「独島の実効支配を立証する史料」~大韓帝国、独島で漁をした日本の漁夫から税金を取っていた[08/17]
という発表が柳美林から発表がありましたが、虚偽です。この史料は、昨年2011年にも同じ柳美林から発表があり、同様に虚偽であることが判明しています。
以下報道内容を転載後、史料を確認していきます。
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1345161152
(写真)
http://imgnews.naver.net/image/023/2012/08/17/2012081700167_0_0_20120817045502.jpg
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1902年当時、大韓帝国が独島で日本人漁夫に税金をかき集めるようにした行政規則資料が16日
に公開された。これは1905年の乙巳勒約(第二次韓日協約)以前の事として、我々が独島を過去
から実効的に支配していた事を立証するまた一つの史料と評価される。
慶北(キョンブク)・鬱陵郡(ウルルングン)では、1902年に大韓帝国内府(現・行政安全部)が作成
した鬱島郡(現在の鬱陵郡と独島を管轄)節目(行政細部規則=写真)をハンア文化研究所(所長=
ユ・ミリム)から提供受けて公開した。全10ページからなるこの節目には、内閣総理大臣ユン・
ヨンソン(尹容善)の決済印が押されている。
この節目には鬱陵島と独島で経済活動を行う日本人に、税金を課する規定が盛り込まれている。
特に、「鬱陵島に居住する日本人が独島で取ったカンチ(海獅子の一種で現在絶滅している事が
判明)を輸出するなら、節目の規定によって輸出税を納めなければならない」という条項が入って
いる事が確認された 。
資料を公開したユ・ミリム所長は、「日本人が独島での漁業に対する税金を鬱陶郡に納めたなら、
これは独島を韓国領土と認めた事を意味する」と話した。
鬱島郡節目は、初代郡守であるペ・ゲジュの子孫が所蔵していた物を、鬱陵郡文化観光課が
発掘した。ユ所長は、「1904年と1905年に鬱陵島に住む日本人がカンチを日本に輸出した事実が
日本の外務省の記録にも残っている」とし、「これは日本人が鬱島郡に税金を出したという傍証だ」
と話した。
ソース:NAVER/朝鮮日報(韓国語)
http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=100&oid=023&aid=0002427015
上記の文章中の説明:『この節目には鬱陵島と独島で経済活動を行う日本人に、税金を課する規定が盛り込まれている。 特に、「鬱陵島に居住する日本人が独島で取ったカンチ(海獅子の一種で現在絶滅している事が判明)を輸出するなら、節目の規定によって輸出税を納めなければならない」という条項が入って いる事が確認された』 についてですが、
その様は記述は該当史料に記載がありません。
まず、この史料は、新発見ではなく、過去に既に内容と一次史料の原文の精査が行われているものです。過去の発表では、今回「資料を公開した」と発表されている柳美林は、2011/01/03の「大韓帝国は独島を実際に経営した」の報道の際に、「1902年の「欝島郡節目」に「独島に対する直接的な言及はない」」と述べていたとされています (島根県Web竹島研究所)。(*現在記述捜索中)
---以下引用-----
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2011/02/1902.html
內閣總理大臣 尹容善 閣下
內部
鬱島郡節目
本郡陞設 今旣兩年 全島庶務 尙多草創之中 數三悖民 興訛梗化 煽動居民 則不可不自本部 講究方略 確立郡規 故別成節目 以送 依此擧行 無或違越 島民中若有如前執迷 不遵令飭者 這這摘發卽速馳報 則當有別般嚴處矣 惕念擧行節目辭意 亦爲眞諺飜謄 揭付各洞 俾無一民不聞不知之弊事
一 日本潛越人等 偸斫木料 別般嚴禁事
一 本島人民中 家屋田土 或有暗賣外國人者 當一律施行事
一 本島開拓 尙未盡 懇爲念民人成家 姑未定稅 凡於島民耕食居生 若移居內陸 不得私相賣買 還爲官有事
一 現存公廨 爲七間 則仍舊修葺 若果狹窄四五間 略加建築 俾無民弊事
一 鄕長一員 書記一名 使令三名 姑先略施 以爲供役事
一 郡守以下 鄕長書記使令 餼料不得不自郡 略略算定 而本島戶數 足爲五百戶 則每戶春等 麥三斗 秋等黃豆四斗式 收斂分排廩料事
一 五百戶 每戶收麥爲三斗 則共計一千五百斗 凡石則爲一百石內 郡守一員廩況六十石 鄕長一員餼料十二石 書記一名十石 使令三名 每名六石式 合十八石 總計一百石 以爲定式事
一 各道商船來泊本島 捕採魚藿人等處 每十分抽一 收稅 外他出入貨物 從價金 每百抽一 以補經費事
一 官船一隻 不可不急先辦備 然後以便航路 而來往本部調査委員入島時 田士能李東信處 偸斫木料之屬公者 這這査徵 以爲購買船隻事
一 未盡條件 自本郡爛商會議 更爲磨鍊事
後錄
香木 貳百斤 間一年 進上事
戶布錢 五百兩 每年輸納于度支部事
郡守 年俸及鄕長書記使令餼料 總算
郡守 春等麥六十石 秋等黃豆四十石 合一百石
鄕長 春等麥十二石 秋等黃豆十二石 合二十四石
