、毎季相応の漁獲あり。従来の経験上、その網代の状態、及び鱶類棲息の規模等より観察するに、将来頗る有望の漁場たるを疑わずと。 同島は、盖し営業者の為には尚充分探検の価値あるべし。

1903.05.23『水産貿易要覧』〔東京〕:農商務省水産局,明36 「韓国鬱陵島漁業の状況」
又本島の正東約50海里に三小島あり之を「リヤンコ島」と云ひ本邦人は松島と称す、同所に多少の鮑を産するを以って本島より出漁するものあり然れども同島に飲料水乏しきにより永く出漁すること能はさるを以て四五日間を経て本島に帰航せり。

1904.07 最新韓国実業指針  中井水産局長と山座政務局長
ヤンコ島 ; ヤンコ島 鬱陵島及我隱岐島の中間三十里の海上あり、全島居民なし、沿岸碇泊に便なれども薪材及飮料水を得難し、近海鮑海鼠石花菜等を産し、又鱶の捷息饒多なれども海馬の群に妨ばられ漁獲好果を得ずと云ふ。

1904.09.25 戦艦新高行動日誌
松島ニ於テリアニコルド岩實見者ヨリ聽取リタル情報。リアンコル岩韓人之ヲ獨島ト書シ本郡邦漁夫等略シテリヤンコ島ト略稱セリ

1904.09.29.リャンコ島領土編入並二貸下願
隠岐列島ノ西八十五浬、朝鮮鬱陵島ノ東南五十五浬ノ絶海二俗二リャンコ島ト称スル無人島有之候、周囲各約十五町ヲ有スル甲乙二ヶノ岩島中央二対立シテ一ノ海峡ヲナシ大小数十ノ岩礁点々散布シテ之ヲ囲繞セリ 中央ノ二島ハ四面断岩絶壁ニシテ高く屹立セリ 其頂上ニハ僅二土壌ヲ冠リ雑草之二生ズルノミ 全島一ノ樹木ナシ 海辺彎曲ノ処ハ砂礫ヲ以テ往々浜ヲナセドモ屋舎ヲ構エ得ベキ場所ハ甲嶼ノ海峡二面セル局部僅二一ヶ所アルノミ 甲嶼半腹凹所二潴水アリ 茶褐色ヲ帯ブ 乙嶼ニハ微々タル塩分ヲ含ミタル清冽ノ水断岸渭滴仕候 船舶ハ海峡ヲ中心トシテ風位ニヨリ左右二避ケテ碇泊セバ安全ヲ保タレ候 本島ハ本邦ヨリ隠岐列島及ビ鬱陵島ヲ経テ朝鮮江原、咸鏡地方二往復スル船舶ノ航路二当タレリ 若シ本島ヲ経営スルモノアリテ人之二常住スルニ至ラバ夫等船舶ガ寄泊シテ薪水食糧等万一ノ欠乏ヲ補ヒ得ル等、種々ノ便宜ヲ生ズヘケレバ今日暇駸々乎 トシテ盛運二向ヒツ々アル処ノ本邦ノ江原、咸鏡地方二対スル漁業貿易ヲ補益スル所少ナカラズシテ本島経営ノ前途最モ必要二被存候 本島ハ如斯絶海二屹立スル最爾タル岩島二過ギザレバ従来人ノ顧ルモナク全ク放委シ有之候 然ル処私儀鬱陵島往復ノ途次会本島二寄泊シ海驢ノ生息スルコト夥シキヲ見テ空シク放委シ置ノ如何ニモ遺憾二堪ヘザルヨリ爾来種々苦慮計画シ兪明治三十六年二至リ断然意ヲ決シテ資本ヲ投ジ漁舎ヲ構へ人夫ヲ移シ漁具ヲ備ヘテ先ヅ海驢猟二着手致候(以下略)

1904.11.30 乙庶第152号(11.15庶1073号への返答)
本月十五日庶一〇七三号を持って島嶼所属の儀に付きご照会之趣了承、右は我が領土に編入の上隠岐島の所管に属せらるるも何等差支無之其名称は竹島を適当と存候。 元来朝鮮の東方海上に松竹両島の存在するは一般口碑の伝ふる所、而して従来当地方より(きへん焦)耕業者の往来する鬱陵島を竹島と通称するも、其実は松島にして海図に依るも瞭然たる次第に有之候。左すればこの新島を措て他に竹島に該当すべきもの無之、依て従来間称したる名称を転用し竹島の通称を新島に冠せしめ候方可然と存候此段及回答候也。 隠岐島司 東文輔   島根県内務部長 書記官 堀信次殿 

