鬱陵島調査員が製作した鬱陵島詳細圖により、于山島が現竹島であることが確認できるが、韓国側は、是等を、「測量技術がない時代の地図なので話にならない」と言い訳をする。
関東図や江原道図などの地方図、または朝鮮半島全体図に描かれた鬱陵島は、小縮尺で書かねばならない関係から、簡略化した鬱陵島と于山島の地図が書かれている。
もちろん、簡略化した地図には、其の根拠となるデザインが存在するわけで、それが鬱陵島捜討官が製作した「鬱陵島圖形」シリーズである。
そもそも、地図というものは、そこを知らないもののために、わかるように記載して有るのが地図である。
1694年以前に鬱陵島と大きさが同じ島が書かれているのは、與地勝覧など、一島二名、もしくは「傍有小島」の二島説など確定しない鬱陵島認識を記載したに過ぎない。 これは、1694年に張漢相が蔚陵島調査へ出向く前に、「鬱陵島の詳細を知るものはいない」と奏上していることからも判る。
この1694年以降に鬱陵島調査員たちによって製作された鬱陵島詳細圖は現状4枚が残っているのみである。
では、この地図をよく見てみる。左上から、穴の開いた「孔岩」。孔岩の対岸にある「錘峯」、竹岩、三仙岩、「通流」とよく記載される観音島である「小于島」、鬱陵島の付属島/岩のうち、最も著物な付属島である竹嶼「于山島」がきちんと記載されている。
つまり、この地図を持っていけば、現代でも十分に鬱陵島の形状を確認するのに使用することが出来る代物なのである。
また、日本人の地図も見てみよう。
韓国側は、測量技術の非確立を理由に于山島の確定をごまかしているが、日本人の漁業従事者でさえ、測量技術もないのに、 磯竹島の南東に、二つの岩(松島・現在の竹島)を書いている。
測量技術もないのに、 磯竹島の遥か南東に、竹島の特徴である二つの岩(松島・現在の竹島)を書いている。 http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2800/takeshima/t-takeshima.gif つまり、測量技術がなくとも、人間は有る程度の地図を書くことが出来るのである。 竹島を認識していれば、二つの島を南東に書くのは当然である。 それは朝鮮人の鬱陵島調査員も同じ事なのであるが彼らはしなかった。測量技術の有無は、言い訳にならない。これは、唯単に、当時の朝鮮王朝の公式の鬱陵島調査員が、于山島は竹嶼であるという認識が、 現代の韓国人にとっては不都合であるゆえの苦しい言い訳に過ぎないのである。