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去る20日、「第3回21世紀の朝鮮通信使 ソウル-東京、韓日友情ウォーク」最後のコースの釜
山地域行事に参加した。ソウルを出発して過去の朝鮮通信使が通った道に従って下りてきた韓日
両国の一行と合流した。行事旗と太極旗を持って激しい風とホコリ、春の強い日差しにもかかわら
ず、19日間疲れずに歩いてきた体力に感心した。多様な年齢層、特に50~70代の日本人が多か
った。今回の行事は韓国では韓国体育振興会、日本では日本ウォーキング協会が主管した。
日本で幕府の新しい将軍承襲が決まれば300~500人から構成される使節団を編成して漢陽(ソ
ウル)から釜山までは陸路、釜山からは海路で対馬と下関を経て大阪に上陸し、また陸路で京都
と東京まで行ったのが朝鮮通信使の行路であった。朝鮮通信使は朝鮮と日本間外交・文化交流
の架け橋の役割をした。(中略:朝鮮通信使の説明)
日本人たちと一緒に歩きながら日本ウォーキング協会幹部に訊ねた。最近、韓日間問題になって
いる独島(ドクト、日本名:竹島)についてどう思っているかと?幹部は頭を下げて聞かなかったよ
うに足取りだけ催促した。山道を越えて東莱(トンネ)に入るとすぐに衿井(クムジョン)文化院の前
に50メートルの長さの旗竿に太極旗がひるがえっていた。今一度、幹部に独島に関する意見を聞
きたいといったが、黙黙と歩くだけだった。大きな声で「なぜ日本は他人の領土を強奪しようとする
のか?日帝侵略36年では不足なのか?安龍福(アン・ヨンポク)は1969年、日本幕府から鬱陵島
と独島が朝鮮の土地だと覚書を受けたことがある。」と話した。関連歴史記録がある水営史跡公
園に立ち寄れと薦めることもした。
鬱陵島は独島とともに智証王の時、新羅の朝貢国になり、高麗顕宗の時、高麗領土に編入された。
そうするうちに朝鮮太宗の時、住民を陸地に移す空島政策が施行され無人島になった。日本が今
も主張する「無主地先行獲得」の根拠だ。安龍福はこういう主張を歴史記録などを基に反論し、徳
川幕府から鬱陵島と独島が朝鮮領土という覚書を受け取った。彼の業績を賛える「安龍福将軍忠
魂碑」が鬱陵島に建っている。
アン・ヨンポクは1693年鬱陵島(ウルルンド)でアワビを取って日本に捕えられたと伝えられている。
記録上で韓国と日本が鬱陵島(ウルルンド)と独島(ドクト)を置いて対立した初めての事件だ。
アン・ヨンポクは日本幕府から鬱陵島(ウルルンド)と独島(ドクト)が朝鮮土地という覚書を受け取るが
帰国の道に対馬州にこの文書を強奪される。 2年後アン・ヨンポクはまた日本に渡っていく。
今回は鬱陵島(ウルルンド)・独島(ドクト)減税長(監税将:租税担当管理で実際にはない官名)で振る舞って
幕府の書簡を再度受け取る。 鬱陵島(ウルルンド)・独島(ドクト)が私たちの土地であることを認めた
日本最初の公文書だ。
日本、島根対の私内藤正中名誉教授が昨年末発表した論文によれば、日本政府は過去二度公式に'
独島(ドクト)は日本領土ではない'で明らかにした。 その中一つがアン・ヨンポクが受け取った1695年の
文書だ。 それでも日本、島根県は昨年2月22日を'竹島の日'で正解独島(ドクト)領有権を主張して、
今年教科書に自国領土と記載した。
(中略:安龍福の説明。内藤正中の論文説明)
ウォーキングの終点、東莱東軒に到着した時間は午後3時45分。忠臣堂の前で案内者の説明を
聞いた一行は忠臣堂内部の当時の写真と縮小模型建築物を見るために中に入った。525キロの
朝鮮の土地を踏んだホコリの積もった登山靴で床底をためらいなく踏んで入る。履き物を脱いで
入らなければならない場所に日人たちの行動は醜悪で無礼極まりない。「自国でもこのように無
理をするのだろうか?」と考えていると一部から不当な行為と大声があがった。
21日午前8時40分頃、日本人たちの宿舎に電話して交渉担当者、川田茂に「水営史跡公園を見
て回れば過去の歴史理解に役に立つ」としたところ担当者を変える。事実を詳しく説明して史跡公
園に立ち寄るように言った。しかし、彼は東莱区庁が決めた日程に従わなければならず、敏感な
事項を入れることができないと言う。
多くの予算と協賛などを受けながら韓国の歴史さえちゃんと話せない主宰側や行政官庁の安易
な歴史観を持っては10度でなく100度行事を行っても相互の友情や友好関係は改善されない。
観光行事で一貫する形態をはやく脱することを望む。
関連サイト:ソウルから釜山までの525㌔を歩き終えたウオーカーたちの表情は、晴れ晴れしていた
http://blog.goo.ne.jp/kanai4655/
朝鮮通信使の足跡たどる 福岡目指しソウル出発
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110401/kor11040109190000-n1.htm
ソース:国際新聞(韓国語) 朝鮮通信使通った道を日本人はなぜ歩くのか?
