ある韓国人教師の呟き

第一話「同僚との喧嘩」

私(注:私の知人の韓国人教師)は同僚(注:其の知人が通っている中学校の同僚)の歴史の教師に、扶桑社の教科書は.採択率が0.039%で、教科書を決めるのは民主的な方法で教育委員会が決める事で日本政府の仕事ではない。韓国は国定の一つの教科書しかないと言った。

けれども彼女はそれだけで突然怒り出し、それ以降気まずい風陰気が突然訪れるようになった。あれから、私は自分の国の教科書の不満を心配するようになった。

彼女は何か妙なものに取り付かれている。生徒に歴史教育を植え付けるという使命感だ。

けれども、それが教育なんてとんでもない。プロパガンダ以外の何物でもない。教育とは、生徒を礼儀正しくしたり正直や公正さを教える事で人格を洗練させる事だ。そう、彼女の"教育”は”教育”ではなく、プロパガンダ。なぜなら偏見と敵意を分別も付かない子供たちに刷り込むからだ。

こんな気違いじみた悪循環は韓国の未来に悪影響をもたらすだろう。 しかし、私には何も出来ないだろう。

(参考資料)

第二話「ファシズムプロパガンダ洗脳」

夏休み明け、最初の授業で(注意:中学校)、私は「英語が会話できることと、国際交流について」

この夏(注:2008年)の日本での話をした。

(注:韓国では、08月末(08/23-24)くらいから学校が始まります)

私には何人かの日本人の知り合いが居るが、そういった人たちと夏に会ってきているし、某国留学中でも日本人と部屋をShareしていたので、そう行った友人が居ることも話した。

しかし、予期しないことが起こった。授業終了後、二名の男子学生が私に抗議してきたのである。

「日本に行くべきではない。 日本人と交流すべきではないし、日本人の友達を作るなんてもってのほか、」と。

私は二人の生徒に答えた。

「あなた達が持っている偏見は今後の人生に全く役に立たない。やめなさい、」と。

生徒は、

「とにかく、日本と日本人はよくない」

生徒ははき捨てるように去っていった。

私はショックを受けた。たしかに韓国人が反日的であることは否めない事実であるが

中学生がこのような他国に対して攻撃的な偏見と敵意を抱く社会は、果たして正常なのか?

このような強烈な攻撃性を抱く学生が一体大人になると、どのような悪影響が起こるのかと。

国際交流は、お互いの誤解を解き、信頼醸成するために、必要である。

私が通っていた大学の教授は、併合時代を経験した方であり、日本人は親切な人たちが多かった、という話を聞いていた。

私は当時、その話に違和感があったが、それは海外で日本人と交流するようになり、消えた。

実際私は日本人に接しているが、韓国のメディアが主張するような、軍国主義や偏狭な民族主義は感じられなかった。大阪で見た右翼の街宣車に居た男は、明らかに我々と同じ民族の顔をしていた。

また、某国に旅行に行ったときに、偏見に満ちた攻撃性で、そこに居た日本人の集まりに悪口を言っている恥ずかしい同胞をみて、恥ずかしく思った。

私は考えた。老人達は、併合時代のよかった思いでもつらかった思い出も両方、懐かしく語り、

一方で、こういった若い子供達は、いったい、なぜそこまで日本に憎悪と敵意を抱くのか?

(参考資料)

それは、判りきっている。分別も付かない子供達に、反日に仕向けるようなカリキュラムを仕込んで有ることは、教員である私が一番感じている。なにせ自分もかつては偏見を抱いていた人間だった。

しかし、今日行われているカリキュラムは、私が受けたものよりも、強烈で度が過ぎている。これでは、世界の人たちが、このようなファシズム・プロパガンダまがいの事が行われていることを知ったとき、北朝鮮も大韓民国も中国も大して変わりがない、と判断するだろう。

このような敵意を煽るために仕込まれているカリキュラムは、韓国社会の未来に必ず悪影響をもたらす。

(参考資料)

韓国のメディアは、なにか独島の事がニュースで放送されるたびに、「日本の軍国主義」云々を報道するが、

実は、鏡を見ると、我々韓国社会が偏狭な民族主義と軍国主義をまっしぐらに突き進んでいるのは明白である。こういったことに気がつかない、大人が恥ずかしい。

(参考資料)

ところで、思い起こしてみると、この事件には予兆があった。一学期終了直前、つまり夏休み開始間際に、教育資源部から反日指令と夏休み独島課題を出すよう通達があったし、新聞でもTVでも、なにかと騒いでいたと聞いた。

2008年07月16日には、

日本の文科省が2008年07月14日に竹島之記述を加えたので、我々は之を批判しなければならない。

教員への指令

各校「Dokdo」教育を推進する事。

1.教員は、朝礼、および放課後も、生徒だけでなく、生徒の親に対しても手紙・ビラを出し、生徒がCyber DokdoのWebsiteを知らせて、それらを訪問するよう推奨する事。

2.また、日本関連のイベントは一時的に一切中止する事。(日本の文化交流提携校とのイベント・また日本への修学旅行等も中止する事。

(参考資料)

