竹島では、アシカおよび魚類、およびワカメなどの採集漁業が行われている。 しかし、鬱陵島はどうであったか? 鬱陵島といえば烏賊の産地であるが、鬱陵島はそもそも漁業が盛んではなかった。鬱陵島周辺の漁業は、日本人が苦心と努力の上開発したもので、この努力に韓国人は関わっていない。 日本人は初期には主に森林伐採だったが、それが禁止された後、1902-3年頃からは漁業の経営に従事しており、韓国人はむしろ鬱陵島においては漁業よりは農業が盛んであった事がわかる。鬱陵島は武陵桃源とよばれ、作物が通常の倍以上のスピードで育つので楽園だった。 しかしながら、日本人が漁業を開拓し、烏賊などが保存でき現金収入になることを知り、日本人に雇われたり教育されて漁業を始めるようになった。 1880.Erns Oppert Korean fishing boats resembles the Japanese more than Chinese, they are of of rude construction. The outer planks are fitted one above the other with wooden nails.and they have mat sails.Although very deep, they have no decks, but a few beams across, and the whole hold is open which the caught fish is thrown.Each of boats appeared to carry a crew of some their forty men, but later on I saw some with the crew more than sixty men on board.The white dresses of the natives, which had looked so bright and pleasing from distance,lost muchi of their apparent freshness and nearnest when closely looked at. ・朝鮮の漁船は中国のよりはむしろ、日本のそれに似ていたが、粗末な構造であった。 ・この記述は朝鮮の西海岸での記述である。(東海岸ではない) 1882.李圭遠の鬱陵島調査 ・この時点で農業はまだ盛んでもない ・漁業も特に盛んだという記述は無い。 ・船(舟)をつくりに季節的に渡航している韓人(主に湖南)と、薬草を取りに来ている韓人がいる。 ・日本人も鬱陵島に来ており、”日本帝国松島”の標識を立てている。また、李が日本人に会い、質問しているが、数十年前から鬱陵島に来ていたと述べている。 1883.09. 『朝鮮国蔚陵島出張檜垣内務少書記官復命ノ件』 本年陰暦二月、着島するや碇ヶ浦と唱うる地より尠し山辺に拠て仮小屋を営み居住す。此小屋は僅に雨露を凌ぐに足るのみ。」 「朝鮮*人も亦我人民同様、仮小屋を営み住居す。只土牀を設けたる所、僅かに勝るに似たるのみ。」 「全島の周囲に出稼人住居せり。相互に往来するは単に島中を縦横する所の小径に依るを以て最も困難を極め、時としては数日夜を経て漸到達す。」 「山中は喬木蓊鬱たるを以て、其下蔭は堆葉深苔のみ。一の荊棘なし。故に甲地より乙地に往来するもの、日暮れば野宿露臥するを常とす。」 「木材は何所を伐採するとも概して之を言ば、其痕跡を露わさゞるに似り。故に即今迄伐採したること夥多なるにも拘らず、曾て此場所を伐採したりと認べき程のヶ所なし。唯僅かに木材を運搬したるの路あるのみ。以てその蓊鬱たるを知るべし。」 「伐採する所の木材は欅のみにして、他の樹木に着目するものなし。蕃茂する樹木は、欅、桑、桐を第一とす。白檀の如き断崖絶壁の間に生長するが故に容易に採り得べきものにあらず。」 「海産中、重なるものを鮑とす。本年其季は採取に従事するものありたるも、即今は尽く帰国せり。」 http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/MetaOutServlet?GRP_ID=G0000101&DB_ID=G0000101EXTERNAL&IS_STYLE=default&IS_TYPE=meta&XSLT_NAME=MetaTop.xsl ・日本人が鬱陵島から撤退。 ・全島の周囲には出稼ぎ韓人が仮小屋を建てて居住していた。 ・日本人の鬱陵島への主な渡航目的は材木伐採であり、欅、桑、桐、白檀を伐採していた。 ・日本人は鮑を取っていた。 1883.00.00 『水路雑誌』 松島 此島は洋中の一孤島にして、我隠岐国隠岐島より北東二分一、東一百三十四里、長門国角島より 北二分一、東一百八十五里、釜山浦より北西四分三、北二百六十五里の処に在り。全島巖石より成るものの如く、而し樹木蔚然、周囲は絶壁多く唯南東面に少し く平坦なる処あり。我輩の此に到るや土人の小舎を構へ漁舟を造るを見たり。他の浜岸は小舟と雖も近つく可らさるか如し。東方に一小嶼あり。且奇石怪巖島を 環らして星羅せり。我艦航走中此島頂の高度を測りて二千三百九十一尺を得たり。 http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka7/hydrograph1883/16-24l.jpg ・土人(=現地人=韓人)が小屋を構えて漁船を作っているのをみている(どんな種類の船かはこの文章では判断できない。) 松島=鬱陵島は、小舟といえどもなかなか容易に停泊できる島ではない。(港湾がまだ整備されていない。) おそらく此の文章はChina Sea directoryのActaeonの報告か桧垣の報告の引用? 1885朝鮮の現況(1885)アムール州総督官房付、公爵ダデシュカリアニ の報告 http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766837/26 1889年、治外法権や種々の不平等規定をもつ日朝両国通漁規則の締結豆満江及鴨緑江の流域及「ダチェレット」島の森林にして第一に豆満江畔の森林に着手したり其森林の総面積は.... http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766837/25 林業 韓半島..........北韓地方及び「ダジェレト」島一名「ウルスキン」島は樹木多き森林に富み尊法の経営を施さは久しく相応の利益をみるへしといえども是まで韓人が山林より江たる利益は自家用のために乱伐したるとはなはだしき低価にて清国に輸出したるもあるに過ぎず。........................ 韓国の森林は外国人の注目を惹きたること一再にあらすダヂレット島の森林は米人ミッチェル氏輸出価格の一半を国庫に収むるの契約を以て韓政府より伐採権を得 露人「ブリネル氏は純益の四分の一を収むるの契約にて同政府より伐採険を得たり而してブリネルしの伐採権を得たる区域は豆満江及鴨緑江の流域及びダヂェ レット島の森林にして第一に豆満江畔の森林に着手したり其の森林の総面積は豆満江の流域にあるもの約千九百方露里(約日本の百十九方里)にして鴨緑江の流 域にあるものは尤も廣く約三千百万露里(約に保温の百八十八方里)に達す。 1889Dydymov(Russia)が日本海で捕鯨を始める。 近代的Norway式捕鯨法を採用 セミクジラ(アメリカ式捕鯨法)はもう枯渇しているために、長須鯨がおもな捕鯨対象。 Cf:1848年から1860年代まではアメリカ式捕鯨法によりアメリカはセミクジラを捕鯨していたが、 資源が枯渇し、また石油の発見によりアメリカの捕鯨は衰退。 このとき、アメリカ人が鬱陵島や半島東部に上陸してパニックになったことが有る。 1893.10『朝鮮通漁事情』M26.10 鬱陵島は一に武陵或は羽陵と云ふ本邦人は松島と称す蔚珍より東に当たり凡三百五十韓里の海上にあり風便なれは2日にして到るへしと云ふ往昔は于山国と称し始んと無人島なりしか中世朝鮮政府は人民ヲ移住せしめ今は若干の戸数あり其の島樹木に富み島の周辺魚介饒と雖も総て岩礁XXとして大船は近く可からず其最小漁船を着くへき処も唯一一箇処あるのみ然るに海路遼遠にして最小漁船の能く抵るへきにあらざるを以って本邦人未だ漁をするもの有らず http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40034353&VOL_NUM=00000&KOMA=32&ITYPE=0 ・やはり最小漁船を停泊しておくことの出来る港は一箇所。大船は近づくことが出来ない。(港湾が未整備) ・日本人はまだ漁をしている者はいない。 1894.01.14 『山陰新聞 漁船改良丸の好果』 隠岐国四郡共有漁船改良号は、曽て鱶釣漁業奨励の 為め新造せられたるものにして、之れが調整は山ロ県阿武郡、原田儀三郎氏の手に成れり。元来該船は同県にて鱶漁業に用い、遠く朝鮮近海の出漁に従事せるが、其構造の堅牢にして風浪を凌ぐに便なること他の漁船遠く及ばざる所なるを以て、世に改良漁船 の名誉を博し鱶釣には実に此船を模範とす。本県に 於て夙に鱶漁の必要を感じ奨励怠たらざりしか、未だ充分の発達を見る能はざるの憾あり。客歳隠岐国 知夫郡・宇賀村、真野哲太郎氏は該船を借受け、試みに朝鮮国鬱陵島(又竹島とも云う)に航海せんと水夫 二名外二名の乗組にて出帆せしが、此日や東北風に して海上風波荒らく殊に北国通の大船すら出帆見合せ居る有様なり。夫れより漸次天気模様悪しくな り風波益々猛烈にして怒濤は屡々船中に侵入し、水 夫は多年船乗業に熟練し且つ胆勇の聞えある者なるを以て此処こそ平素の技倆を尽すべき所なれと 必死に力を尽し、海上遠く八十余里の間、風波の難を 凌ぎ五日の日数を経て渡海したり。其間劇浪の侵入せること数十回なるを知らず、然れども船体一ヶの 損処も無く一同忿こなく到着したり。是れぞ改良船の 成績ならめと島民は云い合えりとぞ。 ・鱶漁業に従事 ・カイリョウ船(改良丸)によって、元来難しかった鬱陵島への渡航が容易になる。 1894.02.18 『山陰新聞 朝鮮竹島探検(松江佐藤狂水生投)』 (竹島=鬱陵島) 客歳水産上に関し隠岐国各漁 村遊歴の際、偶々竹島出航の議あり、余兼ねて遠海漁業の必要を感じ常に誘導し居るも、未だ其業を果さざるを憾めり、依って茲に端緒を開かんと欣然其の挙を 賛成し奮って準備に着手す、遂に漁夫其他乗組員十一人にて船を艤し六月四日島前解覧、島後福浦港に順風を待つ、同月二十四日を以て出帆したり、元来我一行 の乗込める船はは鰤釣に使用するものにて船体差程堅牢ならず、加ふるに糧食器具等充分に積荷せるを以て殆んど船中に満つ、僅かに居処を存するのみ、故に船は吃水線より露出する尺余なり、之を以て一意海上平穏を祈れり ・竹島(=鬱陵島)への遠洋漁業の必要性が議論され始めていたものの、まだ実施されていなかったが、この頃から準備に着手し始める。(カイリョウ船の登場も大いに関係がありそうである。) 竹島は隠岐より西北八十余里の洋中に孤立し、船を 駛する五十余里に至る頃ろ一ケの孤島あり、俗之れ をリランコ島と云う。其周囲凡そ一里許りにして三 ケの島嶼より成れり、此島に海獣海驢棲息し数百頭 を以て数うべく其叫声轟々として喧しく此近海は 鯨族の群遊ありて実に無比の捕鯨場たり、鯨種は充分の調査を遂けざるも多分長須坐頭ならん、之れを 捕ふるには遠洋漁業の仕組にて汽船或は風帆船の 補助を仰ぐにあらざれぱ能はざるべし、此より三十 余里を隔てゝ竹島あり、海流に就て日はんにリランコ島は寒暖海流の堺界線として可なるべし、何となれば日本領海より此の島までは暖流即ち黒潮の支 流にして以北は寒流即ち来満派の流域なり、蓋し暖 気は北赤道海流を源とし其一支派台湾の東を流れ冲繩島に沿い分岐して、其本流は太平洋の方に向い、支流は九州の西部より対馬海峡より日本海に入る、 寒流は阿哥科海の北酉より来り黒龍江の前面を過ぎ日本海の西の半分を流るゝ派なり、鯨族のリランコ近海に出没するは即はち寒流暖流の相交る処にして海水の温度能く其来遊に適するならん。 島民の家屋は矯少にして雨露を凌ぐに足るべき粗 屋にして、其最も不完全なるは樹枝を堆積し庵の如くし其内に棲む、故に外見薪を積みし処かと思ひり、 土人は性質温柔質朴にして常に耕作を専業とす、漁業は絶て従事するものなく全く知らざるものゝ如 し、只だ和布は島地の重要の物産にして盛に之を採取し之れ多く内地へ輸出して其価貴く、又た税金の 代用をなす ・竹島=鬱陵島 りらんこ島=Liancourt Rocks(現在の竹島 /独島) ・海驢が棲息している ・近海には鯨の捕鯨場が有るが、まだ日本は捕鯨は行っていない模様。長須鯨や座頭鯨が確認。欧米列強國はこの付近で捕鯨を1840年代からすでに実施している。捕鯨に関しては調査が必要と述べている。また、遠洋漁業の仕組みで汽船や風帆船でなければ捕鯨はできない。 ・この付近は還流と暖流が耕作する場所なので、魚類が豊富 ・鬱陵島民は主に農業で生計を立てている。 ・鬱陵島民で、漁業をする人は殆んどいないが、和布を採取している人はいる。(この頃は港湾がろくに整備されていないので、筏舟で和布を取る程度しか出来ない模様) Around 1897~1898(1907 minus 7 or 8 ?) Japanese had started to hunt Sea lions on Linacourt Rocks?. (Referenced from; 『竹島及鬱陵島』奥原 1907) 海驢漁撈の基因 商業または鮑採取のため鬱陵島へ渡航の途中、本岐に海驢の群棲することを実見せしは、久しき以前の事なれども、該獣を捕獲して、内地に輸送するに至りしは、僅かに八十九年以前なるが如し。今を距ること八九年前、隠岐国の漁夫、鬱陵島にて難破せし漁船捜索のため、本島に渡航せしに、海驢の群生棲セルを見、五六十頭撲殺して内地に送り、相当の利益を得しことあり。34年前・・・・・ 1883年頃か? 昭和30(1955)03.07のインタビュー 中浦伊平次のリャンコ島漁業(川上200 205) 同人の孫、言熊本県天草郡二江町漁業共同組合長中浦小平次氏により聴取したところにより、熊本県広報渉外課長は、昭和三十年3月7日付け田中教頭宛文書で次の通り報告している。 -引用終わり--以下・報告- 「明治十二年頃二江の住人中浦伊平次(天保元年生)は、裸もぐりの漁場開拓のため引率出漁し、朝鮮、済州島をはじめとして江原道沿岸を次々と北上し、鬱陵島に至り、明治十三年竹島の探検を行ったが、発見できず隠岐へ到着、翌十四年再び行いたるも発見するを得ず、超えて明治十六年伊平次次男中浦小十潜水機を購入したる機械に鬱陵島に出漁、事業終り三度竹島の探検に当たり遂に発見し作業四、五時間にて「あわび」1,200貫ならびに「カイダツ」(おっとせい類)三頭を捕獲(毛皮現存す)して隠岐経由にて帰郷したる実績あり、明治二十年頃より二江においては潜水木漁業経営者増加し、滝崎千七、吉村権次郎郭一回あて出漁せり、なお鬱陵島には明治三十年頃まで出漁せり。 竹島に出漁したる漁船及び人員/潜水器機船、無動力 長三十三尺 幅7尺5寸/人員8名乗組/出漁したる隻数 右一隻あて 計三隻/当時潜水器漁業経営者名及び隻吸う 中浦小十 4隻 滝崎仙七 2隻 吉村権次 一隻 1890年頃 昭和30(1955).04.08インタビュー 浜口清兵衛のリャンコ島漁業(川上206) 同人の孫、現在三重県志摩郡志摩町片田在住の奥村清助氏について志摩町長が聴取したところにより、志摩地方事務所長は、昭和三十年四月八日付隠岐支庁長文書で次の通り報告している -以下、引用- 「明治二十三年潜水器をもって鮑、天草、荒布等の採取のために出漁、出漁期間は毎年4月から8月末日に終了、明治二十六年頃から潜水器を用いず女海士30余名、船頭、明鮑製造人および雑役夫等二十余名系50余名が漁船二隻、運搬船一隻に分乗して竹島(=鬱陵島)に渡航した。 (中略)鬱陵島へ出漁期間中は一航海或いは二航海リャンコ島(現竹島)へ必ず出漁した。(中略)祖父清兵衛が明治三十六年潜水器を持たず海士女を連れて渡島(鬱陵島へ)した当時は旅券を必要とした。鬱陵島と呼ばず竹島と云ふていたから竹島行きと俗称していた。