http://www.kookje.co.kr/news2006/asp/center.asp?gbn=v&code=8800&key=20110424.99002140408
鬱陵島は独島とともに智証王の時、新羅の朝貢国になり、高麗顕宗の時、高麗領土に編入された。
とこの記者が歪曲を書いているようです。
韓国側が智証王のときに島根の竹島が新羅に変夕もしくは征服された、と主張するのは、三国史記512年条
を根拠にしておりますが、この三国史記においては、鬱陵島を征服したとの記載しかありません。また、その地方は百里であると説明しており、現在の島根の竹島を征服した痕跡は文献から全く確認が取れません。
0512.三国史記-卷四・新羅本紀・智証麻立干 智証王13年(512年)夏6月条
十三年夏六月、于山国帰服、歳以士宜為貢 于山国、在溟州正東海島、或名欝陵島、地方一百里、恃嶮不服、伊異斯夫、為何瑟羅州軍主、謂于山人愚悍 難以威来、可以計服、乃多造木偶師子、分載戦船、抵其国海岸誑告白、汝若不服、則放此猛獣、踏殺之、国人恐懼則降
また、高麗顕宗の時、高麗領土に編入された。 と述べていますが、之も間違いで、文献からはこのときの島が現在の竹嶋であることは判断できません。
1432.世宗実録 地理志 江原道襄陽縣 (世宗莊憲大王實 五十七冊 卷第一百五十三)
于山、武陵二島、在県正東海中、二島相去不遠、風日清明、則可望見、新羅時、称于山国、一云 鬱陵島、地方百里、恃険不服、智證王十二年、異斯夫為何琵羅州軍主、謂于山人愚悍、難以威来、可以計服、及多以木造猛獣、分載戦船、抵其国、誑之曰、汝若 不服、則即放此獣、国人懼来降、高麗太祖十三年、其島人、使白吉、土豆、献方物、毅宗十三年、審察使金柔立等、回来告、島中有泰山、従山頂向東行至海、一 万余歩、向西行、一万三千余歩、向南行、一万五千余歩、向北行、八千余歩、有村落基址七所、或有石仏像、鉄鐘、石塔、多生紫胡蒿本・石南草、我太祖時、聞 流民迯人其島者甚多、再命三陟人金麟雨、為安撫使、刷出空其地、麟雨言、土地沃饒、竹大如柱、鼠大如猫、桃核大於升、風物称是
* 于山と武陵は県の東海中にあり、その二島は共に遠くないと書いてある。晴天時には県(蔚珍)から見えると書いてある。(韓国側はこの文を于山から武陵が見 えると歪曲するが、これについては別のところで述べる)。新羅の時代、于山国とは、鬱陵島のことであると記載されている。また、地方は百里であり、山頂か ら向東行至海、一 万余歩、向西行、一万三千余歩、向南行、一万五千余歩、向北行、八千余歩と記しており、やはり此の範囲には現竹島は含まれていないいのは明白である。
そうするうちに朝鮮太宗の時、住民を陸地に移す空島政策が施行され無人島になった。日本が今
も主張する「無主地先行獲得」の根拠だ。
記録上で韓国と日本が鬱陵島(ウルルンド)と独島(ドクト)を置いて対立した初めての事件だ。
と記事では書いているようですが、これは間違いです。このときの事件は所謂「竹嶋一件」(竹嶋とは江戸時代の鬱陵島の日本側の呼称。 現在の島根の竹島は、江戸時代は松島と呼称)の話ですが、日本側担当の対馬藩と、朝鮮側担当の間においては、竹嶋(江戸時代の鬱陵島のこと)の帰属問題について話し合いをしておりますが、松島については記載がありません。
安龍福はこういう主張を歴史記録などを基に反論し、徳 川幕府から鬱陵島と独島が朝鮮領土という覚書を受け取った
との説明を行っているようですが、安龍福が徳川幕府から朝鮮の鬱陵島と島根の竹嶋を朝鮮領土という覚書を受け取った記録もありません。また、・安龍福の行為は、朝鮮王朝とは関係のない行為・人物として日本側交渉担当である対馬版に公式に伝達されています。 (於漂風愚民設有所作為亦非朝家所知) この対馬は、朝鮮側とは、鬱陵島(当時は竹嶋と日本では呼んでいた)の帰属をめぐって交渉を行っていましたが、安龍福にかんしては、島根において取り調べtが行われていたものの、安とは外交交渉など行われていません。
今回は鬱陵島(ウルルンド)・ウサン島独島(ドクト)減税長(監税将:租税担当管理で実際にはない官名)で振る舞って
幕府の書簡を再度受け取る。
安は、二度目は、鬱陵島(ウルルンド)・ウサン島)監税将 という嘘の官職を詐称して日本に来たことが日本側の文献で確認が取れますが、しかし、このときに、江戸幕府が、書簡を安龍福にだしたという記録はありません。まあ、前述の通り、安龍福の行為は、朝鮮王朝とは関係のない行為・人物として日本側交渉担当である対馬版に公式に伝達されています。 (於漂風愚民設有所作為亦非朝家所知)