・08年7月21日に全羅△道教育資源部から各学校に出された反日洗脳プロパガンダ関連の指令

1. 各学校のWebsiteに、”Dokdo"関連団体6団体のLinkがでるPop-Upを設置すること。

そしてそれを生徒と両親に周知徹底させる事

2.シンヨンハの111問111答を宿題として生徒に課し、保護者にも周知させる。

3.そのた宿題 独島愛を増進さえるための作文、絵画などを課題として出すこと。

図書館は日常の夢と幸福を送ります」

全羅△道 ○○教育庁 (注;○○の部分は地名が入っておりますが、伏せます)

受信者 受信者 参照

題目 「独島」関連家庭通信文発送及び関連資料学校ホームページ登載

1 関連:x学教育課―2○○○○(2008.07.18) (注;Xと○○の部分は学校の種類が記載されておりますが、伏せます)

2 各級学校では独島関連学生、学父母対象広報及び教育活動を強化するため、次の事項を積極推進されるよう願います

カ 学生、学父母広報

○地域教育庁及び学校ホームページポップアップ窓設置:<添付1>資料

○家庭通信文発送(休み期間中に学校種別により適切に作成施行)

○独島111問111答 積極広報及び活用:<添付2>資料

ナ 休みの課題物提示

○内容:独島愛作文、標語、ポスター、UCC製作など

○その他事項

-休みが始まっていない学校では課題物として提示勧奨

-休み期間中の学校では上記活動推進計画を家庭通信文、学校ホームページ

Eメールで案内し、積極参加を勧奨

-課題物の結果を休みの課題物展示会などを通じて表彰し、読書愛好運動活性化を誘導

添付

1 ポップアップ窓(愛しているよ、我らの独島)

2 独島111問111答 1部 終

全羅△道 ○○教育庁教育長

---------------------------------------------------------------------------

受信者 初、中、私、単設幼稚園

地方事務員 奨学士 教育課長

協助者

施行 教育課-1○○○○ (2008.07.21) 受付 ○○▲▲▲▲▲×学校

(2008.07.23) *筆者注;ここから二行には、学校の名前、とEmailアドレスが記載されているのですが、

個人情報が含まれている関係で削除します。

かつ、日付は忘れたが、歴史教師のみだけでなく、全教科の教員がそれをやるべきだ、といった旨の指令分も来ていた。

しかし、一体数学や体育や英語教師は何をしろというのだ?

とりあえず、夏休み明け直前まで学校は休みだし、私の当番は夏休み終了間際なので、私がすることは何も無いはずであるからだ。

そのような中、私は日本に旅行して、帰って来た後の最初の授業での、そんな顛末にショックを受けた。

実は、今回の夏休み、日本に旅行するに当たって、私は、或る友人(注:私のこと)から、

Lee Sang Tae : Historical evidence of Korean sovereignty over Dokdo

を図書館で借りて持ってきてと頼まれていたので、

今回の旅行に持って行った。しかし、その地図集を見ているうち、私は不安になった。。

果たして、韓国政府が主張する于山島は、本当に独島なのか?

鬱陵島詳細図にかかれた于山島の位置と形をみて、確信が持てなくなった。

そこで、私は、以前鬱陵島へ旅行に出かけたことの有る姉の家に行って、尋ねてみることにした。

第三話「鬱陵島へ行った姉」

夏休みが明け、例の不愉快な事件があってから数日後、私は姉の家を尋ねた。

(例の不愉快な事件は「第二話を参照してください)

姉の家に行くと私は、何気なくソファーに横たわりながら、その本を広げて読んでいた。

(注:その本とは、Lee Sang Tae : Historical evidence of Korean sovereignty over Dokdoの事です)

すると、思っていた通り、姉が声をかけてきた。

「◎◎、何の本を読んでいるの?」

「図書館で借りた独島地図集を見ている。あ、そういえば、姉さん、前に鬱陵島に行ったよね?どうだった?」

「ああ、行ったよ。三日間だけだけどね。神秘的で素晴らしい島だったよ。

でも、結局、鬱陵島一周観光船と鬱陵島一周バスツアーとチュクトーしか行かなかったけどね。ハッ。

それでも、いろいろな奇妙な形をした岩が青くてきれいな海に神秘的に浮かんでいて、よかった。

トレッキングルートとかも色々あるので、時間があればもっと楽しめると思うわ。」

(注:チュクトーとは、竹嶼のこと。デッソムともいう。洋名Boussole Rock)

「独島には行ったの?」

「独島に行かなかったよ。三日しかなかったし、あれは事前に予¥約が必要だからね。」

「しかし、鬱陵島はぼったりすぎる。物価が高くて高くて。それだけが不満。いくならカップラーメン買い溜めして持っていくべきだったわ。」

そこで、私は、その長細い島には于山島が書いてあることを告げずに、借りている本の中にある一枚の古地図を見せた。

(1736.-1767.c.a 輿地圖 欝陵島 奎章閣 古4709-68

「地図に書いてあるんだけど、鬱陵島のすぐ傍には、長細い形をした小島があるの?」

「ああ、あるよ。デッソムの事ね。確かにすぐ横にあるんだけど、実際見ると、鬱陵島から結構離れているように感じたよ。そこは鬱陵島から普通にいけない孤島だから、道洞て港から観光船に乗っていくんだよ。だいたい片道30分くらいだった。観光パンフレットと地図があったと思うから探してくるわ」

といって、書棚へ観光地図を探しに行った。

(注:デッソムとは竹嶼/Boussole Rockのことを言う。鬱陵島の北東部にある。東経130度56分)

