安龍服は、朝鮮王朝からは、「漂風愚民で朝鮮王朝とは関係のない人物」であると正式に日本側代表者である対馬藩に正式に通告しているので、鬱陵島を巡る外交交渉には直接的には関係が無いのだが、一応供述を羅列しておく。
安龍福の供述をみてみると、それがばらばらで、矛盾が多いことが判る。
”于山島”へは行った事がない、といいつつも、終に此の島に行く事がない、といっているのに、實録では”松島”に行った事になっており、
于山島が鬱陵島の北東にあり大きな島であると、めちゃくちゃである。
また、安が本当に、日本の松島つまり今日の竹島(Liancourt)へ日本人を追走していたとすれば、それ以降の地図において、松島が
①鬱陵島の南東にあり、
②二つの主要な岩礁と、中央にひとつの燭臺巖、そして周辺に無数の岩礁からなる島だとか、
③その他特徴、つまり、海驢が多かったとか、
そのような情報が朝鮮王朝側の備辺司などに報告され、記録が残っていると思うのだが、安は漂風愚民の扱いを受けていて無視されたため、そのような形跡すらない。
そもそも、于山島が鬱陵島の東にかかれる契機となったのは、 安龍福の竹島一件によって、朝鮮王朝の命令を受け、鬱陵島へ調査へ出向いた張漢相や朴錫易などの、鬱陵島捜討官の影響であり、安龍服の為ではない。
・1694年以降の朝鮮王朝の鬱陵島捜討官の製作した鬱陵島詳細図
大谷家 竹島渡海由来記抜書書
(元禄5壬申年:1692)
第一箇条文御請
元禄五壬申年二月十一日米子より出船、隠岐国後後福浦江着岸、
三月廿四日福浦より出船、同廿六日朝五時に竹島之内いか島と申所に着船仕、様子見候得ば、鮑大分取上げ申様見不審に奉り存間、廿七日朝浜田浦へ参申内に、 唐船二艘相見申候、内一艘はすへ船、一艘は浮舟にて居申候、唐人三拾人計見え申候、右之浮舟に乗り此方之船より八九間程沖を通り、大阪浦と申所に廻り申候 右之内両人は陸に残居せし所、又小船に乗り参申候故、此方之舟に乗為申候間、何国の者と相尋候得者、一人は通辞にて、ちゃうせん国かはてんかわじの者と申 候故、此島之儀は元来日本の地にて、従御公方様、代々拝領仕、毎年渡海いたし候島にて候所に、何とて其方共、参候哉と相尋候者、此島より北に当り島有之、 三年に一度宛国王の用にて鮑取に参候、
国元は二月廿一日に類舟拾一艘にて致出船、難風に逢、五艘には、上五拾三人乗、此島三月廿三日に流着、、此島之様子見申候得者、鮑有之候間、致逗留、鮑取上げ候由申候 左候得者、此島を早々罷立候様にと申候得者、
船も少損し候故、造作仕、調次第に出船可仕候間間其許御船是江御すへ可被成と申候得共、此方にも舟をはすゑ不申、 先人許陸江上り見分仕候所、兼て此方より拘置候諸道具猟舟八艘見え不申候に付、通辞へ段々吟味仕候得者、浦々江廻し置候由申候、先此方之船すゑ申様にと申 候得共、唐人は大勢、此方は纔二拾一人にて御座候に付、無心元奉存、竹島より三月二十七日之七つ時に出船仕申候、然ども、何にても印無御座候ては如何と奉 存、唐人の拵置候串鮑少、笠一つ、網頭巾一つ、味噌かうじ一玉、致出船、四月朔日に石州浜田浦江着舟仕候云々
貴城瀕海漁民、此年行舟於本国竹島、竊為漁採、極是不可到之地也、以故士官詳論国禁、固告不可再、乃使渠輩尽退還矣、然今春亦復不顧国禁、漁氓四十余口、 往入竹島、雑然漁採、由是士官拘留其漁氓二人、而為質、於州司以為一時証、故我国因幡州牧速以前後事情、馳啓東部、蒙令彼漁氓附与弊邑、以還本土、自今而 後決莫容漁船於彼島、不侫今奉東都之命、以報知貴国 云々
嶋之儀公方様より拝領仕 毎年渡海いたし候 嶋にて候所に 何とて参候やと尋候へは 此嶋より北に当り嶋有之三年に一度宛国主之用にて 鮑取に参候 国元は二月廿一日に類舟十一艘出舟いたし 難風に逢五艘に以上五拾三人乗し此嶋へ三月廿三日に漂着、此嶋之様子見申候へは 鮑有之候間 致逗留 鮑取上けしと申候
大谷家文書「元禄六年竹島より伯州に朝鮮人連帰候趣大谷九衛門船頭口上覚」
(元禄6:1693)
伯州米子を二月十五日に出船仕 同十七日之朝雲州雲津へ参着仕
三月二日雲津を出船仕 隠岐国嶋前はし村へ同日に参着仕
三月九日迄同国に逗留仕 翌十日に嶋後福浦へ参着仕申候
卯月十六日に福浦を出船仕
同十七日の八ツ時分ニ竹島の内とうせんが崎へ参着仕
嶋へ上がり見申候得ハめのは大分ほし有之に付不審に奉存
近辺を見申候得は 唐人のわらぢ有之に付而弥弥無心元奉存候へ共 日暮に及ひ申候に付 其夜は其通に捨置
明ル十八日にはし船に加子五人私共弐人以上七人乗、西の浦を尋候へ共 唐人見へ不申に付それより北浦へ参見申候へは、唐船壱艘すへこ屋かけ仕唐人壱人居申候
こ屋の内を見申候へは蚫(あわび)めのは大分取上げ有之に付
彼唐人に様子相尋候得共 通じに而無御座ニ付 而わけ聞へ不申右の唐人はし船に乗せ大てんぐと申所へ尋参候得は
唐人拾人斗猟仕居候 内通じ壱人居申候故 此方のはし舟に乗せ前に北浦に而乗せ候
唐人は舟より上げ外に壱人以上弐人乗様子
相尋申候得は通じ申候は三月三日ニ此嶋へ猟可仕と存参着仕候由申候
舟は何艘乗参候哉 と相尋候は三艘に人数四拾弐人乗参候由申候
竹嶋之儀荒磯故 此方え舟無心許奉存弐人之唐人乗せ 此方の元船へ戻り申候
右之唐人つれ戻り申候
子細ハ去年も此嶋に唐人居申に付重而此嶋へ渡り猟いたし候
義堅無用之段おどししかり段々申候聞せ候処
亦当唐人猟仕居申候ニ付加様ニ御座候へは已後嶋之猟可仕様も無御座別
而迷惑ニ奉存乍恐何とそ御断可申上ためと奉存右之唐人弐人召連
卯月十八日ニ竹嶋を出船仕隠岐国福浦へ同廿日に参着仕候
然所ニ隠岐国御番所ニおいて私共被召出唐人之口上書上ヶ候様ニ被仰付候故私共申候ハ則唐人居申候御直ニ御間被遊候様ニ申上候得は尤の由御意被成唐人被召出様子御聞被成其上に而所々庄屋共出合唐人之口上書上ヶ申候
私共へも右唐人之口上書ニハ判仕候様ニ御意被成候へ共達而御断申上判形不仕候
其後ハ御番所より唐人ニ酒壱樽被遣候
同廿三日ニ福浦を出舟仕嶋前へ参着仕同廿六日嶋前より出舟仕同廿六日之昼雲州長浜へ参着同廿七日に米子へ入津仕候
当卯月廿七日
舟頭 黒兵衛
同 平兵衛
(現在作業中)
竹嶋の儀朝鮮にてはブルンセミと申し候由被申越候、竹嶋与書候而朝鮮読にブルンセミト申候哉、ブルンセミとハ如何様に書申候哉、鬱陵嶋与申嶋有是候、是を下下之詞にブルンセミとハ不申し候哉、日本に而者鬱陵嶋之儀を磯竹と申し候、鬱陵嶋とブルンセミは別の嶋に而有之候哉、ブルンセミを日本人は竹嶋と申候与申儀者、誰是拙に而被承候哉
ブルンセミ之儀者ウルチントウより北東に当たりかすかに相見申由承候事
