竹島考証

日本の竹嶋鬱陵島記述


竹島考證 上 - 1881年、北澤正誠著。
竹島考證 中
竹島考證 下
竹島版図所属考 - 1881年8月、竹島考証の要約本
竹島一名は磯竹島又松島韓名は鬱陵島と云ひ又芋陵島と称する者此なり..........
(この下に付箋あり:明治十七年四月刊行の海軍省水路局水路雑誌代十六号に曰く松島、我隠岐国隠岐島より北東二分一、東一百三十四里、長門国角島より北二分一、東一百八十五里、釜山浦より北西四分三、北二百六十五里の処に在り。全島巖石より成るものの如く、而し樹木蔚然、周囲は絶壁多く唯南東面に少しく平坦なる処あり。我輩の此に到るや土人の小舎を構へ漁舟を造るを見たり。他の浜岸は小舟と雖も近つく可らさるか如し。東方に一小嶼あり。且奇石怪巖島を環らして星羅せり。我艦航走中此島頂の高度を測りて二千三百九十一尺を得たり。 )

竹島考證 下  竹島開拓願い、松島開拓願いと言うものが出されて、開拓願いが出されている”竹島”と”松島”は結局は・「朝鮮鬱陵島一名竹島一名松島」 にみられるように、鬱陵島の事なのであるが、それらを開拓する前に巡視をするために情報を精査していたものの、結局、鬱陵島は朝鮮領土だからとして開拓はできないから、巡視を中止したという話。しかしその後結局巡視を行い竹島は竹嶼/松島は鬱陵嶋である事が判明した話。

中卷ハ元祿六年朝鮮人竹島ニ來ル我商大谷九右偉門ノ手代之ヲ捕縛シ來テ長崎ニ遣シ 本國ニ護送スルヨリ起リ、兩國書柬往覆數十回ヲ經ルノ後同十二年其地遂ニ朝鮮ニ歸スルノコトヲ記載セリ、此卷更ニ竹島ノ事ニ付近來幾多ノ紛紜アリシコトヲ 揭ケ以テ末卷トシ、竹島古今沿革ノ槪略ヲ考フルニ辨ナラシム、元祿十二年竹島ノコト定議アリテ後百三十九年ヲ經テ松平右近將監領分石州那珂郡濱田無宿八右 衛門航海處刑ノコトアリ、八右衛門ハ濱田廻船問屋會津屋淸助ノ子ナリ、其親淸助ハ元領主松平周防守用達ヲ勤メ居タリシニ病死家名斷絶セリ、其後天保二年八 右衛門周防守江戶ノ邸ニ至リ、父淸助多年恩遇ノ厚キヲ謝シ因テ上言ス、濱田冲竹島ハ海中魚多ク其利甚多シ、願クハ渡海ノ免許ヲ淂ンコトヲ乞フ、然ラハ年年 若干ノ漁稅上納可致旨ヲ出願ス、然ルニ同所ハ渡海制禁ノ地ナリト許サス八右衛門ニ歸國ヲ命ス、八右衛門更ニ在邸ノ吏大谷作兵衛․三澤五郞左衛門․松井莊 右衛門等ニ漁業ノ有利有益ナルヲ告ク、三人其說ヲ喜ヒ家老岡田賴母カ家人橋本三兵衛、林品兵衛ニ談シ賴母ヲ說カシム、賴母初メ之ヲ不可セシカ再三說ヲ入ル ニ及ヒ、當時周防守勝手向疲弊困難ノ時ニ中リ何カ良策ヲ慾スルノ際ナレハ遂ニ之ヲ容レ密ニ同僚松井圖書ト議シ陽ニ之ヲ制シ陰ニ黙許ノ意アリケレハ、八右衛 門ハ我事成レリト確約シ漁業ヲ名トシ密ニ刀劍弓銃ヲ始メ皇國産ノ諸品ヲ諸國ニ購ヒ道中ハ濱田ノ用物ト稱シ濱田ノ繪符ヲ付驛遞ニ附シ、遂ニ之ヲ漁船ニ移シ竹島ニ至ルヲ名トシテ密ニ外國人ト貿易ス、然ルニ此事忽チ大坂町奉行矢部駿河守ノ爲メニ發覺シ六月十日逮捕鞠審ノ上其連累一同寺社奉行井上河內守ニ引渡サ ル、五名

松平右近將監領分 石見國濱田松原新田 會津屋ギク方ニ無人別ニテ罷在候 當時無宿 金淸事 八右衛門 申二十九

松平隱岐守御預リ所 讚岐國多度郡小豆島高木村 船乘 平助 申四十九

右同斷 平右衛門 申六十三

大阪安治川町二丁目 播磨屋善右衛門借家 淡路屋 善兵衛 申七十

松平安藝守領分 安藝國豊田郡諸口島賴戶物町 松原 新兵衛 申三十七

右道中目籠ニテ大阪町奉行同心差添井上河內守宅ニ護送、一ト通リ尋ノ上入牢

同月十四日

松平周防守家來 在府 大谷作兵衛 三澤五郞左衛門 村井莊右衛門


右於同人宅一ト通リ尋ノ上揚屋ヘ差遣ス、依之同日御用番松平越前守ニ届書差出ス、卽チ別紙第壹號是ナリ、
第一號
昨十三日私家來大谷作兵衛、三澤五郞左衛門、村井莊右衛門ト申者井上河內守ヨリ尋之儀有之候間、同道人差添可差出旨ニ付、則差出候處、尋之上吟味中揚屋入申付候段、今日家來之者ヘ申渡有之候、此段御届申上候以上。

六月十四日 松平周防守

右 八右衛門白狀ニ依テ遽ニ賴母コト當時隱居秋齊年松井圖書ヲ江戶ニ召ス、其召狀濱田ニ到着同月二十八日秋齊自殺、圖書モ亦二十九日自殺ス、七月九日ニ至リ大 谷作兵衛以下三名ハ石井日向守ニ預ケ、八右衛門平助ハ伊東播磨守ニ預ケラル、同二十一日周防守家來大草權大夫ヨリ御用番松平伯耆守ヘ一書ヲ呈ス、卽別紙第 貳號是ナリ、
第二號 今津屋八右衛門の竹島(鬱陵嶋)密貿易事件の話。


其後夫夫調ノ上八年丁酉二月各所刑申渡サレ一件落着ス、卽別紙第三號是ナリ、
・八右衛門が異国である竹島=朝鮮鬱陵島へ渡海し、処刑された話
・竹島へ渡海しないよう、高札を設置

此事ヤ朝鮮政府ニ關涉スルニ至ラスト雖其重刑ニ處セラルルヲ以テ爾來維新ノ後ニ至ル迄又人ノ竹島ノ事ヲ言フ者ナシ、

後四十年明治十年一月ニ至リ島根縣士族戶田敬義竹島漁獵ノコトニ意アリ、左ノ願書ヲ東京府ニ出セリ、卽チ別紙第四號是ナリ
1877.01.27 第四號 竹島渡海之願
明治十年一月二十七日
島根縣士族 戶田敬義 → 東京府知事楠本正隆殿
竹島(註:鬱陵島)へ渡航願い
・隱崎國ヲ距ル殆ト七十里程之乾ニ當リ洋中荒蕪不毛 之一孤島ヨリ之ヲ竹島ト稱スト、
竹島渡海記ト號スル者ヲ見タリキ、
彼之渡海記ハ不疑シテ幕吏隨行者之編作ナラン、且ツ圖面ハ一昨年伯者之一漁師之家ニ求ムル也、