その間に、私は姉の家のPCの電源を入れて、Google Earthを起動して鬱陵島を見ていた。

Google Earthの鬱陵島の画像は、いつからなのか、北東部がはっきりと表示される様になっていた。

そして姉が地図を持って戻ってきた。

(この地図は鬱陵郡が発行している鬱陵島の無料観光地図;知人より提供)

Google Earthを見て「最近の地図はすごいね」

と感心していた。

次に、1834年の金正浩の青邱図のページを開いて、それをみせた。

1834. 「青邱図」圭尚閣

私は姉に尋ねた。「こういう南北に長細い形態をしているの?」

「お~,とても竹嶼の特徴を把握していますね。金正浩はすごいね。」

そういって、姉は、,少し前開かれたGoogle Earthの竹嶼を見て、満足げである。

青邱図に書かれた于山島と、竹嶼の形状は、見事な位一致していた。

そして,最後に,1711年に、鬱陵島捜討官、朴錫易の鬱陵島図形のページを開いてこのように尋ねた。

参考:・1694年以降の朝鮮王朝の鬱陵島捜討官の製作した鬱陵島詳細図

「この地図の,鬱陵島の北側にそれぞれ書かれている岩岩は、いったい何?」

「そして,この地図に,この南北に細長い長細い島には、海長竹田があると書いてあるのだが、竹が生えているの?」

姉は,鬱陵島で貰ってきた観光客用の無料パンフレットを開いて,それを私に見せて説明した。

.

(この地図は鬱陵郡が発行している鬱陵島の無料観光地図・北東部抜粋)

姉は、鬱陵島でもらってきた観光客用の無料パンフレットを開いて、それを私に見せた。

「写真見てごらん?竹嶼の石の断崖の上が、人が住める空間になっている島なんだよ。

竹も生えているよし、畑があり、芋も生えていた。でもって、北のほうが小山になっていて、森になっていたよ。」

ここから鬱陵島をながめると、鬱陵島の峰峰が展望できるとてもいい眺めだった。

そうそう、この古地図にかかれた北に書かれた岩は、間違いなくコッキリバウイとデバオとサムソン岩(注意:象岩と竹岩と三仙岩の事)かね。

デッソムは、このデバオとサムソン岩の南東にあるんだよ。ここが、鬱陵島で一番神秘的な観光スポットだから。」

私の不安はどうしても的中した。

間違いない。于山島は竹嶼だ。独島ではない

学校などに配られているパンフレットには、

いつも朝鮮半島全体図や江原道図に書かれた、

縮尺の小さい、省略された鬱陵島と于山島の地図しか見たことがなく、

鬱陵島の詳細図をもって説明している事はまったく聞いたことがなかったが、ようやくその理由がわかった。

(1530 東国與地勝覧 八道総図)

つまり、鬱陵島を監督していた鬱陵島調査官が作った鬱陵島詳細地図は、

韓国にとって、歪曲がばれる致命的な地図なので、鬱陵島の詳細地形の話をしないんだ。

そこで、私は、姉に、それら鬱陵島詳細図に書かれている島の名前を話した。

この小島には、于山島って書かれているんだけど・・・・・

一瞬、姉は、驚いた顔をした。

「え? 「于山島って独島って」韓国政府は言っているよね? え?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

私たちは,右野馬シーマは独島(ドクト)だと徹底的に教えられてきた。新聞でもテレビでも話す。

幼稚園児達に、強制的に歌も記憶させている。

しかし、新聞でもテレビでも,このような鬱陵島(ウルルンド)詳細地図を見たことなかった。

「これは・・・・独島じゃない。」

「独島(ドクト)は90 km東南にある島だ。その上,二つの小さな岩礁の島だ。 古地図に書いてある通り、このような近距離にはないし、竹も生えていない。于山島は竹が生えていて、かつ、南北に長細い一島だが、 独島はそんな島ではない。これら古地図は一島だ。ええ?」

鬱陵島へ行ったことがあり、竹嶼にも行ってきた姉は、そこで、事の重大さを理解したようだった。

「-_-;;;················」

しかし,これだけではなった。後日,「独島(ドクト)愛展示会」が私の町に来ていることを全教組の告示の案内で知ることになったので,そこに行ってみた。しかし,そこで偶然に,私は新しい地図の存在を分かってしまうことになるが,それはまた他の機会に話そう。

第四話 「カーシェアリング」

先日、鬱陵島へ行った事のある姉に于山島の話をした数週間後、私は、全教組からの案内で、自分の町に「独島愛展示会」が来ていることを知った。そこで、私は、買い物帰りにそこに行ってきた。

(先日の于山島の話は、ある韓国人教師の呟き3を参照してください)

しかし、それは大したものではなくただ単に独島の風景写真と児童の書いた独島の絵を展示しているだけの展示会だった。

ただし、この時の「生徒の書いた独島の絵」は、ただ単なる風景画であり、世界中の人が知るようになった、衝撃的な攻撃的な偏見に満ちた例の反日絵画とは別のものでした。

ただ、会場内では、日本に対して敵意を抱くような攻撃的な言葉や、韓国人の民族主義を煽動するような文言がプロパガンダとしてところどころに使われており、下品に感じました。