したがって本竹島をリャンコ島と呼んでいました。ご承知の通り此の竹島は無人島で東と西の二島になって二島の間の瀬戸は浅瀬で海驢(トドとも称した)の子が沢山遊泳していた。(中略) 鬱陵島渡航は明治三十六年頃には旅券を要して印したが、三十五六年頃から不要になりました。併し竹島への出漁は以前島根県に届けていた手続きがあったと記憶しています」 真野鉄太郎に関しては、(昭和31年1月8日付五箇所村庶務係河内銀次氏の田中教頭宛報告 永海サクの申立によれば、当時は隠岐島後の近海には魚介や藻類が豊富にあったので、あえて危険を冒してまで今日の竹島にまで出かけるものはアマリいなかった。石橋はその後も毎年渡島して同島に一定期間滞在してあしかの猟捕獲を行った由である 1897年頃? 後世の伝聞 久見の石橋松太郎は1897)M30年頃から、海驢漁をはじめました 後世の伝聞「明治三十年ごろ隠岐島の漁民が、鬱陵島近海で難破した漁船捜索に赴いて、帰途リャンコ島に海驢の群棲するのを見て、五六十頭撲殺して帰って相当の利益を 得たことから、新しい漁場として本島が再び史上に現れてくるのである。明治三十六年以前の海驢漁業については、はっきりした資料がない。昭和二十六年十月 十一日付けで、穏地郡五箇村久見の橋岡忠重の提出した報告書によれば、『竹島は明治三十六年以前、私の父橋岡友次郎及び伯父池田吉太郎と五箇村大字久身区 の有志が毎年同島へ出漁し少数の海驢及び海産物を採取しておりました』とあるが、何年ごろからか不明瞭である。」 1897.98頃(明治三十九年の8.9年前=明治30.31年(1897.1898年)) 竹島及鬱陵島 奥原(1907) 海驢漁撈の基因 商業または鮑採取のため鬱陵島へ渡航の途中、本岐に海驢の群棲することを実見せしは、久しき以前の事なれども、該獣を捕獲して、内地に輸送するに至りしは、僅かに八十九年以前なるが如し。今を距ること八九年前、隠岐国の漁夫、鬱陵島にて難破せし漁船捜索のため、本島に渡航せしに、海驢の群生棲セルを見、五六十頭撲殺して内地に送り、相当の利益を得しことあり。34年前・・・・・ * 1898年5月請議書:「欝陵島区域を地方制度中に添入に関する請議書」 Matsu氏@Dokdo or takeshima 鬱陵島は、東側の海に孤立してあり、陸地ととても離れていることが実に恨めしく、状況がどのようなのか、また居住民の数をまだ完全には知らないので、開国504年(1895) 8月13日に、鬱陵島島監を選んで送るように請議し、同じ月16日に上奏して裁可を得ました。 同 じ年9月20日に、鬱陵島の人である裵季周を島監に差定し、島監は判任官として待遇することを官報に掲載して本島の管理を全面的に任せ、島の状況と戸口を 事実通りに調査した後に、報告させるようにしました。この人が報告した成冊に基づいてみると、居住民の戸数は277で、男女人口は1,137で、開墾した 田土が4,774斗落である。これを調べてみると、島の人の戸数と、開墾された土地が、このような場合には、地方制度中に添入することが妥当なので、この 勅令案を会議に上げます。 光武2年5月日 議政府 参政内部大臣 朴定陽(パク・チョンヤン) 1898.09.26 Locals on Ullunego was poor to need to help because no industry and less agriculture. (Referenced from;[鬱陵島 島監 裵季周·崔敬鵬 등의 言動 報告], 秘第二九七號) 一 韓國鬱陵島々監裵季周 (四十六年) ハ去二十二日午後五時福岡縣門司ヘ來着更ニ赤間關市ニ來リ外濱町旅舍川卯方ニ投宿セリ同人ヲ訪問シタルモノハ赤間關市西南部町島八方滯在韓國人金明遠及ヒ 馬關每日新聞社員大阪朝日新聞社員等ニシテ本人カ語ル處ニ據レハ數年間鬱陵島々監ヲ勤メ居ルモ同島ハ土地荒蕪ニシテ穀物ノ類收穫ナク島民ハ常ニ糊口ニ窮迫 シ居ルヲ以テ之レカ救護ノ方法ヲ講シ韓國政府ニ向テ嘆願スル處アリシモ最早三年ヲ經過セルモ今ニ何タル命令ナク懸ニ堪ヘサルヲ以テ同島産業ノ資料ヲ得ント シ客月本邦ニ渡來シテ事物ヲ視察シ尙上京ノ上本邦駐箚韓國公使李夏榮ニ面會シ島民困窮ノ陳情ヲ爲シ同公使ヨリ韓國政府ニ宛タル密書ヲ齎シ歸國ノ途中ナリト 1899.日本遠洋漁業株式会社設立 日本最初のNorway式捕鯨方による会社 主に蔚珍沖で操業(竹濱の遠洋)鬱陵島には捕鯨基地はない 1899.04.12 鬱陵島での朝鮮人田士能等による造船目的の為の木材伐採会社設立 1899禹用鼎の鬱陵島調査。 鬱陵島で違法に伐採したり暴れている日本人を調査するために派遣。 吠全島長可為七十里 広可為四十里 周迴亦可為一百四五十里 而自壬癸開拓以後 至今居民為四百余家 男女共為一千七百口 起墾火田為七千七百余斗落 而厥土沃●播穀豊 登所種則大小麦黄豆甘藷 家家足粮水利 則採● 為主至於綿花麻布紙属等物 不待外至而自足 若或値災年 則幸有鶴鳥与茗夷草 可兔飢餓 此是上天好生之徳 若有意 而生此物於此土耶。 鶴鳥則鷹喙 而鳧足毛筥而鳩 大昼則● 翔乎海面 啄食魚種 暮則帰於山間而穴処 人欲捕得用火山中 則向明来集 因以捕獲全不費力 味如鳧肉 而尤佳茗夷 則一茎両葉 茎如蒜穂 而葉如玉簪 其花如●穂之種 而味亦如之 盖以此禽此草 経年喫過 亦無飢荒之色 甚異事也。 山勢則層巒聳翠 奇巌怪石 或如人立或似獣 遵千態万象 雖以描写 而樹木参天 有槻木・紫檀・栢子・甘湯等木 無非堅密 紋緻可供珍皿也 尤有異焉者 峯壑若是深邃 而無虎豺蛇紅之害 樹木若是茂盛 而亦無荊棘剌膚之 若莫非霊気所鍾除●害人之物也。 ・開拓以降、人口は増え、400家1700人で、焼畑?が7700斗に間で増えた。 ・大麦小麦、黄豆、甘藷などがとれる。 ・鶴鳥を捕まえて干し肉にして閉農期はそれでしのぐ。 ・日本人滞留者は 57件に男女合わせて 144人であり、留泊とある日本 船舶は 11尺だが、行き来する 商船は一定しなくて 定数を把握することができない。 ・なぜか漁業に関する記述がない。 1899.09.16.鬱陵島森林伐採の記事 https://search.i815.or.kr/ImageViewer/ImageViewer.jsp?tid=ns&id=HS1899091603 1899.10.14 朝日新聞 鬱陵島の近状(実検者の談) http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/MYBLOG/yblog.html ▲位置と地勢 鬱陵島は江原道の東南に位置し、海里およそ100マイルのところにあり、我が日本の隠岐を離れること150マイルである。地勢は東西に長く南北に短い。島は二島から成っており、一つを松島と言い一つを竹島と言う。松島が最も広く、竹島はその半分に過ぎない。この二島を総括すれば、周囲は18マ イルほ
どある。山の地勢は、岩石を並べたかのように山脈が岐立している。そういう地勢であるために大きな水源も無く、ただ谷間に小川が流れるのみであって
一まとまりの水田もなく山あいの畑が多い。ただし、それも東南の方面には多いが西北の方面はただ山野の一部が開拓されているのみで、山全体が樹木に覆われ
て鬱蒼としており人が立つ余地もない。それで、これを東南の方角から望み見れば、黒ダイをまな板に乗せて尾の方から眺めたような景色である。その風景の素
晴らしさは我が国の安芸の宮島も及ばないであろう。 ▲樹木の種類 樹木は、松、柏、ケヤキその他雑木類があり、日本にあるものとそれほど変わらない。中でもケヤキが最も多い。 ▲ 人口 ここは、ほぼ日本人と韓国人の雑居地と言って良い状況である。しかし、韓国人は歴史的に(この島に)関 係があるので他の地方から年々移住が進み、現在は二千人に達しようとしている。日本人もかなり多く、千人前後が住んでいる。いずれも隠岐、島根の県人たち で、彼らは農業、商業に従事している。商業の品目は、砂糖、紙、酒類やその他の雑貨類などで、どれも韓国人に売っている。日本人と韓国人の間は極めて親密 で、互いの間に特段の争いが生ずる心配はない。 ▲耕作の模様 当地で耕作されているのは粟と大豆である。一年間の収量ははっきりしていないが、三千石を下らないものと思われる。 ▲漁業 漁業は多くは日本人が行っているが、船の数はわずかに三十艘程度に過ぎず、漁獲するのはイカ、アワビ、タイ、ヒラメなどで、住民の需要をどうにか満たす程度に過ぎない。 ▲行政 当地には島司がいて行政を預かっている。しかしながら、海洋の一孤島であるため行政関係のことは韓国政府の指示によらず任意に処理しているようである。 ▲気候は、春夏秋冬常に朝夕は冷気を感ずる。比較的、冷気が多いところである。元山地方の気候と比べれば大差はないようである。 1899.11.08.禹用鼎の鬱陵島調査の記事 墾田の記載。(漁業の記載なし) https://search.i815.or.kr/ImageViewer/ImageViewer.jsp?tid=ns&id=HS1899110802 ◎(鬱陵視察)内部XX観察委員長 用県氏X派送XX鬱陵島情況X視察XXXX該島中居民X戸口数X田土起墾X多少XX島民田仕能X請願XX造船材木八十株X認許與否一一調査XXXX * 1900年3月1日:雑報:「欝島官制の改定」(皇城新聞) Matsu氏@Dokdo or takeshima 内部では、鬱陵島官制改正の件を議政府会議に提出して決めたが、島監は監務と改称
し、監務は奏任官とし内部の地方局長の指揮を受けるようにし、島長1人、書記2人、通引2人、使命2人で、監務の任期は5年だ。任期が来たり、政治がよく
できなくて変える場合には、島の中の各洞の執綱が連署で署名して、島長の中で人望が優れた人を選んで内部に報告する。島長は、本島の島民中、人望が普段優
れた者を会議で投票し、多数決により差任するが、3年に一回ずつ変えて、官吏の給料は本島の戸口と田結を調査して計算した後に島の人民の公議について決め
て支給することとした。 1900.05.28.韓海漁業視察復命書 〔大分町(大分県)〕:大分県内務部,明33.5 復命者:三浦覚一 http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40063846&VOL_NUM=00000&KOMA=8&ITYPE=0 http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40063846&VOL_NUM=00000&KOMA=9&ITYPE=0 地勢・港湾 両道の位置たる韓国の東北麺一帯に亘り東北鹿屯ち狭んで露領島蘇里州と相持し東南日本海を隔てて遥かに本邦と相対すその地勢南より北に延びさらに折れて北東に向かふ延長二百七十余里港湾曲・・・ 島嶼は江原道沖に位する蔚陵島および威鏡道の馬養島、馬島を除く外は硝大なるものなし。 1900.06.18.死んだ鯨が鬱陵島の海面に上がってきたのを日本人が持って帰る。 1900.08.韓海漁業視察復命書
〔佐賀〕:佐賀県内務部,明33.8 復命者:原英一郎 朝鮮遠海漁場図 竹島(Argonautか?) 松島蔚陵島 http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40063847&VOL_NUM=00000&KOMA=5&ITYPE=0 (この後に続く漁業基地図を見る限り、鬱陵島が記載されていないことは、まだ日本人による蔚陵島漁業が本格的に始まっていないことを意味する。) 韓海重要魚族出漁表 釜山水産会社調 http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40063847&VOL_NUM=00000&KOMA=83&ITYPE=0 韓海重要魚族 魚目 鱶 漁目 配縄 漁場 慶尚道釜山近海、所安島 済州島、江原道蔚陵島近海 漁季 周年 出身県別 山口 大分 備考 二三月及十月は釜山近海他に 己上の漁場に出漁す http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40063847&VOL_NUM=00000&KOMA=93&ITYPE=0 1901.06.04 ソース不明 外部大臣 朴齊純이 日本公使 林權助에게 照會하여 韓人 金斗源의 鹽價 및 損害의 索還과 同犯人의 嚴懲을 要求하다. 卽 韓國人 金斗源이 日本船에 소금을 싣고 鬱陵島로 가던 중 船主가 該 貨物을 싣고 日本으로 潛航하여 金斗源이 東萊監理 玄明運에게 訴求하여 該 港日本領事能勢辰五郞에게 通牒하였음이 벌써 3年이 經過하였음에도 아무런 回答이 없으며 該 金斗源은 被欺失貨로 流離途道하는 行勢가 可矜하니 貴 公使가 隱岐縣官에게 公文을 띄워 該 犯人을 査拿하여 嚴懲하고 該 貨價의 索還과 損害를 辦濟하여 줄 것을 要求하다. 1900.06.12 Fishery products are; Seaweed,Aablone,天草 ,but not active because it is too difficult because of deep water and too many rocks around ullunegdo to do fishing activities. (在釜山 領事官補 赤塚正輔 [鬱陵島 調査槪況 및 山林調査槪況 報告의 件]) 海産物トシテハ若布天草鮑魚ノ類ニシテ其産額ハ多カラス漁業ハ海底槪シテ深ク且ツ巖石多キヲ以テ全ク見込ナシ Also ,they reported Agriculture is good to do on Ulluengdo. e.g. bean, potatos. 農産物トシテハ大豆麥及馬鈴薯ノ類ナリ然レトモ全島山ノ集合ニシテ全ク平地ナキヲ以テ島民ハ山ノ半腹ニ畠ヲ開キ蒔種セサル可ラス畠地ノ面積ハ餘マリ廣カラス而カモ旣ニ開墾シ盡シテ寸尺ノ餘地ナキカ如シ大豆ノ總産額ハ年平均凡ソ五千石ニシテ內平均三千石ハ重モニ之ヲ日本ニ輸出ス其代價日本相場平均二萬圓位ナリ麥ノ産額ハ其數量ヲ詳ニスル能ハスト雖トモ島民二千五百餘ノ常食用ニ供給シテ殆ント餘剩ナク僅カニ百石乃至百五十石ノ輸出ナリ 第三. 輸出入 輸出品ノ重モナルモノハ槻木材ハ別トシテ大豆·麥·胡太·鮑·天草·黐等ナリ 1901.01 朝鮮開化史 東亜同文会蔵 国友重章 恒屋盛服 居民は男女三百口数十年以来船匠商買及漁、大農夫合相XでXり住居ス海水甚だ深きを以て魚産未だ盛んならずと雖も海菜の運出毎年二千荷を超え土質X沃にして肥料灌漑を要せず只樹業X灰を以て覆耕す春作は大小麦にして秋作はX及び豆の頻なり林産は老巨の杉松及各種ノ実木にして亦多く塊木、香木、柏子、甘湯木を讃す今王二十三年韓廷金玉均をもって東南諸島開拓史兼捕鯨使に任じ白春培を以て従事官となし該島開拓事務をX理せしめたるが翌年形京白の変ありて果さず其後島民徐敬秀を以て越松萬戸に差定し該当人民を繁殖し外国人の樹木伐採を防禁せしめたり。 * 1901年3月11日:雑報:「島民訴請」 Matsu氏@Dokdo or takeshima 鬱陵島の居住民の金声集(キム・ソンジプ)などが内部に訴えるには、 「昨年に蔚珍の人・崔 秉麟(チェ・ビョンニン)と視察官・禹用鼎が入島して、済益船一隻を購入して島民と物品の往来を便利にしたが、槻木をのせて行き黄土窟で風浪に会って船が 破損しました。すると、船舶会社の社員が言うには、これは政府が用意したものであるが、お前たちが曳木を遅滞したせいで破損が起ったとして、船価と費用1 万 6千両を島民から強制的に徴収しようとしました。そこで、郡守の報告書を持って島の中の知事人である田士能を送って釜山港に停泊するようにすると、崔秉麟 が言うには、印章を偽造して報告するのに押したといいました。そして、田士能を釜山港監理所に捕まえ、合わせて押送して裁くことを求めました」ということ である。 1901.06.15 黒龍界 韓国沿海事情 P13 第一巻第二号 葛生修吉 鬱陵島(春川府直轄)平海郡、越松浦の南微北に当り、四十余里の海中にある孤島にして、別名之を武陵又た羽陵と称す、即ち古の于山国にして本邦人は松島と呼ぶ、世人の本島は大小六小箇の島嶼、若くは竹島、松島の二島より成れりと為し、或は地図に之れを記入しあるは往々見る所なれとも、是れ等は何れも誤りなるが如し。