竹島研究所回答によると、以下がその戸田の竹島の図
田中邦貴氏 竹島問題 http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/takeshimamap-1877/


図面について、島根に問い合わせたときの回答

【質問30】 竹島考証 第拾貳號 松島之議ニ 渡邊洪基のところに出てくる、「又戸田敬義ノ圖・・・二十三里餘トナル[尤曲屈出入ヲ合セ沿岸]去レハ彼松島即チ「タゼラ」島ノ周圍ト異ナル事少々ナラス、」の、戸田敬義ノ圖は、現存するのか。「二十三里餘トナル[尤曲屈出入ヲ合セ沿岸]」がヒントになると思う。そして、「圖中南隅ニ一里半周圍ノ一島ヲ載ス、是于人島ナルベシ、」という文章は、その「戸田敬義ノ圖」について述べているのであろうか。

【回答】 北澤正誠『竹島考證』には、第12号「松島之議 二」の前に第4号として戸田敬義の「竹島渡海願」が収録されており、その中に「図面ハ一昨年伯耆ノ一漁師ノ家に求トムルナリ」という記述があります。『竹島考證』にはいくつかの筆写本がありますが、そのうち外務省外交史料館所蔵のもの(分類番号3-8-2-7『朝鮮國蔚陵島ヘ犯禁渡航ノ日本人ヲ引戻処分一件』第5巻)の巻末に「第四号ニ添/島根縣士族戸田敬義願書添/竹島之圖 貮葉」と書いた封筒が付いています。封筒中には、甲乙と朱書された二つの「竹島之圖」が入っており、このうち乙がご質問に係る絵図です。同図は、机上に広げた場合、上方が南、左側が東になります。その図の左上の角に小島を描き「此島廻リ壱リ半」とあります。同図は欝陵島を一枚の紙に大きく描いたもので小島が欝陵島と近接して描かれていること、島上に木々が描かれていることから判断して、この小島は、いわゆる竹嶼です。なお、もう一方の甲の絵図には「天保四巳霜月十九日夜求之 持主権吉」「明治七年冬借求」と書かれています。また、甲乙両図とも、国立公文書館に「明治十年八月模写 ニ折ノ内」と書いた写し(請求記号177-217)があります。(事務局:総務課)(2010年10、11月)

 
                               
然ルニ此事議論アリテ速ニ指令モナカリシカハ三月中ニ至リ、更ニ尤ノ追願ヲ東京府ニ出セリ、卽チ別紙第五號是ナリ、
1877.03.13 第五號 年一月二十七日付ヲ以竹島渡海之願書至急御指揮被下度追願
明治十年三月十三日
島根縣士族 戶田敬義 → 東京府知事楠本正隆殿
・1/27日の願いの回答の催促


其後尙未タ指令ヲ得サル內時移リ航海不都合ニ至リケル故渡海ハ明年ニ致度旨、御啓書ヲ東京府ニ出ス、卽チ別紙第六號是ナリ、
1877.04.00 第六號 本年竹島渡海奉願置候處、最早季候ヲ誤リ候ニ付明年ニ讓リ候段御届旁上申
明治十年四月
島根縣士族 戶田敬義 → 東京府知事楠本正隆殿
・1/27および3/13の願いの回答の催促


然ルニ其後六月八日ニ至リ東京府ヨリ左ノ指令アリ、卽別紙第七號是ナリ.
1877.06.08.第七號 第壹萬八千六百七十五號
書面竹島渡航願之儀難聞啓候事
明治十年六月八日 東京府知事 楠本正隆 印


此ヨリ先數年陸奧ノ士族武島一學ナル者アリ、露領浦潮港ニ航シ路松島ナル者アルヲ望ミ、九年七月東京於テ外務省ヘ之ヲ開拓センコトヲ建議ス、於是松島竹島一島ニ非ラス、二島タルノ說始テ出ツ、卽別紙第八號是ナリ、
1876.07.00.第八號 松島開拓之議
明治九年七月           武藤平學 → 東京外務省
以下のことから、松島=ダーシュレ島(現在の鬱陵島)(該当の記事は、現竹島りゃんこには当たらず)
・我カ西北地方ナル松島ト云フ一島之事ナリ
・我 カ隱州ノ北ニ在ル松島ハ南北凡ソ五六里東西二三里ノ一孤島
・此松島ト竹島ハ共ニ日本ト朝鮮トノ間ニ在レトモ竹島ハ 朝鮮ニ近ク松島ハ日本ニ近シ
松島ノ西北之海岸ハ岩石壁立シテ斷岸數百丈飛鳥ニ非サルヨリハ近ツクヘカラス、又其南ノ海濱ハ山勢海面ニ向テ漸次ニ平坦ニ屬 シ、山項ヨリ三四個ノ所ニ其幅數百間ナル瀑水アレハ平地ノ所ニ田畑ヲ設ケ耕作スルニ便ナルヘシ、又海邊諸所ニ小灣アレハ船舶ヲ繫クヘシ、加之本嶋ハ松樹鬱 鬱トシテ常ニ深綠ヲ呈シ鑛山モ有ト云ヘリ
・「ウラジヲストツク」ニ在留スル米人「コ-ペル」ノ說ニハ日本ノ屬嶋ニ松島ト稱スル一島アリ未タ日本ニテ着手セサルト聞ケリ、日本ノ所轄タル嶋ヲ他國ノ所有トナサハ其國ノ寶ヲ他國ニ投與スルナリ、
本島ニハ鑛山アリ巨木アリ且漁ノ益樵ノ益等モ亦小カラス、
・鉱山の話はウラジオの米人コペルが言っている
・只希望スル所ハ彼島ノ大木ヲ伐リ其良材ヲ今盛大ニ開港スル「ウラジオㅡトツク」ニ輸出シ、或ハ下ノ 關ヘ送リテ賣却シ其利益ヲ得ン、
・まずは燈台を設立希望
(巨木があるのはダーシュレ島(現在の鬱陵島)であり、現竹島ではない。)


或 人ノ說ニ日本ヨリ今松島ニ手ヲ下サハ朝鮮ヨリ故障ヲ云ントイヘルカ、松島ハ日本地ニ近クシテ古來本邦ニ屬スル島ニテ日本地圖ニモ日本ノ版圖ニ入レ置タレハ 日本地ナリ、且又竹島ハ德川氏ノ中世葛藤ヲ生シテ朝鮮ニ渡シタレトモ松島ノ事ハ更ニ論ナケレハ日本地ナル事明ナリ若又朝鮮ヨリ故障ヲ云ハハ遠近ヲ以テ論 シ日本島タル事ヲ證スヘシ、實ニ日朝往來竝ニ外國北地ニ往復ノ要地ニシテ萬國ノ爲ナレハ日朝ノ內ヨリ急ニ良港ヲ撰ヒ先ツ燈臺ヲ設ル事今日ノ要務ナリ、
1876.07.13.第九號 兒玉貞陽建白
明治九年七月十三日
兒玉貞陽 →   外務省                 
瀨照君ノ露港雜誌武藤氏
我カ皇國西北ノ屬島松島(註:鬱陵嶋)ナルモノナリ、
・早く開発すべし

第十號 松島着手之楷梯見込 松島=鬱陵島
第一 開拓人ノ蝸屋ヲ營ミ
第二 伐木
第三 開港場ヲ確定スル事
第四 燈臺之建設
第五 良材其他ヲ輸出スル事
第六 土地開拓之事
第七 置場ヲ定メ船用諸品ヲ畜藏スル事
第八 民屋ヲ營ミ殖民ニ及フ事
第九 漁獵之用意ニ取リカカル事
第十 作物之開業
其他山川丘陵之業ニ運フ事