書記一名 春等麥十石 秋等黃豆十二石 合二十二石
使令每名 春等麥六石 秋等黃豆十二石 三名合麥十八石 合黃豆三十六石 總計麥一百石 黃豆一百石
光武六年四月 日
內部
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内閣総理大臣尹容善閣下
内部の鬱島郡節目
本 郡(鬱島郡)が昇格してすでに2年が過ぎたのに、全島の庶務がまだ草創のままであることが多い中、流言飛語を作り出し教化されない何人かの悖民たちが、民 衆を扇動するので、本部(内部)では方略を講じて郡の規律を確立せざるをえない。従って、別に節目を作って送るので、このまま行ない、破ってはいけない。 島民の中に、前のように戸惑って命令に従わない者がいれば、いちいち摘発して速やかに馳報せよ、然らば当然、別段の厳しい措置があるだろう。格別に留意し て挙行せよ。 節目の意味を諺文(ハングル)にも翻訳して各村に掲示し、一人たりとも聞いていない、知らないというような弊害をなくすこと。
一 日本からやってきて木を密かに切っていく者を、特別に厳禁すること。
一 本島の人民中に、家屋と田土を外国人に密かに売買する者があれば、当然のことに、一律(=死刑)を施行すること。
一 本島の開拓はまだ未尽であるから、島民が家庭を作ることを切実に望む、よって税金はまだ定めない。およそ島民たちは耕作をして生きていくのであるが、もし万一、内陸に移居するような場合には、私的な売買を出来なくして官有に返還するようにさせること。
一 現在ある官庁の建物は、七間であればそのまま屋根を補修して使い、もし4~5間程度で狭ければ、若干の増建だけをして、民に迷惑をかけないこと。
一 鄕長1人、書記1人、使令3人を先ず先に置き、仕事に供役させること。
一 郡守以下、鄕長・書記・使令の給料は、郡で概略算定しなくてはいけない。鬱陵島の戸数が500戸になるならば、家ごとに春に出す税金は麦3斗、秋に出す税金は豆4斗ずつを納めさせ、給料として分け与えること。
一 500戸が、戸ごとに麦3斗を収めるならば、全部で1500斗になる。 石にすれば、全部で100石以内だ。郡守一人の給料は60石、鄕長1人の給料は12石、書記一人は10石、使令3人は一人当り6石ずつで合わせて18石、合計100石を定式とすること
一 各道の商船にして鬱陵島に来て漁労や採藿をする者には、一人当たりに10分の1税を納めさせ、外地に出入する貨物は、その値段により100分の1税を納めさせて経費に加えること。
一 官船一隻を先に用意してこそ往来が楽になるが、以前、本部の調査委員が入島したときに(1900年の禹用鼎の調査をさすか?)、田士能と李東信が盗んだ木を官衙に属させたことについては、きちんと調査・徴税して船隻の購買費用とすること。
一 (このほかの)未尽の条件は、本郡で十分に相談してさらに整備すること
後禄
香木200斤を、1年おきに進上すること。
戸布銭500両は、毎年、度支部(=大蔵省)に納入すること。
郡守の年俸、および鄕長・書記・使令の給料は、総算する。
郡守は、春には麦60石、秋には豆40石で、合計100石。
鄕長は、春には麦12石、秋には豆12石で、合計24石。
書記1人は、春には麦10石、秋には豆12石で合計22石。
使令は、それぞれ春には麦6石、秋には豆12石、3人の合計が麦18石、豆36石で 総計麦100石、豆100石。
光武6年(1902年) 4月
内部
(翻訳:Dokdo or Takeshima;Matsu氏 http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2011/02/1902.html)
上記の通り、欝島郡節目には、「独島でとったガジェ(可支)を輸出するなら、節目の規定によって輸出税を納めなければいけない」という条項は全く記載されていません。そもそも「独島で取ったガジェ(可支)」などという言葉自体記載がありません。
(参考資料:Web竹島研究所:http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-2/takeshima05-l.html )
(参考資料:1905年前後の鬱陵島の産業等の記述について;https://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/ulleungdo-lyfestyle-farmer-fishery-and-liancourt-rocks)
また、同じ内容の別報道には、別の画像がついています。しかし、現状、この文書について、日付ならびに文書名が不明で確認が取れません。(これ、以前どこかで見たことがあるのですが約一年間ブランクがあるので思い出せませんでした)、しかしながら、解析を行ってみましたが、どこにもアシカの話は出てきません。
輸出税の件
輸出??n対しては前島監呉相龍?と在島日本人
との間に別?の如き条約文ありて輸出額の二分
大豆を以て輸出毎に輸出税として島監に納x
?裵季周x命???条約に依て徴税し?
?税物XXには制限なきも槻木材を含むや否や
?ならず納税に対する呉島監より領収書x領
?して僅かに別?一票を?又?島監督より日本
濱xに対して滞納を督促したる文書一枚を?
