日本及び西洋の、測量、調査に基づく近代的な鬱陵島の地図と、
鬱陵島の地名、行政区画の変遷(北面・南面・西面)について資料を羅列します。
なお、
地図以外に記載された鬱陵島の地名
鬱陵島の北面西面南面の描写
鬱陵島の戸数・人口・日本人朝鮮人男女人口比
等は
https://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/ulleungdo-north-south-and-wes
に記載してありますので合わせてご確認ください。
1789 France La Perouseによる鬱陵島Daglet発見
1789年にフランスのLa Prouseが鬱陵島を発見し、天文学者DageletにちなんでこれをDagelet Islandと命名する。この時製作された地図が、Plan de I'le Dageletである。 La Perouseが鬱陵島へ上陸した記録は残っていないが鬱陵島で朝鮮人が造船しているのを見ている。
此の地図には、鬱陵島の北東部の香木亭と思われる岬の先に小岩が確認され、その東にはHole Rock孔巌が記載され、北東部に二つの岩と恐らくは観音島か竹嶼かはわからないが記載がある。鬱陵島の東側が余りはっきりと記載されていないところを見ると、霧が多くて正確な東部の図が記載されなかったと考えられる。1789年にLa Perouseが鬱陵島を発見しているが、鬱陵島の詳細図はH.M.S Actaonの鬱陵島調査まで待つことになる。
朝鮮東岸部を探検航海したBroughton,鬱陵島を測量結果の違いで鬱陵島と別にArgonaut島が存在すると誤認識されるようになった原因であるJames Colnettは鬱陵島の地図を書いたのであろうか? また、ロシアのフリゲートPalladaもOrivits/Melenei(現竹島)を発見し、海図に記載しているが、実は鬱陵島の場所の測定もしている。Palaldaは鬱陵島で上陸及び測量はしていなかったのか、追って探してみたい。 また、同様にLiacnourt Rocksを見たCherokee, Liancourt号、また英国のフリゲートHornet号はDageletを上陸したり、測量していなかったのか?これも追って探してみたい。
1859.SurveyD7467(1859) H.M.S Actaonの鬱陵島の測量 (U.K Admirarty office)
H.M.S ActaronのMatsushima-Dagelet(鬱陵島)の測量地図。
此の地図には、北西部の香木亭の先にある小岩、北部の孔巌、北東部の竹巌と三仙岩、観音島、竹嶼Boussole Rockが記載される。
また、南部の可頭岬の先にも小岩を記載しており、此の場所をSeal Pointと記載する。これ以前の水路誌、地圖にはこれらBoussole RockとSeal Pointは記載されていないため、Actaonの成果であることは間違いない。沿岸の水深も測量結果に基づいてか、記載される。
岸辺に何か書いてあるが、画像が小さいので読み取れない。此の部分は追って調査したい
此のActaeonの測量結果は、その後英国海軍海図 とChina Pilot Volume4やその他後続の地図海図に反映される事となった。
1879.1880.戦艦天城の鬱陵島調査
以上、甲乙丙丁ノ議紛紜定ラサルコト如斯ニシテ、巡見ノコトモ其儘止タリシニ、明治十三年九月ニ至リ天城艦乘員海軍少尉三浦重鄕等廻航ノ次松島ニ至リ測量 シ、其地卽チ古來ノ鬱陵島ニシテ其北方ノ小島竹島ト號スル者アレ共、一個ノ巖石ニ過サル旨ヲ知リ、多年ノ疑議一朝永解セリ、今其圖ヲ左方ニ出セリ
水路報告第三十三号