【改行】本島は●と金剛山脈の一支流れて東海に入り、対立して其頭を顕はしたるものにして、面積約七十五万方哩、中央に一の山岳Xふるものあり、其高さ四千尺、峻厳突X四●之れを擁して。遠く望めば背螺の浮出したるに勢●たり又た船舶を碇泊するの良港無く、商船漁船の碇泊困難にして、風涛少しく荒るるときは、島の北面に位する海濱の平地に船を引き揚げるを常すと云ふ、 全島平地に乏しと雖,此島の地質は古来落葉枯草の堆積腐化したるものより成れる,所謂黒土の一種にして,土地●沃殆んど肥料を要せず,只稀れに儘灰等を以て耕Xすることあるのみ,農産の主なるものは大豆,大麦,小麦等にして,殊に大豆は粒大に質宜しく,直接に本邦に輸出せられ,産額年々四五百石に及ぶと云ふ,林産には,欅,桐,松,白檀等あり,就中欅は径六尺位に至れる大材を出し,桐は本邦にて松嶋桐と称して唐木細工中の珍重とする所,白檀は以て香料に供すべく、何れも巨大のものを産し、往時は此の種の樹木全島に繁茂して殆んど無●●の観ありしも,近頃に至りて本邦人の盛んに輸出したりし為め、其濫伐の結果,漸年減少に赴けり、此他山葡萄の類亦た些なからず,海産は,魚類および鮑,海鼠の類に乏しからざれども,近海の水何れも百尋乃至百九十六尋の深きに失するが故に本邦X網船の春季往来するのものあるの外,漁産未だ盛んならず,唯沿岸の浅処に於て採取する石花菜は種類良好其産出殊に大なり、又た秋季山鶏の類非常に多く、嶋民は之れを撲殺し、肉は乾燥貯蔵して年中の副食物となし、脂肪は溶解して燈油に供すと云ふ、想ふに世人の称して、信天翁の生息多しと為すは此島の訛伝ならん、天産の豊饒なるごと蓋し韓国中外に比類なしと云ふべし 島中1泉あり、清水多量に湧出す、聞く此水は少しく酸味を帯び島民之を薬泉と称し、疾病の際、用いて薬餌に代へ効験見るべきものありと、察するにて其効験見るべきものありと、或は是れ本邦神戸邊に産する平野水、紀州の金山水等と同種なる炭酸水に酸水にあらざるなきか【改行】 本島は、往時倭寇の一時●て以って 我が邦とは殊に密接の関係を有し、貝原益軒の如きは断じて之を我が邦の所属なりと論じたることありたれども、久しく其の所属を●●の裏に経過したりしが、っ明治十五六年の頃、本邦人某工人を派して伐木に従事したるに、韓廷抗議する所あり、我邦之に譲りて其-------至れり、明治二十三年に至りて、韓廷金玉均を以て東南諸島開拓使兼捕鯨使に任じ、白春培を以て従事官となし、該島の開拓事務を弊理せしめたりしが、翌年京城の変ありて果さず、其後島民徐敬秀を以て越松万戸に差定し、住民の繁殖を計り、外国人の樹木伐採を防防禁せしめたりしも、本邦人は依然として●態を維持し、唯貨物質却の時、口銭百分の二を官に納れ、木材には船一隻に百両(我二十円)を納れ以て公然の密貿易を為せり、次て明治三十一年の頃、該当の伐木植林の権利露人の手に委することとなるや、露人は直ちに韓廷に照会して外国人(即ち日本人)の本島の本島の木材を盗伐し、および島内に居住するを禁ぜんことを迫り、外部は更らに之を我が公使に照会し、我が公使は一時本島に在りたる本邦人に退去を命じたることありしも、其後邦人して急に同島を撤退せしむるは事情の能はざるものあるに依り之を鑑定に復●したりを云ふ【改行】 本島は、往時は住民極めて稀すくなりしも、近世に至りて商売及び農夫漁夫等のXり住する着相Xき、本邦人亦た此XにX居し、韓人の戸数約四五百に達し、本邦人亦た此聞迄は其数殆んと三百人に達したりしが、一時本邦政府より退去の命令ありてより減少して今は百四五十人の居住に過ぎXと云ふ、是れ等の本邦人は概ね鳥取県下より直接渡航したるものにして樹木の伐採及び大豆、石花菜等の密輸出を以て営業とし純然たる日本村を成し、中には避け、煙草、紙、油其他日用の雑貨店あり、二三の料理店を開き酌婦の来り住するもの亦た之れありと云ふ 黒龍界 韓国沿海事情 P13 葛生修吉 P13△ヤンコ島 鬱陵島より東南の方三十里、我が隠岐国を西北に距ること殆ど同里数の海中に於て、無人の一島あり。晴天の際 鬱陵島山峯の高所より之れを望むを得べし。韓人及び本邦漁人は之れをヤンコと呼び、 長さ殆んど十余町、沿岸の屈曲極めて多く、漁船を泊し風浪を避くるに宜し。然れども薪材及び飲料水を得るは頗る困難にして、地上数尺の間は之を牽けども容易に水を得ずと云う。 此島には海馬非常に棲息し、近海には鮑・海鼠・石花菜等に富み、数年以前山口県潜水器船の望を属して出漁したるものありしが、潜水の際、無数の海馬の為に妨げられたるど、飲料水の欠乏との為に充分営業することを得ずして還りたりと云ふ、察するに当時の季節は恰も五六月にして、海馬の産期に当たりを以て、特にその妨害をうけたるものならんか。 また、付近に鱶漁の好網代あり。数年以来五六月の候に至れば大分県鱶縄船の出漁するものあり。昨年春季同処より帰航したる漁夫に就て之を聞くに、出漁した出漁未だ二三回に過ぎざるが故に、充分の好果を得たりと云うべからずと雖も、毎季相応の漁獲あり。従来の経験上、其網代の状態及び鱶類棲息の棲息多きとより観察するに、必ずや良好の漁場たるを疑わずと、盖し営業者の為には尚充分探検の価値あるべし。(其要領は会報第一集にのれたり参照せよ)
・平地に乏しいが、地質が肥沃な黒土なので肥料を使わなくとも収穫が採れる。 1901.07 (外務省通商局編纂 通商彙纂 1902.10 より) 日商組合規定を策定-事務所 道洞 http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka17/tsushoisan-1902/12.jpg 1901.08.14 皇城新聞 読めず・・・・(写経必要) 木村兄弟が鬱陵島に来島 1901.08.20 釜山の海関士彌須氏の鬱陵島報告 (1902.04.29 皇城新聞 釜山の海関士彌須氏の1901.08.20の鬱陵島報告 1901.08.20に掲載有) * 1901年9月日 報告書第1号 Matsu氏@Dokdo or takeshima 本郡は、海のはてにあり、開拓はまだ終わらず、世帯は五百戸にならず、普段通商する境遇ではないから、彼らの
交渉は、本来、各国会辧の条例にはないことです。今、日本人の往来が異常で、重大な封山をむやみに切るので、この事実を内部に報告しました。そして去る庚
子年(1900)
5月、視察官禹用鼎が日本公使とともに命を受け、島に入って日本人を呼び集めて裁判をし、再び侵魚する弊害がないようにして雌伏させました。視察官が上京
した後で、日本人500人が、すべての山に入って槻木と材木を思いのままに切っては、載せて行ってしまいました。今年は、鬱陵島を南北に分けて、自称自ら
の山と言い、島の人が一つも切れないようにしています。しかも、鬱陵島民から財物を奪い、無数に困難にあうので、その・・を報告します。ですから、日本公
使館に知らせて、島に入ってきた日本人を速く撤収するようにし、民衆が楽に生業に従事して大韓要衝の土地を保存するよう願います。 1901年9月 日 蔚島郡守 裵季周 議政府 参政 外部大臣閣下 * 1901年9月13日 報告書 副本 Matsu氏@Dokdo or takeshima 現在、日本が島全体にぎっしり埋まり、不法を行うことは、民をドン底に落ちるようにするだけでなく、森林はすでに真裸になり、土地が将来彼らの手に入るようになったので、これを報告します。 鬱島郡守 裵季周 議政府 参政・外部大臣閣下 1901.09.18 ソース不明韓国サイト(原本確認要) この資料は 1901年夏にも日本人たちが鬱陵島から撤収するどころかずっとミルイブドしてしている途中盗伐を邪魔すると道民に対してを起こしたことを知らせてくれている. すなわち鬱陵島道民たちのミルイブドした日本人たちの集団を内部に訴えたら去年に政府でウヨングゾングなどを送って日本に来て一緒に調査したところ日本人をさせることにを決めたが退去しないでまだ引き延ばしだけして来た.今年には日本人がもっとたくさん鬱陵島に入って来て任意に科他の野をベオがヌンデ,道民の中にこの緊急に使う事があって一本を切ったら日本人たちがして来てを無数にしながら言うのをお前どうして私たち木をベオがヌなのと言った.ここに鬱陵島道民たちがこのごろ政府が鬱陵島を日本にしたかと慨嘆したという報道だ. 日本人たちの鬱陵島ミルイブドと森林盗伐をもっと極甚になるのに政府はここに強硬対応することができなくて鬱陵島から日本人たちの来てこの前途される事態まで発生していたことをこの資料は知らせてくれている. (機械翻訳) 1901.09.25 照會 第十一號 上年十月日에 貴部第十五號 第十六號 照覆을 連接와 敝部로셔 第十九號 照會 更爲仰佈왓더니 經年閱序에 如何신 照覆을 尙靳시와
至今ੁ鬱온中 現接鬱島郡守 裵季周 報告書內開. 本島가 僻在海隅야 島中居民이 只以畊田爲業 而近年日人이 數數往來야 或伐規木고
或侵居民之事狀을 昨年分視察官 禹用鼎 已所洞悉者也라. 伊時에 招集日人裁判則日人이 更勿侵漁之弊로 自服矣러니 視察官上京後로
在山槻木無一遺漏고 今年則日人千餘名이 作黨突入야 全山南北分界와 七十餘戶居生島中이고 分界之內雖一草一木이라도 大韓之民은
勿爲犯斫케 고 島民 尹殷中이 蓋屋之事로 伐木作板이온즉 稱云渠山之木이라 고 勿犯케 오니 大抵渠國渠山之木이라도 不至此境이온
又況大韓之土地乎잇가. 日人之弊가 去去益甚이온즉 島中居民이 不得安堵야 至於渙散之境이고 大韓土地 奪之於日人이온 故로
玆以報告오니 照亮신 後 特爲公決之地伏望等因온즉 在島日人의 滋弊가 愈往愈甚야 犯斫木料 益無顧忌더러 全島南北을
分界築室고 滿山木料 看作已有야 島中民蓋屋伐木을 還爲禁止라 오니 言念及此에 不覺寒心이라. 大抵在島無恤之日人을 若不撤還오면
全島五百戶數千名人口가 渙散乃已이기 前後仰照가 非至一再이온바 尙今延拖와 爲弊滋甚에 罔有紀極온즉 公法所在에 該日民之行悖
實爲兩國之羞라. 玆更仰佈오니 照亮신 後 日本公使에게 知照시와 在島之日本亂民을 定期撤歸케시고 示明시믈 爲要 議政府贊政內部大臣 李乾夏 議政府贊政外部大臣 朴齊純 閣下 大臣 協辦 局長 參書 光武五年九月二十五日 接第十二號 光武五年九月二十五日發 九月二十八日到 1901.10.29 訓令照會存案 <リンクがおかしくなっているので再調査必要) 鬱陵郡 森林は 皇室の 園林で 1木でも私的に切り取る事がないようにしなさいという 訓令 第1号 再. 鬱陵島 私の 樹木実数と 地界長広を詳らかに報告して証拠にするようにすること. (機械翻訳) 1901.10.29 ソース不明 この資料は鬱陵島道民たちが会議した結果鬱陵島でを外国人(日本人)に奪われることは貨物を運ぶこのないからだと結論付けて道民たちが夫夫 (株式会社の資本金)を出演してなど船舶 2尺を購入することに議決したことを外部に報告したことを知らせてくれている。 この破船された後道民の出演金で船舶 2尺を新たに購入しようという道民たちとこれを反対する道民たちの間に意見分裂と葛藤があったが,最終結論は道民出演による新しい船舶 2尺購入で落着したことをここで分かる. (機械翻訳) 1901.11.18 皇城新聞 事故死の韓人?(写経必要) 1901.12.10 鬱陵島在留民取締ノ爲メ警察官派遣ノ件上申 鬱陵島ハ從來島監ヲ置キ島治ヲ司ラシメタルモ今般更メテ郡守ヲ置ク事ト相成新郡守姜泳禹ナル者近々出發ノ筈ニ有之候右ノ島治官ノ變更ニ付前島監裵季周ナル者免官トナリ目下滯京中ニ有之右同人ニ就キ同島ノ過去及現在ノ情況承知致候其槪要ニ由レハ前記裵季周ハ仁川ノ對岸永宗嶋ノ住人ニシテ今ヨリ貳拾年前鬱陵島ニ移民開拓ノ擧ヲ計劃シ率先シテ該島ニ渡航シ其開拓ニ從事シタルモ如何セン該島ハ本ト無人島ニシテ(周圍我十三里ナリト云フ)韓國沿岸トノ交通啓ケサル爲メ非常ノ困難ヲ感シ其結果頻ニ日本人ノ渡航ヲ勸誘スルコトニ力メ且自ラ島根若クハ神戶等ノ地方ニ赴キ該島産出ノ槻木賣買ヲ特約スル等漸ク日本人ノ該島ニ渡航スルノ途ヲ開キタルト共ニ韓國人渡航ノ便開ケ玆ニ移民ノ端緖ヲ開クニ至リシモノニシテ今ヤ該島ニ居住セル韓人ノ數ハ五六千人ニ達シ日本人ノ在留スルモノ亦タ男女三四百人其多トキハ千人ニ達スルコトアリ(其時々增減アルハ專ラ漁業時期ニ關係ストノ事)而シテ右本邦人中ニハ已ニ三四十戶ノ家屋ヲ構ヘ殆ント土着同樣ノ生活ヲ爲シ居ルモノアリ彼等ノ中ニハ無智頑强ノ徒多ク然ルニ此等ノモノヲ取締ルヘキ官吏ナキヲ以テ相互間ノ論爭ハ專ラ腕力ニ決シ甚シキニ至リテハ殺人犯モ有之殊ニ韓國人間ノ關係ハ腕力ニ訴フルヲ常トスル有樣ニテ島司ノ力能ク之ヲ制止スル能ハスシテ島治上障害難カラザル旨申出居候 抑鬱陵島ニ於ケル在留本邦人撤退ノ一事タル本使來任以來再三韓國政府ヨリ請求有之候ニ付兩度迄我官吏ノ該島ニ派シ情況取調ヘシメ候結果該島民ト本邦人トノ關係ハ決シテ一朝一夕ノ故ニ非ラスシテ已ニ十數年ニ亘リ今ヤ益其關係ヲ深クシ縱シ一旦之ヲ退去セシムルモ亦漸ク來集スルハ自然ノ勢ニ有之而シテ其玆ニ至リシハ前顯裵島監ノ云ヘル如ク該島ノ開拓ニ伴フ交通ノ便ヲ得ン爲メ彼ヨリ勸誘シタルモノナルヲ以テ今日ニ至リ帝國政府ニ於而之レカ責任ヲ執ツテ退去セシムルノ義務ナキノミナラス寧ロ其責任ヲ韓國政府ニ歸スルヲ至當ト認メ客歲七月四日附機密第五十四號ヲ以テ卑見及具甲候末同年七月十八日附機密第三十六號ノ回訓ニ接シ候ニ付本使ハ右回訓ノ趣旨ヲ體シ直ニ別紙甲號ノ通リ韓國政府ニ照會致候處同乙號ノ通リ我提案ニ同意シ難キ旨回答ニ接シ候依テ本使ハ尙ホ進ンテ別紙丙號ノ照會ヲ發シ外國宣敎師內地居住ノ例ヲ援照シ來ツテ獨リ鬱陵島在留本邦人ニ限リ其退去ヲ迫マルノ不條理ナル所以ヲ駁辦シ且ツ鬱陵島ニ本邦人ノ在留スルニ至リタルハ條約規定ノ外ニアルモ之ヲ致シテ漸ク今日ノ習慣ヲ作シタルハ島治ヲ監スル韓國官吏ノ責任ニシテ卽韓國政府ノ責任ニ屬スル旨覆答致置候 然ルニ右最後ノ照會ハ昨年九月十二日附ニシテ其後已ニ一年餘ヲ閱セルニモ係ハラス今日迄更ニ何等韓國政府ヨリ申出無之ヲ以而見レハ最早韓國政府其主張ヲ貫ク能ハサルコトヲ了解シタルモノト見ルノ他ナク加之ナラス新任郡守赴任ニ先キ外部大臣朴齊純氏ハ曩ニ國分書記官ニ對シ新任郡守ハ前島監裵季周ヨリ本邦人ノ所爲ニ關シ島治上困難ナル情況ヲ聞キ在留日本人ノ跋扈如此ナル以上ハ新任郡守赴任ニ當リ如何ナル椿事ヲ惹起スヤモ不計テ大ニ恐怖ノ念ヲ抱キ居レルヲ以而何トカ取締法無之哉トノ相談有之依而同書記官ハ兎角新任郡守ニ面談ヲ遂ケ相當ノ取締法ヲ講スヘキ旨相答ヘ置キタル由ニ有之候處其後新任郡守姜泳禹再三來館國分書記官ニ面談致候ニ付本使ハ該島在留本邦人ノ所爲監視ノ目的ヲ以而我警官ヲ每年臨時出張セシムルカ將又常駐セシムルカノ二途其一ヲ撰ヒ施行スルノ手段ヲ講スヘキ旨同書記官ヲシテ申込マシメ候處同郡守ハ可成約速ニ其措置ヲ執ランコトヲ希望スル旨相答ヘ候趣ニ有之候就而者本使ハ前顯裵季周ノ談話ニ徵シ又當國政府底意ノアル所モ略窺知致度ニ付此際右在留本邦人ニ對シ相當ノ取締法ヲ設ケ其所爲ヲ監視シ或ハ之ニ制裁ヲ加フル等ノ措置ニ出ナハ島民間ノ折合モ付自ラ感情ヲ融和スベク左スレハ退去ノ必要モ起ラサルヘクト存候其取締法ハ該島ヲ釜山若クハ元山帝國領事ノ管轄區域內ニ組入レ(釜山ノ方交通ノ便宜多カルヘキカ)凡ソ六月乃至一年ノ交代期ヲ定メ警部一名ニ巡査貳名位ヲ附シ該島ニ出張セシメ置候方可然是恰モ松都カ京城領事ノ管轄區域內ニアツテ在留本邦人ノ數五六十人ナルヲ以テ之ニ巡査派出所ヲ置キ巡査ヲ派駐シ本邦人ノ行爲ヲ監視シ居レルト一般ニシテ敢而條約上ノ權能ヲシテ當然ニ主張シ得ヘキ譯ニハ無之候得共現ニ韓國政府ハ之ヲ默認シ曾而何等故障ヲモ申出タルコト無之候間此次鬱陵島ノ如キモ同樣ノ事體ニ出テ本邦人ノ行爲視察等ノ名義ヲ用ヒ我警察官ヲ派遣致置候ハゝ島治上ノ障害モ自ラ消滅可致隨而退去問題ノ如キ苦情モ起ラサルヘクト存候間貴大臣閣下ニ於而前述ノ事情ヲ諒セラレ何分ノ御裁量相成候樣希望致候殊ニ玆ニ情況ヲ具シ此段及稟請候 敬具 1902.01.23 皇城新聞 鬱陵島近海での捕鯨の事。内水 元山 長櫛津 対馬など(写経必要) 1902.02.28 皇城新聞 光武 6年 2月 28日 이 날짜 皇城新聞에 의하면 日本人이 鬱陵島에 群居하여 도리어 韓國人은 一草一木을 斫伐치 못하게 하고 있었는데 이번에 日本에서는 該 島에 在한 日本人을 保護管轄하기 爲하여 日本警察署를 新設하고 在釜山日本警察署의 西村 警部 및 巡査 3名을 派送하여 該 島에 駐在하기를 命하였다 하다 1902.03 韓国略誌 井原儀著 赤間関:和田善平,明35.3 近畿地方・・・・・・・・(注意の二)三陟は古へのX直国の都なり。 この沿岸より遥かに東方に鬱陵島(于山島即ち松島)あり、島中、松、杉の巨材を産し近海には鯨、海鼠の魚利あり。 * 1902年3月4日:雑報:「欝守新任」 Matsu氏@Dokdo or takeshima 鬱島郡守・姜泳禹を免官する代りに、前郡守裵季周氏が叙任されたという。 1902年3月13日訓令第1号 Matsu氏@Dokdo or takeshima 貴郡が新設されてからいくらも経たず、すべての事務が始まる段階です。