そこでは、配布のためのパンフレットがいくつかあったので、貰って帰りました。

実は、この時、非常に重要なパンフレットをもらってきたのだが、その時はその重要性に気がつかなかったので、帰宅後そのまま書棚にしまった。

このパンフレットは、「鬱陵島・独島古地図展覧会」の案内だったのだが、

このパンフレットの中の重要性には、後々気がつくことになります。

(知人提供)

ところで、話は変わるが、韓国では、教員はカーシェアリングをやっていて、

シェアしている教員の人数にもよるが、私の場合は比較的近くに住んでいる教員3人とカーシェアリングをしているので、

だいたい週二日、皆を乗せて運転する。すなわち週3-4日は同僚の車に乗って通勤している。

(隔週土曜日はお休み。)

どうしてその話題になったのか、覚えていないのだが、例の社会科の教員が、急に車の中で、独島の話を持ち出した。

そして、サンフランシスコ平和条約で、独島が韓国の領土になった、と勇ましく喋っていた。

(注:同僚の社会科教師は「第一話を参照のこと」

そこで私は、例の「全ての教科の教師が独島に関する事をすること」という全教組からの通達文を思い出して、

生徒に英語の授業でサンフランシスコ平和条約でも読ませてみるか、もしくは翻訳を課題にするようなことを考えた。

(注:全教組からの通達文は、「第二話」を参照のこと)

それに先立って、まず最初にこのサンフランシスコ平和条約を読んでみることにした。

しかしながら、サンフランシスコ平和条約には、

日本が放棄する領土

の記載があり、これには、Quelpart(済州島),Port Hamilton(巨文島),Dagelet(鬱陵島)が書かれていた。

Liancourt Rocks,もしくはダケシマ(竹島) つまり独島は書かれていなかった。

これでは、同僚の社会科教師が喋っていたことは、証明ができないから、生徒に課題を出すのは厄介になると思った

ので、自分でもう少し調べてみることにした。

確か、私は独島学会か何かのファイルで、連合国が作った地図の中に、

独島が韓国領に含まれるというのを見た記憶があるので、それを探してみてみると、その地図には、

「SCAP Administlative Area」と書いてあった。 SCAPが何かわからなかったので、調べてみると、

SCAP is stand for Supreme Commander for the Allied Powers

SCAPとは、連合国最高司令官(Supreme Commander for the Allied Powersとあった。

つまり、Administlative Areaとは、行政管轄地区の話で、おそらく領土や主権の話ではないのでは?と。

そのファイルの中には、Scapin677というものが記載されていた。

たしかに、そこにはダケシマ(竹島:独島)が鬱陵島とは別個に記載されていたが、

同時に、

6この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない。

という記述があった。つまり、このSCAPIN677は、最終決定ではない、と。

この最終決定はなんなのか、それは一目瞭然、簡単である。最終決定はサンフランシスコ平和条約である。

しかし、その最終決定であるサンフランシスコ平和条約には、日本が放棄する領土として独島は記載がない。

そのファイルの説明には、「独島はサンフランシスコ平和条約から抜け落ちた」と明確に書かれていた。

そこでは、草案の段階で、独島は韓国領土に予定されていたものの、ロビー云々の言い訳が書いてあって、

結局、「日本が放棄する領土に含まれない事」がきちんと記載されていた。

これらを読んでいると、鬱陵島と独島は草案の段階でそれぞれ別々に表記され、

そして独島に関してもきちんと鬱陵島とは別個に記載されていたことは、

政府が言う、「独島が鬱陵島の付属島なので、独島は、サンフランシスコ平和条約では鬱陵島の付属島と認識されている」

という言い訳が歪曲であることは容易に分かった。

しかも、この独島学会は、「抜け落ちた」と明言している。

そう、つまり、独島はTreaty of Peace with Japanにおいては、日本が放棄する領土から抜け落ちた。

つまり最終決定は、サンフランシスコ平和条約で日本が放棄する領土には含まれていないことを

独島学会のファイルは認めているのも同然だった。

しかし、ファイルは、この話を何とかうまくごまかして取り繕うために、不明瞭な言い訳で趣旨を捻じ曲げるよう、印象操作されていた。

このことを知人(注:Boussole Jukdoの事)に聞いてみると、

「Dean Rusk Document」と

を読んでみれば?」と言われたので読んだ。

数日後、朝の通勤途中の際、車の中で、その社会科教員にこの顛末を話した。

「あなたは原文を英語で読んだほうがいい。独島がサンフランシスコ平和条約で韓国領土となったのは、嘘だ」

「「Dean Rusk note」も読んだことがあるのか?条約の起草者である国務省は韓国の要求を却下した事実がある。」

車の中で、彼女は顔を真っ赤にして急に怒り出し、

「あなたは日本人の知人がいるからって日本の肩を持つのか?やはりイルパは売国奴。ヒー」と罵声を浴びせてきた。

私は、「落ち着いてください。別に私は親日派ではありません。

日本人だけでなく、オーストラリア人やアメリカ人やイスラエル人やインド人や中国人の友達がいるので、日本だけ依怙贔屓しているわけではない。

原文を読んでみればわかる。外国人の知人がこの文書を読んだ場合、どう考えてもそう解釈するだろう。結局、嘘をつくといつかは発覚し、信用を失う。 韓国の学童に対する説明は、信用を失う内容である。