元禄六年1693.09月04日大目付門野九朗が朝鮮人に門答した内容
3/15ウルサン(蔚山)発 3/25ブルカイ発 3/27エンハイ(平海?寧海?)辰刻発同日酉刻(3/27)鬱陵島着 エンハイ-竹嶋50里
一、彼島に古き小屋をこほち候道具御在候も一円存不申候、如何様日本人の住跡候ノ様に・・・・
一、彼島之名前を朝鮮にてムルグセムと申す候
竹島紀事 1-P10
竹島紀事 1-P16 17
今度参候嶋之名者不存候、今度候嶋より北東に当たり大き成る嶋これあり候。かの地逗留の内、ようやく二度、これを見申し候。彼島を存じたるもの申し候は、于山島と申し候通り申し聞き候。終に参りたる事はこれ無く候。大方、路法一日路余りもこれあるべく候哉与相見江申候由申候、鬱陵島与申す嶋之儀者 而不存候由申候、作然X人之申分虚実難斗候得共為御心得申進候、其元にX能御聞可被成候
竹島紀事 1-P17
輿地勝覧考申候処、于山嶋鬱陵島は別之嶋之様に見申候、作然一説には本一嶋与御座候ニ嶋ニ候哉、一嶋に候哉不分明候、芝峰類説杯には世に依聞名替り、畢竟は于山島鬱陵島者一嶋之様に相見申し候、朝鮮絵図には二嶋に圖有之候、則写候而進之申候、芝峰類説之文は御写被成候様に覚候故、輿地勝覧之文今度写遺不申候
竹島紀事 3-P21
輿地勝覧 与申書之内、蔚陵島之儀武陵共羽陵共申候、于山蔚陵者一嶋之由見へ申候、竹嶋与申名は見へ不申事。
竹島紀事 3-P21
同芝峰類説 与申書内、蔚陵嶋之儀武陵共羽陵共、又者于山国共磯竹嶋其申し候、壬辰変後に和人被焚涼人住不申候、近頃者日本人住居仕候由申し候与之事見え申し候、左候得は、壬申以来者日本之属嶋罷成申候段、朝鮮国中能存罷在候事
御櫓日記
(元禄6:1693)
元禄六年四月二十八日の条
一、
四月二十八日、例年之通竹島に鮑取りに参り候処
彼島に唐人居申候で猟不罷成戻り候に付
唐人二人船に乗せ参り候由、
此節荒尾修理米子に罷越し居申処修理より申越、
依之江戸へ七日割之御飛脚差出す、
江戸より御左右有之内は、唐人大屋九右衛門手前に差置き、
大和組中之内、作廻人申付足軽両人付置候様に修理に申遣候こと
同月晦日(4/30)、米子迄参り候唐人の口書並に所持候書三通さすが壱本江戸に七日割之御飛脚を以て差遣候事
同年五月十一日
アンビシュン気晴に出可申由、色々わやく申候由修理まで申来り候得共、
外に出し候事無用差図申事、且又酒給申度由候得共是又昼夜に三升より上は無用の由申達候事
五月二十六日の条
従江戸今月十六日之飛脚到来、朝鮮人之義公儀え御窺候処
御聞届長崎え送可被遣由之御仰出之旨申来此儀ニ付
今日不時の寄合於将監宅に相談有之事
今度朝鮮人長崎に被遭候儀、何も遂用談、海上無心元に付て陸地被遭候等に取極、
万々其御用意夫々役人え申渡候事
同月二十九日の条
今夕子の下刻、米子より宿送にて朝鮮人今朝米子発足、
明日爰元に到着申候注進之事
六月朔日の条
朝鮮人今晩米子より参着、今夕は大和(荒尾)所へ一宿明日会所へ参り可申事
同月二日
朝鮮人今晩会所に参り其節式部将監日向同道にて大和宅へ参り逢候事
同月五日の条
長崎への御使者、山田兵衛門、平井甚右衛門を式部宅へ呼寄せ、長崎御奉行の御書、
並道中御条目御書出等右両人え相渡申候、弥明後七日発足候様にと申聞候事
今辰の下刻、朝鮮人両人発足の事
朝鮮人当地罷立候江戸え申上候ため今日より九日割之御飛脚差出候事
同月七日
今朝辰の下刻朝鮮人両人発足の事
一竹島江渡海初発様子先頃於江戸松平美濃守殿御尋之由に付、
委細村川大屋に相尋て申越候様にと志摩より由来、
依之村川市兵衛儀修理へ申候て呼寄、書付差出候に付、
写し候て御奉書の写宗対馬守殿より荒尾内匠えの御状の写並に書付両通江戸え今日の飛脚に差遣候事
七月十八日の条
長崎より注進、両人朝鮮人道中無異、先月晦日長崎へ到着、
翌日朝鮮人無異儀御奉行所へ相渡由申来る事
同月二十四日の条
山田、平井両人長崎支社首尾能仕廻今日帰着無事
1693.12.00『邊例集要』巻17 鬱陵島 癸酉 竹島被捉人問目 http://db.history.go.kr/url.jsp?ID=sa_016
癸酉 (一六九三) 康熙三十二年 十二月 ,府使 成瓘時,竹島事出來差倭 橘眞重茶禮,與京接慰官 洪重夏,同往設行之日,竹島被擄人二名,禁徒倭領來,及其茶禮垂畢之時,差倭請與平坐,考前例,已有丁未·庚寅平坐之禮,故許就平坐,則差倭言曰,我國有竹島,貴國漁民,潜來魚菜,曾非一二,而責諭還送矣,今春四十餘人,又爲入來,其中二人,伯耆州太守,執質轉報江戶,附與本道,使之還送貴國,而日後倘復入往,或有潜商之獘,或有殺害之患,則豈不爲莫大之慮乎,願自今嚴立科條,更無如前之獘云云,臣等,以定奪辭意答之曰,今此漁民,入往竹島而被捉云,我國,亦有鬱陵島在海中,而我國立法,使不得出去外洋,未知被捉人等,或爲貪魚出海越境,有此被捉是喩,旣已被捉,則越境之罪,當爲治之,此後亦當嚴立科條,使不得越境云云,差倭曰,今以竹島被捉人說話之際,提起鬱陵島,抑有何意耶,臣等責譯官曰,汝必傳言不詳矣,因令往傳曰,爾國自有竹島,我國自有鬱陵島,本不干涉,而今此說話,提起鬱陵者,無他也,所
以明言我國之地,猶且嚴禁其入去之意,而非謂此罪人等,由蔚陵島,轉往竹島也,差倭曰,所敎辭意今已悉之,回答書契中,但以,措辭爲好,差倭又曰,大差疊到,貽獘貴國,心甚不安,日供熟供,決不欲受之,進上宴時,亦不欲受宴云云,其日供一款,急速指揮,以爲奉行之地事 啓。
回啓,今此漁民被捉於竹島,則事極驚駭,別爲申禁之意,撰書契下送,朝夕接供,依定式擧行事,更爲開諭,竹島見捉兩人處,竹島去伯耆州遠近幾許,發問目取招,星火啓聞。
1694.01 『邊例集要』巻17 鬱陵島 竹島形止 / 遺基礎石이相連함 / 生蒜處가多함 / 伯耆州水路里數
甲戌 (一六九四) 正月 ,竹島被捉罪人蔚山居朴於屯·安龍福處,發問目推問,則朴於屯招內,癸酉三月,租二十五石·銀子九兩三錢等物,載持貿魚次,自蔚珍向三陟之際,漂風到泊於所謂,而竹島至於伯耆州遠近事段,矣身留駐本島第三日,倭人七八名,不意中乘船來到,執捉矣身,仍自其島,發船經三晝四夜之後,始達伯耆州爲白乎旀,竹島大小周回段,其大,較之於釜山前洋絕影島, 則二倍有餘是白遣,周回則不能詳知,而所見極廣濶是白乎旀,山形段,山有三峯,高峻接天是白遣,其餘多是平廣之地,而川水,流出於海是白乎旀,樹木·芦竹 ·禽獸等物段,有柯重木·柄子木·香木,又有冬栢木是白遣,有大竹,其節甚長,其圍甚大,而直聳叅天是白遣,又有箭竹是乎旀,島中人戶居住事段,卽今雖無 居住之人戶,而相連,而空基,多有是白乎旀,本島去伯耆州水路里數事段,矣身被捉入去之時,得水疾,僵臥船中,只記其三晝四夜之後,得達,不能詳知是白乎旀,此島前後,更無他島云云,安龍福招內,山形草木等辭緣一樣,而末端良中,矣身被捉入去之時,經一夜,翌日晚食後,見一島在海中,比竹島頗大云云,緣由馳啓。 狀錄,無回下。