此記事ハ現下天城艦乘員海軍少尉三浦重鄕ノ略畵報道スル所ニ係ル、 日本海 松島(韓人之ヲ蔚陵島ト稱ス)錨地ノ發見 松島ハ我隱岐國ヲ距ル北西四分三約一百四十里ノ處ニアリ、該島從來海客ノ精撿ヲ經サルヲ以テ其假泊地ノ有無等ヲ知ルモノナシ、然ルニ今般我天城艦朝鮮ヘ廻航ノ際此地ニ寄航シテ該島東岸ニ假泊ノ地ヲ發見シタリ卽左ノ圖面ノ如シ、右報告候也、 明治十三年九月十三日 水路局長 海軍少將柳楢悅
この天城の調査結果が水路雑誌に記載される運びとなる。水路雑誌の構成は、この天城の調査と、China pilot,China Sea directoryにも記載されているActaeonの文章も併せて載せている。
水路雑誌14号より抜粋
松島
此島は洋中の一孤島にして、我隠岐国隠岐島より北東二分一、東一百三十四里、長門国角島より北二分一、東一百八十五里、釜山浦より北西四分三、北二百六十五里の処に在り。全島巖石より成るものの如く、而し樹木蔚然、周囲は絶壁多く唯南東面に少しく平坦なる処あり。我輩の此に到るや土人の小舎を構へ漁舟を造るを見たり。他の浜岸は小舟と雖も近つく可らさるか如し。東方に一小嶼あり。且奇石怪巖島を環らして星羅せり。我艦航走中此島頂の高度を測りて二千三百九十一尺を得たり。 六月廿九日、我艦隊の該島に赴くや、洋中に於て吉田中尉は正午、本艦所在を実測し、北緯三十七度四十八分を得、又、午前七時五十分に太陽高度を測りて本艦 所在の東経一百三十度三十二分を得たるに據り、正午経度を推算せり。是より針路を東南二分一、南に變し水程儀を以って測るに、航走二十里、即ち松島を距る 凡そ二里の處に達し、該島の中部を正南に望む。是時又太陽高度を測り本艦所在の経緯を算し、北緯三十七度三十二分四十五秒、東経一百三十度四十九分を得た り。 右の記事は明治十一年、海軍少佐・松村安種、天城艦を以って朝鮮海へ回航の際、其乗員海軍大尉・山澄直淸、海軍少尉補・小林春三、同福地邦実験筆記する所に係る。今後此地を航する者は、宜しく此に一致する所の海図を参観し、綿密に其状勢を考察せんを要す。 明治十二年三月 海軍水路局 (明治12=1879)
水路雑誌
鬱陵島(一名松島)
該島は我隠岐を距る北西四分の三、西約一百四十里、朝鮮江原道海岸を距る約八十里、洋中に孤立し全島嵯峨たる円錐形の丘陵集合して、樹木之を蔽う。而して其中心北緯三十七度二十二分、東経一百三十度五十七分、露測に據る。 最高山は高さ四千尺、島の周囲十八里、其形ち殆んど半円に似て其径東微北より西、微南に六里四分 の一、其の両端より海岸線は突然南方に屈折し、逐次に東西に曲り、島の南岬「セール」埼に至る。少しく岸線の出入あり。該岬を離れて一小岩あり。甚だ低 し。沿岸は散布せる岩石夛敷ありと雖も、其北岸及び東岸にあるものは其の高さ或いは四百尺及至五百尺に達するあり、皆該島に以って陡岸なり、而して投鉛し て以って其深浅を戒むに及ばず竹嶼(朝鮮人之を竹島と云う)を除くの外一岩嶼の岸より二鏈牟を出る者なし。竹嶼は此島の近海にて最大にして島の東海岸を距 る。七鏈竹嶼の北方約五鏈に一嶼あり。北方に向て洞穴二個並列す。此嶼の北東に方り約二三鏈の地に礁石一坐あり。近く可かをす「ホール」厳は島の北岸にあり。大なる洞穴あり、又之に臨める陸岸には丘陵あり。滑面禿兀峻険にして其地形笋の如く又筆の如く之を見るに花崗岩ならん。其頂上に葛及苔を装 す。其高さ八百尺。該島の辺海は陡岸にして英艦「アクテオン」号の端舟独り其の水深を探り得たり。又島の南方四里の地にて深さ四百尋、海底に達せす。又島 の北方二里四分の一にて三百六十六尋海底に達せさりしと云う。沿岸には一の港湾なく、然れども好天気には竹嶼の南南西四分の一、西に方る小湾に假泊し、礫 石の濱に上陸するを得るの地あり。蓋し北東風にては縦令ひ軽軟にても甚だ困難なり。該湾は海底峻険二十尋より直ちに十尋となり、岸に接しては六七尋、底質 は皆な砂なり。其他此島の海岸八九は上陸を得るの地なり。該島には樹木多数、槻・桑・椿等あり。槻、最も多し。甚だ僅少の香木あり、又虎斑に類せる。