そんな嘘をつき続けてもいいのか? あなたは、その嘘がばれたとき、教育者としてきちんと責任が取れるのですか?」

別の年長者の同僚が制止に入って、ひとまず車の中での口げんかは収まったものの、

その社会科担当の彼女とは、再び気まずい風韻気になってしまった。

しかし、学校で、私は学校で信頼している上司先輩にあたるPrinciple(教頭?)に注意を受けた。

「別の教師と揉め事になるようなことは避けてほしい。」と。

わたしは、「嘘を主張する社会科教師は、信義的に問題があるので、それを彼女に聞いただけなんですが、

彼女は満足な返答をすることができなかった。」

「しかし、チームワークに影響がでるので今後は気をつけます。」と上司の立場も考え、一応答えておいた。

(続く)

第五話 「そして、鬱陵島へ。」 (現在記憶をたどりながら、執筆中)

(注意:ここからの部分は、私GTOMR/boussouleJukdoの回想録になります:t知人とは、現在音信不通のため)

広島に来ていた田母神氏に対するネガを自称「平和団体」「地球市民」さんたちが大量の罵声を発していたのを見て、日本人らしくない集団を横目に、

この日広島の原爆周辺地の観光を後にして、次の日、宮島に参拝、鬱陵島へのたびの祈願をした後、。そのまま下関に着いた。

フェリーの時間まで、時間があるので博多へ行き、ラーメンを食べて下関に戻ってフェリーに乗った。

船の中では、日本語が出来るアメリカ人のストロベリー農園の経営者と、アメリカ人のバックパッカーといろいろ喋りながら、暇をつぶしていた。

アメリカ人のバックパッカーは、私の話に夢中だった。私は業務でも趣味でも旅行キチガイであり、彼にとって私は今迄で一番世界を知る人間だったらしい。彼には今後のチベットや中央アジア越えの情報を伝授しておいた。 でも、このサクランボ農場のパッカーと、そこに割り込んできている英語を使いたいらしい韓国人が私の目的を尋ねられたので、私は武陵渓谷や鬱陵島の山に調査に行くんだよ、ととりあえず言っておいた。

翌朝、釜山について、知人が車で迎えに来た。半年ぶりの再会である。

知人はこの付近の人ではないので、はるばる◎◎から車6時間走らせててきた。本当にありがたい。

知人とは、私が中東の某国に3ヶ月滞在していたとき以来の長い付き合いである。韓国人特有の変な自意識過剰な部分や、自己主張や強引さがなく、なによりももっとも不愉快な民族主義的な態度が無く、棘がない所がよい。 私は結構韓国人の知り合いが居たのだが、竹島の話を相手が振ってきて、それに反論し始めるようになると、かなりが、「お前は韓国嫌いなのか?」といった態度をとるようになり、私は、意志が固い人間、というか、韓国政府の主張は嘘であると自信を持って、説明もする準備もいつでも整えてある。それゆえ態度を曲げることは全く無かったので、次第に連絡する韓国人の知人の数は減っていった。

たとえば、過去に、漢江沿いのキャンプサイト、たぶんワールドカップスタジアムの近くで行われた、韓国人の知人の誕生日パーティで、知人のそのまた知人から竹島のことを聞かれ、散々説明した後、相手が暴行を加えてきたので殴り合いの喧嘩をしたこともあった。

今回の鬱陵島へのルートは、慶尚道と江原道など東海岸のキャンプ場をドライブして転々とて、

文献に記載された、それぞれの場所の高台から鬱陵島が見えるか確認するため、また、見えるのかどうか現地の人にインタビューするのも目的で、それら文献に記載されている東海岸の地名の場所を転々としていった後、墨湖から鬱陵島にフェリーに乗るというものだった。

浦項から鬱陵島のほうがわざわざ墨湖まで行かなくとも鬱陵島に行くことができるのだが、そうした理由は、

サムチョク営将や平海越松亭の役人などの朝鮮の鬱陵島捜討官がこのあたりからの船で鬱陵島を巡検していたから、

それに似た航路をたどろうと言う意味があった。

まあ、釜山から墨湖までの往路、帰路の内容は割愛する。

・キャンプ場から墨湖に向かうが、なかなか港が見つからない。なんとか墨湖に到着したのはよいものの、駐車場は有料なわけなのだが、知人が、「日本人客が行くんだからマケろ」「長く滞在するんだからまけろ」といったようで、一日分駐車料金が値引きになった。

出発口は、結構観光客で混んでいた。ツアー客が殆どだ。この夏場は、早めに予約を入れておかないとなかなか乗れないとの事で、三週間前に知人に予約を取ってもらった。(本来は本業である私がすることなのだが)

いよいよ船に乗り込むときに、海警に呼び止められた。韓国人ではない、とわかったようで、何しに行くのか?と質問を受け、観光と答えた後、「外国人はパスポート確認と氏名等を書くことになっている」との事でどうやら日本人だからというわけではないようだ。

船の中は演歌が流れていた。外は波しぶきが荒い為、殆ど見えなかった。結構揺れる船なので、吐いていたり、寝込んでいる韓国人も居た。船の中で私は白々しく、日本からカラーコピーして持ってきた欝陵島詳細図を出していたのだが、誰も突っ込んでくれなかった。

・鬱陵島に到着した初日、民泊のおばさんが迎えに来ていたので、とりあえず道洞の安民泊に荷物を置いて、鬱陵島一週観光船に乗った。一周して、島の様子をまずは確認するためである。