回答書契謄示 / 漁民冒禁越境
二月 ,,謄示於差倭,則以爲,蔚陵島何爲而擧論耶,答以,我國海禁極嚴,雖我國之蔚陵島,亦不許任意入往,況於他國之界乎,今此漁民,,當治其罪,申嚴其禁之意也,遣辭之際,其勢自不得不如此,差倭曰,回書中,只言竹島事固好矣,請删去蔚陵島之文字,答以首尾語意,極其穩順,請改之言,必無聽從之理事 啓。 無回下。
書契不許改 / 請刪蔚陵二字의 計가 倭人의 奸巧임
同月,差倭以爲,,勢不得已受去矣,今十五日入給云云,當初請删,其計實出於奸巧,而所以請删之意,則以其隱諱之故,前後之言,終不成說,及至不許删去之後,使之入給者,盖欲實其迫不得已之狀,以爲歸報島主之計,其爲情態,亦甚詐密事 啓。 無回下。
同月,書契別幅,依例設茶入給,至於禮單·日供,終始不捧而歸,館守言內,朝廷下送之禮單與日供,有異差倭,入去之後,如有通報之事,則不無追捧之勢云云事 啓。 狀錄,無回下。
鬱陵島名
同月,京接慰官別單,而海濤微茫之中,島之一與二,難可以明知,以難明之事,至發釁端於和好之隣邦,有非周愼之道,故姑爲分而二之之論,以示蔚島則爲吾土之狀,而方當還朝所聞說話,別爲開錄于左
第一條,差倭,或慮我國有爭卞之事,別爲帶來曉解文字之倭人,以此推之,似是差倭,亦知其爲一島二名,第二條,通事倭,問於譯官曰,罪人等,何不更推耶,答以,爾國旣云,入往竹島,則何可不信而更推乎,通事倭曰,誠然矣,迷劣罪人等,其所入往之島,爲竹島與,何能記得乎云云,以此推之,似是罪人等,以入往蔚陵島,爲言於彼中,第三條,差倭忽發言曰,蔚陵島,固知其爲貴國地,而壬辰後,爲日本占據者,芝峰說中,不有之乎,譯官答,以壬辰之被掠,豈獨蔚島而已,畢竟日本之所占據者,雖一草一木,莫不復歸於我國,蔚島自在復歸之中矣,芝峰謾筆,豈爲眞的可據之文,而乃敢援此爲言耶,差倭低頭不答,差倭以芝峰之所記,欲爲嘗試之計,譯官所答,破其肝膽,故差倭,乃以蔚·竹各自爲島之說,畢其言端,而終不敢以一島二名發說者,盖緣自反而不縮,第四條,差倭率來人摠兵衛曰,毋論蔚與竹,海島之中,,不無潜商之獘,蔚島,則自貴國禁其入往,竹島則,自日本禁其往來,可無後慮,譯官答曰,爾等宜以竹島亦禁之意,爲言於江戶矣,摠兵衛曰,竹島多大竹,爲其伐取需用,雖難一切禁斷,不許頻數往來,則似無逢着之患矣云云,第五條,摠兵衛曰,回書中,必入蔚陵文字,似有深意,何不言之耶,譯官曰,作文之際,欲明我國海禁之嚴,而證言我島亦禁之意也,豈有他意,摠兵衛曰,吾等,旣知蔚島之爲貴國地,自可有言於江戶,而但恐貴國,先入此二字於書中以送之,後復有次第卞問之擧矣,倘或如此,則島主豈不重得罪於江戶乎,
所慮在此云云,譯官曰,卞問之言,實是意外,將謂證何說卞何事耶,兵衛曰,人之思慮,無所不知故云,非必謂有可證之說可卞之事也云云,第六條,差倭問於譯官曰,蔚陵島,在於何邊海中耶,譯官曰,在於,差倭曰,,譯官曰,但知蔚陵而不聞竹島在何處耳,公則知蔚陵島自竹島相距幾何耶,差倭曰,吾亦但知竹島耳,差倭復問曰,蔚島山形何如,譯官曰,公等,不見 差倭笑曰,,兩島峯數,偶然相同,亦是恠底事云云,第七條,今以倭人前後語意觀之,則其爲一島二名之狀,可以推知,朝家以蔚陵二字,擧論於書契中,雖未若洞卞直斥之爲快,而其爲他日證信之資,則足可爲明文,事雖巽順,而意實深遠,差倭之請删,盖亦揣此,而以其猶愈於直與爭卞之故,終至順受而歸。
朴於屯 / 安龍福等倭人에 被捉함 / 漂到武陵島 / 倭人이 刀·銃으로 威脅함
八月 ,慶尙監營狀啓內,·安龍福·金加乙洞·金自信·徐化立·李還·梁淡沙里·金德生等,漂到武陵島,而其中 ·朴於屯二人,被捉於倭人,其餘各人迯還,各各取招則,矣等,,金德生等六人,下陸隱匿,朴於屯二人,未及下船之前,
差倭回書請改事 / 請刪蔚島云云 / 爾國人不來蔚島 我國人不往竹島 / 江戶에서 書契를 보면 蔚竹相混으로 島主를 責한다함
同月,府使 韓命相時,差倭 橘眞重,以回書請改事,還爲出來,及其茶禮之日,揷入蔚島,語甚模糊,日後如有難處之事,島主將未
免重罪,此豈非大可悶迫乎,,良以此也云云,臣等答曰,邊民之不許任意往來蔚島云者,非有他意也,兩國隣好歲久,我國海禁之事,亦欲使爾國聞知者,可見誠意相孚也,且竹島,不知在於何處,而爾國之人,,則有何後日難處之端,而必欲請删耶,正官又曰,,若以蔚·竹相混,咎責島主,則間於兩國者,勢將不安,有所不可不言者也,島主雖或躬進京中,暴白朝廷,不可不請删蔚島云云,大槩若欲因前覊縻之計,則一島二名之說,姑不可發端,而若欲洞卞情狀,以爲直斥之計,則使譯軰,往來脅持,數日之內,一島二名之說,自不得不發,故姑爲延拖,以待廟堂擇於斯二者,從長指揮事 啓。
一島二名之說
回啓,一島二名之說,旣有數日內不得不發之勢,則因使譯軰,更加詰問,得其明白之言,後許捧前後書契,急速上送爲白乎旀,所謂,倭人雖或發說是乎乃,我國書契,自當善爲措辭,不必以差倭之言爲證,亦使方便開喩宜當,所謂機權之事,未知何事,亦爲啓聞。
差倭가蔚陵島에 對한 詐欺의 迹을 掩蔽하려함 / 蔚陵島의 來脈證據民居形止를 書契로 回答하라고 請求함
同月,,以爲要切於日本之計,到今理窮勢屈,旣發一島二名之後,不可售其奸計,猝然變幻其辭說,反若輸誠於朝廷,欲掩其前日欺詐之迹,言于臣等曰,回答書契中,明其,詳細載錄,使日本人,洞然皆知更無後言云云,前日自禮曹回答書契及今番差倭賚書契,并以捧上上送事 啓
蔚島를 竹島로 換名하였음
回啓,今此差倭, 以,而又以我國漁氓,冒入其地,被捉於倭人樣,張遑辭說,請令嚴禁,及今一島二名現發之後,則又爲變說,反若爲我朝廷擔當宣力者然,情狀可惡,但念待遠人 之道,如此等事,不必摘快深責,反失其歡,回答書契,令該曹,撰出下送,爲此一事,再度往復,極涉支離,今番賚來本島書契及禮單雜物,并爲還退,東萊·釜山所送書契·雜物,亦令一體還給。
差倭가 書契改撰을 固請함
/ 十月 ,前書回書下來入給,則意,無非觸怒於日本之人,決難彌縫於江戶,請改撰入給,而各別嚴責,仍爲入給,今番差倭持來書契及物件,旣受還退,事理不可,請仍納書契物件後,受答云云,而自朝廷,不許責令,仍前分付還給事 啓。 無回下。
禮單還退와 書契無答으로差倭가 入去치 아니함
十二月 ,府使 李喜龍時,差倭言內,,事體未安,書契未受答之前,決無入去意事 啓。