1883年9月 明治16年地図第四号(「朝鮮国蔚陵島出張檜垣内務少書記官復命ノ件」p11、p12
日本の対馬藩と朝鮮東菜との間で、17世紀末に「竹嶋」(当時の鬱陵島の日本名)は朝鮮の帰属が外交交渉によってなされた。しかしながら、日本人は一時的 には鬱陵島への渡航を停止していたが、それはいつの間にか再開していた。1834年には「松島(現竹島)」へ行くと嘘をついて「竹嶋(鬱陵島)へ渡航し て、密貿易を実施したのが発覚して処刑された今津屋八右衛門は有名だが、1870年代辺りにはとにかく鬱陵島へ渡航していて、鬱陵島に「日本国松島」の碑 文を鬱陵島に打ち込んでいる。 いずれにせよ、日本政府は朝鮮政府との話し合いで日本人を鬱陵島松島から撤退させる事になったが、そのときの朝鮮王朝の調 査官である李奎遠が製作した地図と同じ時期に、日本人の檜垣内務少書記官による鬱陵島の地図である。此の地図には、各河口/浦に固有の地名が記載されている。北西から見ていくと、孔巌である「窟大岩」、その東に錘峰、そして千年浦と倭船倉とはさんで大体の地図に記載がある三仙岩がないが、その向こうに観音島が記載される。観音島は一応島の形をしているが、「島項」と記載され、観音島と鬱陵島の海水が流れている部分は「観音岬」と記載されている。そして他の地図と同様に、最も著者な最大の付属島である竹嶼が記載されている。この地図と同時期に鬱陵島へ調査に入った李奎遠が1882年に製作した地図比較してみるとほぼ情報が共通している。ともに現竹島は記載されていない。北東部に記載された地名は倭船倉 大巖 島項 観音崎 竹島 窩捷里 小芋浦ショウ●●●●●碇ヶ浦? 大芋浦ダイ●●●●●1900年06月12日 在釜山 領事官補 赤塚正助 鬱陵島調査槪況및山林調査槪況報告の件の添付圖1883年に一旦鬱陵島滞在日本人を強制退去したが、188 年の日韓通漁規約で鬱陵島へ再び来れることになった。日本人は本土から物品を持ち込んでは鬱陵島で販売し、材木を伐採して本土に持って帰っていたりしたが、鬱陵島での日本人による違法伐採が深刻化し、また鬱陵島で犯罪を犯す日本人が問題になった事から、釜山から赤塚正助が派遣される事になった。この時、釜山の海関税務士La Porteや大韓帝國の鬱陵島調査員禹用鼎も同時期に調査に入る事になった。そのときの日本側の地図である。
地図はおもに島内の地名に重点が置かれており、付属島はかなり簡略化されているが、空島Gongdo(孔巌)と三本立(三仙岩)と島牧(Sommok(島項/観音島)と竹島(Jukdo竹嶼)が記載されている。
北東部に記載された地名は
天府洞
竹岩洞
三本立
島牧
高在浦
観音崎
竹島
臥建失
乃守田
また、この時、視察委員の訓令という形で、13洞に訓練が出されている模様
1900.05.?(Undated) 訓令 十三洞
獨島プロパガンダ学会のWebsite中、 このHWP Fileにある。原文はどこにあるか確認必要
本官이 來此數日에 詳察島中 前後事實 則日人之違犯章程과 侵虐居民은 已無可論 而亦不無島民之符同締結과 興訛作奸之所致也라. 言念此에 尤切痛歎이기로 玆以今飭노니 從玆以往으로 島民中 若或有符同犯斫이거나 嗾囑起鬧이거나 爲其使喚야 引鉅運木等 雇役之端이면 一從本島監指摘馳報야 卽爲移囚于釜山警務署야 分等嚴懲을 斷不饒貸矣리니 愓念擧行야 無至抵罪 爲宜事.
再此亦中 今此令飭 各其洞頭民 這這曉諭 于該洞民人等處 俾無一民不聞不知之弊 爲宜事.
