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▲西溪朴世堂の「鬱陵島」原本。
独島(竹島)領有権で大きな争点だった「于山島が独島」という事実を立証できる新しい資料が発掘
された。
韓国海洋水産開発院独島研究センター責任研究員である柳美林(ユ・ミリム)博士は最近、同開発院
が発刊する「海洋水産動向」1250号で「朝鮮後期、朴世堂(パク・セダン、1629~1703)が使った「鬱
陵島」を分析した結果、于山島は鬱陵島ではなく独島を指すことが明らかになった」と述べた。
「独島は元々我が地」だったとする時、その重要な根拠は于山島の存在だった。
「世宗実録」地理志には「于山と武陵(于陵)の二島は(蔚珍)県の真東の海上にあるが、二島間の
距離は遠くなく、晴れた日には両方からお互いの島を見ることができる。」と記録している。ここで
「武陵」が鬱陵島、「于山」は独島というのが韓国学者たちの解釈だった。しかし、日本学者たちは
「新増東国輿地勝覧(しんぞうとうごくよちしょうらん)」の注釈に「于山島と鬱陵島は本来一島だ
ったという説もある」と言う内容を根拠に于山島は独島ではなく①鬱陵島か②鬱陵島から東方へ2キロ
メートル余り離れた竹嶋を言う、と主張して来た。
ところが、ユ博士らが朝鮮後期の主要学者の一人である西渓朴世堂の記録「鬱陵島」を分析した結果
は違った。この文は朴世堂の11代子孫が2001年、韓国学中央研究員に寄託した「西溪宗宅古文書」の
「西溪雑録」に載せられている筆写本で、今まで史料の存在が一般に知られていなかった。朴世堂は
この文で船に乗って鬱陵島へ行って帰って来た僧侶から伝え聞いた話を記録しながら次のように言及
した。
「総じて二つの島(鬱陵島と于山島)はあまり遠くなくて、一度大きな風が吹けば着くことができる程
度だ。于山島は地勢が低くて、天候が非常に晴朗でないとか最高の頂上に上がらなければ(鬱陵島は)
見えない(不因海気極清朗、不登最高頂、則不可見)。
この記録は①‘于山島’は確かに鬱陵島のような島ではないという事実と、②竹島や観音島のように
鬱陵島と接した島でもない、という事実を立証している。竹刀・観音島は鬱陵島で高く上がらないと
か天気が曇っても肉眼で見られる島だからだ。それなら‘于山島’になることができる島は独島しか
にない。
これは朴世堂と同時代人である三陟営将、張漢相(チャン・ハンザン、1656~1724)が書いた‘鬱陵
島史跡’で「(聖人峯(ソンインボン)から)東に海を眺めたら東南の方に島一つがかすかにあり、
大きさは鬱陵島の3分の1にもならなくて距離は300余里に過ぎない」と言う記録とも通じる、とユ博士
は説明した。
朴世堂と張漢相は二人とも日本側から独島が朝鮮の地という確認を受けた肅宗の時の漁夫、安竜福と
同時代人という点で、彼らの認識はより重要な意味を持つというのだ。これに対してシン・ヨンハ梨
花女大碩座教授は「初めて発掘されたもので、独島が私たちの地だったことを明らかにする非常に立
派な資料」と述べた。
ソース:朝鮮日報(韓国語)
‘于山島’はやはり独島だった、海洋水産開発院ユミリム博士、朝鮮後期朴世堂が書いた資料発掘
http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2007/12/04/2007120400027.html
まずはは、記事には、
「世宗実録」地理志には「于山と武陵(于陵)の二島は(蔚珍)県の真東の海上にあるが、二島間の
距離は遠くなく、晴れた日には両方からお互いの島を見ることができる。」
との「世宗実録」地理志の話を持ち出しているようですが、
それでは、本当にそう書いてあるのか、原文を見てみましょう。
1454.世宗実録 地理志 江原道襄陽縣 (襄陽:江陵の北)
于山、武陵二島、在縣正東海中、二島相去不遠、風日清明、則可望見、新羅時、称于山国、一云鬱陵島、 地方百里、恃険不服
于山、武陵二島は、蔚珍(県)の真東の海中にある。 二島は互い(もしくは共に)に遠くない。風日が清明の晴れた日には、二島は、見ることができる。