第十壹號 松島之議一 松島=鬱陵島
記錄局長 渡邊洪基立案 →
・昔者竹島ノ記事略說多クシテ松島ノ事說論スル者ナシ
・而テ今者人松島ニ喋喋ス、
二嶋或ハ一島兩名或ハ二嶋也ト諸說紛紛朝野其是非ヲ決スル者ヲ聞カ ス、
竹島ナル者ハ朝鮮ノ蔚陵島トシ幕府偸安ノ議遂ニ彼ニ委ス故ニ
   此所謂松島ナル者竹島ナレハ彼ニ屬シ
   若竹島以外ニ在ル松島ナレハ我ニ屬セサルヲ得サルモ
之ヲ決論スル者無シ
然ラハ則無主ノ一島ノミ諸書ニ就テ案スルニ
   竹島洋名「アルゴナウト」嶋ナル者ハ全ク島有ノ者ニシテ
   其松島(*江戸時代の竹島鬱陵嶋)「デラセ」嶋ナル者ハ本來ノ竹島卽チ蔚陵島ニシテ

我松島(*江戸時代の松島=現竹島)ナル者ハ洋名「ホルネツトロツクス」ナルカ如シ、

洋客
   竹島(*江戸時代の鬱陵嶋)ヲ認テ松島(Dageletダーシュレ島(現在の鬱陵島)ト爲シ
   更ニ竹島ナル者(Argonaut島の事*) ヲ想起セシ者ノ如シ、
   而テ此「ホルネツトロツクス」(*江戸時代の松島=現竹島)ノ我國ニ屬スルハ各國ノ地圖皆然リ
      他ノ二嶋ニ至リテハ各國其認ムル所ヲ同フセス、我國論又確據無シ、 
      (*竹島アルゴノートと松島鬱陵嶋の記載は各国の地圖によってばらばらであるし、日本のもそうである。
・島根県に照会したあと、艦船を派遣して調査するよう願う (是實ニ其地ノ形勢ヲ察シ其所屬ノ地ヲ定メ而テ其責ニ任スル所ヲ兩國間ニ定メル可ラサル者タリ、因テ先ツ島根縣ニ照會シ其從來ノ習例ヲ糺シ倂セテ船艦ヲ派シ テ其地勢ヲ見若シ彼旣ニ着手セ、ハ宰政ノ模樣ヲ實査シ然ル後ニ其方略ヲ定メント要ス、請フ速ニ採リテ議スル者アラン事ヲ伏望ス。)

つまり、此の文章で判るとおり、ホーネットロックのわが国に属するは各国の地図皆しかり、他の二島に至っては、各国の地図ごとにばらばらで、日本の論が確実でないと言っている。つまり、此の文章は、此の二島(アルゴノート竹島とダラセ松島)が、この当時の日本が日本領土がそうでないか、迷っていた対象の島である事を明確に示している。

第拾貳號 松島之議ニ
記錄局長 渡邊洪基 → 
松島と竹島は二島であると島根県令から聞く。
(松島ト竹島卽チ韓名鬱陵島
ハ聞ク所ニ倚ルニ一島二名アルカ如シト雖トモ、舊鳥取縣令ニ聞クニ全ク二島ノ由ト認メ、)
戶田敬義加藤金森謙ナル人ノ書ニ隱岐國松島西島[松島ノ一所屬ナリ土俗呼ンテ次島ト云]ヨリ海上道規凡四十里許、北方ニ一島アリ名ヲ竹島ト云フ云云、又伯州米子ヨリ竹島迠海上道程百四十里許ア リ、米子ヨリ出雲ニ出テ隱岐ノ松島ヲ經テ竹島ニ到ルナリ、但シ隱岐ノ福島(一謂福浦)ヨリ松島迠海上道程ニ十里許松島ヨリ竹島迠四十里許云云又竹島ヨリ朝 鮮江海上道規四十里許ト云此說ハ亨保九年昔屢渡海セル一老叟ニ詰問セラレシ時其答ニ伯州會見郡濱野目三柳村ヨリ隱岐ノ後島江三十五六里アリ此遠見ノ考ヲ以 テ竹島ヨリ朝鮮山ヲ見レハサシ遠ク見レハ凡ソ四十里許リト云フニ因ル云ニ是ヲ以テ考フレハ二島アル事瞭然タルカ如シ

洋書ニ就テ按スルニ (松島=Dageletダーシュレ島(現在の鬱陵島))

"1855 Imperial Gazetteer " (左リンクはVolume One. UK 1855)
Dagelet松島ハ日本海ノ一島ニシテ日本島ト朝鮮半島ノ間ニアリ、
137"25E[グリーンチ トツチヨリノ算]130"56'E-1786年La Perouse 所周圍9里 海巖ハ絶壁之ヲ境シ、其最高處ニ至ルマテ樹木森森タリ」
DAGELET, an isl. Sea of Japan between isl.
Niphon and the peninsula of Corea; lat. (N. E. point) 37° 25' N.; lon. 130° 56'
E. (R.); so named by La Perouse, who visited it in 1787. It is about 9 m. in
circumference, and the shore is environed by a perpendicular wall of rock. It is
covered up to the summits of its highest elevations with wood.

リツピンコツト著プロナヲンシンク ガセフテル、ゼヲールルド
(Lippincott- Pronouncing Gazetteer the World, USA").
Dageletは日本海ノ小島ニシテ日本朝鮮ノ殆ント中間ニアリ、周圍8里北點
37”25’N / 130”56’E
(DAGELET
An island in the Sea of Japan, about midway
between Japan and Corea, 8 miles in circumference. Lat. (N.point) 37°25' N.,
lon. 130° 56' E.)
英海軍測量圖 Dagelet卽チ松島ト題セル者其地位二書ニ載スル所ノ如シ、
(Argonaut, Dagelet,Boussole Rk, Liancourtが記載)
(圖は、1873年の作成、英国海軍海図をもとにした地図)


(*ArgonautとDagelet:地図年代不詳)
ただし、JamesWyld 1868のIsland of JapanにはArgonaut.Dagelet.Hornetの記載がある。

日耳曼ヲーペルス亞細亞國
???情報提供求む。 ヲーベルス=Wobers?Auberge?

千八百七十五年ゴツタノスチールスノアドラス、(Gotha-Adolf Stieler's Hand Atlas1875)
(Matsushima Dagelet,+(Boussole)と、Liancourt Rocks)
ウアイマル地理局ノ圖(Weimar Geo Institute) (左記リンクは1856の亜細亜圖?)
(Argonaut, Dageletが記載)

同じ場所にDageletを置く(130度56分)
ニハ點線ヲ以テ限ルモノノ外ハ東經百二十九度五十七八分、北緯三十七度五十分ニアルゴナウト卽竹島ト題シタル者ヲ置テ、

魯西亞ノ地圖局ノ圖ニモ同處ニ之ヲ慥力ニ置テ
魯西亞ノ地圖局ノ圖 情報求む

     結論:各国の地圖において、松島竹島(Argonaut/Dagelet)の色はばらばら

・日本の書物においては、    竹島=松島即ちDagelet
竹島周圍大凡十五里トアリ
参考)
1849.竹島圖説  松江藩の学者 金森兼策  松江藩主松平斉貴に提出 八右衛門のものと同様の圖が添付杉原氏のPDF中
1.竹嶋関係文書集成中にある地圖1(左白黒)

私船の測量を総計すれは二十三里余となる
[尤曲屈出 入ヲ合セ沿岸]去レハ彼松島卽チ「タゼラ」島ノ周圍ト異ナル事少々ナラ11ス、
(私注:戶田敬義ノ圖がどの地図か全くの不明なのだが、竹島考証下の1877.01.27 第四號 竹島渡海之願 の、「且ツ圖面ハ一昨年伯者之一漁師之家ニ求ムルと記載されている。また、「二十三里」と記載があるようだが、どの圖なのか、はっきりしない。この二点がヒントになるのではないか?)