禹用鼎はこの時の記録を「鬱陵記」として残しているが、地名などは添付の地図が無ければ報告書としては理解が難しいので、なにか添付地図がどこからか出てこないか、此のあたりも調べる必要がある。この禹用鼎の報告を元に、大韓勅令41号の発布となったわけだが、その請願書の前文に、鬱陵島の範囲雅記載されているが、現竹島が入っている範囲ではない。
右 該島가 東溟에 特立야 大陸이 遠隔온바 開國五百四年에 島監을 設置야 島民을 保護고 事務 管掌케 該島監 裵季周의 報牒과 本部視察官 禹用鼎과 東萊稅務司의 視察錄을 參互節査온즉 該地方이 蹤可八十里오 橫爲五十里라 四圍峭壁에 中有巨山야 自北止南고 間有大川야 深廣이 幾容舟楫고 其土가 沃腴고 其民이 質野야 自數十年來로 民蓄이 蕃殖야 戶數가 爲四百餘家오 墾田이 爲萬餘斗落이라 居民의 一年農作擔包數爻가 藷爲二萬餘包오 大麥이 爲二萬餘包오 黃
また、この鬱島郡の範囲は1906年07月13日に再確認しているが、その範囲にも現竹島は入っていない。
統 監府에서 內部에 公函하되 江原道 三陟郡 管下에 所在 鬱陵島에 所属島嶼와 郡廳設始 年月을 示明하라는 故로 答函하되、光武二年五月二十日에 鬱陵島監으로 設始 하였다가 光武四年十月二十五日에 政府會議를 經由하야 郡守를 配置하니 郡廳은 台霞洞에 在하고 該郡所管島는 竹島石島오、東西가 六十里오 南北이 四十里니, 合 二百餘里라고 하였다더라.
歴代相伝の鬱陵島の大きさについては、・朝鮮の認識していた鬱陵島の範囲を参照していただきたい。
1900年に2面(南/北)18洞を は紹介しているが、一次資料での確認が必要
1902.10.01.外務省通商局編纂 通商彙纂 付録 韓国鬱陵島事情
地名の表記あり http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka17/tsushoisan-1902/08.jpg
(表)
村名戸数人口(×印ハ本邦人戸口数)
1904.第15艦隊鬱陵島見取り図(明治三十七年海戦史)
日露戦争の準備のために日本は松島鬱陵島に電信線と楼望を大韓帝国との条約に基づき合法的に設置する事になったが、その下準備のための調査。このとき現竹島へも調査を出し、地図を製作している。リアンコールド島、つまり現竹島は舞鶴鎮守府の所管であり、一方松島鬱陵島は朝鮮東岸を管轄する佐世保鎮守府の管轄であり所轄が違う。電信線の件は田中邦貴氏のサイトが詳しい
地図は、1900年の地図と同様、各浦の地名と北東の香木亭の先に二つの小岩か浅瀬があり、竹巌、三本立(三仙岩)、観音崎と最も著者な最大の付属島である竹島(竹嶼)、芋洞の沿岸の二つの岩(燭台岩と 岩)、南端部国岬(Seal Point)の先の小岩と通邸尾の先の亀岩と思われる小岩が書かれている。
1906.05.26欝陵島見取り図 奥原
地図には俵島(俵の意味とその位置から推測すると孔巌か?)と一本立(竹巌)と三本立(三仙巌)観音崎(観音島)と最も著者の付属最大島である竹嶼、芋洞の港の前面カブト岩とタチ巌、国見崎Seal Pointの前面にやはり巌が確認でき、通邸尾にも亀巌とおもわれる岩が記載されている。また、此の地図は韓人居住地域と邦人居住地域が判るようになっている。
北東部に記載されている地名は
天府洞チョンブドン (ChonBuDong)
竹岩テバヲ (TeBaWo)
一本立 (IPponDateShima(Te-am))
三本立
観音崎
北望棲
亭石浦チョントロボ (ChonToroBo)
竹嶼
臥達里ワタリ (WaTaRi)
乃守田ネシダン (NeShiDang)
1908.08.軍艦松江の鬱陵島測量 竹邊湾至水源端