回啓,初答書契之後,因其所請改給,今若又作後書回答,則不但遲離莫甚,其在國體,亦不無顧損,以此責諭,使差倭,不敢生意於受答宜當。
(1696.01:安龍福が朝鮮へ送還された3年後の1696年(元禄9年)1月、朝鮮との長期間に及ぶ交渉の結果、幕府は鳥取藩へ鬱陵島への渡航禁止を伝達した
第二回渡航後
隠岐國嶋後
長 上口三丈 下口貳丈
一 朝鮮舟壱艘 幅中に而上口壱丈貳尺 深サ四尺貳寸
・・・中略・・・(主に所持品・風体のメモ)
一 安龍福申候ハ竹嶋ヲ竹嶋と申候 朝鮮国江原道東莱 府ノ内ニ欝陵嶋と申嶋 御座候 是ヲ竹ノ嶋と申由申候 則 八道ノ圖ニ記之 所持仕候
一 松嶋ハ右道之内 子山(ソウサン)と申嶋御座候 是ヲ松嶋と申由 是も八道之圖ニ記 申候
一 當子三月十八日朝鮮國朝飯後ニ出船 同日竹嶋ヘ着夕 夕飯給申候由候
一 舟数十三艘ニ人壱艘ニ 九人 十人 十壱人 十貳三人 十五人程宛乗リ竹嶋迄参候由 人
数之〓(1)問候 而も一〓(2)不申候
(〓(1)は高?、〓(2)は圓?、桶野俊晴さんの解読による))
一 右十三艘之内十貳艘ハ竹嶋ニ而 若布鮑ヲ取 竹ヲ伐リ申候 此事ヲ只今仕候 當年者鮑多も無之由申候
一 安龍福申候ハ私乗参候船ニハ拾壱人伯州江参取鳥伯耆守様江御断之儀在之候越申候 順風惣布候而當地ヘ寄申候 順次第ニ伯州江渡海可仕候 五月十五日竹嶋出船 同日松嶋江着 同十六日松嶋ヲ出十八日之朝 隠岐嶋之内西村之磯ヘ着 同廿日ニ大久村江入津仕由申候 西村之磯ハあら磯ニ而御座候ニ付 同日中村江入津是〓湊初て故 翌十九日〓(3)所出 候而同日晩ニ大久村之内かよい浦と申所ニ船懸リ仕 廿日ニ大久村江参懸リ居申候 (〓(3)は波?、同上)
一 竹嶋と朝鮮之間三十里 竹嶋と松嶋之間五十里在之由申候
一 安龍福ととりべ貳人四年己前酉夏竹嶋ニ而伯州之舟ニ被連まいり候 其とりべも此度 召連参竹嶋ニ残置申候
一 朝鮮出船之節 米五斗三升入〓十俵積参候得共 十三艘之者共給申候ニ付 只今者飯米貧 ク成候由申候
一 伯州用事仕〓竹嶋江戻リ 十貳艘之舟ニ荷物ヲ積み改仕 六七月之此帰国仕リ殿江も運上ヲ上ケ申筈之由申候
一 竹嶋ハ江原道東莱府之内ニ而朝鮮國王之御名クモシ〓〓天下ノ名 主上(チュシャン)
東莱府殿ノ名 一道方伯(イルトハンバイ)同所支配人之名 東莱府使ト申候由申候
一 同年以前癸酉十一月日本ニ而 被下候物共書付之帳 冊出シ申候 則写之申候
・・・中略・・・
朝鮮船在之道具之覚書
・・・中略・・・
朝鮮人俗名
・・・中略・・・(同行人など)
朝鮮之八道
京畿道(キョクイドウ)
江原(カンオン)道 此道ノ中ニ竹嶋松嶋有之
全羅(チェンナ)道
忠清(チ・・・)道
平安(ペアン)道
咸鏡(ハンギョン)道
黄海(ハンバヘ)道
慶尚(ケムシャン)道
1828年完成 鳥取藩士江石梁(岡島正義)編述 『竹島考 下』
「東莱 私奴(賤民) 用朴 年三十三 長四尺一寸 面鉄髭暫生疵無 主京居呉忠秋」、裏面には「庚午 釜山佐自川一里 第十四統三戸」と記されている。
1696.09.12.院生日記 龍福은 本司의 堂上과 刑曹의 堂上이 齊會하여 究覈하고 金順立을 체포하여 보내라고 關文을 보내겠다는 備邊司의 계
又啓曰, 頃因江原監司沈枰狀啓, 罪人安龍福等十一名, 押送京中事, 覆啓分付矣。卽者龍福等十名, 纔以押來, 所當移刑曹推問, 而係關邊情事體, 與他罪人有異, 令本司堂上·刑曹堂上各一員, 齊會本司, 一一究覈稟處, 而其中金順立一名下陸之後, 卽還延安本土云, 今方密關分付, 使之掩捕上送矣, 敢啓。傳曰, 知道。備局謄錄
1696.09.25.粛宗実録 巻三〇 二十二年九月戊寅
備辺司、推問安龍福等、龍福以為、渠本居東莱、為省母至蔚山、適逢僧雷憲等、備説頃年往来欝陵島事、且言本島海物之豊富、雷憲等心利之、遂同乗船、 與寧海蒿工劉日夫等、倶発到本島、主山三峰高於三角、自南至北、為二日程、 自東至西亦然、山多雑木、鷹鳥猫 倭船亦来泊、船人皆恐、渠倡言欝島本我境、 倭人何敢越境侵犯、汝等可共縛之、仍進船頭大喝、倭言吾等本住松島、偶因漁採出来、今当還往本所、松島即子山島、此亦我國地、汝敢住此耶、遂 拾良翌暁沱舟入子山島、倭等方列釜煮魚膏、渠以杖撞破、大言叱之、倭等収聚載船、挙帆回去、渠仍乗船追趁、埣偶狂飆漂到玉隠岐、島主問入来之故、渠言頃年 吾入来此処、以鬱陵子山島等、定以朝鮮地界、至有関白書契、而本国不有定式、今又侵犯我境、是何道理云、爾則謂当転報伯耆州、而久不聞消息、渠不勝憤椀、 乗船直向伯耆州、仮称欝陵子山兩島監税将、使人通告、本島送人馬迎之、渠服青帖裏、着黒布笠、穿及鞋、乗轎、諸人並乗馬、進往本州、渠興島主、対坐廳上、 諸人並下坐中階、島主問何以入来、答曰、前日以兩島事、受出書契、不啻明白、而対馬島主、奪取書契、中間偽造、数遣差倭、非法横侵、吾将上疏関白、歴陳罪 状、島主許之、遂使李仁成、構疏呈納、島主之父、来懇伯耆州曰、若登此疏、吾子必重得罪死、請勿捧入、故不得禀定於関白、而前日犯境倭十五人、摘発行罰、 仍謂渠曰、兩島既属爾国之後、或有更為犯越者、島主如或横侵、並作国書、定譯官入送、則当為重処、仍給糧、定差倭護送、渠以帯去有幣、辞之云雷憲等諸人供 辞略同、備辺司啓請、姑待後日、登対禀処、允之。
沱-①1.涙の流れるさま。滂沱 2.大雨の様「滂沱」3.川の名前 沱川 兆候の一支流 ②水の流れるさま
1696.09.27 引見에 柳尙運 등이 입시하여 安龍福과 李仁成을 처치하는 문제, 安龍福과 李仁成의 일을 倭館에 언급하는 문제 등에 대해 논의함