二島が、互いに見えるとは書いてありません。朝鮮の地誌に基づいた記述方法、つまり規式
では、
一、海島。在本邑某方。水路幾里。自陸地。去本邑幾里。四面周囘相距幾里。田沓幾結。民家有無。
(海の島は、半島からの方角、(半島からの)航路が何里か? 陸地から何里(の距離)か? また、四面の周回の距離、田畑の結数、民家の有無)
となっております。つまり、 1:二島は互いに遠くない。 2:二島は、見ることができる。
の場所は、蔚珍を基点に述べている文章であることがわかります。
ほか:類例
・見える見えないの議論は朝鮮半島東岸がら鬱陵島が見えるという意味で、鬱陵島から現竹島が見えるという意味ではない。
韓国側の主張:両方からお互いの島を見ることができる。と翻訳するには、原文が「即可相望」となってれば、そのように翻訳が可能ですが、原文は則可望見 ですので翻訳自体が違っています。
次に、
「総じて二つの島(鬱陵島と于山島)はあまり遠くなくて、一度大きな風が吹けば着くことができる程
度だ。于山島は地勢が低くて、天候が非常に晴朗でないとか最高の頂上に上がらなければ(鬱陵島は)
見えない(不因海気極清朗、不登最高頂、則不可見)。
と書いているようですが、これも原文を見てみます。
天將曉發船以來日纔晡已到寧海地面云、盖二島去此不甚遠
(暁の空になろうとする頃に欝陵島を出発し、日暮れ少し前に寧海に到った。それゆえ推測するに二島(于山島と欝陵島)はここ(朝鮮半島東岸の寧海)からはそれ程遠くはない)」http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2009/05/1693-1703.html
つまり、この柳美林の翻訳は、意図的に、「此」がどこであるかを誤魔化し、また、「寧海に至って、そこで聞いた話」であることを隠蔽した説明であることがわかります。
そして、それに続く
一颿風可至于山島 勢卑不因海氣極淸朗不登最高頂
則不可見
鬱陵稍峻風浪息
則尋常可見
は、この話を、柳美林は、
鬱陵島へ行って帰って来た僧侶から伝え聞いた話
と説明しているようですが、鬱陵島へ行って帰ってきた僧侶が述べているのは、「暁の空になろうとする頃に欝陵島を出発し、日暮れ少し前に寧海に到った」まででであると考えられます。曾の後の、「蓋二島」から始まる文章は、つまり東国與地勝覧などの、ウサン島が鬱陵島の西側にある小さい島という伝承を書いたものを朴世堂なりの言葉でが書いたものだと考えられます。即ち、『鬱陵島からウサン島が見える」と記載した文章ではないのです。
参考および原文:
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/12/wayurok-ulleungdo.html
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2009/05/1693-1703.html
1629-1703 臥遊錄 鬱陵島
[주:新羅史曰于山國島名鬱陵]. 地誌
鬱陵或曰武陵. 亦曰羽陵登高望之. 三峰岌嶪, 撑空. 而 南峰稍低(『新増東国輿地勝覧』からの引用). 日初出時. 風恬浪靜. 則衆峰攢靑. 岩壑呈露. 沙汀樹木. 歷歷可指. 新羅智證王. 聞于山國負險不服. 命伊湌異斯夫爲阿瑟羅州軍主(阿瑟羅江陵)往討之. 斯夫以爲于山愚頑負險. 難以力服. 易以計下. 乃多造木獅子. 分載戰艦誑之曰. 伱不急下. 當放此獸摶噬之. 國人恐懼來降. 及高麗太祖十三年. 島人使白吉土豆獻方物. 毅宗聞羽陵地肥廣可立州縣, 遣溟州道監倉金柔立往視. 回啓曰島中有大山從山頂向東行至海濱一萬三千餘步向南行一萬五千步向北行八千餘步有村落基址七所或有石佛鐵鍾石塔多生柴胡藁本石南草土多嵓石民不可
居 遂寢厥後崔忠獻議以武陵土壤膏沃多珍木海錯遣使視之有村墟屋址宛然於是移東郡民實之使還多以海中珍怪之物來獻其後屢爲風濤所蕩覆舟人多物故乃還其民及我朝 太宗大王時聞流民迯入者甚多命三陟人金麟兩爲按撫使刷出空其地麟兩言島中土地沃腴竹大如杠鼠大如猫桃核大於升凡物稱是云世宗大王二十年遣縣人南灝率數百人 往搜逋民盡俘金九等七十餘人出來成宗大王二年有告別有三峰島者乃遣朴宗元往覔之因風濤不得泊而還同行一船泊羽陵島只取大竹大鰒魚以歸啓曰島中無人矣嘗遇一 僧自稱壬辰之亂俘入日本丙午隨倭船至鬱陵島島