現島監裵季周は之れに大して領収証を?するは
?????????????????したることをxx
日本人は?代を以て全?領収証引?にあらされば
大豆を?XXとXぺ島監?に?x??xxx
画像:http://dametv.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/ll-a3cc.htmlより引用
約条文
鬱陵島XX日商何
条約如左 盟 ??
本島貿易 ???(日本??)百?
日商納税以?之
左条約依各自交換之事
日本?明治三十三年四月一日
韓国?光武三年四月初一日
大韓国鬱陵島島監呉相?
大日本国商人
ユ所長は、「1904年と1905年に鬱陵島に住む日本人があしかを日本に輸出した事実が
日本の外務省の記録にも残っている 」とし、「これは日本人が鬱島郡に税金を出したという傍証だ」
と話した。
「傍証だ」ー傍証とは「ある事実を間接的に証明する証拠。間接の証拠。」-と述べているという事は、要するに国際法で要求されるような「直接的な証拠」ではないことを認めているようです。.
これは又別の記録で、1904年と1905年と言っているわけですからつまり1904年以前の記録である1902年の欝島郡節目ではありません。
この1904.1905年の記録にまさに該当するのが、釜山駐在領事館報告 有吉明釜山領事の報告「鬱陵島現況」で、その添付表のことをまさに述べているわけです。
しかし、添付表は、「税金を出したという証拠」ではなく、単に「鬱陵島」から持ち出し(輸出)たり、持ち込んだり(輸入)していた商品の日本の統計を示しているに過ぎません。また、これは、朝鮮の鬱島郡守の徴税記録ではありません。
1905.07.31 『通商彙算 50号』釜山駐在領事館報告 有吉明釜山領事の報告「鬱陵島現況」
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/tsushoisan-1905/index.html
鬱陵島現況
人口、本邦人の業務、輸出入品
(三十八年七月三十一日附在釜山駐在領事館報告)
本年に於ける鬱陵島の情況を調査したること左の如し
(途中表略:原文は右記http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/tsushoisan-1905/index.html)
三、 同島の輸出入品
次に本年四月より六月に至る同島輸出入の情況を観察する為め昨年の同期に於ける輸出入と比較すること左の如し
(途中表略)*上記表のうち、乾し鮑と海獣(トド皮)の部分を書き写し、且つトド肉・スルメを(*)を便宜上加えた
*=下記その他の記載。判りやすく上記の表に入れてみた。
此他に昨年四月より六月までの期間に薪千五百貫、茸二十六貫八百目海苔五十二貫、●一樽、食鹽(しお)三百四十七俵、栂材一萬六千三百八十七才、韓銭二百貫文、黄柏皮八百貫鰑(するめ)八百五十貫 海獣肉八百貫の輸出ありたり
「トド」と称する海獣は、鬱陵島より東南約二十五里の位置にあるランコ島に棲息し、昨年頃より鬱陵島民之を捕獲し始めたり。捕獲期間は、4月より9月に至る6ヶ月間にして、漁船1組に付き猟手及び水夫等約10人にて、平均1日約5頭を捕獲すと云う。而して、本 事業に従事する者30人あり。漁船3組あり。又「トド」1頭に付き、現今市価は平均3円なり
鮑の採取高は本年四月熊本県民吉村某潜水器二個を以 て採取に従事し潜水器一個に付一日生鮑平均約三百斤な り又三重県県民濱口某は本年五月漁船二艘に海士三十二人水夫十人を率いて其採取を為し一日平均約五百三十斤内外を採取す生鮑乾上の為斤目の減少は凡そ十分 の九にて生鮑三百斤乃至五百三十斤を乾上ぐるときは三十斤及至五十三斤に減すると云ふ 同島への輸入は大概釜山よりす今左に前掲期間に輸入せられたる品目数 量価格を挙げ昨年四月より六月に至る期間に於ける輸入と比較せんと欲す
(この後に輸入品表:略:原文は右記http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/tsushoisan-1905/index.html))
上記報告から判るとおり、この表は日本側が記録した鬱陵島からの輸出統計に過ぎず、欝島郡守が「アシカ税」を徴税し、欝島郡守が記録した証拠ではありません。
また、この文章には、「鬱陵島」と同じ大韓帝国である「釜山」へ/から「輸出/輸入」という表現を用いていることから、この記載が所謂今日の関税を伴った鬱陵島から釜山へImport/釜山から鬱陵島へのexportという意味なのかただ単に各商品の鬱陵島から釜山への搬出/釜山から鬱陵島への搬入のことを表しているのかは検討が必要。
そもそも、リアンコールド岩編入を明治政府に依頼した中井養三朗は、1903年頃から、朝鮮・日本どちらからも漁業監札を受けない形でリアンコールド岩で日本船業者によるアシカ猟の競争が行われていた故、将来の絶滅を危惧してこの漁業監札を日本政府に頼みに言ったわけですので、仮に朝鮮等へ税金を支払い中井等の業者が朝鮮からアシカ猟を許可されていたとすれば、その様なことは中井はしなかったと思われます。
1900年のLa Porteと赤塚の鬱陵島調査時の島の輸出品・産品等の記録