引見時, 領議政柳尙運所啓, 安龍福等捧招, 昨已啓下, 今當稟定矣。臣意則龍福飄風虛實, 姑置勿論, 漂到之後, 有此作用, 卽一不畏法禁, 生事他國之亂民也。不可容貸, 而且彼國, 每於漂海人還送之際, 毋論漂到於何所, 必自對馬島還送, 乃是例也。雖尋常漂船, 亦且如此, 況此呈文之人, 不送對馬島, 直自其處出送, 而又爲成給文字, 不可不以此, 明白言及於彼中矣。龍福到彼所爲之事, 只憑其招, 亦有不可盡信者, 龍福則姑待渡海譯官還來後處斷, 似宜矣。上曰, 諸臣所見, 何如? 左議政尹趾善曰, 安龍福罪犯, 更無容貸之事, 不必久囚, 而領相所達, 誠然, 依此爲之, 似好矣。柳尙運曰, 昨日, 使刑曹判書金鎭龜, 往問於不入侍大臣處矣。使之仰達, 何如? 金鎭龜曰, 臣以領相之言往問, 則右議政徐文重以爲, 龍福爲人, 雖曰愚濫, 而此事所關, 亦爲不輕。自古交隣之事, 初似微細, 而或至於大段矣, 卽今對馬島, 居在兩國之間, 則勿論事之大小, 必以誠信待之, 無有隱諱, 似宜矣。島主之事, 龍福, 旣已往訴於伯耆州, 日後島主, 若或聞知, 則必以他路相通, 致疑於我國, 而亦必有憾怒之心, 因渡海譯官之行, 先爲通報, 而龍福等處置, 則姑爲仍囚, 以待彼中消息, 然後論斷, 似爲得宜云矣。行判中樞府事申翼相則以爲, 別無他見, 而第對馬島主處通告事, 似不可已, 至於聽其所言後, 處置罪人, 則有同稟令, 一邊通告, 而從速處斷, 似當云矣。臣觀右相之意, 亦非謂待彼所言, 然後處之也。姑先以龍福罪狀, 方自朝廷推問之意, 通於對馬島, 而徐觀彼中消息而處斷, 似宜云矣。兵曹判書閔鎭長曰, 安龍福之當初入去者, 必是直入彼境之意也, 若爲飄風, 則自對馬島還來, 乃是古例也。今則不然, 而又有上疏之事, 其罪誠不可貸, 而對馬島主處, 若不通之, 則旣非誠信以待之道, 而後患亦不可不念矣。且處置雖遲延, 當觀彼中事機而處之, 似好矣。吏曹判書崔錫鼎曰, 龍福, 雖曰無知常漢, 旣與作罪我境者有異, 而犯境爭地等事, 極爲陰兇, 生事邊境之罪, 何可容貸乎? 旣有此事, 而不爲通報於島主, 亦非誠信之道, 處置則當觀前頭事機爲之, 似好矣。金鎭龜曰, 安龍福不可容貸之事, 諸臣旣已陳達矣, 臣亦無他所見矣。對馬島主處, 則不可不速爲通告, 而處置事, 姑觀前頭事機而爲之, 未晩矣。
工曹參判吳道一曰, 龍福, 當斷一罪, 彼國之傳通事情, 事理皎然, 諸臣之議歸一, 臣固無用更議, 而但念安龍福之罪狀, 只是關係邊情, 事體重大而已。實則愚蠢之人, 希功罔上而已, 若竝與仁成而正法, 則誠恐過重, 仁成則次律施行, 似合矣。金鎭龜曰, 延安人金順立, 自襄陽先往他處, 故袐關于開城府及延安等處, 以爲捉來之地, 而姑無形影, 待其入來後, 似當一時處置矣。行副司直徐宗泰曰, 此事雖未有前頭憑問之端, 事或有不可知者, 其爲處斷, 旣非時日爲急, 姑爲更觀彼島聲息而處之, 爲當矣。上曰, 專主此事者, 安龍福也。勿論飄風犯境與否, 而爲此擧措, 其罪決不可貸也。且對馬島, 居在兩國之間, 則龍福, 所當自馬島付送, 而今則直自伯耆州送來, 旣非前例, 且爲上疏, 詆毁島主, 則日後島主, 必無不知之理, 似不可不通告於對馬島, 而待其渡海譯官之歸, 處之, 尤爲詳備矣。柳尙運曰, 此事關係非細, 發遣備局郞廳, 以上敎問議于領府事南九萬, 領敦寧尹趾完以來, 更稟處之, 何如? 上曰, 依爲之。柳尙運曰, 李仁成, 製給龍福之疏, 其罪亦重, 而若以首從言之, 則龍福爲首, 仁成爲從。仁成則斷以次律, 其餘各人, 以海曲愚氓, 只聞龍福敎誘之言, 爲海採而去, 竝置而不論, 似宜矣。上曰, 李仁成, 頗知文字, 故亦助成此事矣。旣已助成此事, 則其罪比他人雖重, 而較諸龍福, 則似下一等矣, 其他人等, 俱是脅從, 同謀之迹, 似無可問矣。尹趾善曰, 龍福有意入去之狀, 的然無疑, 渠旣不文, 必求仁成之稍解文字, 敎誘率往, 則仁成, 不無當初謀議之迹, 而雖或見欺而往, 其可駭之文, 皆出於其手, 則作此文書, 生事於他國之後, 豈有可生之理乎? 臣意, 決不可容貸也。閔鎭長曰, 李仁成, 雖有罪, 比之龍福則差輕, 若一體論斷則似過矣。此外諸人, 必是脅從, 似不可問矣。崔錫鼎曰, 國家用罰, 必觀其情犯之如何, 以情言之, 則龍福當爲首惡, 而仁成乃其次也, 分等論罪, 似好矣。金鎭龜曰, 仁成, 旣作其文書, 其罪亦不可容貸, 而觀其情狀, 則比龍福差輕, 雖用次律, 似不爲失刑矣。吳道一曰, 一罪論斷, 須十分無疑, 然後可以論之。仁成, 雖已作文, 而亦無顯然知情之事, 不論首從, 一體論斷, 似爲太過矣。徐宗泰曰, 李仁成, 其初似無知情之事, 而到彼後, 作成文字, 出於龍福之敎誘迫脅, 則情犯, 與龍福有間, 用以次律, 似當矣。金鎭龜曰, 觀李仁成私記冊子, 此非還歸後爲之者, 乃在彼中時所記, 而以爲龍福在彼時, 勸我作文而誘脅之, 渠以日後得罪之事爲慮, 則雷憲, 以其五寸叔, 亦勸之, 故爲之云。以此觀之, 仁成, 似不可以知情, 斷之矣。其餘他人, 旣愚且迷, 必是脅迫於龍福之致, 似不宜更問矣。上曰, 左相之以李仁成事陳達之言, 不爲無見, 而第以情罪言之, 則龍福, 旣是首惡, 決不可活, 而仁成之作文, 似爲脅從, 減等無妨, 其餘則放釋, 宜矣。柳尙運曰, 此事, 使東萊府, 言及倭館耶? 上曰, 此豈可使東萊府使言及耶? 當有國書矣。柳尙運曰, 若只言龍福處置之事, 則當使東萊府使言及, 而竝及伯耆州違法之事, 則似當有國書。前去渡海譯官, 已發船, 則似當別送一譯矣。李仁成, 雖論以次律, 旣是受罪之人, 則不可輕放, 與龍福姑爲仍囚, 其餘八人, 則姑待其一人捉來, 且待在外大臣處, 問議以來後放送, 而雷憲, 雖曰有勸成疏文之事, 不可又爲分別定罪矣。上曰, 依爲之。首惡次律, 旣已分等, 其餘則一體處之, 可也。已上備局謄錄
大臣·備局堂上引見入侍時, 左議政尹趾善所啓, 安龍福事, 備局郞廳, 問於在外大臣處, 書其所言而來矣。領敦寧府使[領敦寧府事]尹趾完則以爲, 安龍福, 私往他國, 猥說國之重事, 彼或認爲朝廷所使, 則事之可駭, 莫此爲甚, 論其罪犯, 當殺無疑。但念馬島之人, 從前欺詐, 無有紀極者, 以我國非渠, 不得通江戶之故耳。今知別有他路, 則必將大生恐㤼之心, 而聞龍福之被誅, 則又喜其路之永塞矣。我國之誅龍福, 以法則是, 以計則非, 廢法固不可, 失計亦可惜。今者廟謨已定, 何敢獨爲異議? 然所以誅之者, 爲慮後弊, 以警我人而已, 至於通報島中, 梟示館外, 以快狡倭之心, 未免爲自損之歸云。
領府事南九萬以爲, 龍福, 癸酉年, 往鬱島, 被擄於倭人, 入去伯耆州, 則本州成給鬱島永屬朝鮮公文, 且多有贈物, 出來時, 路由馬島, 公文·贈物, 盡爲馬島人所奪云, 而不以其言, 爲必可信矣。今見龍福, 再往伯耆州呈文, 則前言似是實狀。龍福之冒禁再往鬱島, 及漂到他國, 假稱監稅, 將至於上疏呈文, 挑出事端之罪, 固不容誅矣。然而對馬倭之假稱鬱陵以竹島, 虛托江戶之狀, 欲使我國禁人往來於鬱島, 其中間欺誑操弄之狀, 今仍龍福而畢露, 此則亦一快事也。龍福之有罪無罪, 當殺不當殺, 自我國徐當議處, 馬島之米·木·紙等減分細瑣之事, 皆不當擧論矣。至於事係鬱島, 變幻欺謾之狀, 不可不困[因]此機會, 使萊府送書馬島, 條列詰問, 明辯而痛斥之矣。