1905.01.05 第67号 対馬艦長海軍中佐・仙頭武英より水路部長に提出せるリヤンコール島概要
リアンクル島は一本の狭い水路で隔たっているが、お互いに向かい合った二つの島とその周辺に立ち並ぶ小さな岩石によって構成されており、海の中の一つの小さ な群島に過ぎない。これらの小さな島は大体平面的で、上層部が海面から突き出ているように見える。 島の周辺には奇怪な模様の洞窟が数多く、アシカが生息している。島はほとんど不毛のつるつの岩で、西方向から海風が常に吹いており、一本の木も無く南側の 岩に野生の草がわずかに生えているのがわかるほどだ。岩のぐるりは全体的に絶壁をなしており硬くない石が多く、どこからも登るのは不可能に近い。島全体に 平坦な土地がなく、水路の両側の所に狭いながらも小石の多い平らな場所が二・三ヶ所あるが、海からの波を避けられない。 東島には葦で作った古びた小屋がある。アシカ猟のために夏にこの島に来る漁夫が使ったものらしく、今では相当痛んでその痕跡を留めているに過ぎない。その荒れ果てた状態から判断すると、この辺りを襲った波の激しさがどれほどのものであったか想像できる。モデルとして荒波を避けられる小屋の建築用地を他の場所に求めるとしてもかろうじて次の二ヶ所ぐらいなものだ(以下略)

1905.02.24 山陰新聞
隠岐の新島   北緯37度9分3秒、東経131度55分、隠岐島を距る西北85浬に在る島嶼を竹島と称し、自今、隠岐島司の所管と定めらると県知事より告示せり。右島嶼 は周囲15町位の二島より成る。周囲には無数の郡島散在し、海峡は船の碇泊に便利なり。草は生え居たるも樹木は無しと云う。

1938.04.15.地学雑誌140(M38.04.15)

帝国新領土竹島

明治三八年二月二二日を以て
島根県知事は同県告示第四三号に於て北緯三七度九分三
〇秒、東経一三一度五五分。隠岐国を去る西北八五浬
在る島嶼と竹島と称し爾今島根県所属隠岐島司の所管と
定めたる旨を告示したり。
 該島嶼は韓国の範図に属する鬱陵島(松島)Dagelet
Islandと共に、日本海上の孤島にして、未だ何れの国に
も属せず。二島共岩石より成り其一は周囲一五町余、二
島を合して周囲一里余。島上には鳥糞常に堆積して白色
を呈し、飲料水は有れども樹木なく僅かに青草を見るの
みにして海驢頗る多く棲息せるが故、年々漁業に渡航する
もの多し。列岩附近は海底深しと雖も、其位置函館に向
つて日本海を航行する船舶の航路に当るを以て極めて危
険なりと云ふ。同列岩は西暦一八四九年佛船リアンクー
ル Liancourtの発見にかかり其称呼を船名に取りたり超
へて一八五四年露国フレガード形艦パラスPallas号は此
列岩をメナライMenalai及オリヴァツOlivutsu列岩と
名け、一八五五年英艦ホルネットHornet号は之をホル
ネット列島と名けたり(明治三二年日本水路部発行挑戦水路誌に拠る)(ア、タ、)

1905.05.29. 官報 日本海海戦戦報 
其三 今二十九日午前著電     連合艦隊の主力は二十七日以来、残敵に対して追撃を続行し二十八日「リアンコールド」岩付近において(以下省略)

1905.05.30 官報 日本海海戦戦報 

連合艦隊の大部分は前に電報したる如く、一昨二十八日午後「リアンコルド」岩付近に於いて、敗残敵艦隊の主力を包囲攻撃して其降伏を受け追撃を中止し(以下省略)

1905.06.01 読売新聞 (M38) http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/54606987.html (資料提供:Purachaka氏)
リヤンコルド岩 
リヤンコルド岩(一名竹島)ハ往昔より無人の一島嶼にして餘り世人の耳にも入られざりしが該島にハ海驢多く産せしより島根縣民ハ屡々該島に渡りて之を捕獲 し居りしと云ふ然るに其の所轄ハ是迄何れとも判明ならざり..................