圖中

南隅ニ一里半周圍ノヲ載ス、是于人島ナルベシ、
(私注:圖の南隅に、との記載から、おそらくは竹島之圖のような、鬱陵島詳細図と推測される。鬱陵島陵島の東南に書かれた現竹島の可能性があるが、どの地圖をみて言っているのか、不明。磯竹島略図のような、竹島ー松島ー隠岐-(島根)などの広範囲を描いた磯竹島略図のような地図ではないと思われる。この場合、地図上南隅が竹嶼もしくは現竹島の位置にならないためである。)

眞圖

ニ就テ測量スル ニ、隱岐島ト松島竹島朝鮮ノ距離凡ソ符合ス、サレハ松島竹島ノ二島ナルハ殆ソト判然タリ、唯我國ノ書ニ竹島之事ノミ多クシテ松島ノ事ナキハ大小貧富ノ差ヨ リ竹島ニ往來スルノミニシテ、且朝鮮トノ爭論モ竹島ニノミ關係シタル故ト思ワル、

・幕府は争いを好まないため、竹島鬱陵嶋を朝鮮に譲ったといえども、松島と竹島は二島ある。松島は竹島よりは日本に近いので、朝鮮は反対できないだろう。
・日本は、松島竹島は二島一嶼のことは判らない。 朝鮮に属しているかもわからない。
・ここでの渡邊洪基の話を読んでいる限り、竹島はArgonaut島、松島はDagelet島を想定している。


同年十一月浦潮港貿易事務官瀨脇壽人ノ露領ニ赴クニ及ヒ意ヲ松島ノコトニ用ユ、旣ニシテ千葉縣下佐倉ノ商齊藤七郞兵衛ナル者アリ、商業ヲ以テ此港ニ往來ノ序松島ニ近キ粗其地形ヲ極メ同島開拓ノ願書ヲ貿易事務官瀨脇氏ニ出セリ、卽別紙第十三號是ナリ。
1876.12.19.第拾三號  松島開島願書幷建言 
齊藤七郞兵衛(千葉縣下第拾大區六小區 下總國印燔郡佐倉田町商)→ 浦潮御領事瀨脇壽人
・皇國之屬島松島之儀當港ニ航海之砌一見仕候處 至テ小島ニハ御坐侯得共
・東南ト覺キ方ニ相向ヒ大小之立木靑靑トシテ覆茂リ、・且又魚類夥敷殊更鮑○山ニ相見申候、此島之産物先魚類材木兩種ニテ利益多分可
・有之候得共鑛物
・英佛魯船等日本通行之○折折此島ヲ乘廻シ侯由粗承知仕候且又本年四月中魯船右松島之周圍悉ク測量致シ候趣、其上ナラス漂流之日本人歟惑ハ朝鮮人ニテモ 御坐侯哉
(巨木があるのは鬱陵嶋であり、現竹島ではない。)


第十四號   附  浦潮港日記抄
松島(鬱陵島)に日本人が済んでいたという伹州人正助有田カ弟善藏の話を齊藤が浦潮御領事瀨脇壽人に報告
・渡來 ノ海上松島ヲ一望セシニ陸地ニハ巨樹鬱然ト又繁茂シ海中ニハ魚類極メテ多ク、殊ニ鮑ノ多キコト海底ニ豆ヲ散敷セルカ如シ、此時嶋中ヨリ一條ノ黑烟高ク登 リタレハ必ス人家アラント想ヘリ、本港ニ着後善藏ニ此事ヲ談シケレハ善藏ハ黑烟ノミナラス遙ニ樹間ニ藁屋ノ二軒アルヲ見タリ、極メテ矮小ニシテ其狀日本人 若クハ朝鮮人ノ家作ニ髣髴タリ
・其後露佛人ニ邂逅シテ語次松島ノ事ニ及ヒ、共ニ談話センニ此佛人ハ當夏本島ニ着船シテ矮屋四五軒目擊シ日本人ナラント云シ 由ヲ述、齊藤又云ルハ正助カ說ニ嘗テ石州ニテ見シニ二三年前同國ノ漁夫柴田太平等七人大風ノ爲ニ松島ニ瓢着シ三年居住シテ二人歸リタル日紀アリ、サレハ此 殘留セン者ノ住家カ或ハ又朝鮮人ノ來住スルナラン、其人ハ何レノ國人ニモアレ松島ハ日本ノ一島ナレハ、下奴此島ニ渡リ日本ノ屬島タル事ヲ示シ、且漁獵ヲ開 キ樹木ヲ伐リ之ヲ支那ト本港トニ運輸シテ國益ヲ計ラン、渡嶋ノ許可請トテ一通ノ願書ヲ出セリ、余モ此島ハ從來着目スル所ナレハ明春東京ニ送ラントテ 預リ置ス。
(巨木があるのは鬱陵嶋であり、現竹島ではない。)


1877.03.22.第十四號 附浦潮港日記抄
明治十年三月二十二日、猪之吉の話
以下のことから、松島=鬱陵嶋
松島ニ近接シ僅ニ一里ノ海上ヨリ一見セシニ 山上ニ分餘ノ所二三十間方ノ白石アリ、周圍ハ綠色ノ巨木ヲ以テ圍繞シ其白キコト雪ヲ欺ク、又溪間ヨリ一條ノ炊煙ノ登ルヲ見タリ、然レトモ溪間ナレハ 人家ヲ見コト能ハス、
・鮑を見た
・滝なのか鉱物なのかはわからないが、見た。資源が多いとの報告
(巨木があるのは鬱陵嶋であり、現竹島ではない。)


1877.05.00.第拾五號 明治十年平信第二 番外甲號 五月
・早く松島(Dageletダーシュレ島(現在の鬱陵島))をを開拓したほうがいいしたほうがいいとの進言)