鬱陵島の印象jは、海にぽつんと聳え立つ巨大な山島、といった感じで、沿岸部は奇妙な岩岩がそれぞれ別々の形をして風景としてはとても面白い島だった。その山の中腹から上は霧や雲に囲まれていて、あまり見えないのがこれまた神秘的な感じである。 そういえば、Actaonが残した鬱陵島地図の鬱陵島の南端部にSeal Pointと呼ばれる部分があり、その先の岩が地図に書かれているので、これを探したが、簡単に見つかった。船は水雷岩、鳳凰岩、 熊岩など鬱陵島の顕著なスポットを見ながら一蹴していくわけで、北西部の黄土窟もすぐにわかったし、そのすぐそばの香木亭のすぐ置きにある小さい岩も古地図どおり存在した。

このボートツアーの見所は、鬱陵島北部。北西部から海の上にたつ穴岩と玄圃にある老人嶺(錘峰)が目の前にすぐに現れた。象岩で少し停船して記念写真を撮っていたようだ。象岩(穴岩)から竹岩、三仙岩を経て、観音島、竹嶼をみるこの眺めは、壮観だった。ここが一番の鬱陵島の名所なのである。

初日にいきなり念願の観音島と竹嶼に面会したのだが、両方とも意外と大きく、特に、観音等北部の二つの海蝕洞窟はかなり大きく印象的だった。また、浅瀬は南国のような青い海なのである。

欝陵島二日目、聖人峰のふもとの羅里にキャンプを張るために、バスで移動することになる。道洞から天府までは都営バスみたいな普通のバスで移動することになる。この間、昨日海上からみた鬱陵島の各洞をこんどは道路から確認することになる。水雷岩や鳳凰岩など、南部の岩や沙洞、南陽洞などをみながらバスは山道を進んでいくわけである。それを抜けて北西部から玄圃へ向かう坂道の高台から見た風景もまたこれ桃源のようだった。天府についたがそこからの乗り継ぎのバスが時間が空いている。それは意図的にあいているのかどうかはわからないが、時間が余っているので、天府から、石圃へマイクロバスの運転手が、小遣い稼ぎのためか、正式の運行なのかはわからないのだが、石圃展望台見学コースをやっていた。

その後に、このバスは、また天府に戻ってきて、羅里に行くとのことで、この石圃行きに乗ってみることにした。

天府から、竹岩洞を通り、大きな竹岩、そして、有名な三仙岩をみながら、私は、「ああ、朴錫易の1711年の鬱陵島図形やサムチョクの鬱陵島図形の位置関係と同じだ」

とわざわざカラーコピーして持ってきた一連の鬱陵島詳細古地図を見ながら、ニヤニヤしていた。石圃へあがる展望台へと向かう坂道からは、観音島が見えた後、上に上がると竹嶼が見え、これも、古地図の配置そのまんまだ、と改めて韓国政府の詭弁が歪曲に満ち溢れているか、確信した。

この展望台から、”独島(ママ)”(島根県竹島のこと)が見えるというので、展望台に付いたのだが、そのときは結構晴れていたのだが、結局竹島なんて影すら見えなかった。

知人は、「やっぱりドットは見えなかった。それに・・・海を挟んで目の前にある・・・・あんなに緑が生い茂った、縦長のゾウリムシみたいな形の1島の竹嶼、これ前に見た朝鮮の古地図に書いてある于山島そのものである事は間違いない。二つの岩のドクトのわけが無い、と私に言った。

同乗していた韓国人のグループが、ミニバス運転手になにやら文句を言っていたが、どうやら、運転手は、「ドットはよほど運が良くないと見えないよ。普段はほとんど見えないよ。年20日くらいしか見えない。あんたたちは日ごろの行いがそんなによくないんだろ、ハッ」と笑ってごまかしていたが、その冗談でバスの韓国人は皆笑っていたようだ。このバスドライバーは結構冗談が面白いらしく、知人も何度か別の話でも大笑いしていた。

ちなみにこの時同乗した韓国人の男女学生グループは、本当はこの日は以前から予約していた竹嶼内のキャンプサイトでキャンプをして宴会をする予定だったのだが、波が荒いために竹嶼行き観光船が出発できなかったとの事で、キャンセル、急遽欝陵島内観光に切り替えたとの事だった。

聖人峰の頂上に登って夕方までにキャンプに戻る自信があったので、聖人峰に登ることにした。往復3-4時間といった所である。 知人は、きついと疲れていたが、富士や乗鞍は当然として、カイラスコルラまで達成した私には余裕だった。 まず最初は羅里洞のキャンプ場から店の近くを抜けていくと、カルデラの中の草原地帯を歩いていく。途中で、昔ながらの家屋が展示されていた。もっと進み、登山殿ふもとに差し掛かるあたりで、鬱陵島の名物のひとつ「水」がある。ここでのどを潤した後、登山に移るわけだが、登山といっても、ほとんどが木造の階段が作られていて、難しくもなんとも無い。所々その木造の遊歩道は途切れているのではあるものの、誰でも登ることができる山である。途中、ずいぶんとずんぐりとした猫を7割くらいあがった展望所で見かけた。そこに居た観光客は、これは普通の猫ではなくて山猫だという。 そういえば、鬱陵島の記録に、山猫の記録があったことを思い出した。 頂上に着いたが、上は曇っていた。この島、雲の流れも速く、天候が変わりやすいのか、上る前はあれだけ晴れていたにもかかわらず。上っている間にあっという間に曇ってしまった。この島は、海のど真ん中に山がドーンと聳え立っていて、海からの風が山に当たってすぐ水蒸気になるそういう場所で、雲が発生しやすく天気が変わりやすいわけだ。

