まず、古地図に関して鬱陵島の大きさを見てみる。古地図には、最も著者な付属島である于山島竹嶼と存在しない南の小5島を含んだ範囲を記載しているが、1. 地方百里に関しては、1694年以前の地誌の記述にも見られるが、2の周二百輿里は主に1694年以降から登場し始めるのでここに一覧を提示する。したの集計を見ると判るが、・1694年以降の朝鮮王朝の鬱陵島捜討官の製作した鬱陵島詳細図においてはその範囲がかなり正確な上、于山を含んだ面積も正確なのに対して、朝鮮半島全体圖や江原道圖などで は、鬱陵地方の範囲も、于山の位置もまばらであり不正確である。この豹に関しては、大韓帝國が1900年の時点で現竹島を欝島郡の範囲としてみなしていたかどうかを検証するのに非常に重要である。結論からすると、大韓帝国は現在の竹島を欝島郡の範囲と看做していなかったといえる。
朝鮮の地誌においては、その表記方法は規式に添った形を取っており、四面の周回を記載するように指示がある。
一、海島。在本邑某方。水路幾里。自陸地。去本邑幾里。四面周囘相距幾里。田沓幾結。民家有無。
東西XX里、南北XX里、周XX里などが記載されているこの周XX里がこれに該当する。
一例として方眼圖で、距離の記載がある1834年の青邱圖でその範囲を示してみる。
鬱陵島と于山島の場所は、たて第3行から第四行/横は第18層にある。
しかしながら、此の圖の一マスは、縦が70里横が100里となっている。
于山島を含んだ鬱陵島は概ね横70-80里、縦50里程度に記述されている。
(鬱陵島詳細図に記載された于山島については、以下を参照してください。)
・1694年以降の朝鮮王朝の鬱陵島捜討官の製作した鬱陵島詳細図Maplistは于山島は現竹島ではないと明確に記録されている。于山島は竹嶼Boussole Rockである。
・鬱陵島視察を終えて、再び韓国中央図書館鬱陵島圖形を検証する
・円型の鬱陵島圖形(+江原道圖)Maplist
・角型の鬱陵島地圖Maplist
・金正浩の地圖Maplist
・韓国国内各機関所蔵『大東輿地図』書誌事項 Maplist
・楕円形鬱陵島地圖Maplist
次に、各地誌における于山と鬱陵の範囲を挙げてみる。これらにも1907年以前に現竹島を韓国領土と入れている形跡は無い。
なお、以下では、日本側の松島認識を見てみる。
https://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/japan-recognization-of-ulleungdo-width