同時武藤一學ノ松島開島建白アリ、卽第十六号是ナリ、
1877.00.00 第十六號 松島開島之建白 (松島=鬱陵島)
露領浦潮港在留 武藤平學 →  貿易事務官 瀨脇壽人
・朝 鮮人等ノ談話ヲ承ハルニ松島ハ東西三四里、南北五六里ノ小島ナレ卜モ大益アル島ナリト申候ニ付、其利益ハ何等ノ産物ヲ以テ云フヤト尋ケレハ我等本國ニ在シ 時嘗テ聞及ヒシニ松島ハ大木繁茂シ、第一ニ材木ヲ輸出スルニ利アリ
・且我カ國民等彼島ニ渡リ伐木シテ船ヲ造リ來ルモノ少カラス、漁獵モ亦大ニ利アリ、其他 ノ産物モ多カルヘケレトモ未タ人民住居セサレハ知ヘカラスト云フ
・又米人「コ-ペル」氏迂生ニ云ヘルハ貴國ノ屬島松島ノ事ハ旣ニ兩三年前ヨリ君等ニ告タレトモ貴國ニテハ未タ着手セサルヤ、彼島ハ甚タ利益アル島ニテ捨置ヘキニ非ス、然ルヲ無人島ト爲シ未タ嘗テ開島セサルハ何ノ故ソ
----迂生之ヲ以テ考フルニ同氏ハ本港ニ在テ豪商ナレトモ常ニ鑛山ノミ着目シ商業ヲ專ラト爲サル程ノ者ナレハ、必ス鑛物アラント思フナルヘシ、
佛人「ヲージー」ト云フ者ノ說ヲ聞ケハ松島ハ巨木生繁リケレハ元ヨリ良材ノ利益少 ナカラス、加之海岸ニハ支那人ノ多ク賞翫スル鮑ノ多キ事譬フルニ物ナシ
・四月中(1876.04?)露國船彼島ノ周圍ヲ測量セシ由ナレハ第一露國ニ テ此島ヲ着目シ開ントスルノ意ナルヘシ、素ヨリ露ハ國ヲ擴メ亞細亞ヲ倂呑セント欲シ遠大ノ策略アレハ必ス此島ヲ開キ人民ヲ植ヘ不時ノ用意トスルハ勿論ノ事 ト察セラル、今此島ヲ開カスシテ基儘ニ捨置時ハ着手スル期ヲ失ヒ、恐ラクハ外人ノ所有トナラン、
松島ハ我カ屬島ニシテ西北ノ要島ナレハ急ニ一步ヲ進ンテ開カスンハアルヘカラス、徜シ手 ヲ空フシテ進マスンハ退クニ異ナラス、遂ニ我カ一島ヲ失フニ至ラン                           
(巨木があるのはDageletダーシュレ島(現在の鬱陵島)であり、現竹島ではない。)

同年六月七日ニ至リ瀨脇貿易事務官ヨリ兩回ノ公信アリ、卽別紙第十七號十八號是ナリ、
1877.06.25.第十七號 公信第三號(明治十年六月)
明治十年六月二十五日
貿易事務官 瀨脇壽人 →    外務卿寺島宗則殿/ 外務大捕鮫島尙信殿
松島を巡検する問い合わせ
・武藤平學ヲ一等書記見習ニ御拔有之
松島ハ巨樹○山繁茂致シ

(下ヶ紙)
右者公信局長田辺太一 → 外務卿寺島宗則/ 外務大捕鮫島尙信
松島(註:鬱陵島)は朝鮮鬱陵島なので、日本ではないから駄目です。
松島ハ朝鮮ノ鬱陵島ニシテ我版圖中ノモノナラス文化年間旣ニ朝鮮政府ト往復ノ書アリト覺ユ
(巨木があるのはDageletダーシュレ島(現在の鬱陵島)であり、現竹島ではない。)

1877.07.02.第十八號 明治十年第八號
在浦潮港貿易事務官 瀨照壽人→ 外務卿代理 森 全權公使殿
今 般御無異御歸朝ニ相成、欣然奉恭賀候、小官儀無恙奉職仕候間、乍憚御省念可被下候、去冬以來上申仕候松島開墾一件御許容相成候樣仕度奉存候、露軍艦七八隻 昨冬ヨリ亞國ヘ參居候處、漸次ニ入港、此外本國ヨリモ不入港候樣評判ニ御坐候、此船舶韓地ヨリ松島近海測量、韓地探偵候樣申事ニ承申候、先鞭致サレ候テハ 口巠臍候共無益ニ付、先便申上候通來九月小官歸朝候節島渡上陸仕、地形港口ヨリ材木産物等一見致シ置、明春着手ノ都合ニ仕度此段至急奉伺候也、
                                明治十年七月二日
                                在浦潮港貿易事務官 瀨照壽人
                                外務卿代理 森 全權公使殿
(巨木があるのはDageletダーシュレ島(現在の鬱陵島)であり、現竹島ではない。)

右ニ付尙松島ノコトニ付諸吏見込ヲ陳セシム、其書具備セス、今記錄局坂田諸遠ノ意見書一通左ニ載ス、卽第十九号是ナリ。
1877.08.06.第拾九號 松島異見
八月六日  坂記錄局坂田諸遠 → 外務省 ?
下記の地圖などから、竹島松島は二島あり、松島は竹島(江戸時代の鬱陵島)の別名と定める事は難しいとの参考意見。
松島竹島ノ二島ハ往昔隱岐國ノ管內ニシテ同國福浦ヨリ戌亥ノ方其距離四十里許ニ松島アリ、松島ヨリ遙ニ離レ朝鮮ニ近キ事琉球ノ八重山ト臺灣福州ノ地ヲ見ル ニ等シ、
伊藤長胤カ輶軒小録ニハ隱州ヲ去ル事三十里、ニ磯竹島在リト記セシハ證スルニ足ラス、
隱州視聽合記 戌亥間行二日一夜有松島、又一日 程有竹島(俗云磯竹島多竹魚海藻) 此二島無人之地 見高麗如雲州望隱州、然則日本之乾地 以此州爲限ト見エタレハ、粗其海路ノ里程ヲ推シテ知ルニ足レリ、
大日本國郡輿地路程全圖 隱岐ノ北面北緯三十八度ニ松島竹島ノ二島ヲ載ス、竹島ハ朝鮮ノ 方ニ位置シ松島ハ隱岐ノ方ニ位置ス、
・水戶人長久保赤水カ唐土歷代州郡沿革地圖中亞細亞小東洋圖 竹島松圖ノ二島ヲ載セ
大日本四神全圖 朝鮮淮陽府江 城ノ東海、北緯三十八度ニ竹島アリテ其東南同緯度中隱岐ノ方ニ松島ヲ載セ、ホウリルロツクト記セシハ洋人ノ呼ヘル島名ナルヘシ、此圖ハ松島ヲ大ニシ竹島ヲ 小ニスレトモ他圖僉竹島ヲ大ニシ、松圖ヲ小ニス、
大御國環海私圖 何人ノ著圖ナルヲ知ラネト、隱岐ト朝鮮ノ間ニ松竹二島ヲ載セ、高田屋嘉兵衛カ商船朝鮮海ニ出テ蝦夷地ニ乘ルトキハ下ノ關ヲ出帆シテ戌亥十八 里ヲ流シ、松竹二島ノ間ニ出轉シテ丑寅ヲ目當ニ乘リシニハアラスヤト、同書ノ自註ニ記セリ、
宮崎柳條ガ新訂日本輿地全圖 竹松ノ二島ヲ聊矛楯スルニ似タ リト雖、視聽合記ニ所言ヲ以テ考フレハ松竹ノ二島アルハ勿論ニテ强チニ松島ハ竹島ノ別号トモ定メ難キ歟


1878.08.15.第二十號 松島開拓願 
明治十一年八月十五日
齊藤七郞兵衛 下村輪八郞 → 貿易事務官 瀨脇壽人殿
・松島(鬱陵島)を6月に見た下村輪八郞の報告・開拓の催促
・六月中長崎縣下ヨリ左之下村輪八郞儀當港ヘ爲商用航海 之砌、右松島ヘ近接僅ニ壹貳丁之海上致乘船候テ現ニ目擊仕候處、果シテ巨木繁茂シ和船之碇泊可致小港モ相見、且漁獵之益モ可有之ト見受候ニ付、
     (巨木があるのは鬱陵嶋であり、現竹島ではない。)
是ニ於テ松島巡島ノ議論起リ、可否紛紛一決セス、卽別紙第二十一號是ナリ