1905.06.01.皇城新聞
「・・・日没後に駆逐水雷艇が俄軍を襲撃し陸続追撃し、二十八日にジウンコルド巌附近で俄艦ニコライ1世号とアリヨール号と・・・」


1905.06.02.皇城新聞
日艦隊의 公報 日本聯合艦隊司令官의 公報를 槪據한 則 聯合艦隊의大部隊가二十八日後에는난 안고후島 附近에셔敗殘한俄國艦隊의 主力部隊를包圍攻擊하야 其降服을 受한 後에 追擊은 中止하고 此艦을 措處하는中이오
(*안고후島=アンゴフ島)

1905.06.05  官報 訂正
去月二十九日官報号外本欄日本海海戦戦報の項其三、及び同三十日同日日本海海戦続報の項其五中「リアンコールド岩」を孰も「竹島」に訂正す。

1905.06.12 明治三十八年六月十二日海軍技手木口吉五郎ノ提出セル竹島視察報告
リヤンコールド岩ハ欝陵島ノ東方ヨリ●(禾に肖)南方ニ偏シテ東西ノ二島ニ分ル 両島間ノ距離約百六十五尺ナリ 西島ハ海上ヨリ高サ約四百五十餘 尺ニシテ断崖絶壁宛モ剣ヲ立テタルカ如ク到底絶頂ニ攀登スル能ハス且平地等モ見當ラス材料物品ノ運搬モ出来難キヲ見ル 東島ハ海面ヨリ絶頂迄約三百二十五 尺ニシテ中央ニ高サ六尺ヲ開●(墾?)セハ望楼●詰所トシテ適當ナル位置ヲ求メラルヘク叉是ヨリ東方約三十間ノ處ノ高地ハ信號旗竿及ヒ見張所等ヲ建設スル ニ適當ト思料ス

1905.06.13 橋立戦時日誌
(明治38年6月13日 竹島着)明治38年6月15日 竹島[リアンコルド岩]視察報告書 軍艦橋立艦長から第三艦隊司令官へ)

1905.06.14.「明治三十八年六月十四日第三艦隊司令官海軍少将武富邦鼎ノ提出セル竹島視察報告」

1905.06.15.「明治三十八年六月十五日橋立艦長海軍大佐福井正義ノ提出セル竹島視察報告」」

1905年6月24日の照会
海軍大臣から逓信大臣に、鬱陵島=リヤンコールド=松江間の海底電線敷設の照会

1905.07.13 山陰新聞
○海戦記念絵葉書  日本海海戦の為め、俄かに其名を知られたる県下竹島(リヤンコールド岩)は、大海戦の紀念としては好箇のものなるが、松永知事の発意にて日本海と島根県、島根県と隠岐、隠岐と竹島とを印象せる絵葉書を新調し外国向にせんと目下計画中なり、至極面白き考按にして海軍の戦勝勇士に贈与するにも亦適当の紀念なるべし

1905.07.31.『通商彙算 50号』釜山駐在領事館報告 有吉明釜山領事の報告「鬱陵島現況」
「トド」と称する海獣は、鬱陵島より東南約二十五里の位置にあるランコ島に棲息し、昨年頃より鬱陵島民之を捕獲し始めたり。捕獲期間は、4月より9月に至る6ヶ月間にして、漁船1組に付き猟手及び水夫等約10人にて、平均1日約5頭を捕獲すと云う。而して、本事業に従事する者30人あり。漁船3組あり。又「トド」1頭に付き、現今市価は平均3円なり【改行】 鮑の採取高は本年四月熊本県民吉村某潜水器二個を以て採取に従事し潜水器一個に付一日生鮑平均約三百斤な り又三重県県民濱口某は本年五月漁船二艘に海士三十二人水夫十人を率いて其採取を為し一日平均約五百三十斤内外を採取す生鮑乾上の為斤目の減少は凡そ十分 の九にて生鮑三百斤乃至五百三十斤を乾上ぐるときは三十斤及至五十三斤に減すると云ふ同島への輸出は大概釜山よりす今左に前掲期間に輸入せられたる品目数 量価格を挙げ昨年四月より六月に至る期間に於ける輸入と比較せんと欲す

