1899.09.23 皇城新聞
蔚珍之東海에 一島가 有하니 曰鬱陵이라 其附屬한 小六島中에 最著者는 于山島竹島이니.大韓地誌에 曰鬱陵島는 古于山國이라地方이 百里오三峰이 律兀한되 所産은所産X柴故、藁本、石楠、藍竹이오/土性은 宜麥하고 古에、牛形無角한 水獸가 有하니 名曰可之오、海鳥가 有하니 名曰 霍鳥ー러라ーXX島中人煙X稀少XX国家XX
まず、蔚珍の東に一島あり、鬱陵島と言う。 その付属小六島中、最も著者なのが于山島竹島と書いてある。
大韓地誌の付属圖を見ていただきたい。すると、ここに于山という一島と、南に5つの付属島が書かれている。これが付属小六島であるのは言うまでも無い。しかし、なぜ于山島竹島と、二つの名前が枯れているか?検証する。
「最も著者なのが于山島竹島」と書かれている。”最も”とは、最上級を表す言葉なので、これは一つと言う事になる。于山島と竹島二島ではない。
再び大韓地誌の付属圖をみてみる。鬱陵島の北東に于山島は記入されている。この于山島が竹嶼であることは鬱陵島捜討官の地圖等で判明している。
これらは、・円型の鬱陵島圖形 ・角型の鬱陵島地圖 ・金正浩の地圖 ・楕円形鬱陵島地圖などを確認してほしい。
また、朝鮮半島全体図や、江原道图などの鬱陵島簡略圖では、南の五島は省略されている。
朝鮮半島全体図や、江原道圖などの鬱陵島簡略圖には、鬱陵島本島と、その付属島である于山島だけが記載されている。これは、付属島である于山島が、記載に値する「最も著者な付属島」であるからである。
これらについては、歴代の朝鮮半島全体図や江原道地図などで確認をしていただきたい。
一例:1895.12.20.輿載撮要.朝鮮全圖(韓国中央図書館古朝60-20)
この地図帳の江原道图には、鬱陵島詳細図が記載されているが、最も著者である于山島と、南の五島が記載されている。
一方で、朝鮮半島全体図には、鬱陵島と、付属島である于山島が、記載に値する「最も著者な付属島」が記載されているが、著者な付属島でない南五島は省略されている。
次に、「于山島竹島」のうちの「竹島」だが、これは竹嶼Boussole Rockの事である。1905年以前、現竹島は”竹島”ではなくリアンコールドコールド岩であることは周知の事実で、この文章の”竹島”は現竹島ではない。朝鮮の捜討官の記録にも、いくつか竹嶼Bousole Rockはでてくる。一例で言うと、
1794.の江原道觀察使沈晋賢狀啓言に”竹島”
1882年の李1794.00.00圭遠の鬱陵島外圖”竹島 一曰 只有叢竹而已”
などに記述、記載がある。
また、日本側の地圖においても1880年の戦艦天城の調査で竹嶼を記載し、更に1883年の調査の地圖など竹嶼を竹島と記載している事、および1883年の水路雑誌・1894年の朝鮮水路誌に、竹嶼を附属島と認識できる記載をしている事から、日本側にとって最も著者な島である竹島(竹嶼)と言うことができる。既に此の時期には竹島が旧来の地圖に記載された于山島に替わって、竹嶼の新呼称?・として用いられていたと思われる。
韓国側認識で、鬱陵島の最大の附属島は于山島即ち竹島
皇城新聞の「于山島竹島」とは一体何か?を参照のこと。
日本側認識で、鬱陵島の最大の附属島は竹嶼
水路雑誌 1883
鬱陵島(一名松島)・・・省略・・・竹嶼(朝鮮人之を竹島と云う)を除くの外一岩嶼の岸より二鏈牟を出る者なし。竹嶼は此島の近海にて最大にして島の東海岸を距 る。七鏈竹嶼の北方約五鏈に一嶼あり。北方に向て洞穴二個並列す。
朝鮮水路誌 1894
鬱陵島(一名松島)海軍海図第五四号第九五号を見よ・・・中略・・・何れも鬱陵島の如く走界にして錘測も恃みとするに足をす然 れも竹嶋(此嶼は島の東濱を距る七鏈の處にあり)を除くの外、皆本島の崖岸を距る1/4里以上に出る者なし。島の北濱に接して孔岩あり岩を貫きて一大孔あ るを以て其形甚奇なり此岩と相對せる陸岸に高さ大凡八〇〇呎の花崗岩山あり滑面禿兀峻険にして形糖塔の如し。
*なお、これらの文献には、Liancourt Rocksは、鬱陵島とは別個に、Waywoda rockや朝鮮東岸の項のように別個に独立して記載されている。
1882.鬱陵島外図 李奎遠 1883.地図第4号 檜垣
1900.赤塚正助の鬱陵島からの報告.
つまり、「最も著者なの于山島竹島」とは、竹嶼の旧名である于山島と、1899年当時の名前である竹島という、二つの名前、つまり于山島竹島は竹嶼の一島二名を表したものなのである。
この話は、後に続く、大韓勅令41号の竹島石島はどの島か?にも関連しています。