第二十壹號 松島巡視要否ノ議  公信局長 田邊太一 (1878.08.15以降)
甲云、
聞クカ如キ松島ハ我邦人ノ命セル名ニシテ其實ハ朝鮮蔚陵島ニ屬スル于山ナリ、蔚陵島ノ朝鮮ニ屬スルハ 舊政府ノ時一葛藤ヲ生シ、文書往復ノ末永ク證テ我有トセサルヲ約シ、載テ兩國ノ史ニ在リ、
乙云、
開否ノ略ハ視察ノ後ニ非サレハ定ムル能ワス、版圖ノ論今其實ヲ視ス、只ニ○紙上ニ據信スルハコレヲ可トイフヘカラス、況ンヤ我近海ニアリ我民ノ韓ノ內 地ニ航スルモノ露ノ藩地ニ航スルモノ、必由ノ途タレハ其地ノ狀形ヲ悉サスシテコレヲ不問ニ措ク、我吾務ヲ盡ササル○栽シ、故ニ該島ハ勿論所謂竹島ナルモノモ亦巡視シテソノ今日ノ狀ヲ詳知スヘシ、巡視ハ必要スル所ナリ
丙云
英艦シルビヤが韓国沿岸を測量した話 
・該島ノ現狀ヲ知ルコトヲ急務トセリ故ニ誰ニテモ其地ヲ巡視スヘキノ望アルモノ、

*「我近海ニアリ我民ノ韓ノ內地ニ航スルモノ」
これは鬱陵島を指し、現竹島の話ではない。(竹島は20世紀にはいってから)
(「松島ハ我邦人ノ命セル名ニシテ其實ハ「朝鮮蔚陵島ニ屬スル于山」
を仮にリアンコールド岩とすると、朝鮮鬱陵島というのは、これにより、竹島であると考えられるが、

『該島(註:松島)ハ勿論所謂竹島ナルモノ
モ亦巡視シテ』 とあるが、
なぜ、『竹島』ではなく、『所謂』竹島なのか?これは、竹島は存在しないアルゴノート竹島の件も念頭にであるからとも予想される)
つまり、田辺は、竹島アルゴノートは、水路誌などでは存在しない島であるといわれていても、やはり竹島松島は二島あると考え、その”竹島”がArgonautの位置の鬱陵島であると考えていたら、
松島(Dagelet)が于山島であるから、”開拓してはいけない”と解釈も成り立つ。
・長赤水圖と西洋の地図の融合 明治期の日本の地圖


右ニ付甲乙丙ノ論ニ就キ更ニ評論ヲ下ス者卽第二十二號是ナリ、丁印第三號是ナリ。
第二十二號  記錄局長 渡邊洪基  (1878.08.15以降)
外国に此の島が知られつつあるので、早く産物などを調査する必要性を説いている。
本 文甲乙丙之論ヲ並考セシハ其中處ニ達セン
・英官船シルビア號
ハ朝鮮近海ニ發セシハ旣ニ明カナリ、
・露西亞船モ其邊巡視ニ出テタリトノ事アリ、
・ヲ-ダシ ユース(英Flagship)箱舘ヨリ領事乘込、Admiral ライデル氏もVladivostok赴キノ該島ハ其航路上ニアタル今日シPolitical conditionニテは是モ英ノ注目セル所トナランハ、又自然ノ勢ナリ
此島ハ蔚陵島ト謂うか歟、于人島ナルヤ知ニ增ル間 十分也、是カ爲メニ少少ノ金ハ費シテモ然ルヘシ、
(注:此島=松島。松島が鬱陵島か于人島か?
于人島は第拾貳號 松島之議ニ に述べられている、戶田敬義ノ圖
二十三里餘トナル尤曲屈出 入ヲ合セ沿岸]去レハ彼松島卽チ「タゼラ」島ノ周圍ト異ナル事少々ナラス
圖中 南隅に隅ニ一里半周圍ノヲ載ス、是于人島ナルベシ。
から来ていると思われる


或ハ蔚陵島ト竹島ハ同島異名ノ事判然シ、
・」松島モ亦竹島ト同島異名爲ルカ如シ
、 
(注:松島=(江戸時代の)竹島=鬱陵島)=Dagelet))

・否ラサルモ其屬島ナルカ如 シ
竹島之外ニ松島ナル者アリテ我近所ニアラハ旣ニ竹島日本人行キ葛藤ヲ生セシヲ見レハ其島ヨリ近キ松島ヘハ必ラス行キタル人ナシト云フヘカラス、
去レハ竹島ト別物ナラハ因隱石等之國ニ歸セサルヲ得ス、去レハ是等ノ縣ニテハ知ルヘキ筈ナレハ、同縣等ニ問合セ松島之屬否、
竹島松島ノ異同ヲ就調フヘシ、去レハ愈
松島ハ純然タル日本屬島ナリヤ

竹島ハ德川氏ノ中世葛藤ヲ生シテ朝鮮ニ渡シタレトモ松島ノ事ハ更ニ論ナケレハ日本地ナル事明ナリ、)

又ハ竹島
注:鬱陵島の事(日本名竹島=(江戸時代の)竹島=鬱陵島)=Dagelet) )

又ハ其小屬島ナリヤ
注:其小属島=其は「竹島である鬱陵島」を示すが、。
属島の候補として、考えられるのは、選択肢としては
1.竹嶼
 (日本)竹島の圖など
(リンク下方1877など)
 名無しの島(実際は竹嶼であるBoussoule Rock) 場所は各種地図では大よそ一致している

 日本の朝鮮古地圖鬱陵島の”傍ら”にある、ウサン島 /鵜人島?
 地図によりウサン島の位置がバラバラな為、「ポジションを定めるべき」であるという言葉は確かに出てくるかもしれない。
西洋の地図
水路誌
Gazetterなど
Matsushima-Dageletの傍らにあるBoussoule Rock
 Actaeonの測量地図なので、正確

2.リアンコールド岩 江戸時代の松島 
 磯竹島略図?
など日本の古地図
江戸時代の竹島(鬱陵島)と松島(現在の竹島)
の記載がある。
 距離が西洋の地図の(アルゴノート)竹島と(ダゼラ)松島と合致しないので、
ポジションを定めるべきであるという言葉は確かに出てくるかもしれない。
   西洋の地図は、正確だと信じられている節はあるが、これを属島と考えていたのか? また、ポジションはすでに西洋の地図では定まっている

3.竹島アルゴノート島の属島としての松島ダーシュレ島
   
   


、事ヲ明カニシ得ヘシ而シテ現場ノ有樣ト從來之模樣トヲ合セテ其眞ノボシシヨン定ムヘキ ナリ

丁 第二十三號  公信局長 田邊太一  → 記錄局長 渡邊洪基
聞ク松島ハ我邦人ノ命セル名ニシテ其實ハ朝鮮蔚陵島ニ屬スル于山ナリト、蔚陵島ノ朝鮮ニ屬スルハ舊政府ノ時一葛藤ヲ生シ、文書往復ノ末永ク認テ我有トセサル ヲ約シ、載テ兩國ノ史ニ在リ、今故ナク人ヲ遣テコレヲ巡視セシム、之レ他人ノ寶ヲ數フトイフ、況ンヤ隣境ヲ侵越スルニ類スルヲヤ、今我ト韓トノ交漸ク緖ニ 就クトイヘトモ猜嫌猶未タ全ク除カサルニ際シ、如此一擧ヨリシ右テ再ヒ一隙ヲ開カンコト、尤モ交際家ノ忌ム所ナルヘシ、今果シテ聞クノ如クナランニハ斷然 松島ヲ開クヘカラス、又松島ノ未タ他邦ノ有ニ屬セサルモノタル判然タラス
所屬曖昧タルモノナレハ我ヨリ朝鮮ヘ使臣ヲ派スルニ際シ海軍省ヨリ一艘ノ艦ヲ出シ之レニ投シ測量製圖家及生産開物ニ明カナルモノヲ誘ヒ彌無主地ナリヤモ認メ利益ノ有無モ慮リ後チ任地ニツキ漸ト機會ヲ計リ、縱令一小島タリトモ我北門ノ 關放擲シ置クヘカラサルヲ告クテ之レヲ開ケニシカサランカ故ニ、瀨脇氏ノ建言スル所採ル能スサルナリ、
(*田邊太一は、おそらくは「于山島倭松島」の文献か、もしくは朝鮮図の蔚陵嶋と、于山の地圖を見て、于山が竹島鬱陵島とはまた別の大きな島松島(開拓願いが出されている森林などがある島(実際は鬱陵島))と思っている可能性がある)