外国人が内地をあまねく通うと自称して、頻繁に往来して家を作って営業をし、森林をむやみに切ることがあり、弊害がますます激しくなるに至りました。これ
は条約を破ることであるだけでなく、私たちの民の利害とも関係があって、そのまま置いてはいけないので、これに訓令を出します。厳しくさらに禁飭し、外国
人が遊覧して商うこと以外に、家屋を作って営業をし、土産物を侵奪することが無いようにしなければなりません。難しいことがあったら、付近の東莱監理に知
らせて処理するようにし、本国民で外国人と不法に通じる者があれば、東莱監理署に捉えてきても良いです。 光武6年10月30日 議政府 参政・外部大臣朴斉純 鬱島郡守 姜泳禹座下 1902.04.29 皇城新聞 釜山の海関士彌須氏の1901.08.20の鬱陵島報告 1901.08.20 一段目
別 報 左에 槩譯것은 釜山海關洋員士 彌須氏의 鬱陵島視察報告書인 其日子비록 經年 者나 事實로 觀면 關係가 綦重기 玆에 譯謄노라 ◎光武五年八月本派員이 與本海關 幇辦金聲遠査檢官荒木監理署主事 丁寳燮으로 於釜山起程야 翌日上 午七時에 到鬱陵島니 嶋中日本人 口가 約爲五百五十人而皆造船伐木者及幾個舖戶라 該日人等이 以此嶋 로 認爲永遠居住야 有于今七八年土着者고 每歲自三月至六日히 乘 其浪息風靜야 日人男女三四百名 이 自日本샤가이 地方으로 來泊該島 야 或漁獵或斫木며 或日人所貯 材木豆麥薯蕷等物을 裝運輸云者│ 絡繹云고 日本女子現居島中者 爲三十二名而凡日人作業은 斫伐槻 木야 出賣日本야 旋購米鹽漿酒 食品과 其他布木야 輸入島中야 與韓氏交換雜糓고 罕以錢幣償價 며 居島日人이 有兩黨니 一은하 다모도 者│爲黨首고 一은와기다 者│爲黨頭야 二黨이 割分南北疆 土而自領其森林고 昨年七月十五 日에 有告示韓民者에 曰自今으로 若 無日本人許可면 毋得擅目伐木며 毋得輸出一木이고 若有現發則應償 罰欵云이라얏 從此韓民之被 捉賠罰者│屢屢로 該島官民이 無 禁制權力이라 本派員入島時에 適有一案件來告者니 卽本年七月頃에 一韓人所有新斫板木을 被日人査出 야 見徵罰金三萬五千文고 又一 韓人은 於其所居地內에 斫倒一木이 다가 爲人告發야 亦徵罰金三萬文 니 皆係的實事件이오 島中日人은 斫伐材木호 都無認狀며 且材糓 各種輸出入에도 亦無稅金며 裴季 周 監管該島▣已經六年而年前裴 島監이 因材木還推事야 發往日本 時에 島人吳祥日이 乘島監不在야 詐稱署理고 勒討稅欵於輸出入物 品云이나 只是米鹽酒若干捧賂而已 오 島居韓民은 畧至三千口나 皆佃戶農氓之爲活者니 米布漿酒等은 皆以 土產豆麥薯蕷로 交易於日人며 或 出日消售於釜港이라며 嶋東小灣 岸上에 居生日人之板屋이 略五十戶 오 方新築者│亦多고 沿岸에 亦有 日八四五村落이나 本員이 因牽掣事 야 未能詳探其戶數고 嶋人中有 金敬重金性述田士能者三人이 最奸 猾欺騙야 歛民錢財고 又揚言各 村曰釜山監理之子玄尙健이 現任要 職야 云自政府로 派送視察姜永佑 야 一應島中現官을 併皆罷免고 永不置島監이나 姜視察의 所需費額 七十萬文을 當自民間捐納이라 愚民이 或被其慫惥야 頗有隱納者 云이며 本員到島時에 有兩桅船十六 隻이 碇泊海面고 又有五隻船이 滿 載木材야 準備出帆고 且於灣岸 에 置有五百介堅緻板材及軆木니 長或十尺二十尺而皆日人所伐者也 오 且有漁艇七隻及潜水夫艇子三隻 니 皆自釜港日領舘으로 領有官許 者也오 又有乾鰒海蔘과 黃豆三百石 及雀膠等物이 皆將輸出者也오 環嶋海水가 甚深야 如實合港灣者 絕 無고 海岸則四面開濶나 但有三 處小灣야 輪船이 可得碇泊矣오 嶋 中處處에 有韓人田土고 全嶋中央 은 森林이 尙且望之鬱葱矣라얏더 라 西曆一千九百一年八月二十日 海關派員士彌須 1902.05.01. 皇城新聞 東海中一島 1902.06.24 皇城新聞 オットセイの生息情報(写経必要) 鬱陵島および??島 1902.10.01 外務省通商局編纂 通商彙纂 付録 韓国鬱陵島事情 第一:鬱陵島の地勢 http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/tsushoisan-1902/ 第一:鬱陵島の地勢 鬱陵島は江原道蔚鎮を距る40里前洋にある一孤島にして周囲九里半余其形状不当三角形に似たり全島の海岸は断岩絶壁にして渚濱少なく隋て大船巨舶を入るへき良港なく僅に道洞、芋洞其他二三の小湾小曲江あるのみ而して沿岸の海底は多くは岩石にして船舶の投錨碇泊に便ならすと云えり 地勢は山岳連亘して平地担路至て少し往昔は全島森森たる樹木繁茂しX尚ほ晴きの観あるしも今や島民の繁殖するに従ひ海岸付近は一体に伐木開拓して農作地となせり。 テツセミ島ハ臥達里ノ前洋ニ在リ本邦人之ヲ竹島と俗称ス周回三拾X余「タブ」女竹繁スト雖トモ飲料水ナキヲ以テ移住スル モノナシト云フ、又亭石浦ノ海上ニ雙燭石及島牧ノ島峡アリ周回二十丁本邦人之ヲ観音島と称し其岬ヲ観音岬と云ヒ其ヲ観音ノ瀬戸ト呼ヘリ、又雙燭石ハ三岩高 ク樹立スルニヨリ三本ノ名アリ、其他 周園ノ海岸ニx筒ノ峻巖アリシモ一モ名称ナク唯タ光岸ノ前面ニ俵島アレトモ至ヲ小島ナリトス 羅里山は本島の中央に在り連山重X中最も高く聳え大樹喬木鬱蒼として天を覆ひ降雪は四時結氷して溶解せさるにより其山堅に入れは夏尚ほ寒しと云ふ、而して其半腹に約八丁四方平坦なる地ありて韓民等農耕に従事すと雖ともX地にして大豆 作に適せさるを以って大概唐Xを作り居れり、錐山は羅里洞の北方に突起し羅里山に比すれはX高をすと雖とも崔鬼たる岩山にして頂上に樹木繁生し海岸に聳立するを以て人皆之を本島の高山と称せり、その他蒻鬱たる連峰ありと雖とも未た一々其名称を付したるものなしと云へり島中最大なる渓流は南陽川、台霞川の二皮にして之に亞くものは通伏、竹岩等の諸流とす、其渓流は四時Xるることなく水質純良なるをもって島民一般引用に供せり 第二、在島韓民の状況 「本島韓民は古来永住の者なく今を経る廿一年前江原道より裴季周、金大木、下(?)敬云、田士日の四名来航し同行者は協力以って山間を開拓し、畠地を作りて農耕を業とせり、然るに其翌年に至り江原道江陵地方より黄鐘海、崔島守、田士雲、金花淑、洪奉堯、李孫八及全羅道地名不詳張敬移の七名来島せし 以来年々歳々江原慶尚威鏡全羅の四道より移住するもの多くして何れも各地に散在し精属以て開墾を為し専ら農業を営み漁業に従事するものは僅少なりとす而して本島の東南面は地質黒色にして朝鮮本土に比すれば地味好良な るも西北面はX地なるを以て農作は豊穣ならすと云ふ 一般の風俗はXni淳朴質素にして凶暴、残忍のX輩なく到る処往々書堂を設け児童を集めて孔孟の教を授くるの村夫子あり漢学一般に行はる故に人情温厚誠実にして彼我貿易上に於てもかつて粉憂を醸したることなく在留邦人とは常に直接の関係を有するにより至て円滑なりとす 一 村名戸数人口(X印は本邦人戸口数) (表) (*1902年の21年前=1881年) 第三、本島物産 槻(欅: けやき)梅、五葉松、黄柏(きはだ)、「テンポ」梨、「タブ」、「ブナ」、山●、桐、白檀、椿、桜、木耳、黐(モチノキ)、桑、黄柏皮、大豆、大麦、胡豆 (そらまめ)、小麦、馬鈴薯、鮑、鯣(するめ)、海苔、天草、甘籊、郭鳥等ナリ参考(昨年収穫セシ大豆六千石、胡豆二千石、大麦四 千石、小麦三千石以上トス)郭鳥ハ其ノ形状鷗(かもめ)ニ類似シ昼間三十海里以外ニ遊泳シ夜間本島森林ニ生息ス土民ハ暗夜山上ニ焚火ヲ為シ四方ヨリ集合ス ルヲ撲殺シ油ヲ搾リテX燈ニ用ヒ肉ハ乾シテ食用ニ供ス 第四、船舶碇泊場 本島ハ 元来碇繋場ニ適スル江湾ナク寧ロ皆無ト云フモ可ナリ、然レトモ道洞ハ全島中ノ良港ニシテ湾内ノ幅員何レモ七十間余ニシテ平均深サ十尋ナリトス、而シテ東西 ノ両岸ハ巍々絶壁ナレハ碇泊船ハ北巌石ニ繋留シ僅カニ数艘ヲ碇泊スルニ足ルノミ故ニ滞留ノ船舶ハ一時渚邊ニ曳キ上ゲ出荷ヲ待テ再ヒ出 港セシムルコトトナス其ノ狭隘ニシテ大船巨船ノ出入スル能ハサルコト推シテ知ルヘキナリ、マタ一朝東南及南西ヨリ強風吹荒ミタル時ハ忽然激浪ヲ起シ甚シキ ニ至レハ泡沫浜邊ノ住屋ニ飛ヒ来リ其猛勢当ルヘカラサルヲ以テ港内碇繋船舶ノ衝突危険ナルコト眞に名状スヘカラサルナリ然レトモ他ニ港湾ナキヲ以テ本島ニ 出入スル船舶ハ悉ク同港ニ寄泊ス殊ニ本邦人ノ多数ハ此地ニ在留シ輸出入ノ貨物ハ總テ此地ニ集散セリ、苧洞ハ本島ノ東面ニ位スル停船場ナルモ極メテ狭隘ナル ヲ以テ船舶ヲ碇繋スルニ足ラスト雖トモ西南風ヲ避ケ一時寄泊スルニ便ナリ、沙洞ハ港湾ニアラサルモ海底砂礫ニシテ岩礁ナキニヨリ船舶ヲ投錨碇泊スルニ便ナ ルヲ以テ汽船ハ總テ此地ニ碇泊スルコトトナセリ其他通亀尾、南陽洞、台霞洞、玄浦、竹岩等ノ小曲江アリト雖トモ皆海底ニ岩石暗礁多クシテ船舶ノ碇泊ニ適セ スト云フ以上列記スルカ如ク本島ニハ良港ナキヲ以テ汽船ノ寄航スル時ハ常ニ風位ニ従ヒ碇泊位置ヲ轉變避難セサルヲ得サルナリ * 一間・一尋は六尺(約1.818メートル) 第五、本邦在留民ノ概況 往 昔石州濱田,伯州境地方ヨリ本島ニ渡リ樹木ヲ伐採シ輸出セシコトアリ又明治十二三年中大阪ヨリ東京社ハ多数ノ樵夫ヲ連レ来リ槻ヲ伐採シテ京都某寺ノ建築用 材ニ供シタルコトアリシモ其頃迄ハ無人島ナリシニヨリ在住シテ製材或ハ漁業ニ従事シタルモノナシト雖トモ其後明治二十五年ニ至リ隠岐ノ国ヨリ製材者数名渡 航シ来リ始テ假小屋ヲ構ヘ永住スルニ至レリ然レトモ今ヤ初航者ハ僅ニ製材兼鍛冶業島根県平民脇田庄太郎一名現住シ其他ノ渡航者ハ長クモ七八年ニ過キス、然 リ而シテ爾来年々在留民ノ増加スルニ従ヒ不良ノ徒入込ミタルヲ以テ取締ノ必要起リ明治三十年四月日商組合会ナルモノヲ組織シ在留民ノ安全ヲ保持スル為メ二 名ノ感じヲ置キ之カ取締ヲ為シタリシモ人口頓(とみ)ニ増加シ従来ノ取締法ニテハ到底整理スヘカラサルノミナラス渡航者ハ概ネ無智文盲ノ儕(ともがら)輩 ニシテ二尾紛擾(みだれる)ヲ起シ強ハ弱ヲ凌キ智者ハ愚者ヲ欺キ甚シキニ至テハ兇器ヲ携ヘ暴行ヲ加ヘ他人ノ物件ヲ強奪セシコトアルモ之ヲ制止スルモノナク 非常ニ良民ヲ苦ムルコト少カラサルニヨリ在留ノ重立タル有志者ハ明治三十四年七月在留民一般ニ議リ更ニ日商組合規約ヲ制定シ無給ノ組合長一名同副長一名有 給取締一名ヲ置キ其下ニ名誉議員十五名ヲ選挙シ在留民ノ事故ヲ合議裁決シテ従来ノ陋(狭い・卑しい)習ヲ一洗セント欲シ刑事ニ係ルモノハ拘置監ヲ設ケ同所 ニ留置シテ前非ヲ悔悟セシメ重キ者ハ本邦最近ノ警察署ニ護送スルコトトナシテ規約ヲ励行シタリ、本年一月四日組合員中ニ紛議起リ元組合長ハ組合ヲ破壊セン ト欲シ自己ノ使役スル多数ノ木挽及ヒ労働者ヲ煽動懐従セシメ脱会ヲ申込ミタリ依テ組長取締等ハ種々調停ノ道ヲ盡(つくす)シタレトモ遂ニ調停スルコト能ハ スシテ決然其脱会ヲ認可シタリ、茲(ここ)ニ於テ在島ノ本邦人ハ全然二派ニ分立シ脱会者ハ全員四分ノ三強ニ達シタルニヨリ組合員ハ僅ニ四分ノ一トナリヌ、 其後商取引ハ勿論私交上相反目スルニ至リ 日商組合ハ実に萎微振ハサリシモ飽(あ・く)迄正義ヲ主唱シテ多数ノ反対当ニ屈従セス維持シタリシカ外務省ヨリ 警察官駐在所ヲ設置セラルルコトトナリシ以来本年四月二十三日続々前非ヲ悔ヒ再ヒ入会ヲ申込ミタルニ付組合員モ其請ヲ入レ脱会者ヲシテ悉ク入会セシメタリ ト云フ、而シテ本年四月二十八日以降ハ警察官駐在所創設セシニヨリ従来ノ取締規約ヲカイセイスルコトニ決定セリ 第六、商況 本島ニ在留ス ル日韓人ハ一般現金取引ヲ為スコトハ稀ニシテ互ニ物品貿易ヲ主トス故ニ彼我両民ハ細大トナク大豆ヲ以テ通貨ニ代用セリ、韓人向ノ輸入品ハ金巾、天竺木綿、 甲斐絹、紡績糸、石油、燐寸、酒、鹽(しお)、小雑貨類ナルモノ少数の需要者ナルヲ以テ利潤少シト云ヘリ、其他本邦人間ニ於テ日用品ヲ売買スルノミ輸出品 中大豆、胡豆、小麦、黄柏皮、少量ノ黐ハ韓人ヨリ其他ハ本邦人ノ製材及海産物ナリトス参考 槻ハ海岸附近及運送ニ便利ナル場所ハ悉ク伐採シ今ヤ奥深ク入ラ サレハ良材ヲ得ルコト能ハサルノミナラス全所ニ於テ製材セハ道洞迄運搬スルニ非常ナル経費ヲ要スルヲ以テ本邦ニ輸出スト雖トモ利潤ヲ見ルコト能ハサルニヨ リ爾来ハ栂五葉松「テンポ」梨ノ類ヲ製材ニ着手スルト云ヘリ物價(価)●ニ職工賃及昨年度輸出入表ヲ添付ス 第七、漁業の現状 本島ノ漁業季節ハ例年三月ヨリ九月迄ニシテ収穫物ハ鮑、鰒(ふぐ)、天草、海苔、若芽ノ数種ニ過ギス、漁業者ハ多ク熊本ノ天草、島根ノ隠岐、三重ノ志摩地方ヨリ渡来ス而シテ韓人漁夫ハ皆無ノ有様ナレトモ毎年全羅道三島地方ヨリ多数ノ漁夫等渡来シテ海岸ニ満生スル若芽ヲ採取セリ本年ハ天草隠岐ノ漁業者都合水潜器船八隻道洞ヲ本拠(?)ト定メ又志摩ノ蜑船(タンセン・あま船)二隻天草ノ海士船一隻ハ苧洞(ちょどう)ニ仮小屋ヲ構ヘ何レモ全島ノ海岸ヲ巡漁セルモ今年ハ昨年ニ比シ餘程不漁ナルニヨリ利潤オオカラサル見込ナリト至ヘリ、 又本島ノ正東約五十海里ニ三小島アリ之ヲリャンコ島ト云ヒ本邦人ハ松島ト稱ス、同所ニ多少ノ鮑ヲ産スルヲ以テ本島ヨリ出漁スルモノアリ然レトモ同島ニ飲料水乏シキニヨリ永ク出漁スルコト能ハサルヲ以テ四五日間ヲ經ハ本島ニ歸港セリ 日照組合の話 組合の話-明治34/1901年7月に組合規定を制定 第八、交通 本島本邦間ノ 交通ハ毎年三月ヨリ八月迄ニシテ馬関(下関)、境、濱田、隠岐ノ西郷港ニ和船ノ往復スルコトアルモ九月以降ハ常ニ風浪激烈ニシテ航海スルコト能ハサルニヨ リ交通皆無ノ姿ナリトス、依テ在留民ハ毎年三月初航ヨリ増員スルモ九十月ニ至レハ便船毎ニ帰国スルモノ多ク一昨年ノ如キハ僅ニ九十九名昨年ハ三百五十名越 年シタリト云フ、然ルニ昨年ノ如キハ輸入米ノ少ジャルス為メ十二月頃ヨリ糧食ニ欠乏生シ在留民ノ大半ハ草根、木皮ニ大豆ヲ加ヘ常食トナシ非常ニ困難セルニ ヨリ本邦ニ便船ヲ特発シ食糧ノ輸入ヲ求メタリシモ冬季ノ航海ハ危険ナルヲ以テ之ニ応スルモノナク終ニ境港三光社ニ依頼シ漸ク本年二月十六日汽船第二三光丸 (総噸数百六十噸)ニテ食糧ヲ積来リ在留民ノ需要ニ充テタルモ少量ナルニヨリ引続キ三回食料輸入ナサシメタリト云フ本島ヨリ釜山及境濱田馬関等ヘ和船ニテ 航海セハ約ニ昼夜半汽船三光丸ハ境港迄一昼夜ヲ要ス然レトモ常ニ強風多キニヨリ一ヶ月中出帆スルニ足ルヘキ天候ハ五六日ニ出テス又当港ヲ出帆スルモ進航中 風位ヲ変シ強風吹荒ミ目的地ニ到達スルコト能ハスシテ多ク越前敦賀三国但馬丹後佐渡能登ニ漂着シ或ハ海上ニ於テ破船シ是迄無事ニ直航シタル者僅少ニシテ二 航海ニ一回ハ必ズ何レニカ漂流シ実ニ危険ナリト云フ、又韓国 本土間ノ交通船ハ皆無ニシテ在島韓民等協同以テ本邦和船ヲ雇入レ来島スルモノアスルモノアルモ一ヶ年ニ三回ニスキス、又夏期二至レハ全羅道三島地方ヨリ若 芽採収ノ為メ二十艘内外来島スルコトアリト雖トモ荷物満載セハ何レモ本土ニ帰航シ其他航海用ニ適スル船舶ヲ所有スルモノナシ然 レトモ本年四月十一日小宮萬次郎持船太平丸ハ韓人向雑貨及多数ノ韓人ヲ便乗セシメ釜山ヲ発シ五月一日当地ニ到着シ該船ハ今ニ陸上ニ曳上ヶ韓人ノ出荷ヲ待チ 居ル(参考)本年五月中当港出入しタル船数及ヒ場所ハ左ノ如シ入港ノ和船ハ釜山ヨリ一艘長鬚(?)牟浦ヨリ二艘隠岐ヨリ五艘赤間関ヨリ一艘境ヨリ二艘合計 十一艘ニシテ出港ノ和船ハ赤間関ヘ二艘博多ヘ一艘長鬚(?)