結局、頂上からは羅里道などは見えたのだが、竹島はおろか、竹嶼さえ頂上から見ることができなかった。1694年の張漢相は、ここから、竹嶼と、竹島を両方見たことが記されていて、そのあとの捜査官は、この竹嶼を于山島であると認識し、それが鬱陵島詳細図に書かれることになり、以降島根の竹島は朝鮮王朝の認識としては、蔚陵島の範囲としては認識から外れて、1906年まで忘れられた存在となった。

聖人峰の頂上からから下りてきて食べた羅里名物山菜ビビンパは、私が食べたビビンパの中で、韓国で一番おいしかったと思う。空腹は最大のソース、これが効いたのかはわからないが、とにかく最高であった。

羅里のキャンプサイトは、夏であるにもかかわらず、設備はメンテが無く、トイレもめちゃくちゃだった。期待していた設備内容ではなかった。まあ、無料だから仕方が無いのだが。その夜、キャンプサイトを、暴風雨が襲った。私はかなり劣悪な環境でも私は寝る事が可能なのだが、知人が、我慢できないとのことで、かつ、テントが暴風で崩れたので、私は、今回はキャンプは中止にして、明日以降宿を芋洞の安い民泊に変更することに方針転換した。ただ、この方針転換はよかったのかもしれない。今回の予定は、最初と最後の日以外はキャンプサイトから一日一回聖人峰を登り、道洞や芋堂や沙洞に出た後バスでキャンプサイトに戻ってくる、というものだが、キャンプするにもガスコンロが必要で、孤島である欝陵島ではガスコンロも野菜も高くつくため、結果として安いとはいえ民泊であればガスコンロも無料で自炊が可能で、近くで買うという利便性からも変更は正解だった。

欝陵島3日目 深夜から朝まで大雨・暴風だったが、10時になるとすぐにやんで天気になった。私達は、いったん天府に戻り、再び、石圃の展望台に行ったが、昨日同様島根の竹島は見えなかった。

http://www.youtube.com/user/gtomr#p/u/4/qZTjL1oF6jU

このときも昨日と同じバスの運転手だった。おお、また来たのかい?とかいいながら、昨日のような冗談話で韓国人たちは盛り上がっていたのだが、ふとそこで、意外な事を聞いた。

「あそこにある観音島は、昔人が三人住んでいて、ウサギやヤギを放し飼いしていたんだよ。それで育ったのを、ケーブルを使って運び出していたのさ。で、不便なので、観音島に橋を架ける計画があったんだけど、予算不足で計画もなくなったんだよ。」

これを効いて、驚愕した。竹嶼に人が住んでいるとは聞いていたが、観音島はあくまでも無人島だと思っていた。それゆえ、韓国側は、「無人島をわざわざ古地図にかいたり、名前をつける意味なんて無い」って誤魔化していたのだが、有人島である証言を得た以上、それは違うわけである。

このことは、後に島根県側に報告して、実は文献にも観音島に人が住んで活動していたことが残っていたとの事だった。このときほど、通訳をしてくれたこの韓国人の友人がありがたいと思ったことは無かった。

(そのときのやり取りがここに記されています。(ここの質問2/3が私の報告http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima08/2007/record200908.html

結局石圃の展望台には鬱陵島滞在中三度行ったのだが、一度も島根の竹島は影すら見えなかった。

石圃の坂を下りたところで、バスを降りて、そのまま、観音島の目の前の島項トンネルの北まで歩いていった。意外と距離があり、知人はくたびれていたが、私はテント類など宿泊装備も自炊材料もすべて持ち歩いていった。

観音島と島項の間には、ものすごい風が吹いていて、浅瀬の水が強風に叩きつけられれスプラッシュになっていて、不思議な風景だった。観音島の形状も、初日にも一度見ているのだが、やはり古地図そのものだった。観音トンネル北の目の前からは竹嶼は見えない。一方トンネルの南にいくと、今度は観音島は見えず、竹嶼が見えるのだが、竹嶼は、鬱陵島北東部の海岸から見ても、予想以上に大きいし、かつ、遠い。一応2kmはなれているので、一件泳いでいけそうだが、想像以上に波が荒いので無理はしないことにした。島項の上にはどうも灯台があるらしいのだが、立ち入り禁止になっていた。南には臥達里なのであろうか?その少し先はトンネルがあり、東南部に抜けられるようになっているらしい。

・4?日目 バスで台霞洞へ行った。昔は道洞ではなく、こちらに郡守が設置されていてこちらが中心地だった。ここは、大きな川が山から流れてきて、海に注いでいる場所でもある。 欝陵島詳細古地図にも地名の記載がある。ここに来た理由は、朱土窟、もしくは黄土窟を確認するためだった。 欝陵島捜討官は、彼らが欝陵島に来た証拠として、土産物の一部として、この朱土を献上するという習慣があった。それゆえ、この洞窟は、欝陵島の詳細古地図にも記載されている。たいていは北西、台霞洞の近くに書かれているのである。