以上、甲乙丙丁議紛紜定ラサルコト如斯ニシテ、巡見ノコトモ其儘止タリシニ、明治十三 年九月ニ至リ天城艦乘員海軍少尉三浦重鄕等廻航ノ次松島ニ至リ測量シ、其地卽チ古來ノ鬱陵島ニシテ其北方ノ小島竹島ト號スル者アレ共、一個ノ巖石ニ過サル 旨ヲ知リ、多年ノ疑議一朝永解セリ、今其圖ヲ左方ニ出セリ、

第二十四號 水路報告第三十三號 (1880.09.13)
此記事ハ現下天城艦乘員海軍少尉三浦重鄕ノ略畵報道スル所ニ係ル、
日本海
松島(韓人之ヲ蔚陵島ト稱ス)錨地ノ發見
松島ハ我隱岐國ヲ距ル北西四分三約一百四十里ノ處ニアリ、該島從來海客ノ精撿ヲ經サルヲ以テ其假泊地ノ有無等ヲ知ルモノナシ、然ルニ今般我天城艦朝鮮ヘ廻航ノ際此地ニ寄航シテ該島東岸ニ假泊ノ地ヲ發見シタリ卽左ノ圖面ノ如シ、右報告候也、
明治十三年九月十三日
         水路局長 海軍少將柳楢悅



以上二十四号ヲ通覽スルニ、元錄十二竹島ノ地朝鮮ノ者ト極リシ後ハ我人民又此島ヲ 覬○スル者ナカリシニ、百餘年ノ後石州濱田ノ民八右衛門ナル者アリ、江戶在邸ノ吏ニ說テ其黙許ヲ受ケ竹島ニ漁業ヲ名トシ陰ニ皇國産ノ諸品ヲ積去テ外國ニ貿 易セルヲ以テ忽チ法憲ニ觸レ嚴刑ニ處ラル、此ヨリ後又此島ノ事ヲ說ク者ナシ、皇政維新ノ後明治十年ノ一月ニ及ヒ島根縣士族戶田敬義竹島渡海ノ願書ヲ東京府 ニ呈ス、六月ニ及ヒ難聞届旨指令アリ、此ヨリ後復タ竹島ノコト言フ者ナシ、其後奧州ノ人武藤一學、下總ノ人齊藤七郞兵衛等浦塩斯德ニ往來シ、竹島ノ外別ニ 松島ナル者アリト唱ヒ、瀨脇壽人ニヨリテ渡海ノコトヲ請フ、於是竹島松島一島兩名、或ハ別ニ二島アルノ說紛、紜決セス、遂ニ松島巡島ノ議起ル、甲乙兵丁ノ 說ノ如シ、雖然其事中止セリ、明治十三年天城艦ノ松島ニ廻航スルニ及ヒ其地ニ至リ測量シ始テ松島ハ蔚陵島ニシテ、其他竹島ナル者ハ一個ノ巖石タルニ過キサ ルヲ知リ事始テ了然タリ、然ルトキハ今日ノ松島ハ卽チ元錄十二年稱スル所ノ竹島ニシテ、古來我版圖外ノ地タルヤ知ルヘシ

朝鮮書 東國通鑑 東國輿地勝 覽高麗史 通文館志
支那書 右武備志 登壇必究 圖書篇 八篇類纂 朝鮮賦
國書 大日本史 竹島雜志 竹島圖說 朝鮮通交大記 善隣通書 竹島紀事 竹島考 磯竹島覺書 因府年表通航一覽 公信類 竹島書類雜纂 松島之議 松島關係書類 浦潮斯德來信 浦潮港日記   
明治十四年八月奉命取調  北澤正誠

この後、朝鮮鬱陵島一名竹島一名松島の話が続く


以上は竹島考証のことであるが、此処に書いていない他の竹島(蔚陵島)開拓建議や太政官文書の類も記載しておく




1876.10.05 第二十八号 内務省の地理寮から島根県宛の伺い(『明治十年三月 公文録 内務省之部 一』)
内務省地理寮第十二番出仕 田尻賢信/地理大属 杦山栄蔵 → 島根縣地籍編纂係
第二十八号 御管轄内隠岐國某方ニ當テ従来竹島ト相唱候孤島有之哉ニ相聞 固ヨリ舊鳥取藩商船往復ノ線路モ有之 趣右ハ口演ヲ以テ調査方及御協議置候儀モ有之 加 フルニ地籍編製地方官心得書第五條ノ旨モ有之候得トモ 尚為念及御協議候 條 右五條ニ照準 而テ舊記古圖等御取調本省ヘ御伺相成度 此段及御照会候也   明治九年十月五日 地理寮第十二番出仕 田尻賢信  地理大属 杦山栄蔵 島根縣地籍編纂係御中 

1876.10.16 島根縣参事から内務卿への公文 日本海内竹島外一島地籍編纂方伺 (『明治十年三月 公文録 内務省之部 一』)
島根縣参事 境二郎 → 内務省地理寮
日本海内竹島外一島地籍編纂方伺  御省地理寮官員地籍編纂莅檢ノ為メ 本縣巡回ノ切 日本海内ニ在ル 竹島調査ノ儀ニ付キ別紙乙第二十八号ノ通リ照會有之候處 本島ハ永禄中發見 ノ由ニテ 故鳥取藩ノ時 元和四年ヨリ元禄八年マテ凡七十八年間 同藩領内伯 耆國米子町ノ商 大谷九右衛門 村川市兵衛ナル者舊幕府ノ許可ヲ経テ毎歳渡海 島中ノ動植物ヲ持歸リ内地ニ賣却シ候ハ已ニ確証有之 今ニ古書舊状等持傳ヘ 候ニ付 別紙原由ノ大畧圖面トモ相副 不取敢致上申候 今回全島實檢ノ上 委曲ヲ具ヘ記載可致ノ處 固ヨリ本縣管轄ニ確定致候ニモ無之 且 北海百余里ヲ懸隔シ線路モ不分明 尋常帆舞船等ノ能ク往返スヘキ非ラサレハ 右大谷某 村川某カ傳記ニ就キ追テ詳細ヲ上申可致候 而シテ其大方ヲ推按スルニ管内隠岐國ノ乾位ニ當リ山陰一帯ノ西部ニ貫付スヘキ哉ニ相見候ニ付テハ本縣國圖ニ記載シ地籍ニ編纂スル等ノ儀ハ如何取計可然哉 何分ノ御指令相伺候也   明治九年十月十六日 島根縣参事 境二郎
磯竹島略図 (公文録 内務省之部 一 明治十年三月)