牟浦ヘ一艘境ヘ汽船一艘合計五艘ナリキ (以下略 http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/06/1902.html) 1902.10.12 水産試験場報告[第1冊]第2号(広島県水産試験場) 朝鮮海漁場調査庚子号航海日誌 10月12日(元山 松島)松島は無人島なるも本邦魚師網業者の納屋を構えたるを以て寄航調査し且流網を試みたるも無漁 10月16日(元山長興川)本日松島付近で鯛及延縄を試み漁獲ありたり午后一時出発 午后五時碇泊 (この松島が現竹島であるかは不明) 1902.11.07 鬱島 査檢官이라 칭하며 島民에게서 藿을 빼앗은 李能海를 東萊府로 잡아들여 嚴懲하고, 勒奪錢 2,850냥을 찾아서 해당 民에게 돌려주라는 訓令 제13호 鬱島郡 거주 梁性在 등의 訴에 따르면, “鬱島는 皇室基址로 내장원 부속인데, 江陵郡 사람 李能海가 많은 하인을 이끌고 와서 鬱島 査檢官이라 칭하고 皇室備錢 6,000냥과 石皷捧稅錢 2,000냥과 1894년 이후 上納條와 船藿稅를 10일 내로 납부할 것을 독촉하고, 또 量地定結이라 하므로 島民이 회의해서 許表, 李俊弼 등을 시켜서 京部에 호소하려 하자, 李能海가 먼저 渡口에 가서 島船出泊을 기다려 許橫, 李仁淑의 商藿 1,000여 束과 許表, 李俊弼의 상경 路費인 貿藿 600束을 빼앗고, 春川府에 誣囑하여 許表를 잡아 가둠. 이러한 일의 根因은 鬱島郡守 裵季周가 李根國, 安在勳 등과 함께 會社를 剏設한 데 있으며, (裵季周는) 삼림을 斫伐하여 衆民으로 하여금 船頭를 曳運하게 하고서 雇價 5,000여 냥을 出給하지 않았으며, 선척이 바람에 致敗하자 船價 16,000여 냥을 衆民에게 물리고자 島民 5인을 萊港에 가두었는데, 다행히 내장원의 上奏로 인해 鬱島를 皇室에 부속하여 폐단을 止息시켜 全島가 입은 은혜가 河海 같은바, 금일에 또 李能海의 變이 생긴 것이니 李能海는 會社 作魁 李國根의 당숙이며 회사의 作孼은 이루 다 말로 할 수 없으며, 鬱島는 郡이므로 내부에 속하고 基址는 내장원 句管인데 李能海는 애초부터 내장원에서 파송한 것이 아니고, 皇室備의 경우 다른 군에는 없는 것인데 유독 絶海孤島에서 수렴하며, 石皷捧稅와 1894년 이후 上納條와 量地定稅의 10년 停止는 朝令에 自在하니, 春川府에 發訓하여 갇혀 있는 許表는 즉시 석방하며 裵 군수의 槻木 운반 雇價 5,000여 냥과 民間에서 貸去한 大豆 2,000여 斗를 추심하여 지급해 달라는 것임. 이에 의거하여 裵季周의 勒奪錢 5,000여 냥과 大豆 2,000여 斗를 還推하여 해당 민들에게 출급하라는 내용. 1902.On the coast of Cathay and Gipango forty years ago, A record of surveying service in the China Yellow and Japan Seas and the seabord of Korea and Manchuria, Blakeney, William, R.N 1902. "The Actaeon have to for a few hours off Dagelet Island, which emerges in solitary grandeur from the floor(2.000 feet deep) of the Japanse Sea, and rises to 4,000 feet above it. It lies 100 miles distant from the mainland of Korea, is clothed with forest from the verge of perpendicular cliffs of 500 feet, and is 20 miles in circumference. On every side were herds of seals, filling the air with sorrowful sounding cries, perhaps from terror at our appearing. We could make no headway through the dense undergrowth. La Perouse discovered this island in 1786, but there is no record of his landing. A few half-starved Korean fisherman were collecting sea-slugs, etc., for Chinese epicureans, but had only a ramshackleold junk in which to make the passage across a stormy sea in almost perpetual fog. A weild and lonely spot is Dagelet Island. 1903.鬱陵島移住開始 (吉田敬市1954P510) わが通漁者渡島の当初は、朝鮮人の漁業は採藻の他全然無く、焼畑に大豆・麦を栽培するに過ぎなかったという。本島は往時より竹島と唱え、李朝初期から因伯方面の漁民等通漁の地。早くからシイタケ・トリモチ栽培製造者来島。29年頃木材を目的とする多数の業者が一時的来島、32,3念頃から通漁、特に36年の烏賊の饒産を発見するや入植者急に増加す。朝鮮人もこれにならつてイカ釣開始。此の頃奥村平太郎潜水器及び、サザエ・サバ韓詰業開始、日露役後移住者急増。三十五,六年頃から邦人も海藻採集を開始したが、単独経営は無く全部島人との共同経営。潜水器業者も早くから来島しアワビを採取、その人夫に朝鮮人使用。大正四年頃にはすでに大分県人四十人来漁移住。三十九年小学校開設。本島産のスルメは専ら隠岐之島人の開拓で、42,3年頃から石見、境、米子等の商人が、専門の運輸船(漁船とは仕込関係)をもって取引し、殆どスルメと米との物々交換であった。四十三年末移住者数二百二十四戸。その大部分は隠岐島人でその属島の観を呈し、日本人対朝鮮人の在住比は、全鮮第一位の日本移住者の卓越地であった。 1903.01.01 『韓海通漁指針』葛生修吉 鬱陵島 P120 Xと春川府直轄をりし処、34年8月以来新たに郡手を遣はして之に統治せしむ 北緯130度45分乃至53分50秒、東経三十七度三十四分四十秒乃至三十一分五十秒の-Xに位地し、平海郡越松浦の南四十余里の海中に有る孤島にして、韓人は別名之を武陵または羽陵-を書す、乃つ古の于山国にして、支那人之を松島と呼ぶ。因に記す、世人或は本島を持って大小六箇の嶋嶼集合せるものなりと、若しくは竹嶋、松嶋の二嶋の通称なりとし、甚だしきは往々地図中にも之れを並記しXるを見る、此の如きは実にXXの大なるものとす。///本嶋はXと金剛山Xの一X走つて東海に入り、更に峙立して其頭をXはしたるものにして面積約五里四方許、中央に一山X起し、其Xさ凡そ四千尺mXX之を擁して、遠く望めば青Xの浮出したるにXXたり、島中船舶を碇繋する港湾に乏しく、商船漁舟の碇泊に困難を成じ、風涛少しくXるX時は毎に船を海岸の平地に曳き------海岸の平地に引き揚げくと云ふ P121 全島平地に乏しと雖,其地質は古来XX枯草の堆積腐化したるものより成れる,所謂黒土の一種XXにして,土地XXX事上殆んど肥料を要せず,唯稀れにX灰等を以て耕Xすることあるのみ,農産の主なるものは大豆,大麦,小麦等にして,殊に大豆は粒大に質宜しく,直接に本邦に輸出せられ,産額年々四五百石に及ぶと云ふ,林産には,欅,桐,松,白檀等あり,就中欅は径六尺位に至れる大材を産し,桐は本邦にて松嶋桐と称して唐木細工中の珍とする所,白檀は香料として貴重せらる,往時は此種の樹木全島に繁茂して殆んど無数の観ありしも,近頃に至りて本邦人の盛んに輸出せる為め,濫伐の結果,漸く減少を来したり,此他山葡萄の類亦た少なからず,海産は,魚類および鮑,海鼠の類に乏しからざれども,海藻何れも百X乃至百五十六Xに及ぶが故に,本邦X網船の春季往来するのものあるの外,漁撈未だ盛んならず,唯,沿岸の浅処に於て採取する石花菜は種類良好其産出殊に大なり、又た秋季山鶏の類非常に多く、嶋民は之れを撲殺し、乾燥貯蔵して年中の副食物となし、脂肪は溶解して燈油に供すと云ふ、察するに世人の称して、信天翁の生息多しと為すは此島の訛伝ならん、天産の豊饒なるごと蓋し韓国中外に比類なしと云ふべし P122 島中1泉あり、清水多量に湧出す、聞く此水は少しく酸味を帯び島民之を------の際服用して薬餌に代ゆ、而して其効験見るべきものありと、或は是れ本邦に産する平野水、金山水等と同穐なる炭酸水にあらざるなきか (改行) 本島は、往古新羅の我朝と交通したる時代に隠岐島と共に航海の寄港地となしたる処にして 古倭寇の旺盛を極めたりし際一時撫て以て根Xとなしたるとあり、其他我邦とは歴史上殊に密接のXXあるを以って、貝原益軒の如きは断じて是を我邦の属島なりと論じたることありたれ共、久しく其のX稜の浦に経過たりしが、明治十五十六年の頃、本邦人某工人を派して伐木に従事したるに、韓廷抗議する所あり、我邦是に譲りて其の所属初めて一定するに至れり、Xいで明治十六年に至り、韓廷金玉均を以て東南諸島開拓使兼捕鯨使に任じ、白春培を以て従----- あしか 目下は本邦獲船八隻米英X国船角二隻XX,鬱陵島XをXXXして盛んに捕獲に従事中なりと云ふ。///韓海至る所に出没するなれども、江原咸陽道沿海には殊に多く、中鬱陵島の南東遥かの沖合に位する、やんこと通称する孤島には其棲息まことに夥しきものありと云ふ、未だ専ら之が捕獲に従事するものはなしと雖も、其皮は工業上の用途頗る広きものなるが故に、販路を求めて之が捕獲に従事すれば将来有望のXたるべし。 鱶ふか 専漁船は之れを年中における主要の漁業とな迎日湾以北より新浦に至る間の沖合、及び鬱陵島近海ヤンコ島近海とす。漁期は5月中旬より七月中旬までと、9月中旬より11月下旬の二季にして、佐賀X漁船の出漁するもの毎年十隻内外に及ぶ、種類はドタ、マフカ等多く、餌料はX春、師、平等を使用す、当方面に出漁するに至るは近年の事にして未だ漁場に精熟せざるを以て収穫意の如く 捕鯨事情 ケーセルリングが韓国から捕鯨基地を借り受けた記事(写経必要) ヤンコ島 P122 鬱陵島より東南の方三十里、我が隠岐国を西北に距ること殆ど同里数の海中に於て、無人の一島あり。晴天の際 鬱陵島山峯の高所より之れを望むを得べし。韓人及び本邦漁人は之れをヤンコと呼び、 長さ殆んど十余町、沿岸の屈曲極めて多く、漁船を泊し風浪を避くるに宜し。然れども薪材及び飲料水を得るは頗る困難にして、地上数尺の間は之を牽けども容 易に水を得ずと云う。 此島には海馬非常に棲息し、近海には鮑・海鼠・石花菜等に富み、数年以前山口県潜水器船の望を属して出漁したるものありしが、潜水の際、無数の海馬群に 妨げると。飲料水欠乏との為に、満足に営業すること能わざるして還りたると。察するに当時の季節は恰も五六月にして、海馬の産卵に当りしが故に、特にその妨害をうけたるものならんか。 また、付近に鱶漁の好網代あり。数年以来五六月の候に至れば大分県鱶縄船の引き続き之に出漁するものあり。昨年春、同処より帰航したる漁夫に就いて之を聞くに、出漁した二三回に過ぎざるが故に、未だ充分の好果を得たりと云うべからざれ共、毎季相応の漁獲あり。従来の経験上、その網代の状態、及び鱶類棲息の規模等より観察するに、将来頗る有望の漁場たるを疑わずと。 同島は、盖し営業者の為には尚充分探検の価値あるべし。 1903.朝鮮海通漁組合聯合会報 第4号 おっとせい 此獣の棲息区域は江原道鬱陵島以北威鏡道一体の沖合いとすれども就中最も多きは威X鏡道沖合いにして馬養島を距ること三十浬新昌を距る三十海里城津をはかる七十浬明川…….. 漁獲物の輸送は日韓貿易規則に従って、従価税五分の関税が課せられた。右課税に監視問題が耐えなかったが、日韓国合併後は貿易法が改正され大いに簡易化した。 1903年 郡庁が台霞洞から道洞に移る(ソース必要) 1903.03.30 皇城新聞 済州島内X在XXXX約二百名X,X長●●所安島X三十名、黒●島XX十名、竹島×約千名、于山島×二百二十名、珍島X四十名XX 1303.04.23 고종시대사 5집 再昨日 「러시아」公使署理 「스타인」이 外部로 照會하여 「러시아」의 韓國森林會社에 准許한 豆滿江·鴨綠江 沿岸 및 鬱陵島 森林의 伐採權을 淸國商人에게 許與했다는 風說의 解明을 要求하여 왔는데, 이 날 外部大臣 李道宰가 照覆하여 該 風說이 事實無限한 것이라고 解明하다. 1903.04-05月?偶然海驢が繁殖しているのを発見(「竹島及び鬱陵島1907」) 潜水器業者よりリアンコ島に海驢がいるのを聞く(立志伝) で証言が食い違う。 1903.04.24 皇城新聞 (写経必要) 漁業に来ている日本人の出身地など漁業などが主に記載 1903.05 島谷が現竹島に始めて日章旗をさす (「竹島及び鬱陵島(1907)」) 1903.05.23 『水産貿易要覧』〔東京〕:農商務省水産局,明36 「韓国鬱陵島漁業の状況」 又本島の正東約50海里に三小島あり之を「リヤンコ島」と云ひ本邦人は松島と称す、同所に多少の鮑を産するを以って本島より出漁するものあり然れども同島に飲料水乏しきにより永く出漁すること能はさるを以て四五日間を経て本島に帰航せり。 1903.06.24 皇城新聞 日本人の鬱陵島のトラブルの記事(写経必要) http://www.mediagaon.or.kr/jsp/search/SearchGoNewsCondition.jsp?id=HSS19030624_ITEM_009 雜報 ⊙金氏激忿 元山居 商民 金斗元氏가 年前鬱陵島에셔 日人에게 䀋五百石을 被奪한 事로 該價金을 尙未推覔하야 日公使 林權助氏에게와 外部에 呼訴한지 于今四年이로 日使난 每稱以搶䀋한 該日人이 今已蕩産하야 徵出 道가 無하다 하기로 金氏가 屢次外部에 請願하되 日人은 萬頃滄海에셔 被風破船된 것도 大韓海面에셔 被傷이라 하야 我廷에다가 船價賠償金을 請求受去하얏난 矣身의 䀋은 日人이 奪去한 情迹이 昭然하거 推諉不給은 何故뇨 하면셔 獘衣敗笠으로 道上에 丐乞하며 前後狀軸을 携帶하고 外部門前에 日日來訴하비니 再昨日下午三時에 日公使 林權助氏가 䀋川通譯官을 帶同하고 宋秀萬 沈相禧氏 等이 第一銀行券禁止하난 事件에 對하야 外部大臣을 訪見하고 該人 等을 捉致嚴罰하라 하고 歸去하다가 黃土峴에 到한 則 金斗元氏가 日使를 見하고 䀋價를 徵給하라 함 日使가 무 非理의 說로 拒絶하얏던지 金斗元氏가 忿氣激發하야 日公使를 推下하야 人力車下에 墮倒한지라 來往行人덜이 雲集觀光하난 日公使가 不勝憤耻하야 金氏의 手를 堅持하고 更히 外部에 來到하야 外部大臣을 詰駁하야 曰 金民之倒我난 卽貴大臣의 所使와 無異하다 하고 擧措가 頗駭恠함 外相이 日使의 公軆損失함을 駁責하니 日使曰 金民은 役終身에 處하야 照律嚴懲고 外部大臣은 明日 本公舘에 來하야 謝過하라 하고 卽去하얏난 金氏난 警務廳으로 押送하얏다더라 1903.07.14 この資料は新たに第4代鬱陶軍需で赴任したこの鬱陵島の治安のために 2人を派遣させて 34ヶ月間駐屯させてくれと要請した事実を報道したのだ (一次資料確認必要). 梨リレーが解任されて信任鬱陶軍需で鬱陵島に赴任した銀政党客舎郷校などを建築し始めたが鬱陵道民たちが角度で移住して集まって来て来た人々だからお互いに党を作ってデマを作ってまき散らす慣習があって今度を作って規定を施行するに対しても紛争を起こす心配があり,日本であるミルイブドザドルが操縦を起こす事があるすなわち,不可不 2人を鬱陵島に派遣して 34ヶ月間駐屯させてくれというのだった. 1903.08.10 皇城新聞󰡕 1903년 8월 10일자, 雜報 鬱島報告 (1903년 8년 10일) 鬱島郡守 沈興澤氏가 內部에 報告하되 該島居民이 各處에 居하야 十五洞이오 戶數난 五百戶이고 所産之物은 麥太甘藿이라. 