韓国側は、意図的に、「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」は、安龍福が「民間外交」を行い、二度目の来日の際に現竹島と鬱陵島を朝鮮領土と認めさせた 証拠であるとの歪曲の主張をする。
しかし、そもそもこの文書は、1696年に安龍福が隠岐に密航してきた時の日本側の役人の調書にすぎない。なぜ、「民間外交」という、意味不明の造語を使用するかと言うと、韓国側は、意図的に、日本の対馬藩と朝鮮の外交担当者との、「正式な外交」交渉を隠蔽し、安龍福のつじつまの合わない偽証をつかって竹島領有を正当化するためにある。
安龍福の鬱陵島での事件によって日本と朝鮮の間で鬱陵島を巡る争いになったことは事実だが、外交交渉において、日本の「松島」つまり現竹島が話し合われた形跡は無い。「松島に関する書契がない」というのは、「朝鮮国交際始末内探書」でも「・竹島考証下の”8”と”9”の間」でも話に出てくる。
この外交交渉の場で、朝鮮王朝の外交官は、安龍福「漂風の愚民がたとえ何か行っても政府の知るところではないと日本に通告している
至於漂風愚民設有所作為亦非朝家所知)
ま た、この場で朝鮮側は、接慰官・集一を釜山に派遣し、礼曹参判李番の名をもって9月12日に改撰書契を送り、宗氏の竹島日本領説を反駁させた。「朝鮮半島 東岸から鬱陵島が晴れた日には歴々と見えることは、輿地勝覧にかいているのは歴代相伝」であると主張して、日本側に鬱陵島渡航禁止/禁漁を決定させた。
『粛宗実録』20年8月13日/『通航一覧』巻137
朝鮮国礼曹参判李番、奉復日本国対馬大守平公閣下、槎使鼎来、恵□随至、良用慰荷弊邦江原道蔚珍県有属島、 名曰蔚陵、在本県東海中、而風濤危険、船路無便、故中年移其民空其地、而時遣公差往来捜検矣、本島巒樹木、自陸地歴々望見、而凡其山川紆曲、地形濶狭、 民居遺址、土物所産、倶戴於我国輿地勝覧書、歴代相伝、 事跡昭然、今者我国辺海漁氓往其島、而不意貴国之人自為犯越、与之相値、反拘執二 氓、転到江戸、幸蒙貴国大名明察事情、優加資此、可見交隣之情於尋常、欽□高義、感激何事、然雖我氓漁採之地、本是蔚陵島、而以其産竹、或称竹島、此之一 島而二名也、一島二名之状、 非徒我国書籍之所記、貴州人亦皆知之、而今此来書中、乃以竹島為貴国地方欲令我国禁止漁船更往、而不論貴国人侵渉我境、拘執我 氓之夫、豈不有欠於誠信之道乎、深望将此辞意転報東武、申飭貴国辺海之人、無令往来蔚陵島、更致事端惹起、其於相好之誼不勝幸甚、佳領謝、薄物侑緘、統惟 照亮、不宣
また、これと同じ解釈についての説明が、日本側で制作された朝鮮半島の地図にも記載されている。
1742.朝鮮八道総図 萩藩当職山内広通と浜崎代官清水親全の命により描いた彩色図
欝陵島上に、
『蔚珍之内風日清明即峯頭樹木及山根沙渚歴々可見風便二日可渡海有林落基址七即今空虚』と記載がある事。
有大山従山頂 向東行一万余歩 向西行一万三千歩 向南行一万五千余歩 向北行八千余歩
との記述
これ等は東国輿地勝覧から参照。つまり、東国輿地勝覧の解釈を反映している。
こ のように、日本の対馬藩と朝鮮王朝との正式な外交交渉の間では、”竹嶋”(鬱陵島)の話しか出てこない。 一方”松島”(現竹島)へは、1834年の今津 屋八右衛門の事件に見られるように、日本人は渡航を許されていた。しかし今津屋八右衛門は、松島(現竹島)へいくと言って、竹嶋(鬱陵島)へ渡航し、そこ で密貿易を行い、密貿易を行った罪で処刑された。このように松島は渡航しても問題は無かったと考えられる。(ちなみに、江戸時代の菱垣廻船も鬱陵島と竹島の間を航行していたことが、古地図などによって解明されている)
ただ、この安龍福の偽証 「于山倭所謂松島」が朝鮮王朝の實録に記載されたことが今日の竹島問題へと発展しているのである。しかしながら、ご存知の通り、朝鮮王朝が「倭の松島」と 思っていた「于山島」は現竹島ではなく、竹嶼であったことは、1694年以降の朝鮮王朝の鬱陵島の調査員の記録と1694年以降の朝鮮王朝の鬱陵島捜討官の製作した鬱陵島詳細図によって判明している。