1905.08.06山陰新聞
竹島渡航/松永知事以下四十七八名の竹島渡航者は前号にも記せる如く、愈々来十六日朝境港を出帆して隠岐に航し、同刻夕刻西郷港を出帆して竹島に向かうことに確定し たり。依て境港より乗船する者は、前日の夕刻迄に境港に到着すべく、西郷港より乗船する者は当日正午までに同港に到着するを要すと云う

1905.08.15 地学雑誌200 隠岐国竹島に関する舊記
明治の初年に到り正院地誌課に於て其の本邦の領有たることを全然非認したるを以て、其の後の出版にかかる地圖は多く其の所在を示さざるが如し。明治八年 文部省出版 宮本三平氏の日本帝国全圖には之れを載すれども、帝国の領土外に置き塗色せず、又 我海軍水路部の朝鮮水路誌には、リアンコールト岩と題し、リアンコールト號の發見 其他外国人の測量紀事を載するのみなり
(1906.06地学雑誌 第210号 隠岐国竹島に関する地理学上の知識 田中阿歌麻呂において、上記の訂正)
 本誌200号(注:.1905.08.15)201 202に掲げた記事は、全く竹島の記事に非ずして、鬱陵島の記事なるが如し(中略

1905.08.22 山陰新聞
県庁内に海豚放養/本県の新領土たる竹島附 近には海豚の群集し居りて、隠岐国の多くの漁民が 至りて之れを捕獲することなるが這回該島を視察 せる松永知事の一行は漁民の捕獲せる本年生の海 豚三頭を貰い受けて帰松し、昨日県庁第三部庭内の 溜池へ放流して当分飼養することとなせり

1905.09.07韓国新地理 田淵友彦
第二章 位置
 P307 鬱陵島 ウーリヤントー
 P308(ヤンコ島) 本島より東南方約30里我が隠岐島との殆ど中央に當り無人の一島有り。俗に之れをヤンコ島と称す。長さ殆んど十町余沿岸の周曲極めて多く漁船を泊するに宜しと雖薪材及び飲料水を得るに困難にして地上を つも数尺の間容易に水を得ず此付近には海馬多く棲息しまた海産に堯なりといふ。


1905.09.15地学雑誌201
竹島は北緯三七度一四分、東経一三一度55分に当り、海図上は3帖を以て示され、隠岐より八五哩、濱田より一五〇哩、又欝陵島よりは五十哩海上遥かに之を望むを得べし、邦人は欝陵島を松島と称するに対し之に竹島と命名すと雖も外人は一八四九年初めて発見せしフランス船リアンクール号の名に因みて其名をリアンコールト島と云ひ韓人は之を獨島と書し、本邦の漁夫等は一般に「リアンコ」島と称せり。蓋し英名リアンコールトを隔て、相対峙する二個の主島と、其周園に基列する数個の小嶼よりなる洋中の一小群島なり、是等の小嶼は概ね扁平にして---出し、主島の周邊は奇観を呈する窟洞に富み共に海豹トドの棲窟たり、主島は全殆んど不毛の禿岩.....

1906.06地学雑誌 第210号 隠岐国竹島に関する地理学上の知識 田中阿歌麻呂
本誌200号(注:.1905.08.15)201 202に掲げた記事は、全く竹島の記事に非ずして、鬱陵島の記事なるが如し(中略)

1905.09.18 釜山駐在日本領事有吉明報告
アシカト称する海獣は鬱陵島より東南約25里のいちにあるランコ島に棲息し、昨年頃より鬱陵島民之を捕獲し始めたり捕獲期間は四月より九月に至る6ヶ月間間にして・・・・(釜山駐在日本領事有吉明報告)

