【書籍】 「于山」は韓半島東側の果てを象徴する歴史的地名~「歴史と地理から見た鬱陵島、独島」出版[01/23]
1 :蚯蚓φ ★:2012/01/23(月) 22:37:53.86 ID:???
(ソウル=聯合ニュース)今年は新羅将軍、異斯夫(イサブ)が独島(ドクト、日本名:竹島)を私たち
の領土に服属させて1千500周年になる年だ。これをうけて独島と異斯夫将軍を再照明する作業
が活発な中、歴史的地理学的観点から近代以前の独島と鬱陵島(ウルルンド)を展望した「歴史と
地理から見た鬱陵島、独島」(東北アジア歴史財団編集)が出版された。
韓国の歴史学者と地理学者はこの本で現在の独島研究で議論される論点を文献批判的な見解
から調べる一方、地名調査など日本地域史的観点から独島問題に対する新しい接近を試みる。
執筆にはキム・キヒョク釜山(プサン)大地理教育科教授、チェ・ウンソク駐広島総領事館研究員、
ユン・ユスク東北アジア歴史財団研究委員、イム・ハクソン仁荷(インハ)大韓国学研究所HK教授
が参加した。
キム・キヒョク教授は研究論文「朝鮮後期、鬱陵島の捜討記録で明らかになった付属島嶼の表象
研究」で朝鮮末期、朝廷が派遣した管理人、捜討官らが記録した地名を通じて鬱陵島と独島を当
時の人々がどのように認識していたのか調べる。独島をめぐる韓日両国の互いに異なる主張の
中で最も核心的な内容は鬱陵島附属島嶼と描写された「于山島」が今の独島を描写したかどうか
だ。
韓国は古地図や資料などを根拠に于山島が今の独島を指すという立場を堅持してきた。反面、日
本は于山島が鬱陵島の海岸から約2キロ離れた今の竹嶼(チュクト)を指したものと主張してきた。
キム教授は粛宗の時の水土官、張漢相の「鬱陵島事蹟」など捜討官たちの調査記録を
通じて今の竹嶼(チュクト)が当時は'チュクト'または'テド(*大島もしくは竹島)'と呼ばれ、東側に遠く離れて「于
山」という地名と共に古地図に描写された島は今の独島を描いたものだったことを再確認した。
キム教授は「'于山'は三国時代から韓半島国境の東端を象徴する歴史的地名だった」としながら
「地理的実体が確認された独島を地図に描写して朝廷がこの地名を使ったのは場所に対する命
名という単純な意味を越えて朝鮮国境の範囲を表現する象徴的な意味がこめられていることを見
せてくれる」と説明した。
チェ・ウンソク研究員は現代のような領海線が引かれていなかった17世紀、独島をめぐり起きた
いわゆる“安龍福(アン・ヨンポク)事件”を再照明したしユン・ユスク研究委員は独島が韓国領土
であることを見せてくれる重要な根拠資料の中の一つである朝鮮時代の文献を通じて日本側が
提起した独島関連の問題点が何か検討した。
イム・ハクソン教授は鬱陵島と独島に対する情報を記録した朝鮮時代の地図書と地図資料を通じ
て朝鮮朝廷と知識人らの独島認識がどのようだったのか考察した。
ファン・ユンジョン記者
ソース:毎日経済(韓国語) "'于山'は韓半島東側の末象徴する歴史的地名"
http://news.mk.co.kr/se/view.php?sc=30000023&cm=%EB%AC%B8%ED%99%94%C2%B7%EC%97%B0
%EC%98%88%20%EC%A3%BC%EC%9A%94%EA%B8%B0%EC%82%AC&year=2012&no=49452&selFlag=s
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キム教授は粛宗の時の水土官、張漢相の「鬱陵島事蹟」など水土官たちの調査記録を
通じて今の竹嶼(チュクト)が当時は'チュクト'または'テド(大島)'と呼ばれ、東側に遠く離れて「于
山」という地名と共に古地図に描写された島は今の独島を描いたものだったことを再確認した。
おそらく、この話は、実際に現地欝陵島をコントロールしていたサムチョク営将と平海越松亭などの「水土官」(調査員)が作成した現地地図に書かれた「于山」 ならびに「大島}(*これは、大島ではなく二枚の欝陵島図形に記載された大于島の話だと思われます。)が竹嶼であると素直に認める反面、朝鮮地図等に記載された欝陵島図の「于山」を別個のものとしてそれを島根の竹島であると主張しているように思えます。簡単に言えば、上の地図の大于島と中段の地図の「于山」と下の地図のウサンが別個のものである、といいたいようです。しかしながら、どの島が本当ウサンであるかは、やはり現地を監督していた役人が書いた欝陵島の詳細地図の信頼性に軍配があがると考えます。
しかし、張漢相は、現在の竹島は大体300里程度の位置に有ると述べているのに対して、朝鮮地図においては、「于山」は欝陵島の北東30-40朝鮮里に記載されていますから、場所的に違いますし、また、これらは一島であり、二島ではありません。
張漢相が1694年の調査で、今の竹嶼に該当する 「東方五里許有小一島不甚高大而大而海長竹叢生扵一面」の島と、今の島根竹島に該当する「東望海中有一島杳在辰方而其大未満欝島三分之一遠不?過三百餘里」という島を見ていますが、このうち、今の竹島に当たる島について、これ以降の朝鮮王朝の欝陵島調査員の記録からは存在が忘れられます。それは、1881年の李奎遠では、「晴明之日 登高遠眺 則千里可窺 而更無一拳石一撮土 則于山之稱鬱陵 卽如耽羅之稱濟州是白如乎」つまり、欝陵島が朝鮮領土の境界であると述べていますし、1899年の禹用鼎の調査のときも、現在の島根の竹島に当たる島は全く触れられていません。
一方、竹嶼に当たる島については、1711年の朴錫易の欝陵島図形を筆頭に、それ以降の古地図にしっかりと継承されていきました。さらに、真ん中のウサン島図の配置の欝陵島地図が、大韓地誌の江原道図で使用されたたことは、つまり、竹嶼が朝鮮の東端であることを物語っています。
*「地理的実体が確認された独島を地図に描写して朝廷がこの地名を使ったのは場所に対する命名という単純な意味を越えて朝鮮国境の範囲を表現する象徴的な意味がこめられていることを見せてくれる」と説明した。
「于山」が「朝鮮国境の範囲を表現する象徴的な意味」が有るという主張は、主に1694年以前の八道総図等の地図には「于山」は欝陵島の西側に記載されることから、この時点で主張が崩れます。
さらに、朝鮮王朝の1711年以降の欝陵島図、ならびに半島全体図や江原道図等に記載された地図を見てみると、
特徴は、
1.一島
2.南北に長細い、
3.北部に山の描写が有るものが多い
4.欝陵島の東北東にある。
5..女竹(笹)が生い茂っている
です。
竹嶼の特徴は
1.一島
2.南北に長細い、
3.北部の森林の部分が小高い山になっている。
4..欝陵島の東北東にある。
5.海長竹(女竹(笹))が生い茂っていると記載が有る
つまり、朝鮮作成のウサン島とほぼ合致する島となっています。
一方、島根の竹島ですが、
1.二島
2.おにぎり形状の島が二つ、
3.北部に山の描写が有るものが多い
4.欝陵島の東南東にある。
5.植物はほぼ皆無
これら検証結果から、”独島を地図に描写”したことは証明できていません。何時までこういった嘘のプロパガンダで韓国人をだますのでしょうか。