其○○組織하난 節次난 人民의 方便을 隨하야 磨鍊하려니와 在鄕 各浦에 在한 日人이 六十三戶인 日日伐木이 無限故로 郡守가 來駐하난 日檢을 請하야 談辦하기를 外國人이 內地에 入하야 材木을 伐去이 當初不法일더러 今己設部하얏슨 則 鬱島郡守의 管轄하난바 已往事난 勿論하고 玆今以後로난 不可伐木이오 ○○도亦嚴禁하라한즉 日巡査言內에 此島內에 伐木이 已過數十年이오 又貴政府와 日公使가 交涉하야 ○○○○가 無한즉 巡査난 不能禁斷이라하니 日公使에게 照會하야 妥商하라하얏더라. (ソース確認必要) その内容の要旨を見れば鬱陶軍需シムフングテックの報告に,鬱陵島に居留する日本である 63号がを事とするのが限定がなくてこれを禁止しなければ数年にならなくて木材が消えて山は皆坊主山になることが名薬官化するというのだ.もうウルドウル設置したから以前と違いであった軍需が当然これをしなければならないゆえに 7月 27日のを訪問してこれからの日本人たちをするとシムフングテックが言ったら,日本警部が対応するのを鬱陵島伐木がもう数十年になったがはじめから韓国政府が日本公使に禁止してくれと言う問い合わせがオブオッウンズック自分がむやみに禁ずる事ではないと言ったというのだ.ここに鬱陶軍需シムフングテックは内部代わりにこれを報告しながら日本公使館に問い合わせして厳格に処理してくれと要請したのだった. この見て来て要請を受けた内部代わり霜この外部大臣に公文書を送って鬱陵島にミルイブドして居住する日本人たちの鉄丸を重ねて強力に要求した.すなわち内部は日本である鉄丸要請の一路外部にもう何回公文書往復をしたのみならず 1900年には内部視察委員この釜山の日本領事とともに鬱陵島に入って会同審判する時に日本領事も森林保護をする山の伐木は今すぐ禁止して日本である不法住人はソウルで日本公使と会同交渉して期限を決めてするようにすると言ったが,大韓帝国外部と内部が公文書を送って督促したのが何回なのに今まで胡麻粒位もこれを行う気味がないから極めてウィホックスロウン仕事というのだ.だけでなく今も鬱陵島に不法ミルイブドした日本人たちがひたすらを遠慮なくほしいままにして,甚だしくは鬱陵島にを設置したと言ったらないしに外国警察署がどんな条約に根拠したことなのかと詰問こんにちはだった.また鬱陵島に不法駐屯した日本警察官の言葉が日本人の鬱陵島伐木が数十年になったがはじめから韓国政府が日本公使館に抗議して禁止を要求した事が全然なかったから自分がどうして敢えてこれを自分の考えに禁断することができると答えたなんて,その景観は韓国政府が日本公使に鬱陵島森林伐採を認許したことで分かるのかその日本景観の称託が極めて無理なことだと慨嘆こんにちはだった.内部代わりは外部大臣に開港しない鬱陵島に日本警察でのさばりなさいと言うことは国際法にない事となると,鬱陵島の日本警察官を直ちに召還して鬱陵島にミルイブドして居留している日本人たちもを決めてさせることを強硬に要請した. (機械翻訳) 1903.08.24 舊韓國外交文書 外部大臣 李道宰가 日本公使에게 照會하여 鬱陵島에 不法的으로 居留하면서 森林을 犯斫하는 日本人을 退去하게 하고, 또한 該島에 設置된 日本人警察署도 撤廢하게 하도록 措處하여 줄 것을 要求한 바 이 날 日本公使 林權助가 照覆하여 이를 拒否하다. 그런데 昨年 10월에도 外部에서 該島의 日本警民의 撤收를 要求한 바 日本 公使가 該島日本人의 在留經緯를 說明하고 그들의 撤收를 拒否한 적이 있다. 1903.09 鬱陶軍守報告 ロシア軍艦 1尺が鬱陵島に尋ねて来て調査して行く(ソース確認必要) その内容は 1903年旧暦 7月 12日(陽暦 9月 3日) ロシア軍艦 1尺が鬱陵島の潟に入って来て停泊して 1人副官 2人が兵丁 23人を率いて上陸して直ちに山の上に上がるとかあるいは土地を測量して木本を推し量って,科各潟を回りながら絵を描いた.旧暦 7月 19日にはこの兵丁 27人を連れて義本館事務所に尋ねて来て 4面をかこんで大将が質問するのを李島の木は 5年前にロシア会社が韓国政府からに義解獲得したことなのでロシアの品物だから,ロシアである以外に他の国人はベオガル数ないゴッイゴヌルどんなに日本人のこのこんなにひどいか,また (日本人の) に韓国政府の許可文書があるか,日本政府の許可文書があるか,あるいはロシア会社の許可文書があるかと言って詰問こんにちはだった.鬱陶軍需シムフングテックが皆ないと答えたら,彼は言うのをそれならをどうしアンヌンがで言った.彼らはまた言うことに行ってこちらに駐屯したら韓国政府が行っている事かない事かと言って計算した.シムフングテックがその義増えた分からないがシムフングテックがこちらに赴任した後日本警察が鬱陵島に駐屯することを入って分かるようになったと回答したら,ロシア軍艦大観は上のように詰問している途中お腹を浮かべて去ったというのだ. (機械翻訳) 1903.10 最新韓国事情 / 岡庸一著,青木嵩山堂, 明36.10 朝鮮領海に於ける捕鯨業の起源は漠然として其実際を知る能はずと雖韓国人民は未だ嘗て鯨鯱の捕獲をなしたるものなし去る明治十七八年の頃露人某江原道沿海に於いて是に従事し大いに捕獲あり之を長崎に売却して非常の利益を得たるも其捕鯨船天災に遭遇し遂に其業を中止せりと伝ふるものあり然れど 露人の捕鯨は己に業に其の依然に行われ至るものの如し之を沿岸古老の言に微するに当時露船は--------XX薪水に欠乏を告げたる際若しくは風浪を避けがたんが為。一時 (*明治17.18年のころのロシア人=ケーセルリングの事) 1904.日韓漁業協定条約改定 通漁区域が全朝鮮海区に拡大した 1904.05.18 在露都公使館 撤廢와 함께 政府는 國外에 對露勅宣書를 頒布하다. 그 內容은 다음과 같다. 勅宣書 1. 旣往 俄韓 兩國 間에 締結한 條約과 協定은 一體 廢罷하고 全然 勿施할 事. 1. 俄國臣民이나 會社에 認準한 바 特許合同 중 至今 尙在 其 期限內者는 自今以後로 大韓政府가 以爲無妨한 者면 如前히 其 認準을 繼續 享有케 하나 至於 豆滿江·鴨綠江·鬱陵島 森林伐植 特許는 本來 一個 人民에게 許諾한 것인데 實狀은 俄國政府가 自作經營할 뿐 外라 該 特準規定을 遵行치 아니하고 恣意로 侵占的 行爲를 하얏으니 該 特準을 廢罷하고 全然 勿施할 事. 1904.05.28.ロシア・大韓帝国間の森林勅許 http://www.mediagaon.or.kr/jsp/search/SearchGoNewsCondition.jsp?id=HSS19040528_ITEM_003 ●勅令 勅宣書 一旣往韓俄兩國間에 締結 條約과 協定 은 一軆廢罷고 全然勿施할 事 一俄國臣民이나 會社에 認准바 特許合 同中至今尙在其期限內者난 自今以後로 大韓政府가 以爲無妨 者면 如前히 其認 准을 繼續享有켸나 至於豆滿江鴨綠江 鬱陵島森林伐植特許야 本來一個人 民에게 許諾거신 實狀은 俄國政府가 自作經營 外라 該特准規定을 遵行치 아니고 恣意로 侵占的行爲를얏스니 該特淮은 廢罷고 全然勿施 事 1904.06.18 고종시대사 6집 光武 8年 6月 18日(土) 韓國儒生들의 排日檄文 秘密 配布에 대하여 駐韓日本公使가 外部大臣에 照會하고 아울러 法部大臣과 警務使에게도 調査 處分할 것을 要求하다. 儒生들의 上疏와 檄文이 近日에 激增하고 있는데 그 내용은 日本의 對韓政策이 오로지 利益壟斷主義에 있다고 論하고 主로 鐵道·漁業·銀行券·鬱陵島伐木 等 數條目을 들어 日本을 排斥하고 있다. 1904.06.22 皇城新聞 光武 8年 6月 23日 金箕佑를 日本公使館에서 招去 質問한 후 警務廳으로 押付하다. 그는 鐵道役夫作弊事·北進軍暴行事·銀行券發用事·不通商內地에 自意買土居住事·環海三面漁採權盡入彼手事·鬱陵島森林採伐事·濟州島漁基勒占事 등을 擧論하여 13道에 發通한 바 있다. 1904.07. 最新韓国実業指針 http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/businessguide-1904/ 鬱陵島 一に武陵又は羽陵と云ふ、古の于山国にして本邦人及支那人之を松島と呼ぶ、越松浦の南四十里の海上に在り、島の周辺岩礁XXとして船舶を、碇繋する港湾に乏しく、唯僅かに一箇所の小漁船を泊するのに足るべきものあり、地味Xxniして大豆、大麥、小麥を産出す、就中大豆は外国輸出品の一なり、往時は全島樹木鬱蒼として美観を呈せしも、濫伐の結果頗減少せり、近海魚族繁殖すれとも、海水深くして捕獲するを得ず、韓人の戸数四百余、本邦人の常住40余りありて、純然たる日本村を形成せり、木材及大豆、石花菜の輸出を業とす △ ヤンコ島 鬱陵島及我隱岐島の中間三十里の海上あり、全島居民なし、沿岸碇泊に便なれども薪材及飮料水を得難し、近海鮑海鼠石花菜等を産し、又鱶の捷息饒多なれども海馬の群に妨ばられ漁獲好果を得ずと云ふ 添付圖 東経120’30-130’35E 五 島嶼 鬱陵島江原道 が東端 竹島【 Argonaut】 /中央に岩礁の図/鬱陵島の記載。航路図有 1904.09 韓国地理 矢津昌永 鬱陵島は一名を松島と称し本道海岸を距る八十里の海中に孤立せり全島嵯嶮たる円錐山の集合よりなり最高四千尺あり島岸嶮齟もそて登り難く全島樹木蜜生し良材を出す韓船の材料は多く此の島に仰ぐ沿海は魚類多し島の周囲十八里にして幾と半円を成す島の中央は北緯三十七度三十分東経百三十度五三分なり此の島の東に竹嶼あり 離隠岐の西北140里に鬱陵島(松島)あり。 1904.09.25 戦艦新高行動日誌 リアンクルド岩は韓人は独島と書き、我が国の漁夫はリャンコ島と呼んでいる。添付した略図で分かるように、ふたつの岩島で西島の高さは約400尺で傾斜が きつく登るのに難しそうだが、東島は比較的に低く雑草が生え、頂上には平坦な所があり、二、三つの小屋を建てられそうだ。 東島の東側の洞窟のようなくぼみに真水が出る。また南側のB地点の水面から三間ほど離れた所に湧き水が出る。その湧き水は西側に流れていくが、その量はかなり多く年中枯れる事はない 西島のC地点もやはり真水がある。島の周囲には岩が散らばっており、岩はだいたい平たく大きいものはゴザを数十枚置ける。常に水面から露出している。毎年 この岩に群集するものがある。二島の間の所に船を横付けするには十分な広さがある。小船なら陸に揚げて泊める場合が多い。 嵐がきつく船を泊められないような時は、大体松島で風が静まるまで非難しているらしい。松島から毎年猟にやってくる人は六十から七十石積の日本の船を使う らしい。島の上に仮の小屋を建てて十日間ほど滞在するが、稼ぎが相当なものらしい。また漁夫もたまには四十名から五十名を超える時もあるらしいが、真水の 不足をどう補っているかは報告されていない。そしてまた、今年になって数回ここに来たが、6月17日にロシアの軍艦が三隻この付近に現れ、周辺をしばらく 漂泊していたが、北西の方向へ航行するのを実際に見たものがあるという。 1904.09.29 リャンコ島領土編入並二貸下願 隠岐列島ノ西八十五浬、朝鮮鬱陵島ノ東南五十五浬ノ絶海二俗二リャンコ島ト称スル無人島有之候、周囲各約十五町ヲ有スル甲乙二ヶノ岩島中央二対立シテ一ノ海峡ヲナシ大小数十ノ岩礁点々散布シテ之ヲ囲繞セリ 中央ノ二島ハ四面断岩絶壁ニシテ高く屹立セリ 其頂上ニハ僅二土壌ヲ冠リ雑草之二生ズルノミ 全島一ノ樹木ナシ 海辺彎曲ノ処ハ砂礫ヲ以テ往々浜ヲナセドモ屋舎ヲ構エ得ベキ場所ハ甲嶼ノ海峡二面セル局部僅二一ヶ所アルノミ 甲嶼半腹凹所二潴水アリ 茶褐色ヲ帯ブ 乙嶼ニハ微々タル塩分ヲ含ミタル清冽ノ水断岸渭滴仕候 船舶ハ海峡ヲ中心トシテ風位ニヨリ左右二避ケテ碇泊セバ安全ヲ保タレ候 本島ハ本邦ヨリ隠岐列島及ビ鬱陵島ヲ経テ朝鮮江原、咸鏡地方二往復スル船舶ノ航路二当タレリ 若シ本島ヲ経営スルモノアリテ人之二常住スルニ至ラバ夫等船舶ガ寄泊シテ薪水食糧等万一ノ欠乏ヲ補ヒ得ル等、種々ノ便宜ヲ生ズヘケレバ今日暇駸々乎 トシテ盛運二向ヒツ々アル処ノ本邦ノ江原、咸鏡地方二対スル漁業貿易ヲ補益スル所少ナカラズシテ本島経営ノ前途最モ必要二被存候 本島ハ如斯絶海二屹立スル最爾タル岩島二過ギザレバ従来人ノ顧ルモナク全ク放委シ有之候 然ル処私儀鬱陵島往復ノ途次会本島二寄泊シ海驢ノ生息スルコト夥シキヲ見テ空シク放委シ置ノ如何ニモ遺憾二堪ヘザルヨリ爾来種々苦慮計画シ兪明治三十六年二至リ断然意ヲ決シテ資本ヲ投ジ漁舎ヲ構へ人夫ヲ移シ漁具ヲ備ヘテ先ヅ海驢猟二着手致候 当時世人ハ無謀ナリトシテ大二嘲笑セシガ元ヨリ絶海不便ノ無人島二新規ノ事業ヲ企テ候事ナレバ計画齟齬シ設備当ヲ失スル所アルヲ免レズ 剰へ猟法製法明カナラズ 用途販路亦確ナラズ 空シク許多ノ資本ヲ失ヒテ徒二種々ノ辛酸ヲ嘗メ候結果本年二猟法製法其二発明スル所アリ 販路モ亦之ヲ開キ得タリ 而シテ皮ヲ塩漬ニセバ牛皮代用トシテ頗ル常用多ク新鮮ナル脂肪ヨリ採取セル油ハ品質価格共二鯨油二劣ラズ 其粕ハ十分二搾レバ以テ膠ノ原料トナシ得ラルベク肉ハ粉製セバ骨ト共二貴重ノ肥料タルコト等ヲモ確メ得候 即チ本島海驢猟ノ見込略相立チ候 而シテ海驢猟ノ外本島二於テ起スベキ事業陸産ハ到底望ナク海産二至リテハ未ダ調査ヲ経ザルヲ以テ今日確信シ難キモ日本海ノ要衝二当レバ本島附近二種 々ノ水族来集棲息セザル筈ナケレバ本島ノ海驢漁業ニシテ永続スル事ヲ得バ因テ以テ試験探査ノ便宜ト機会トヲ得テ将来二有利有望ノ事業ヲ発見シ得ルナラント 相期シ候 要スルニ本島ノ経営ハ資本ヲ充実ニシ設備ヲ完全ニシテ海驢ヲ捕獲スル上二於テ前途頗ル有望二御座候 然レドモ本島ハ領土所属定マラズシテ他日外国ノ故障二遭遇スル等不測ノ事アルモ確乎タル保護ヲ受クルニ由ナキヲ以テ本島経営二資力ヲ傾注スルハ尤モ危険ノ事二御座候 又本島ノ海驢ハ常二棲息スルニハアラズ 毎年生殖ノ為其季節即チ四五月(年ニヨリ遅速アリ)来襲シ生殖ヲ終リテ七八月頃離散スルモノニ候 随テ其漁業ハ其季間二於テノミ行ヒ得ラレ候 故二特二猟獲ヲ適度二制限シ繁殖ハ適当二保護スルニ非ンバ忽チ駆逐殄滅シ去ルヲ免レズ 而シテ制限保護等ノ事ハ競争ノ間ニハ到底実行シ得ラレザルモノニシテ人ノ利二趨クハ蟻ノ甘キニ附クガ如ク世人苟クモ本島海驢猟ノ有利ナルヲ窺イ知セ バ当初私儀ヲ嘲笑シタルモノモ並ビ起ツテ大二競争シテ濫獲ヲ逞ウシ直チニ利源ヲ絶滅シ尽シテ結局共二倒ル々二至ルハ必然二御座候 私儀は前陳の如く従来種々苦心の結果本島の海驢猟業略々見込相立ちたれば 今ヤ進ンデ更二資本ヲ増シテ一面ニハ捕獲スベキ大サ数等ヲ制限スルコト雌及ビ乳児ヲバ特二保護ヲ厚クスルコト島内適当ノ箇処二禁猟場ヲ設クルコト害 敵タル鯱、鱶ノ類ヲ捕獲駆逐スルコト等種々適切ノ保護ヲ加へ一面ニハ猟獲製造二備フル種々精巧ノ器械ヲ備へ装置ヲ設クル等設備ヲ完全ニシ傍ニハ漁具ヲ備へ ヘテ他ノ水族漁労ヲモ試ム等大二経営スル所アラント欲スルモ前陳ノ如キ危険アルガ為頓挫罷在候 如斯ハ啻二私儀一己ノ災厄ノミナラズ又国家ノ不利益とトモ被存候 中井養三郎 内務大臣 子爵 芳川 顕正 殿 外務大臣 男爵 小村寿太郎 殿 農商務大臣 男爵 清浦 圭吾 殿 1905.01.05 第67号 対馬艦長海軍中佐・仙頭武英より水路部長に提出せるリヤンコール島概要 リアンクル島は一本の狭い水路で隔たっているが、お互いに向かい合った二つの島とその周辺に立ち並ぶ小さな岩石によって構成されており、海の中の一つの小さ な群島に過ぎない。これらの小さな島は大体平面的で、上層部が海面から突き出ているように見える。 島の周辺には奇怪な模様の洞窟が数多く、アシカが生息している。島はほとんど不毛のつるつの岩で、西方向から海風が常に吹いており、一本の木も無く南側の 岩に野生の草がわずかに生えているのがわかるほどだ。岩のぐるりは全体的に絶壁をなしており硬くない石が多く、どこからも登るのは不可能に近い。島全体に 平坦な土地がなく、水路の両側の所に狭いながらも小石の多い平らな場所が二・三ヶ所あるが、海からの波を避けられない。 東島には葦で作った古びた小屋がある。