1906.03.06.島根県第三部長・神西由太郎 隠岐島司の竹島視察

露戦役の間に於て海軍省より望棲を設けられたるを以て一タビ頂上に登らんと欲し、依りて一方の断崖を観るに枕材を以て作れる梯子様のもの凡そ三丈許りに架したり、之れを登れハ岩石の破壊せる羊腸たる道に似たるものあり殆ど葡匐(ホフク)するにあらされハ危険なり、二町許を擧登すれハ頂上に達す、岩中を穿ち一軒の家屋を建造せり、之れ当時望棲隊員の住家たり、夫より東に当り岩石を畳んで四方を築き、其中間に方一間許りの望棲台あり、之音時本島を湧出せしるたる噴火口なりと云ふ、一眸身に粟を生せしめ、心胆を寒からしむ其北方に当たりてハ、手を立たるが如きに絶壁にして海岸をなせる穴あり、其西南は勾配急なれとも畑地とするに足りるべきもの凡そ二三反もあり、現に望棲隊員が耕作せる形跡の存せるもの二畝歩許りあり、其附近に持参せる松木苗を植木苗を植付置たり 帰路ハ左右ニ勾配緩なる道路あり、6合許を下れハ、左方に溜水池あり、更に数間を下るに道路を開く能ハサル急岸にして、経壱寸許りの鉄柱を岩中ニ立て込ミ経56歩のワヤ則鉄条の網を通せり、之れに頼りて凡そ十四五間を下りたるに海面よりハ高二丈許りの橋を架したるものあり、今ハ敗頽して橋桁弐本を存せるのミ、橋下ハ激濤高く、島岸を洗ひ、其音轟然として看下すべからず   辛ク桁上を横這ひ一ノ道路ニ出たり、右する事五六間ニして一ヶの浜あり、其上りニ小島あり、竹島漁猟会社の事業小屋なり、一行ハ記念の為め其北方の荒浜に於て撮影せり

1906.04.01山陰新聞 神西部長が沈興沢郡守に竹島で捕獲した海驢を寄贈した時の模様
竹島に於いて獲たる海驢三頭の中一頭は一行に於て料理し 一頭は欝陵島の郡守に贈り一頭は衛生上の研究材料として索き帰ることとなり 昨日境より贈り来りしを以て目下衛生試験場に於て繋留しあり 神西部長は欝陵島に到り郡守を訪ふて「余は大日本帝国島根県の勧業に従事する役員なり 貴島と我が管轄に係る竹島は接近せり 又貴島に我が邦人の滞留するもの多し 万事につき懇情を望む 又貴島を視察するの予定なれば何か進呈すべきものを携帯すべかりしを今回避難の為め偶然にも貴島せし訳にして何も増訂するものなし  幸に茲に(ここに)竹島に於て海驢を獲たれば贈呈せんとす受納あらば幸甚」と、
郡守答へて曰く 「然り滞留の貴邦人に就いては余に於て充分保護すべし 又海驢の贈呈を受く 若し海驢にして味美なりせば贈与を望む」云々

1906.04.04 島郡守 沈興澤 報告書
鬱島郡守 沈興澤 報告書內開에 本郡所屬獨島가 在於外洋百餘里外이살더니 本月初四日辰時量에 輪船一隻이 來泊于郡內道洞浦 而日本官人一行에 到于官舍야 自云獨島가 今爲日本領地故로 視察次來到이다 이온바 其一行則日本島根縣隱技島司 東文輔及事務官 神西田太郞 稅務監督局長 吉田平吾 分署長警部 影山巖八郞 巡査一人 會議一人 醫師技手各一人 其外隨員十餘人이 先問戶總人口土地生産多少고 且問人員及經費幾許諸般事務을 以調査樣으로 錄去이기 玆에 報告오니 照亮시믈 伏望等因으로 準此報告오니 照亮시믈 伏望

1906.04.04 梅泉野錄 黃玹
距鬱陵島洋東百里 有一島 曰島 舊屬鬱陵島 倭人勒稱其領地 審査以去

1906.04.08山陰新聞"竹島渡航日記"

1906.明治39年度業務執行顛末(竹島漁撈合資会社)(川上226)
「……….本員は本年三月神西事務官東島司以下の一行に加わり竹島視察の結果仮説望楼払い下げのこと、竹島全島借用のこと、地先水面専用の事、および漁猟期間前後において漁場の監守を厳にすること等の緊急必要をみとめたり・・・・・竹島朗望は本件知事松永武吉氏の特別恩敬意頼りて舞鶴鎮守府より払い下げを受けたり、而して海軍用品の竹島に残存競るもの一切を正式に知事より恵与されたり。」

1906.04.29鬱島郡守 沈興澤 報告書 春川郡守・李明来の中央政府への報告 5/7議政府受付
鬱島郡守 沈興澤 報告書內開에 本郡所屬獨島가 在於外洋百餘里外이살더니 本月初四日辰時量에 輪船一隻이 來泊于郡內道洞浦 而日本官人一行에 到于官舍야 自云獨島가 今爲日本領地故로 視察次來到이다 이온바 其一行則日本島根縣隱技島司 東文輔及事務官 神西田太郞 稅務監督局長 吉田平吾 分署長警部 影山巖八郞 巡査一人 會議一人 醫師技手各一人 其外隨員十餘人이 先問戶總人口土地生産多少고 且問人員及經費幾許諸般事務을 以調査樣으로 錄去이기 玆에 報告오니 照亮시믈 伏望等因으로 準此報告오니 照亮시믈 伏望.