若更有巧飾不服之言, 自我又送書以問曰, 汝居兩國間, 凡事之無信如此, 龍福, 以漂風賤氓, 無國書, 自爲呈文, 日本之不可取信, 固也。自朝廷, 將欲別遣使臣於日本, 以審其虛實, 汝將何以處之云爾, 則馬島倭, 必大生恐㤼, 服罪哀乞。夫然後, 龍福之罪, 自我議其輕重而處之。鬱島事, 使倭人不敢更有所開口, 則狡倭嘗試之計, 庶可少縮矣。操縱之權在我, 而日後之患可慮, 此實不可失之機, 乃是上策也。如不能然, 亦宜使東萊府使, 送書於島主, 先陳龍福擅自呈文之罪, 更陳本島奪取龍福公文之狀, 且陳本島虛稱竹島之失, 分數開說, 委曲措辭, 待其回答, 然後處之, 可也。龍福斷罪之意, 決不可語及於書契中矣, 此爲中策也。至若馬島用奸欺我之狀, 則不問而置之, 龍福呈文辯正之罪, 則先論而殺之, 惟求得免於島主之憾恨, 其示弱甚矣。且島主之意, 雖內以快其讐爲幸, 外必不肯釋然感謝於我, 今後凡事, 少有不如其意者, 反必以龍福藉口, 爲侮脅我國之語柄, 不久將以鬱島執言, 而連續送差, 我何以堪之乎? 似是下策云。
彼在外大臣之意, 皆以爲, 殺龍福則正中島主之奸計云, 而南九萬之上策, 似難輕議。且龍福, 非偶然飄風之比, 而自伯耆州, 私自往來, 朝家不罪龍福, 而專責馬島, 則有若自朝家使爲者然矣。安龍福·李仁成, 則姑爲因囚, 待首相出仕後處之, 其餘脅從者, 朝家旣溥之生議, 則滯囚可慮, 先爲放釋乎? 上曰, 領府事上策, 未知, 何如? 待領相出仕後, 更加商議稟處, 似好。龍福·仁成, 待大臣問議後處之, 此外諸人, 則先爲放送, 可也。知中樞府使[知中樞府事]申汝哲曰, 久在病伏中, 未得參於廟議, 而第聞龍福之事, 斷以死罪云, 臣意則不然。龍福, 以濫猾之民, 稱以國使, 呈文他國, 其所爲, 極其過甚, 而犯越之罪, 當死無赦。然而功過相準, 國家所不能爲之事, 渠以無知小民, 能爲上書於彼國, 島主之居在中間, 欺蔽江戶, 出船自食等事, 盡言之, 在外大臣所謂, 殺龍福, 則島主必悅之云者, 其言正是矣。龍福, 不可以一罪斷之矣。尹趾善曰, 不殺龍福, 則末世奸民, 必多生事他國者, 義州民人等, 亦多有效之者, 龍福, 何可不殺乎? 上曰, 在外兩大臣及訓將之言, 不無所見, 而今此龍福之事, 不害於國, 而只是島主之事而已。日後奸民, 若因此效尤, 有以國家袐密之事漏通者, 則甚爲可慮, 此亦有所見矣。待領相出仕後處之, 可也
1696.10.23 院政院日記 引見에 尹趾善 등이 입시하여 개인적으로 伯耆州에 가서 鬱陵島에 대해 公文을 받고 상소도 呈文한 安龍福의 처리에 대해 논의함
大臣·備局堂上引見入侍時, 左議政尹趾善所啓, 安龍福事, 備局郞廳, 問於在外大臣處, 書其所言而來矣。領敦寧府使[領敦寧府事]尹趾完則以爲, 安龍福, 私往他國, 猥說國之重事, 彼或認爲朝廷所使, 則事之可駭, 莫此爲甚, 論其罪犯, 當殺無疑。 但念馬島之人, 從前欺詐, 無有紀極者, 以我國非渠, 不得通江戶之故耳。今知別有他路, 則必將大生恐㤼之心, 而聞龍福之被誅, 則又喜其路之永塞矣。我國之誅龍福, 以法則是, 以計則非, 廢法固不可, 失計亦可惜。今者廟謨已定, 何敢獨爲異議? 然所以誅之者, 爲慮後弊, 以警我人而已, 至於通報島中, 梟示館外, 以快狡倭之心, 未免爲自損之歸云。領府事南九萬以爲, 龍福, 癸酉年, 往鬱島, 被擄於倭人, 入去伯耆州, 則本州成給鬱島永屬朝鮮公文, 且多有贈物, 出來時, 路由馬島, 公文·贈物, 盡爲馬島人所奪云, 而不以其言, 爲必可信矣。今見龍福, 再往伯耆州呈文, 則前言似是實狀。龍福之冒禁再往鬱島, 及漂到他國, 假稱監稅, 將至於上疏呈文, 挑出事端之罪, 固不容誅矣。然而對馬倭之假稱鬱陵以竹島, 虛托江戶之狀, 欲使我國禁人往來於鬱島, 其中間欺誑操弄之狀, 今仍龍福而畢露, 此則亦一快事也。龍福之有罪無罪, 當殺不當殺, 自我國徐當議處, 馬島之米·木·紙等減分細瑣之事, 皆不當擧論矣。至於事係鬱島, 變幻欺謾之狀, 不可不困[因]此機會, 使萊府送書馬島, 條列詰問, 明辯而痛斥之矣。彼若更有巧飾不服之言, 自我又送書以問曰, 汝居兩國間, 凡事之無信如此, 龍福, 以漂風賤氓, 無國書, 自爲呈文, 日本之不可取信, 固也。
自朝廷, 將欲別遣使臣於日本, 以審其虛實, 汝將何以處之云爾, 則馬島倭, 必大生恐㤼, 服罪哀乞。 夫然後, 龍福之罪, 自我議其輕重而處之。鬱島事, 使倭人不敢更有所開口, 則狡倭嘗試之計, 庶可少縮矣。操縱之權在我, 而日後之患可慮, 此實不可失之機, 乃是上策也。如不能然, 亦宜使東萊府使, 送書於島主, 先陳龍福擅自呈文之罪, 更陳本島奪取龍福公文之狀, 且陳本島虛稱竹島之失, 分數開說, 委曲措辭, 待其回答, 然後處之, 可也。龍福斷罪之意, 決不可語及於書契中矣, 此爲中策也。至若馬島用奸欺我之狀, 則不問而置之, 龍福呈文辯正之罪, 則先論而殺之, 惟求得免於島主之憾恨, 其示弱甚矣。且島主之意, 雖內以快其讐爲幸, 外必不肯釋然感謝於我, 今後凡事, 少有不如其意者, 反必以龍福藉口, 爲侮脅我國之語柄, 不久將以鬱島執言, 而連續送差, 我何以堪之乎? 似是下策云。在外大臣之意, 皆以爲, 殺龍福則正中島主之奸計云, 而南九萬之上策, 似難輕議。且龍福, 非偶然飄風之比, 而自伯耆州, 私自往來, 朝家不罪龍福, 而專責馬島, 則有若自朝家使爲者然矣。安龍福·李仁成, 則姑爲因囚, 待首相出仕後處之, 其餘脅從者, 朝家旣溥之生議, 則滯囚可慮, 先爲放釋乎? 上曰, 領府事上策, 未知, 何如? 待領相出仕後, 更加商議稟處, 似好。龍福·仁成, 待大臣問議後處之, 此外諸人, 則先爲放送, 可也。知中樞府使[知中樞府事]申汝哲曰, 久在病伏中, 未得參於廟議, 而第聞龍福之事, 斷以死罪云, 臣意則不然。龍福, 以濫猾之民, 稱以國使, 呈文他國, 其所爲, 極其過甚, 而犯越之罪, 當死無赦。然而功過相準, 國家所不能爲之事, 渠以無知小民, 能爲上書於彼國, 島主之居在中間, 欺蔽江戶, 出船自食等事, 盡言之, 在外大臣所謂, 殺龍福, 則島主必悅之云者, 其言正是矣。龍福, 不可以一罪斷之矣。尹趾善曰, 不殺龍福, 則末世奸民, 必多生事他國者, 義州民人等, 亦多有效之者, 龍福, 何可不殺乎? 上曰, 在外兩大臣及訓將之言, 不無所見, 而今此龍福之事, 不害於國, 而只是島主之事而已。日後奸民, 若因此效尤, 有以國家袐密之事漏通者, 則甚爲可慮, 此亦有所見矣。待領相出仕後處之, 可也。