アシカ猟のために夏にこの島に来る漁夫が使ったものらしく、今では相当痛んでその痕跡を留めているに過ぎない。その荒れ果てた状態から判断すると、この辺りを襲った波の激しさがどれほどのものであったか想像できる。モデルとして荒波を避けられる小屋の建築用地を他の場所に求めるとしてもかろうじて次の二ヶ所ぐらいなものだ イ)西島の東面ニ山崩アリ其ノ傾斜頗ル急ニシテ上半ハ殆ト直立シ到底攀フル能ハサレトモ下半ハ●(禾に肖)●(緩?うして)傾ヲナシ辛ウシテ其ノ中腹マテ攀登スルヲ得此ノ虜地質強ナル岩屑ニシテ之ヲ開●スレハ三坪弱ノ平坦地ヲ得ヘク東風ノ他悉ク遮蔽シ得 (ロ) 東島頂部ハ一見平坦ナル部分多ク家屋建設二適スル如クナレトモ之ヲ踏査スルニハ経路二多大ノ工事ヲ施スニ非サレハ局地二達スル能ハサルヲ以テ実見シ得サリ シモ海洋ノ●風二対シテ四周暴露ノ難ヲ免レス然レトモ獨リ南端二アル平坦地ハ三四坪ノ廣サアルヘク西北ノ一方ハ遮蔽セラルルモノノ如シ 此ノ如クニシテ全島絶壁断崖一渓地ヨリ隣濱ニ至ラントスルモ亦小舟二依ラサルヘカラス 西 島ノ西南端ニ一ノ洞窟アリ其ノ天蓋ヲナス岩石ヨリ滴出スル水ハ其ノ量●(禾に肖)多シト雖モ雨水ノ滴下スルト同様ニシテ之ヲ採取スルコト困難ナリ此ノ他数 箇所二於テ山頂ヨリ山腹二沿ヒ滴瀝スル水アルヲ●見セルモ其ノ量僅微ニシテ其ノ経路ハ海豹ノ屎尿等二依リ汚染セラルルヲ見ル試二東島ノ東南隅二於テ滴下ス ルモノヲ採取シ検スルニ一種異●ノ悪臭ヲ放チ黄色ヲ呈シ既二汚水タルヲ●セリ而テ化学的検査上左ノ成績得 到底飲料二適セサルヲ認ム 理学的反応 黄色有臭微混濁酸性反応 格魯見多量 硫酸多量 硝酸ナシ 亜硝酸ナシ 石炭少量 安母尼亜少量 有機質中量 海豹猟ノ為メ渡来スル漁夫ハ海上平穏ナルトキ島水ヲ採取シ煮炊ノ用ニ供スレトモ飲料(茶水)トシテハ他ヨリ持チ来リタルヲ用フト云フ 之ヲ要スルニ本島ハ●タル禿岩ニシテ海洋ノ●風ニ露出シ其ノ猛威ヲ避クルニ足ルノ面積ヲ有セス炊クニ燃料ナク飲ムニ水ナク食フニ糧ナシ聞ク毎年六七月ノ頃海豹猟ノ為メ渡来スルモノ数十名ノ多キニ達スルコトアリ是等ハ皆一回約十日間宛假居ヲナシ漁獲ニ従事スレトモ皆其ノ他ノ季節ニ於テハ殆ト来ルモノナシ現ニ目撃スル幾百千ノ海豹群ハ周年●穫スルモ尚余リアルヘキニモ拘ラス六七月季ノ外来航スルヲ欲セサルハ●季節ノ風浪ニ対シ避難ノ途ヲ得ルニ苦マシムルニ基因スルモノナラン 1905年1月10日 内務大臣から総理大臣への閣議要請 秘乙第337号の内 無人島の所属に関する件 北緯三十七度九分三十秒、東経百三十一度五十五分、隠岐島を距る西北八十五浬に在る無人島は、他国に於て之を占領したりと認むべき形跡無く、一昨三十六年、本邦人中井養三郎なる者に於て漁舎を構え人夫を移し、漁具を備えて海驢猟に着手し、今回領土編入 並に貸下を出願せし所、此際所属及び島名を確定するの必要あるを以て該島を竹島と名け、 自今、島根県所属隠岐司の所管と為さんとす。右、閣議を請う。 1905年1月28日の閣議決定資料 別紙、内務大臣請議無人島所属に関する件を審査するに、右は北緯三十七度九分三十秒、東経百三十一度五十五分、隠岐島を距る西北八十五浬に在る無人島は、他国に於て之を占領したりと認むべき形跡無く、一昨三十六年、本邦人中井養三郎なる者に於て漁舎を構え人夫を移し、漁具を備えて海驢猟に着手し、今回領土編入並に貸下を出願せし所、此際所属及び島名を確定するの必要あるを以て該島を竹島と名け、自今、島根県所属隠岐司の所管と為さんとすと謂ふに在り。依て審査するに、明治三十六年以来、中井養三郎なる者該島に移住し漁業に従事せることは、関係書類に依り明なる所なれば国際法上占領の事実あるものと認め、之を本邦所属とし、島根県所属隠岐島司の所管と為し差支無之儀と思考す。依て請議の通り、閣議決定相成可然と認む 1905年(明治38年)2月22日島根県告示第40号 1905.02.24 山陰新聞 隠岐の新島 北緯37度9分3秒、東経131度55分、隠岐島を距る西北85浬に在る島嶼を竹島と称し、自今、隠岐島司の所管と定めらると県知事より告示せり。右島嶼 は周囲15町位の二島より成る。周囲には無数の郡島散在し、海峡は船の碇泊に便利なり。草は生え居たるも樹木は無しと云う。 ・明治38年(1905)の記録とされる「密猟者」8組のうち、3組に雇われ韓人 参照:竹島海驢実況覚書(川上健三『竹島の歴史地理学的研究』189p) 岩崎組(山口県人岩崎某)四月十日 十人(邦人三、韓人七) 弐艘 凡二百余頭 飯美村組)飯美村某外二名)四月十一日7名二隻三百数十頭 沼田組(宇賀沼田庄太郎)四月十四日 九名(邦人三、韓人六) 二艘 二百余頭 浦郷組(浦郷村門某外二名)四月十四日 十名(邦人七、韓人三)二艘 二百余頭 下西組(下西村某、西町某組合)4月18日 八名2隻五十余頭 赤崎組(鳥取県赤碕某等)6月4日八名二隻50余頭 都合八組、人扶70名、猟艇数十隻 捕獲数1800頭 ・1905年4月14日:海驢漁を許可制にする漁業取締規則改正(島根県令18号) ・1905年5月3日:知事による測量命令(島根県地第90号)及び島司による実測報告 ・1905年5月17日:官有地台帳登録(第32号隠岐国、周吉、穏地、海士、知夫郡官有地台帳 ・1905年5月20日:海驢漁の許可(乙農第805号) 1905.06.14 明治三十八年六月十四日第三艦隊司令官海軍少将武富邦鼎ノ提出セル竹島視察報告 (中略) 三、望楼ノ設計装置 望楼ノ設計装置方法ニ於テハ建築科技手ノ設計ヲ以テ適當ナルモノト認ム 右設計ニハ岩石ヲ掘リ下ケ望楼員詰所アリ其ノ内ニ水●蒸留水器糧食薪炭貯蔵所アリ叉別ニ見張所旗竿(旗竿ハ起伏自由ノ装置)等アリ其ノ詳細ノコトハ此ニ略ス 四、望楼員生活ノ難易 (イ)竹島ノ如キ孤島ニ於テ生活ニ最必須ナルモノハ飲料水ナリ之カ供給ニ適応ノ蒸留器ヲ装備シ且数箇月分ノ糧食ヲ貯蔵セシメ而テ月ニ一回若クハ二回汽船ヲ派シ之カ補給ヲナサハ敢テ本島望楼員ノ生活ニ於テ左程困難ハアラサルモノト認ム 現ニ本邦ノ漁夫数十名同島ニアリテ海豹捕獲ニ従事シ居レリ其ノ●(言?)ニ●(徴?徹?)スレハ彼等ハ毎年五月中旬頃ヨリ八月中旬頃ニ至ルノ間毎月一回隠岐ヨリ和船ヲ以テ交通シ糧食ノ補給ヲ受ケ此ノ島ニ生活シ居ルト云フ 1905.07.31 『通商彙算 50号』釜山駐在領事館報告 有吉明釜山領事の報告「鬱陵島現況」 http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/tsushoisan-1905/index.html 戸数調査、職業調査 此他に昨年四月より六月までの期間に薪千五百貫、茸二十六貫八百目海苔五十二貫、●一樽、食鹽(しお)三百四十七俵、栂材一萬六千三百八十七才、韓銭二百貫文、黄柏皮八百貫鰑(するめ)八百五十貫海獣肉八百貫の輸出ありたり 「トド」と称する海獣は、鬱陵島より東南約二十五里の位置にあるランコ島に棲息し、昨年頃より鬱陵島民之を捕獲し始めたり。捕獲期間は、4月より9月に至る6ヶ月間にして、漁船1組に付き猟手及び水夫等約10人にて、平均1日約5頭を捕獲すと云う。而して、本事業に従事する者30人あり。漁船3組あり。又「トド」1頭に付き、現今市価は平均3円なり【改行】 鮑の採取高は本年四月熊本県民吉村某潜水器二個を以て採取に従事し潜水器一個に付一日生鮑平均約三百斤な り又三重県県民濱口某は本年五月漁船二艘に海士三十二人水夫十人を率いて其採取を為し一日平均約五百三十斤内外を採取す生鮑乾上の為斤目の減少は凡そ十分 の九にて生鮑三百斤乃至五百三十斤を乾上ぐるときは三十斤及至五十三斤に減すると云ふ同島への輸出は大概釜山よりす今左に前掲期間に輸入せられたる品目数 量価格を挙げ昨年四月より六月に至る期間に於ける輸入と比較せんと欲す 輸出入品統計表 トドの輸出(搬出)数量は有るが、徴税の記載が無し。 (別の項で鬱陵島から釜山へ輸出/輸入と書いているから、輸出入は荷物の移送程度の意味) 参照:竹島海驢実況覚書(川上健三『竹島の歴史地理学的研究』189p) 岩崎組(山口県人岩崎某)四月十日 十人(邦人三、韓人七) 弐艘 凡二百余頭 飯美村組)飯美村某外二名)四月十一日7名二隻三百数十頭 沼田組(宇賀沼田庄太郎)四月十四日 九名(邦人三、韓人六) 二艘 二百余頭 浦郷組(浦郷村門某外二名)四月十四日 十名(邦人七、韓人三)二艘 二百余頭 下西組(下西村某、西町某組合)4月18日 八名2隻五十余頭 赤崎組(鳥取県赤碕某等)6月4日八名二隻50余頭 都合八組、人扶70名、猟艇数十隻 捕獲数1800頭 1905.08.11 満韓露領地誌 日本民族の新発展場 」岡部福蔵著 鬱陵島 (写経必要) てっせみ島は臥達里の前洋にあり本邦人是を竹島と称す周囲30丁余タブ女竹繁茂と雖ども飲料水乏しきをもって移住するものなし。/(この上に)竹島は明治38年2月に日本新領土となり隠岐島司の管下にXス 1905.08.22 山陰新聞 http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/saninshimbun/1905-08-22.html 県庁内に海豚放養/本県の新領土たる竹島附 近には海豚の群集し居りて、隠岐国の多くの漁民が 至りて之れを捕獲することなるが這回該島を視察 せる松永知事の一行は漁民の捕獲せる本年生の海 豚三頭を貰い受けて帰松し、昨日県庁第三部庭内の 溜池へ放流して当分飼養することとなせり 1905.09.07.韓国新地理 田淵友彦 P307 鬱陵島 ウーリヤントー 五百四方里許、中央は高山 立し高さ四千尺。沿岸港湾に乏しく船舶の碇繋頗る困難なり。全島平地稀なりと雖地質は古来落葉枯草の堆積腐化したる黒土の一種より成土地 にして肥料を施さざるも農耕を為すを得、大豆は本島の主産物にして年々の産額四五百石に及び本邦に輸出するもの多し。林産には欅、桐、松、白檀等あり。就中欅は径六尺の巨材を産し桐は本邦にて松島桐と称し て珍とするものなり。往時はこの種の樹木全島に繁生して殆んど無蓋の観あり近年本邦人の濫伐によりて漸く減少せり。其他山葡萄の産出あり又沿海に産出する石花菜は種類良好にして産額亦大なり。秋季山鶴の類非常に多く島民は之を撲殺し肉は乾燥貯蔵して年中の福植物とし脂肪は溶解して燈油に供す。本島天産物の饒多なるは韓国中多く其比類を見ず。【改行】 本島の住民は往時極めて稀少なりしも近年韓人及び本邦人の移住する者漸く多く多く韓人の戸数約四十五百戸に及び本邦人亦一時三百以上に達したりしも先年本邦政府より退去の命ありたる為め称々減少したり。其本邦居留者は概ね鳥取県人の直接渡航したるものにして木材大豆及び石花菜の輸出を営み或は雑貨日用品を販売し純然たる日本村を形成せり。島中一泉の湧出するあり少しく酸味を帯び島民これを薬白水と称し疾病の際服用して薬餌に代ゆるに其効験みるべきものあり。或は本邦の平野水、金山水等と同種なる炭酸水にはあらずやといふ【改行】 本島は昔時新羅が我出雲地方と交通したる時隠岐島と共に寄港地たりし所にして中古倭寇の一時根拠地となしたることあり。貝原益軒の如き本邦の属地なりと断じたる程なれ共明治十五六年の交本邦人の伐木にじゅうじするものありしを韓廷の抗議により我邦之を韓廷に譲り所属初めて判明するに至れり。然れ共邦人の依然居住して材木を営むもの多かりしが明治三十一年一時露人が本島の伐木植林の権利を得たることあり韓廷に照会して日本人の盗伐及び居住を禁ぜんことを迫り我公使は外部の照会を受け一時本邦人の立退を命ずることことなりしも其後急に同島を退去せしむるは事情の許さざるものあるを以って其事由を韓廷に復 したり。【改行】 P308(ヤンコ島) 本島より東南方約30里我が隠岐島との殆ど中央に當り無人の一島有り。俗に之れをヤンコ島と称す。長さ殆んど十町余沿岸の周曲極めて多く漁船を泊するに宜しと雖薪材及び飲料水を得るに困難にして地上を つも数尺の間容易に水を得ず此付近には海馬多く棲息しまた海産に堯なりといふ。 韓国新地理付属圖 鬱陵島の南東にリアンコールド岩が記載 1905.09.18.官報6667号 朝鮮鬱陵島現状
アシカト称する海獣は鬱陵島より東南約25里のいちにあるランコ島に棲息し、昨年頃より鬱陵島民之を捕獲し始めたり捕獲期間は四月より九月に至る6ヶ月間間にして・・・・(釜山駐在日本領事有吉明報告) 1906.06.地学雑誌 第210号 隠岐国竹島に関する地理学上の知識 田中阿歌麻呂 http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/chigaku-1906/ 東島に於いては菰葦の仮小屋あり(中略)、この小屋は中井養三郎氏の竹島漁業会社の所有にかかるもの(省略)。 本誌200号(注:.1905.08.15)に掲げた記事は、全く竹島の記事に非ずして、鬱陵島の記事なるが如し(中略 水 水は海豹の糞尿にて汚染 鬱陵島を根拠地とし六七十石積の和船を使用して此地に至りそれより舟は陸上に引き揚げ置き島上の小屋に於いて毎回十数日ほど滞在し多量の収穫をなし、猟後または風並み強く碇泊し難きときは直ちに順風を得て鬱陵島に避難するなり。......この地に産する海豹は明治36年之ぞ猟し大阪に輸出するものありしも全く失敗せしが翌年に至り多少の需要あり今日に至りては製革業の進歩と需要の増加により軍隊用背嚢の表に附し に至り脂肪は精製して鯨油に劣らざる良品を得べく、肉は食用として..........に用ゆ可見込みあり。 鬱陵島 亜本邦人状況 鬱陵島は日本人の在住者三〇三名内男一八五名女一一八名戸数九六戸あり。而して韓民は戸数六五九、人口三七〇〇餘を算せり。陸産は●のトガ等の材木にして大豆之に次ぎ、例年六七千石の収穫ある、昨年は不作にして三千五六百石の収穫に過ぎず、海産は烏賊、海鼠、海苔にして警察官は巡査部長以下二名あり、又郵便受取所ありて毎月一回釜山と交通を為せり、法人の自治体機関として居留民総代あり、又小学校の設けもあり、在住者の職業は貿易商、木挽く、漁業、船乗業等の由なり(三十九年4月29日在釜山朝鮮日々新聞)(ア、タ、) 1907.竹島及び鬱陵島 奥原 碧雲 (著)1905年のときの調査/1907発行 漁港 本島には、安全なる漁港なし。ただ道洞は●湾形をなし、湾口は東南に面し、広さ湾口百間港億七八十間の間沙濱をなし、両側は、芋洞モンゲ、沙洞アリクサ、通九尾、南陽洞、台霞洞等にも入船するを得べきも、他は懸崖峻険近づく能はず。 漁獲物の種類 近海は魚族海藻類に富み、鮪シビ、柔魚イカ、鰤ブリ、鰮イハシ、鱶フカ、鱪シヒラ、メヂカ、サワラヅ、鯖、飛魚、、●、メバル、アブラメ、鯛、章魚、鰈カレヒ、ツツリ、サヨリ、河豚フグ等を産し、鯨、マイルカ、カマイルカ、シャチ等の海獣、郡来し稀には海驢も来ることもあり 烏賊漁 烏賊の漁撈法は、隠岐における、釣獲法と等しくその処理法もまた同じく鯣に製造す。漁獲総額は知るに由なきも、輸出額は左の如し 三十七(1904)年 壱千七百貫目 価額弐千壱百壱拾九円 三十八(1905)年 一千四百七十九貫目 価額二千六十九円 鱶漁 あかえい 漁撈法は底延縄を以てす。餌はアブラメ。メバル等の底魚を網切として使用す。処理方法は、生鮮のまま売却す、漁獲高は詳ならず。 鰮 いわし 漁撈法は、漁撈法は、鰮魚の害的に追はれて、海岸に群集する時、●を用いて●ひ捕る、のみ。地曳網はは、海岸に岩石多きと、沿海に岩礁多きため使用する能はず。 鮑漁 潜水器を使用し、また海、女の潜水によりて採捕す。漁期は五月より九月の間にして、潜水器業者は長崎地方及び隠岐より来り、海女は志摩国地方より出漁するものの如し。乾鮑の製造額左の如し 37年50貫目/価額 百八十七円/38年 九千百貫目 全八千五拾円 海苔 採取方法は島根県に仝じ。長一尺五寸幅一尺二寸の大型板海苔にXきて、本邦内地に輸送す。Xの製造額左の如し 三十七年百三十八貫目 価額 四百壱拾四円 三十八年 百七十四貫目 仝 五百弐拾四円 和布 和布の採収は、韓人の独占なるが如し。処理方法は、長四尺幅六寸厚六分に重ねて乾燥し、韓国内地に輸送す。その製造額左の如し 三十七年 十一万五百七十把 価額千参百八拾参円 五百参拾把/価額 七十四円 将来の経営 韓人は和布海苔を採取するのみにして、他の漁業に従事するものなし。本邦人中、農業の傍ら、漁業に従事するもの約四十人(三十八年調査)あり。