?日目 再び聖人峰に登った。この日は山頂から沙洞に出て道洞に帰ったのだが、沙洞のKBSのセンター近くのバス停からの最終バスが終わっており、ヒッチハイクする車も碌に走っておらず、結構疲れた模様。

?日目 再び聖人峰に登った

・?日目 バスの中から、新港建設現場を見た。ここに などの大きな船が接岸できるようにすると言っていた。

・?日目 鳳凰岩はもともとは海中というか海辺にあったのだが、その回りを埋め立てている様子だった

・6日目 朝鮮半島へ帰る前日 私は、この日は竹嶼へ上陸し、映像を撮りに行った。

(詳細は、割愛しますが伝説の于山島を訪ねて~于山島竹嶼上陸動画などを参照してください)

left:the photo I took

middle:origin unknown

left:from dokdo or takeshima http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2009/06/ulleungdos-neighboring-island-of-jukdo.html

一方私の知人は、乃守田にハイキングに行った。そこの展望台から、竹嶼と竹嶼と観音島の写真を撮った。

私は竹嶼から帰ってきて、知人と合流して、感想を聞いた。「どうだったよ?」

すると、知人は、「・・・・・やはり、大于島も小于島は、独島ではないわ・・・・どう考えても、竹嶼と観音島だろう・・・」

「こんなインチキを主張する韓国政府は、やはりおかしい」

その日の午後、道洞で合流して、独島博物館へ行った。道洞から坂を上がっていくとそれはあった。その入り口から、「対馬は韓国領土」「朝鮮海」のプロパガンダ碑文が置いてあった。博物館の入り口には、Samsungが出資したことを宣伝する碑文があった。このような、反日プロパガンダ煽動のためのプロパガンダ館に出資している企業は日本では活動させるべきではない。

館内はたまたま特別展示だったようで、前から内容を確認したかった平海においてある「完文」の原本があった。これは、期間限定でここに来ているらしく、どうしても、これを見せてもらいたいから、何とかしてくれ、と粘ったが、結局見せてもらえなかった。

私は、「「独島を実効支配していた証拠の文書」というのが嘘の説明だから見せられないんだろ?漢字がわかる俺が翻訳してやるぞ」 ととにかく言ったがなぜか見せてもらえなかった。(結局後日この文書はまったく島根の竹島とは関係が無いことがDokdo or takeshimaのMatsu氏が原本画像を提示してくれたことにより疑問は解決した)http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2009/06/dokdo-museum-exhibition-focuses-on.html

KBSのロケ隊が撮影に来ていた。

私は、何とか、インタビューされようと、わざと日本語の本を取り出して、日本人が来ているぞ!と必死にアピールしていた。

なにしろ、ここ独島博物館に意図的においていない、鬱陵島詳細図のほとんどをカラーコピーして持参してきて、

何か韓国人に言われたときには説明する準備さえ整えてきたからである。

しかし、残念なことに、どうも、気が付かれなかったのか、無視されたのか、結局インタビューしてもらえなかった。

しかし、いつの間にか、知人が博物館から居なくなった。

とりあえず、ゲストブックに、「于山島は竹嶼であって、独島じゃないだろ?洗脳プロパガンダはいい加減やめろ」と英語で書いて建物を出た。

おかしいな、と思っていたら、知人は外のベンチに座っていた。

私は、「疲れたのかいな?」と問い合わせたが、相当怒っている表情だった。

「お前、わざとTVの取材陣にアピールしていただろう?もし私が一緒にビデオに映ってしまって、放映されたらどうするんだ?

私は一応韓国の教員、公務員だ。ドンだけ批判がくるかわらないし、それに、家族も批判にさらされる。 それをわかっていてやっているのか?

私は、確かに、韓国政府の于山島に基づく主張はインチキだと確信した。だけど、それを公然と言うならば、たぶん首になって社会からつまみ出される。

それに、今、韓国国内は、8/15日を前に、愛国ムードで熱くなっている。それを理解してくれ。」

私は、返す言葉に貧窮した。とりあえず、すまなかった、と謝っておいた。

”独島”プロパガンダ博物館を出て、坂を下りて道洞に戻る最中、高橋景保の日本辺海略図のTシャツ、つまり”朝鮮海”とかかれたTシャツを着た集団を見かけた。知人は、「目を合わせないように、行き過ぎた集団だから」と私に忠告した。 しかしながら私はCamcorderをまわしてそれを撮っていた。この行為もどうやら知人をイラつかせてしまったらしい。

道洞のみやげ物を見ていると、”独島”プロパガンダ館で見かけた韓国人の女性三人組がなにやらこちらをみて文句を言っているように聞こえた。

なんていっているのか、知人に聞いたが、どうやら日本人の私を案内していたために文句を言ってきた、との事だったが、どのような内容だったのかは教えてもらえなかった。結構汚い言葉でののしっていたとの話だが、詳しい意味までは教えてもらえなかった。

この日、どうやら私は風邪を引いたらしく、発熱がありながらも道洞から杏南岬を抜け芋洞方面へと向かう観光道でもある海蝕洞窟沿いのコースを夕方歩いていったのだが、しかしながら、この洞窟群も神秘的だった。

欝陵島出発日

*ちなみにこの話の1~4は知人の韓国人教師との英語による会話とインタビューを基に私が日本語で書いています。

5に関しては私の回想録です。(暇を見て加筆中)