1696.10.23. 引見에 兪集一이 입시하여 招辭의 앞뒤가 맞지 않은 安龍福의 신문에 대해 논의함
引見入侍時, 左副承旨兪集一所啓, 臣頃見安龍福文書, 其中有數件更爲鉤問之事, 敢此仰達矣。臣頃年奉使東萊之時, 推問於龍福, 則伯耆州所給銀貨及文書, 馬島之人劫奪云云, 故其時, 封其招辭, 以私書通于大臣矣。今番渠之呈于伯耆州也, 以爲馬島之人, 僞稱以二千金贖渠出送本國爲辭, 而欲徵其銀於本國云云, 以此條列於七害之中, 前後之言, 大段相反, 且馬島之人, 元無以贖銀來徵於我國之事, 夫與他國相爭之事, 必須明白, 然後可以折服, 而所言若是做作, 則必不見信於他國, 情狀可惡。且壬戌年信使時約條之事, 初無文書, 亦涉袐密, 若無傳說之人, 龍福何以得聞, 而有此呈訴他國之事乎? 倭人往來於鬱島, 今已歲久, 曾前屢次漂倭, 皆以爲竹島, 卽伯耆州食邑云, 以此觀之, 則伯耆州之人, 必不以龍福之一言, 快稱朝鮮之地, 而龍福呈文中, 累稱鬱島之爲本國地云, 而倭人許多問答說話及龍福出送文書中, 一不擧論鬱島事, 未知倭人難爲辭而不復提起乎? 抑龍福元無言及於彼國者, 而擬作此書疏, 欲爲誇張要功之地乎? 此等事情, 極涉可疑, 更爲推問, 覈得其實狀後, 論罪, 宜矣。臣適知玆事本末, 故敢此仰達, 下詢于大臣處之, 何如? 趾善曰, 龍福之言, 多有虛僞, 不可取信, 以此發爲問目, 更爲詳細究問, 宜矣。上曰, 依爲之。 備局謄錄
1697.03.27 柳尙運 등이 입시하여 禁令을 범한 安龍福을 처벌하는 문제, 北道의 노비들을 免賤하는 문제 등에 대해 논의함
領議政柳尙運所啓, 安龍福, 旣犯禁令, 論以國法, 不可容貸, 臣等初以此意稟定, 而姑待渡海譯官之廻還, 欲知彼中動靜而處之矣。 其時領敦寧府事尹趾完, 領中樞府事南九萬, 皆以爲, 龍福, 罪雖當死, 而事機不可殺爲言, 諸大臣, 習知彼中事情, 故有此容貸之論也。 上曰, 其時左相, 曾已入達矣。 柳尙運曰, 渡海譯官回還時, 島倭送書, 歸罪於已死之前島主, 而鬱島則禁倭人, 使不得往來, 狡倭情狀, 巧詐萬端, 雖未知緣何自服如此, 而差倭遺以謾書之後, 久無消息, 無他端而猝有此自服之事, 以此觀之, 似不可無所以致此之由。 況今玆事, 未及結句, 龍福, 雖有犯法之罪, 徑先處斷, 不如姑觀前頭之爲愈矣。 上曰, 安龍福所犯, 不可不論以一罪, 而領府事·領敦寧及頃日筵中申汝哲, 所見皆同, 以爲若殺龍福, 則彼無忌憚之心云者, 亦出於深慮, 故欲觀勢處之矣。 今者無他端, 而彼乃順服, 此必有曲折, 以法論之, 則不可容貸, 而事機如此, 減死遠配, 可也。 又所啓, 因掌隷〈院〉草記, 有稟處之命, 而觀其措語, 則北道奴婢等免賤補充隊, 作紙願納人處, 已爲捧上用下, 自本道留補賑資, 則勢將狼狽云。 北道奴婢, 無免賤之事, 則將何以爲用度乎? 該院用度, 姑置勿論, 北道人應納作紙, 願納人處先捧, 而使之下往, 私捧於應納人, 則便是防納, 事極可駭, 當該官員, 姑先從重推考, 觀其緘辭而處之, 何如? 上曰, 依爲之。 又所啓, 乙亥年間, 判府事申□□箚陳各司弊端, 有從便變通之敎, 當以別單啓下, 而因臣等有故, 久未擧行, 其中訓局軍兵犒饋時, 貽弊不貲, 此一款, 爲先變通, 然後可以啓下別單, 而訓鍊大將, 一不赴備局之坐, 因仍置之, 亦涉未安, 故送議于都提調, 則以爲, 舊規猝難變通, 戶判例兼提調, 犒饋時, 使戶判往見, 禁止弊端, 爲可云。 戶判雖往見, 似無實效, 而係是舊規, 亦難擅便, 敢此仰達矣。 上曰, 本軍門犒饋, 無大段掣肘事耶? 禁衛·御營廳, 則自本軍門犒饋, 而各司進排器具矣。 左議政尹趾善曰, 禁衛·御營廳, 則自本軍門犒饋, 而器具則使各該司進排矣。 訓局亦用此例, 則事甚便當矣。 上曰, 戶判往見犒饋, 則有益於除弊乎? 戶曹判書李世白曰, 實爲無益矣。 上曰, 器具則令各該司進排, 犒饋則依他軍門例, 令本軍門爲之, 可也。 引見時, 今番奏請使行, 陳奏一起加磨鍊事, 榻前定奪。 戶曹判書李世白所啓, 右議政崔錫鼎箚子, 第十條崇節儉一款, 因領議政柳尙運陳達, 有各陳所見之敎, 大臣所達之言, 至矣, 而大凡崇儉, 非一事二事所可爲也。 每事必以儉約爲意, 庶可有實效矣。 以臣待罪本職言之, 竊見近來闕內進排外, 諸上司策應之物, 頗爲繁夥, 與臣二十年前, 爲本曹郞官時所見, 大異。 此亦出於漸尙侈大之致, 而倉卒之間, 不得歷數, 退出後, 抄出乙亥裁減外, 又可以裁省者, 問議于大臣, 更爲稟處, 何如? 上曰, 依爲之。 以上備局謄錄
1697.03.03.兪命雄이 入侍하여 生伊의 일, 李東郁 등의 일, 安龍福의 일 등을 논의함
掌令兪命雄所啓, 罪人生伊事, 李東郁等事, 安龍福事。 上曰, 勿煩
1698.03.20 院政員日記 24년 3월 20일 (을미) 원본377책/탈초본20책 (13/14) 1698년 康熙(淸/聖祖) 37년
○ 引見入侍時, 左議政尹趾善所啓, 鬱陵島, 間二年送人搜討事, 曾已定奪矣。今若送之, 則四五月風和之時, 可以往來, 本道邊將中定送, 似宜矣。上曰, 其時定以間二年入送, 依前定奪爲之, 可也。趾善曰, 前者張漢相騎往之船, 皆已朽破, 本道請賣, 補用於賑資, 故旣已許之矣。卽今改造, 實有巨弊, 以東海齊船乘往, 亦不妨矣。判敦寧徐文重曰, 東海船, 皆是槽船, 勢難往返於遠海, 如欲改造, 其弊不貲, 以慶尙道各浦兵戰船定送, 似好矣。上曰, 依爲之。又所啓, 卽接監賑御史閔鎭遠狀啓, 則自該曹成送空名帖盡賣後, 願募者又有二千六百餘人, 而旣已受價者, 亦至四百餘人云, 今難還給其所捧之價, 勢當依此數成送矣。上曰, 不幸連凶, 賣爵之擧, 雖甚苟艱, 而旣受其價, 則不可不成送矣
1698.04.20 승정원일기 숙종 24년