有大山 三峰尤峻發島三面皆壁立萬仞南邊稍開豁然亂山若犬牙撑列水底舟道極險狹難入登岸則白沙平鋪長松列植山開望濶而江水流出緣江行十餘里則篔簹作藪不見天日大君 梁柱小不减椽杠又穿藪行十餘里則有竹林其脩大若篔簹竹林旣窮而原野夷曠有村居墟落山多珍木藥草倭方伐竹採藥留渠守船鄰船適有同俘七人夜與相語天將曉發船以 來日纔晡已到寧海地面云盖二島去此不甚遠一颿風可至于山島勢卑不因海氣極淸朗不登最高頂則不可見鬱陵稍峻風浪息則尋常可見麋鹿態獐往往越海(臥遊録 蔚陵島説からの引用か?)出來朝日纔高三 丈則島中黃雀群飛來(臥遊録 蔚陵島説からの引用か?) 接竹邊串[주:島中竹實特時漂出形如大慱暴海女拾之爲雜佩篔簹及竹亦或漂出一節有數尺者宜箭筒比多有之]
1629-1703.『臥遊録』「蔚陵島説」
鵝溪蔚陵島在東海之中 距海濱不知其幾百里也 每秋冬之交陰曀捲盡海氣澄朗 則自嶺東望之 如一后蒼烟撗抹 於水天之間 獨眞珠府與此島
最爲相對故行人之登召公臺者或見其林木岡巒之狀了了然可辨以此知不甚遠也 箕城人嘗言麋鹿蘆竹往往浮出於沙渚之間禽鳥之不知名者 亦翩翩渡海
而來及 至海濱垂趐 自墮爲光童所捕者數矣漁人舟子或凜 到島傍見萊根蔬葉隨水出來 而四面皆蒼岩鐵壁 只有一洞門 可捫蘿而入慮有防守者
彷徨躅躑不敢近而回棹者有之居是島者未知爲何許人或疑其避役逃罪之輩自相婚嫁漸至繁盛或疑其獠蠻之種據有是島非自近始或疑其果有之
則豈無一番舟楫之往來豈無一物可交貨有無於他境乎疑者不一無所歸宿終置是島於茫昧恍惚無何有之鄕豈退之所謂桃源之說誠荒唐者歟噫
仙神之說尙矣所謂蓬萊方丈瀛洲未知 果眞有而崑崙玄圃見之者抑誰歟如使神仙不有則已有之則是島也妥知蓬萊崑崙之一而異人仙客之所在耶
一幅布帆便風高掛則不過一晝夜之頃可以致身其間而世之羣疑衆惑從此可破旣不得此則令人徒費引領東望而空入於夢想吟咏之中悲夫
・望洋亭記 鵝溪 李山海 (李山海 1539-1609c.a.)
http://blog.naver.com/zxcvbnm7997?Redirect=Log&logNo=10045358329
余 自少時。喜爲文辭。以爲文可學而能也。求古人之書而讀之。記於心而誦於口。久之。試書之。文雖成而陋不足觀。旣而思之。文者。以氣爲主。氣之不充而能爲文 者未之有也。昔太史公周覽四海名山大川。得於氣而發於言。故其文疏宕奇健。變化無窮。余則生乎偏方。而亦不能盡國中之奇觀。無怪乎文之鹵莽如是也。及謫嶺 東。過洛山而觀日出。過臨瀛而望鏡浦寒松之勝。過召公臺而望蔚陵之縹緲。中心已自喜幸。而及登望洋亭。見天容海色之蒼然淵然。而其大無外。 其闊無涯。其深無極。然後始有以盡平生之壯觀。而浩浩乎匈中。若與曩時異矣。百川滔滔。日夜不止。則知氣之必養其本原。而爲文不可不混厚深遠。三光繞天。 出沒無停。則知氣之不使有間斷。而爲文不可不純實猛健。蛟龍鯨鯢。噴薄紛挐。則知氣之務要雄勇。而爲文不可不動盪發越。蜃樓鰲嶼。隱現明滅。則知氣之務要 沈着。而爲文不可不奇古幽眇。風濤怒號。振撼坤軸。銀山玉峯。素車白馬。橫馳逆走於雪花氷雹之中。則知氣之務要凌厲。而爲文不可不巉截峻拔。風恬波靜。鏡 面如拭。上有一天。下有一水。而水天相涵於空明有無之中。則知氣之務要凝定。而爲文不可不溥博淵泓。凡天地之間。萬物之變。可驚可愕。可喜可娛。使人憂。 使人悲者。無不收攬於是亭之上而助吾之氣。則其發於文者。衆體百態。無不兼備。而其視前日之記誦剽竊者。果何如也。噫。以眇然之身。登亭而俯仰。則不啻如 糠粃蜉蝣之微。而天之蒼蒼。地之茫茫。海之浩浩。物之林林。百怪千變。無不驅入於方寸之中。而爲己之用。則其亦壯矣。一壺村釀。自酌自飮。蒼顔白髮。兀然 頹於其中。則天地一衾枕也。滄海一溝瀆也。古今一須臾也。是非也得喪也榮辱也欣戚也。無不消融蕩滌。而與造物者相揖於混沌鴻濛之域。其亦快矣。其壯也如 是。其快也如是。則氣焉有未充。又焉有餒之者乎。然後把筆伸紙。試書吾胸中之所有。則其必有擊節而嘆賞者矣。余之有得於是亭者。不其韙歟。亭在郡北三十里 濱海斷岸之上。故太守蔡候所建云。月日。記。