本島には安全なる漁港なきを以って、甚だ困難を感ずれども、 延縄、 流縄、 柔魚釣等を大漁船にて経営せば、 有望なるべき、小規模の漁業にては、飛魚網、 刺網、 睨網等望みあるが如し。 1906.最近朝鮮事情 荒川五郎著 朝鮮の漁業 朝鮮沿岸3里は漁業監察がが必要 それ以外は自由の天地 海獣:鯨 オットセイ 1907.五箇所村編入、西郷町編入を却下(川上226) 隠岐島司の所管となった竹島について、明治40年(1907)には西郷町西町漁業組合から西郷町編入の請願が県知事にたいしてなされたが、中井養三朗からの反対の上申が行われたため、その際には町村区域への編入は見送られた。 1907.朝鮮水路誌第二版 竹島 一八四九年佛船「リアンコール」之を発見せしを以ってLiancourt Rocksと称す其後一八五四年露艦「バルラス」は之をMenalai and Olivutsa rocksと名つけ一八五五年英艦「ホーネット」は之をHornet islandsと呼へり韓人は之を獨島と書し本邦漁夫はリアンコ島と曰く【改行】 此島は日本海上の一群嶼にして隠岐国前より大約八十浬、欝陵島より大約50浬に位し広四分の一浬の狭水道を隔てて東西に相対する二島と其周園に碁布する幾多の小嶼とより成る西島は海面上高約四百十尺にして棒糖形を成し東島は較や低く頂上に平坦なる地あり周園の諸小嶼は概ね扁平の岩にして僅かに水面に露出し其大なるは優に数十畳を敷くにたるへし二島共に全部●痩せの禿岩にして海洋の●風に曝露し一株の樹木なく東島僅に野草を生するのみ島岸は断崖絶壁にして軟性の石屑より成り奇観の洞窟多く殆ど攀Xすへからす此等の洞窟及ひ小嶼は「トド」の群棲所たり 島上の平地 島上平地に乏しく水道の両側に狭小なる平坦の磔地二三箇所あるも皆海涛の侵襲を免れす東島は其頂に平坦なる地あれとも之れに登るもの径路なく唯島の南端に於て北西風を遮蔽する三,四坪の小地あるのみ西島は其東西に山崩ありて其上半始と直立すれとも下半は傾斜●や緩なるを以て其半はまを達するを得へく此邊の堅岩を開墾せは東風を除く外諸風を遮蔽すへき平地を得べきならんか島上には上記の如く家屋を建築すへき地極て乏しく明治三七年一一月軍艦対馬の此島を審査せし際は東島に漁夫用の藪葺小屋 ありしも風浪の為め甚たしく破壊しありしと云フ【改行】 毎年夏季に至れは「トド」猟の為め欝陵島より渡来する者数十名の多きに及ふことあり此等は島上に小屋を構へ毎回約十日間●居すると云ふ 淡水 西島の南西隅に一洞窟あり其天蓋を成せる岩石より摘出する水は其量●鞘や多れと雖雨水の摘下に等しきを以て採取に困難なり此他数箇所於て山頂より山腹に沿ふて●●する水及ひ湧泉あれとも其の径路は「トド」の尿に●●汚染せりしを一挿の悪臭を放ち到底飲料に適せす「トド」猟の為渡来する漁夫は島水を採取して煮炊の用に供すれとも茶水は他より持ちきたれるものを用ゆと云ふ 位置 竹は十九0二年に施せる米艦「ニウヨーク」の検測に蒙れは北緯三十七度九分三十秒東経一三一度五五分に在り 欝陵島一名松島】Dagelet Island】 韓人の住民は明治37年12月末の調査によれば戸数85、人口260、うち男175女85なりしが38年6月末には戸数110、人口366、うち男219女147に増加せり。然れども該住民はその開墾せる耕地の付近に住するをもって家屋は各所に散在し村落をなすものは8箇所に過ぎず。本島には島監在住せり。【改行】 本島に在留する本邦人は木挽、大工、漁夫、船乗および仲買商を最としその他諸種の職業に従事せる者にして明治38年6月末にはその数約230人となりし。 気候 生産物 大豆を主とし其他 、粟、稗、馬鈴薯等を産す大豆の収穫は毎年平均三四千石に上り他の穀類は住民の常食に供するものにして半年に在ては不足を告くることなし重なる漁業は鮑の採取にして毎年多量の乾鮑を輸出する○「トド」と称する海獣は本島より南東方なる竹島「Liancourt Rocks」に棲息し明治三十七年頃より本島民之を捕獲し始め捕獲期は四月より九月に至る六箇月間にして現今本業に従事する漁船三組【一艘に付平均約五頭を捕獲す)あり又本邦人の採取する鮑は潜水器二箇及び汽船二隻を用ひ其採取量一日平均一千百三十斤なり云ふ【改行】本島内には野棲の鳥獣なく唯稀に山猫、鳩等を見るに過ぎす木材は●規、松甚だ多し 輸出入品 本島の輸出品は大豆、●規材、乾鮑、「トド」皮同油及ひ同搾糟等又輸入品は精米、●米、酒、焼酎、石油、砂糖、木綿、綿糸、綿織物、鉄、●●、燐寸、陶器、食●、醤油及素麺等にしてして明治三十八年四月より同六月まての輸出額は一萬二千七十五円 輸入額は三千百十六円なりし 供給品(P458) 各村至る処少量の鶏及ひ鶏卵を得へく其価廉なり淡水は各所に清流ありて水質善良なりと云ふ 1907.韓国総攬 第13章水産業第一節総攬(P909) 鱶漁に至りては現時称衰の傾きありと雖も尚ほ韓海に於ける本邦人の重要漁業に属し全羅道済州島近海及●介島、黒山島、金叱島、音島、巨済島、鬱陵島近海およびヤンコ島近海本漁業の盛況を極むる地方なり。 第四節 主要漁場 第二款 鱶漁業(933-936) 東海面 漁場は迎日湾以北より新浦に到る間の沖合および蔚陵島近海、「ヤンコ」島近海とす猟期は五月中旬より七月中旬までと9月中旬より11月下旬までとの二季にして種類は「ドタ」「マフカ」等多し当方面の出漁は近年に始まりまた漁場に精熟セサルヲ以って収穫の如くならすと雖も一季間の漁獲高三百円乃至五百円の間にありて将来有望の漁場なりと言う 1907.05.島根県史要 藤本充安編 松江:川岡清助,明40.5 第六章 竹島の獲物 (写経必要) 1907.新編 大韓地理 http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/08/1907-june-sinpyeon-daehan-jiri.html 鬱島는 平海郡 越松浦 四百餘里海中에 在한 鬱陵島니 光武三年에 鬱島郡을 設하고 守를 寘하니 北緯 百三十度 四十五分乃至 五十三分. 動徑三十七度 三十四分乃至 三十一分 間에 在하야. 面積이 五百四 方里許며 中央에 高山이 屹立하야 고 – 四天 尺이며 沿岸의 港灣이 無하야 船舶의 碇繫가 甚難하니라 全島에 平地가 稀少하나 其地質은 落葉枯草가 堆積腐化한 黑土를 成함으로 膏腴하야 肥料를 不施하야도 農物이 豊碩하야 主産物의 大豆는 每年産額이 四五白石에 至하며 林産에는 * 桐,松,白檀香等이 有하며 또 葡萄가 産出하며 沿海에 良好한 石菜의 産額이 赤大하니라. 秋季에 山鷸類가 다하야 副食物을 作하며 脂肪은 溶解하야 燈油에 供給하나니라. 本島住民은 五百餘戶며 日本人 三百餘戶가 一時에 來住함으로 政府에서 退去하란 命令이 有하야 至今에 盡歸하니라 島中의 一泉이 湧出하야 其味가 微酸하나 島民이 藥水라 稱하야 疾病時에 藥餌로 服用하면 效驗이 著見하니 此는 炭酸水의 源流니라. 本島東南約三百里에 一島가 유하야 俗稱 “양고”島라 云하니 장이 三十餘里오 沿岸이 屈曲하야 漁船의 碇泊이 便宜하나 薪材及 飮料水를 아즉 不得함으로 居人이 無하며 海馬와 各種海産이 多하니라. 1911.06.20 「朝鮮総督府月報」第1巻第1号(明治44年6月20日発行)中の「鬱島郡誌」 一 起原及び沿革 ・・・・中略・・・・・ 開国 492年、検察使李圭遠本島を視察し、全島山岳多くして平原少なきも、多少耕作の餘地を存し、かつ、海産の遺利少なからざるを認め、之を開拓するの希望を 懐き其の意見を具し奏請したるに、朝廷之を喜納し、翌年鬱陵島開拓令頒布せられ、島長を官選し島務を管理せしめたり。此に於てか各道より続続移住者渡航 し、樹木を伐採して家屋を建築し、火を山谷に放ちて烟地を拓き、農作を以て生活を営むものを生じたると共に、肥前、天草の漁民及び木工等渡来して漁業の基 礎を立つるもの漸く多きを加えしも、冬期に入り漁業休止の時季は皆帰国するを常としたりき。然るに、日清戦争の頃に至り、永遠の事業を起さむとして出雲方 面より渡来し、永久的家屋の建設に着手し、之と日時に雑貨を輸入して農産物との貿易を開始せり。是れ本島に於ける貿易事業の嚆矢とす。爾来、日韓人共に年 を遂ひて増殖するや、光武5年、鬱陵島及び島長の名称を廃止して、更に鬱島郡及び郡守と改称し、隆熙元年、更に江原道の管轄を離れ、之を慶尚南道の所管に 移したり。 是れ、本島の現状を造出したる起源、沿革の大要なりとす。 三、面積、戸口および気候 本島の周囲は十四里十八町、廣●東五里、南北四里面積凡 そ九平方里にして江原道蔚珍郡の竹濱を距る東北八十浬の 海中に在り。 朝鮮人戸数九百八十八、人口五千八百五十五、内地人戸数二 百七十、人口九百三十一を算す、気候は温暖にして養●に適 す●●夏季は雨量多く秋に入れは暴風多く普通農作に甚た 不利なり又冬季に在りては十一月より降雪して翌年三月に及 ふ。 四、山川??及森林の状況 本当の中央に在る高山を聖人峰と謂ひ其の高さ約千七百余尺 之に亞くを弥勒山と称す此の二山の山脈四方に延ひて波濤の 如く其の間奇巖怪峰乞立して千態萬状始と名状すへからす又 西海岸に当りて錐山と称する高峰あり其の状恰も錐に似たる ●●●●●の名あり ●●●●●多き丸以て渓流も亦従て多きも河流と称するに足る へきものなし其ノ中聖人峰より出づるものは南面芋洞を貫通 して南に流れ海に注ぐ其の延長約一里あり朱沙川と称す之れ 本島中の主なる河流なり其他北面錐山洞に蹯踞せる山腰の 鞘や凹める所に数多くの巖石露出し其の巖石の間より湧水湧出 し錐山●となりて落下し西に向て流るること十四五町にして ○○○○ ●●●●●●●●●●を●て続らすにも係らす港湾と称すへきものな し と称する一小湾あるも水深五尋湾内狭小にし て且晴●多きに依り汽船の繋留は絶対に不能に属し僅に帆船百五十石積より四百石積に至るまてのもの六七隻を繋き得るに過きす而も風浪常に荒きか故に多くは之の●●に●●くる か●索若くは●網を以て之を繋留せざるへからす斯くの如くにして尚ほ年年難破の厄に逢ふもの多しと謂ふ。 本島は昔時に在ては全島鬱葱たる森林を成せしも漸次伐採開 墾して各所に火田を拓きたるを以て良木巨材の●滅を来せる も今尚ほ全島に渉り蒼蒼たる森林一千町歩を超ゆと謂ふ 五、運輸交通 運輸交通は一年を通して釜山及浦項に五六●、日本境港に三 四十●の公開をなすに過きす而も三月より十月に至る比較的 海上静穏の時季に於てせさるへからす郵便物の輸送は是等の 便船に頼るの外策なきを以て其の不便の●●●こと●に甚し きも幸にして電信は既に元山及出雲に開通せるに依り通信上 一部の欠点を補ひ得て之か為め要急の用務を弁し居るの有● なり 六、耕地及不耕地 耕作地は重に畑にして水田は極めて少なく不耕地は森林の外な しと謂ふに可なり而して既耕地の面積は水田八町歩火田三百 三十町歩にして不耕地即ち森林は既耕地即ち田畑の三倍に上 ると謂ふ 七、重要なる物産の価格及数量 陸産物は大豆其の主意を占め薪、馬鈴薯、麦、玉蜀泰、●、 炭之に次く又海産物はスルメを主とし鮑、若布、天草、海苔之に 次く而してスルメ、大豆、鮑、若布、天草、海苔はもっぱら他に移出 するも馬鈴薯、麦、玉蜀泰、米、薪、炭は全く本島内に於て 消費せらる今其の山額及価額を表示すれは左の如し <表を挿入すること> 八、商工、漁業 本島には市街なく又市場なし従て純然たる商店を構ふるもの なきも内地人中地又は釜山より米、麦、酒、砂糖、蕎麵、木 綿、金巾其の他の雑貨を移入し其の居宅に於て商業を営むも のあり是等の売買は多くは現金取引にあらすして一時現品を 貸売し其の代償おして大豆、スルメ、若布等の収穫物を其の収穫 期に於て支拂はしむ乃ち五月より六月まてを若布期とし七月 より十月まてをスルメ期とし十一月を大豆期とす 工業は全島を通して鍛冶工二、笠直工一、煙管工二あるのみ 面も極めて微微たるものに過きす 漁業は頗る有望にして到る所適応せさるなきも其中根拠地と して重要視せらるる箇所は南面道洞即ち郡庁所在地なり此の 方面には機械船を使用して漁獲物の製造、移出をなすものあ り漁業者は内地人二百四名、朝鮮人六十二名にして漁船計二百 六十六艘を有す此等の漁業は主として網を用いすして縄釣又 は「ヤス」に依る。 九、貨幣流通の状況 本島は交通不便なる海中の一孤島なるを以て商取引の多くは 古来物品の交換または手形に依り或は問々大豆を通貨に代へて 使用するの習慣あり故に貨幣の流通は或る内地人の一小部 分に行はるるに過ぎす 十、警備期間及び官公所 本島を開拓せし当時島長を置き島民の取締に任せしめたり爾 来日韓人の戸口漸次増加せるを以て光武五年に至り鬱陵島を 鬱島郡と改称し島長に代ふるに郡守を以てし同七年南面道洞 に郡衙を建築し●●●●●を設置するに至れり。 当時外務省は内地人保護の為警部一人、巡査部長一人、巡査 二人を駐在せしめ六箇月毎に交替し明治三十七年に至り警部 のみの駐在を廃止し同四十年日韓警察事務を合同せらるるや 韓人巡査四人を配置し同四十二年改めて日人巡査一人韓人巡 査二人を配置せしか同四十三年に至り今日の制度となれり。 税務機関としては隆熙二年一月始めて財務暑を設置し主事一 人を在勤せしめ徴税事務の執行に当らしめしか明治四十三年 十月に至り現時の郡庁に合併せらる。 十一 島民の性質、生活情態 島民は概して無学にして性質淳朴なり●として農業に依りて 生活を営めるも海岸に住する者は農業の傍ら漁業に従事し僅 に低度なる移植の●を得て生活●つつあり。 十二 教育の一斑 教育機関としては南面道洞に私立神明学校あるも設立日尚ほ 浅くして効果を見るに至らす其の他各所に数十の私塾あるも 其の価値を認められす。 十三 名所古跡 本島に聳える千峰萬堅は高く雲●に●立し奇巖怪石蒼海に倒 ●して幾千歳の星霜を重ね依然として太古の風貌を保つも文 人をす墨客来らす実に本島風光の為に惜むへしとなす 十四 租税制度 (イ) 各税の起源沿革 本島開拓以来政府は島務費に充てんか為若布採取の所得十分 の一を海税と称して徴収したりしか光武五年島長制度を廃止 して郡を置かれ同七年三月に至り始めて郡守の赴任するに際 し国庫より金壱千円を下付し郡衛を建築し租税を徴収して一 島の庁費に充つることとなれるも当時本島の土地は水田なく 火田なるも山腹若は急傾斜地に散在して地質亦粗悪なるか為 ●の一●府郡の如く結負を附し税額を決定する能はさるの事 ●●りしを以て面積の廣狭を問わす唯土地の所有者一戸に戸 税として一箇年平均大豆六斗五升つつを賦課し其の当時の戸 数六百十四戸に対し三百九十九石一斗此の価格千五百九捨 六円四拾銭と島長時代より賦課し来れる海税年額約参百円を 徴収し其の内壱百円は歳入金として国庫に納入し残額は総て 之を庁費に充当せるも爾来年年其戸口を増加せる為隆熙二 年に至り此の制度を改め庁費は之を国庫より支出し別に財務 機関を設けて租税を徴収することとし、従来賦課せる戸税の半 額を減して壱円参拾銭となすと共に海税は之を徴収せす又内 地人移住者には多少土地を所有するものあるも是等は農作を 為ささるを以て毎戸平均参拾銭宛を賦課徴収するに止む其の 他酒税、煙草税、人参税、屠場税は隆熙三年より漸く其の徴 収を開始するに至れり。 (ロ) 現時の各税別 賦課物件及税額は左の如し <表を添付すること> (ハ) 島民の納税思想 光武七年丸●を設け租税を賦課したる答辞は島長制度を 郡守制度に改め●の一般府郡民同様の取扱を受くるに至りた る際なるを丸まる丸●は痛く之n満足し納税上何等苦情を唱へ さりしか○○○○●税務署を設置するに方り其ノ経費も亦之 に依りて○○○○○○のと誤解し徴税上称や憂ふへき現象を 呈した○○○○●其の疑惑を解くに至れり 前叙する如く本島●●●貨幣の流通を●くか為本島の主産物 たる大豆の収穫●●●●さしは納税を為す能はす故に其の収穫 時季即ち十一月上旬○○●租税の収納に着手し一箇月を出さ るに納入を了するを●とす 1915.03.03.慶尙北道鬱島水産狀況 1922.11.13.鬱島漁業狀況(大邱) 鬱陵島で豪雪が発生し多数の死傷者がでる。 1941.10.14.鬱島物産 中村資良, ≪朝鮮銀行會社組合要錄≫(1942년판), 東亞經濟時報社 1930.1935 朝鮮近海海洋圖 |
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