領議政柳尙運所啓, 右議政崔錫鼎, 以接伴事馳啓, 申厚命, 亦陳疏下備局矣。趙亨期, 旣已遞來, 海運未及到泊, 則申厚命, 依朝令仍察接伴之任, 事體當然, 而如是先自陳聞, 未知其得當也。當初船泊處, 以鐵山爲定, 接伴使, 急差以送, 而今則旣以灣府, 定爲處所, 則接待之際, 似無未及周旋之理。申厚命, 則使之依前定奪, 仍察伴任, 而至於義州府尹兼帶一款, 恐難創此前例罕有之事矣。上曰, 依此爲之, 而義州府尹兼察, 事甚苟且, 不可爲之矣。又所啓, 栗島飢民, 若於麥秋後, 卽爲放散, 則不但飢民之終爲道殣, 貽害農民, 亦且不貲, 白給米四千石, 當爲分給都下民, 而其中數百石劃給米, 栗島賑所, 限七八月, 仍爲留賑, 而經夏饋粥, 必多死亡, 使之間間炊飯以饋, 而白給米運來遲速, 有不可知, 以先來北米, 爲先代給, 姑待白給米之來, 充上, 何如? 上曰, 依爲之。又所啓, 鬱陵島定送邊將搜討事, 曾已定奪, 分付本道矣。今觀所報, 則頃年張漢相入去時, 糧米二百石給送, 而本道各邑, 今難辦此, 必須分定嶺南船隻, 則以本邑所在船改修, 水夫亦當分定一半嶺南云。今則與初去之時, 有異, 糧米及船隻水夫, 當減定三四分之一, 而如是分定往復之際, 必致節晩, 事勢如此, 姑待明春入送, 何如? 上曰, 當初不知水路, 故磨鍊太過, 今則旣知程途。且以間二年看審定奪, 朝令不可數改, 依當初稟定入送, 爲可矣。判敦寧徐文重曰, 旣不造船, 則無大段治行之事, 依下敎入送, 似宜矣。柳尙運曰, 四五月, 當爲風和之節, 而當初分付, 在於差晩之後, 往復之際, 勢將未及發船。五月之初, 且此入送搜討之擧, 旣已定送官人, 則雖已一番往審, 他國人所往來之地, 亦不可草草發送, 致有疎虞之慮。故臣自外送議於領府事南九萬, 則亦以爲然, 朝令旣下之後, 不當還寢, 而事勢亦有不可不商量者, 故仰稟矣。上曰, 然則待明年入送, 爲宜, 而預爲分付, 趁早發, 可也。又所啓, 先來北米, 纔已到泊, 依前定奪分給京畿外, 五千餘石, 則自賑廳捧上, 而都下之民, 以還上分給, 則秋間收捧, 爲難。故方爲定價發賣, 分俵諸道, 餘數無多, 以此還充經費, 其數幾許, 且有司之臣, 豈不料理充補, 而必有定奪, 然後可以擧行, 故仰達矣。此皆出於地部經費, 戶曹判書, 亦且主管財賦, 而卽今戶曹判書李濡, 久未行公, 不得行公, 不得相議。令賑廳堂上, 與地部官相議, 勿論多少遲速, 以先運北來之劃給於賑廳者, 隨其發賣, 別爲料理, 以爲還充地部所費銀貨之地, 何如? 上曰, 此則不可不爲, 以此分付, 可也。判尹閔鎭長所啓, 今此船運淸米五千六百石, 欲爲發賣於都民矣。旣曰發賣, 則不可以白給, 混於其間, 而京畿水營永宗鎭及司饔院·掌樂院請給之穀, 大臣, 皆以白給施行。大臣之意, 蓋以彼中白給之穀, 用之給貸, 名義不當, 而臣意, 則給代[給貸], 亦是賑饑, 以其白給之穀, 用之給代[給貸], 似無所妨, 故敢達。柳尙運曰, 此與臣相議者也。所謂白給米上來京廳者, 不過四千餘石, 而彼旣曰白給, 則自此亦以白給, 分賑於民, 名義似爲得之矣。鎭長曰, 今雖發賣, 折價不多, 無以充其本價, 而以買取之穀, 用之白給, 尤爲可悶。且接伴使趙亨期所報中, 倉石一斛, 雖爲十四斗, 而以江都斛子留在, 灣府者, 量之, 則恰爲十五斗云矣。到今船運之時, 則別造七斗容入斛子上送, 使之以此斗量, 此斛二斛, 當爲十四斗, 而十四斗, 當爲倉石一斛云。旣曰, 恰爲十五斗, 而又令以七斗斛子斗量者, 未知何故。而一斛, 若以十四斗計捧, 則五千六百〈石〉中所縮甚多, 尤爲不實矣。上曰, 參酌事勢, 從便爲之, 可也。已上備局謄錄
1698.06.24 승정원일기 숙종 24년 .張漢相爲柒谷府使
都目政, 以金聖源爲谷城縣監, 閔周昌爲金浦郡守, 李泰齊爲司圃別提, 李洙爲麟蹄縣監, 李賀朝爲富平縣監, 南就明爲持平, 李臣龍爲衿川縣監, 姜鋧爲刑曹參判, 南淵爲陽城縣監, 南晳明爲咸昌縣監, 李德玄爲司䆃直長, 鄭載隆爲理山郡守, 吳時中爲郭山郡守, 張漢相爲柒谷府使, 崔鼎鉉爲富寧府使, 金壽會爲昆陽郡守, 沈欞爲明川府使, 閔任重爲昌城府使, 申灠爲東部主簿, 魚史徽爲利川府使, 宋相琦爲韓山郡守, 金尙鉉爲典牲直長, 柳重亨爲益山縣監, 李尙爲慶源府使, 李綖爲懷德縣監, 趙公輔爲內贍奉事, 金萬胄爲泰川縣監, 權以鎭爲兵曹佐郞, 李斗相爲廣興主簿, 尹源爲高城郡守, 李堅爲軍資奉事, 趙最爲內贍直長, 南正重爲副校理, 柳重茂爲掌樂正, 李翊亮爲監察, 權德玄爲司䆃主簿, 朴紳爲瑞山縣監, 韓世讓爲瑞興縣監, 申泳爲龍安縣監, 崔東濟爲幽谷察訪, 曺夏卿爲順天府使, 朴明義爲安州牧使, 權卨爲禁府都事, 李彦准爲珍山郡守, 李晩成爲星州牧使, 黃鋿爲繕工奉事, 金楺爲戶曹正郞, 李焌爲司僕主簿, 朴大需爲內資直長, 愼惟益爲工曹佐郞, 尹爾霖爲全羅都事, 朱格爲直講, 趙宇景爲尙衣別提, 黃胤耉爲監察, 朴聖漢爲戶曹佐郞, 李肇爲說書, 朴起祖爲繕工直長, 洪處宙爲廣興奉事, 李焌爲司評, 成碩藎爲順興府使, 柳鳳長爲活人別提, 金硏爲軍器判官, 趙宇衡爲司宰主簿, 尹一商爲軍器僉正, 申鳴華爲典牲奉事, 朴泰舒爲宗簿直長, 李益興爲典牲主簿, 沈齊賢爲工曹佐郞, 權始經爲咸鏡都事, 李誠中爲宗簿直長, 李廈成爲義盈主簿。
○ 行副護軍權以鎭疏曰, 伏以, 孟子曰, 有官守者, 不得其官守則去, 此人臣事君之第一義也。無狀賤臣, 忝叨邊寄, 則邊臣之所守者, 莫大於城池, 故臣上任之初, 金井山城事, 再度狀聞, 寔出於法例事理之所不可已, 徒增猥越之罪, 未蒙採施之效, 祗蒙廟堂指揮, 令與道臣商量, 而至今三載, 亦未有道臣之的確分付。臣於官守, 旣不能得, 又不能去, 安坐哺啜, 滿瓜而歸, 若臣之幺麼一邊吏, 固不足與論於進退之義, 而辜負聖恩, 哺啜爲事, 則臣雖賤如螻蟻, 亦不忍自待如是之賤, 玆敢冒萬死, 陳暴此城事理, 欲以效職分之萬一, 伏乞聖明, 試垂察焉。竊照我國地方, 東南際海, 與之爲仇而爲之備者, 海中之倭奴而已。當知其海路----衝要, 而爲之備禦, 臣謹稽前人文字, 詢之海氓漂人等, 則倭之地方, 以間島爲地盡頭, 而間島之右, 則海波連接於我國之寧海·平海等處, 而千里無島, 波濤洶浩, 不可以涉。在昔高麗睿宗時, 倭舶數隻, 來圍三陟, 頃歲邊氓安龍福, 自鬱陵島, 爲漁倭所執, 四晝三夜, 始至倭國之伯耆州, 而去時只見一島在海中, 前後寧海·長鬐等漂氓, 漂數晝夜便達倭奴之長門·伯耆等處, 卽水勢極洶, 不見島嶼云, 此我國與倭奴, 東界相接之海路也。自倭奴上松浦長崎島, 直西以泛則, 出於我國濟州之南, 過羅州黑山島, 以達於中國之閩浙地方。崇禎己巳年間, 平調興, 因譯舌, 自言渠在江戶時, 將倭等以漢商往來時, 路經一島, 水險而人惡, 頗有所拘