1877.03.17 内務少輔から右大臣への公文 日本海内竹島外一島地籍編纂方伺 (『明治十年三月 公文録 内務省之部 一』)
内務卿 大久保利通代理/内務少輔 前島密 → 右大臣 岩倉具視殿
竹島所轄之儀ニ付 島根縣ヨリ別紙伺出取調候處 該島之儀ハ元禄五年 朝鮮人入島以来 別紙書類ニ摘採スル如ク 元禄九年正月 第一号 旧政府評議之旨意ニ 依リ 二号 譯官ヘ達書 三号 該國来柬 四号 本邦回答及ヒ口上書等之如ク 則 元禄十二年ニ至リ 夫々往復相濟 本邦関係無之相聞候得共版圖ノ取捨ハ重大之 事件ニ付別紙書類相添為念此段相伺候也   明治十年三月十七日   内務卿 大久保利通代理   内務少輔 前島密   右大臣 岩倉具視殿

1877.03.29.内務省の通達
紙内務省伺 日本海内竹嶋外一嶋地籍編纂之件 右ハ元禄五年 朝鮮人入嶋以来 旧政府該国ト往復之末 遂ニ本邦関係無之相聞候段申立候上ハ 伺之趣御聞置左之通御指令相成可然哉 此段相伺候也 
1877.03.29(朱書き加筆)(『明治十年三月 公文録 内務省之部 一』)
御指令按 伺之趣 竹島外一島之儀本邦関係無之儀ト可相心得事


一号 丙子 元禄九年正月二十八日 (『明治十年三月 公文録 内務省之部 一』)
天龍院公 御登城御暇御拝領被遊候上 於御白書院御老中御四人御列座ニテ戸田 山城守様 竹島ノ儀ニ付御覺書一通御渡被成 先年以来 伯州米子ノ町人両人竹 島ヘ罷越致漁候處 朝鮮人モ彼島ヘ参致漁 日本人入交リ無益ノ事ニ候間 向後 米子ノ町人渡海ノ儀 被差留トノ御儀被仰渡候也 同是ヨリ前正月九日 三澤吉左衛門方ヨリ直右衛門御用ニ付罷出候様ニトノ 儀ニ付参上仕候處 豊後守様御逢被成 御直ニ被仰聞候ハ竹島ノ儀 中間衆出羽守殿右京太夫殿ヘモ遂内談候 竹島元シカト不相知事ニ候 伯耆ヨリ渡リ漁イタシ来リ候由ニ付 松平伯耆守殿ヘ相尋候處因幡伯耆ヘ附属ト申ニテモ無之候 米子町人両人先年ノ通リ船相渡度ノ由 願出候故 其時ノ領主松平新太郎殿ヨリ按内有之如以前渡海仕候様ニ新太郎殿ヘ以奉書申遣候 酒井雅楽頭殿 土井大炊頭殿 井上主計頭殿 永井信濃守殿連判ニ候故 考見候ヘハ大形台徳院様御代ニテモ可有之哉ト存候 先年ト有之候ヘトモ年數ハ不相知候  右ノ首尾ニテ罷渡リ 漁仕来候マテニテ朝鮮ノ島ヲ日本ヘ取候ト申ニテモ無之 日本人居住不仕候 道程ノ儀相尋候ヘハ伯耆ヨリハ百六十里程有之 朝鮮ヘハ四十里程有之由ニ候 然ハ朝鮮國ノ蔚陵島ニテモ可有之候哉  夫トモニ日本人居住仕候カ此方ヘ取候島ニ候ハハ今更遣シカタキ事ニ候ヘトモ左様ノ証據等モ無之候間此方ヨリ構不申候様ニ被成如何可有之哉  又ハ對島守殿ヨリ蔚陵島ト書入候儀 差除返簡仕候様被仰遣 返事無之内對島守殿死去ニ候故右ノ返簡彼國ヘ差置タル由ニ候左候ヘハ刑部殿ヨリ蔚陵島ノ儀被仰越候ニ及ヒ申間敷カ 又ハ 兎角竹島ノ儀ニ付 一通リ刑部殿ヨリ書翰ニテモ 可被差越ト思召候哉  右三様ノ御了簡被成思召寄委可被仰聞候 蚫取ニ参リ候迄ニテ無益島ニ候處 此儀ムスホホレ年来ノ通交絶申候モ如何ニ候 御威光或ハ武威ヲ以テ申勝ニイ タシ候テモ筋モナキ事申募リ候儀ハ不入事ニ候  竹島ノ儀元シカト不仕事ニ候 例年不参候 異国人罷渡候故 重テ不罷越候様 ニ被申渡候様ニト相模守殿ヨリ被申渡候元バットイタシタル事ニ候 無益ノ儀 ニ事オモクレ候テモ如何ニ存候 刑部殿ニハ御律儀ニ候間 始如此申置候處 今 更ケ様ニハ被申間敷トノ御遠慮モ可有之カト存候 其段ハ少モ不苦候 我等宜敷 様ニ了簡可仕候間 思召ノ通リ無遠慮可被仰聞候 其方達モ存寄リ無遠慮可被申 候 同シ事ヲ幾度モ申進候段クドキ様に存候エトモ異国ヘ申遣候事ニ候故 度々 存寄申遣候間思召寄幾度被仰聞候様ニト存候 御事繁内ニ候故今少シ筋道ヲモ 付候上ニテ達上聞可申ト存候 右申渡候口上ノ趣 其方覺ノ為ニ書付遣候トノ御事ニテ御覺書御直ニ御渡被 成候故 受取拝見仕候ト只今ノ御意ノ趣 有増落着申候様ニ奉存候 左候ハハ以 来日本人ハ彼島ヘ御渡被遊間敷トノ思召ニ候哉ト伺申候ヘハ 如何ニモ其通ニ 候 重テ日本人不罷渡候様ニト思召候由御意被成候故 竹島ノ儀返被遣候ト申手 ニ葉ニテモ無御坐候哉ト申上候ヘハ其段モ其通リニ候島ニテモ無之候上ハ返シ 候ト申筋ニテモ無之候此方ヨリ構不申以前ニ候 此方ヨリ誤リニテ候共不被申 事ニ候 奉存候 左候ハハ以来日本人ハ彼島ヘ御渡被遊間敷トノ思召ニ候哉ト伺申候ヘハ 如何ニモ其通ニ候 重テ日本人不罷渡候様ニト思召候由御意被成候故 竹島ノ儀返被遣候ト申手 ニ葉ニテモ無御坐候哉ト申上候ヘハ其段モ其通リニ候島ニテモ無之候上ハ返シ 候ト申筋ニテモ無之候此方ヨリ構不申以前ニ候 此方ヨリ誤リニテ候共不被申 事ニ候 右被仰遣候趣トハ少シクイ違ヒ候ヘトモ事オモクレ可申ヨリ少ハクヒ違候ト モ軽ク相濟申候方宜敷候間此段御了簡被成候様ニトノ御事故トクト落着申候罷 歸リ刑部大輔ヘ可申聞ヨシ申上候テ退坐仕ル


関連性は不明だが、国立公文書館所蔵の、1877年に竹島の図の写しがあるが、是等には松島が記載されていない。
・江戸時代の日本の竹島(蔚陵島)と松島(現竹島)の地図Maplist

2)竹島(鬱陵島)図
1.「竹嶋之図」:明治10年(1877)写【177-217】
・表紙 (PDF 180KB)
・全体図 (PDF 249KB)

2.「竹嶋之図」:明治10年(1877)写【177-217】
・表紙 (PDF 177KB)
・全体図 (PDF 251KB)
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