1906.05.01大韓毎日申報
独島が日本の領地だと言うのは、全く理にかなっていない 日本が編入する理由がないため、報告自体が怪訝なことであるとしている 「日本官員一行が本郡に上陸し、 本郡所在の独島は、日本属地と自称し、地界の濶狭と結数を一一録去、云々

1906.05.09皇城新聞
本郡所属の独島は外洋百余里の外に在るが、本月四日に、日本官人一行が官舎に来到し、自ら云うには、独島が今、日本の領地になった故、視察のついでに来到し、(中略)戸数人口と土地の生産の多少と人員及び経費幾許、諸般の事務を調査して録去した」

1906.06.『梅泉野錄』 제5권
鬱陵島 앞바다에서 동쪽으로 200리의 거리에 섬이 하나 있다. 이 섬을 獨島라고 한다. 이 섬은 옛날에 울릉도에 속해 있었으나 일본인들은 그들의 영토라고 하면서 조사를 해갔다.

1906.06 地学雑誌 隠岐国竹島に関する地理学上の知識 田中阿歌麻呂
東島に於いては菰葦の仮小屋あり(中略)、この小屋は中井養三郎氏の竹島漁業会社の所有にかかるもの(省略)。 本誌200号(注:.1905.08.15)に掲げた記事は、全く竹島の記事に非ずして、鬱陵島の記事なるが如し(中略


1906.07.13皇城新聞 鬱島郡配置顛末
統 監府에서 內部에 公函하되 江原道 三陟郡 管下에 所在 鬱陵島에 所属島嶼와 郡廳設始 年月을 示明하라는 故로 答函하되、光武二年五月二十日에 鬱陵島監으로 設始 하였다가 光武四年十月二十五日에 政府會議를 經由하야 郡守를 配置하니 郡廳은 台霞洞에 在하고 該郡所管島는 竹島石島오、東西가 六十里오 南北이 四十里니, 合 二百餘里라고 하였다더라.
*現竹島/獨島の記載全くなし

1907.新大韓地誌 張志淵
于山島X其X東南X在

1907.朝鮮水路誌第二版
竹島(Liancourt Rocks)
一八四九年佛船「リアンコール」之を発見せしを以ってLiancourt Rocksと称す其後一八五四年露艦「バルラス」は之をMenalai and Olivutsa rocksと名つけ一八五五年英艦「ホーネット」は之をHornet islandsと呼へり韓人は之を獨島と書し本邦漁夫はリアンコ島と曰く【改行】  此島は日本海上の一群嶼にして隠岐国前より大約八十浬、欝陵島より大約50浬に位し広四分の一浬の狭水道を隔てて東西に相対する二島と其周園に碁布する幾多の小嶼とより成る西島は海面上高約四百十尺にして棒糖形を成し東島は較や低く頂上に平坦なる地あり周園の諸小嶼は概ね扁平の岩にして僅かに水面に露出し其大なるは優に数十畳を敷くにたるへし二島共に全部●痩せの禿岩にして海洋の●風に曝露し一株の樹木なく東島僅に野草を生するのみ島岸は断崖絶壁にして軟性の石屑より成り奇観の洞窟多く殆ど攀Xすへからす此等の洞窟及ひ小嶼は「トド」の群棲所たり     

1907.新編 大韓地理
本島東南約三百里에 一島가 유하야 俗稱 “양고”島라 云하니 장이 三十餘里오 沿岸이 屈曲하야 漁船의 碇泊이 便宜하나 薪材及 飮料水를 아즉 不得함으로 居人이 無하며 海馬와 各種海産이 多하니라.

1910-1911.朝鮮産業誌,1910~1911,山口精 著, 寶文館
欝陵島 島中船舶を碇繋する港に乏し。鬱陵島より東南の方約三十里 無人の一島あり(ヤンコ)島と呼べるが沿岸の屈曲多く、漁船を泊し風浪を避くるに良し。


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