鬱陵島のかなり詳細の測量圖である。孔巌、竹巌、三仙巌、鼠項島Seommok Seomと竹嶼Tei-seom(Boussole Rock)が記載されている。
北東部に記載されている地名は
竹岩 (TeNoBao)
竹岩Tei-bau (Tei-bau)
鼠頂島 (SeomMokSom)
竹嶼(Boussole Rk) (Tei Somn)
芋洞Moshike (Moshike)
1909.(1911?)欝陵島全図 韓国水産誌
韓国水産誌に添付されている地図である
北東部に記載されている地名は
天府洞チョンプートン (ChonPuTong)
竹岩テノバオ (TeNoBao)
竹岩テノバオ (TeNoBao)
三本立
鼠頂島 (SeomMokSom)
亭石浦チョンポドン (ChonPoDong)
竹嶼
乃守田ネーシユデン (Ne-SiyuDeng)
孔岩【孔岩】鼠項島【観音島】最大なる北東側竹嶼424尺【Jukdo】
部落は島をXりて遊ひ其数二十余あり、之れを分ちて南、北、西の三面と為す、左の如し
南面
西面
北面
芋洞(モンゲ) 道洞(トドン) 沙洞(アリクサ・サトン)
新里(ジンイー)長輿洞(チャンフントン)
通亀洞(トンキミ) 石門洞(ソクムン) 南陽洞(ナムヤントン)
南西洞(チョソトン)鶴浦洞(ハクボドン)台霞洞(ソーカトン)
玄圃洞(カモンサキ・ヒョンボトン)薪村(シンウォン)光岩(クァンアム)
昌洞(エイセンチャン・チョントン)竹巖(テーアム・チュクアム)亭石浦(チョンポトン・チョンソクボ)
前記部落中、人家集団せるは芋洞、道洞、通亀尾、南陽村、竹巖の五洞にして其外は人
口五十未満の小部落なり、▲西面に属する鶴浦洞は奮名を小黄色土浦(チャガゥハンドギミ)と称し台霞洞
も亦其奮名を黄土浦ハントボミと称したり、此地は本島北西角の西南側に在り、海図北西角に
黄土金末と記せるは蓋しこの故なるへし、▲北西に属する竹巖、亭石浦等の一帯は
総称して天府洞といふ、蓋しこれ成冊上の村名にして竹巖、亭石浦等は其一部落たる
に外ならず。
治所は元と羅里洞に置かれしか今は移されて道洞に在り、此地は本当唯一の良
港なると同時に本当一の盛地にして居住日本人の大多数も亦此に在り、郡衛の外
に警察署郵便所あり.
*記録に竹島・石島の記録なし
1917.1918総督府地圖 鬱陵島
1918
総督府によるかなり詳細な地図で、細かい地形まで確認できる。
また、地図には、北面、東面、南面が区分けされている。
南面
西面
北面
内守田、新輿洞、芋洞、道洞、沙洞、玉泉洞、新里、長輿洞、間嶺 (洞は6つ)
竹島
通九味、石門洞、南陽洞、南西洞、亀巖、水層洞、山憶洞、鶴圃洞、台霞洞 (”洞”7つ)
香木洞、玄圃洞、小羅里洞、紅門洞、羅里洞 昌洞 天府洞
観音島 鳥項 石圃洞 臥達里
(洞8つ?)
北東部にある地名は
北面所属と考えられる範囲は、 ・-・-・-
香木亭
玄圃
天府洞チョンプートン (ChonPuTong)
竹岩チュクアム (Chuk-Amam)
一本立島(竹岩テーアム) (IPponDateShima(Te-am))
三本立 (SanBon-Date)
周峰ツルボン (Tsuru-Bong)
観音島クッスムトー (KuSsumu-To)
鳥項ソムオキチュ?- (SeomOkiChu?)
石圃洞ソクボドン (Sok-Bo-Dong)
臥達里ワ-タルリ (Wa-TaruRi)
---ここまで東面---------
---以下、南面-----------
竹島チュクト- (Chuk-TO)
内守田ネースージョン (NeSuJong)
(省略)
間嶺
---ここまで南面---------
---以下、西面-----------
通九味
(省略)
台霞洞