04.「17世紀末日本政府,現竹島・鬱陵島を韓国領土で再確認」というのは歪曲

韓国側は、安龍福と言う民間人が、鬱陵島で最初日本人に捕獲され日本連れて行かれたが、二度目の来日の際に現竹島と鬱陵島を朝鮮領土と認めさせたとの歪曲の主張をする。そのときの日本の役人による安の供述調書が「元禄九丙子年 朝鮮舟 着岸一巻之覚書」であるが、これは外交交渉ではなく、ただの調書である。

安龍福の鬱陵島での事件によって日本と朝鮮の間で鬱陵島を巡る争いになったことは事実だが、外交交渉において、日本の「松島」つまり現竹島が話し合われた形跡は無い。

この外交交渉の場で、朝鮮王朝の外交官は、安龍福「漂風の愚民がたとえ何か行っても政府の知るところではないと日本に通告している

至於漂風愚民設有所作為亦非朝家所知

また、この場で朝鮮側は、接慰官・集一を釜山に派遣し、礼曹参判李番の名をもって9月12日に改撰書契を送り、宗氏の竹島日本領説を反駁させた。「朝鮮半島東岸から鬱陵島が晴れた日には歴々と見えることは、輿地勝覧にかいているのは歴代相伝」であると主張して、日本側に鬱陵島禁猟を決定させた。

『粛宗実録』20年8月13日/『通航一覧』巻137

朝鮮国礼曹参判李番、奉復日本国対馬大守平公閣下、槎使鼎来、恵□随至、良用慰荷弊邦江原道蔚珍県有属島、 名曰蔚陵、在本県東海中、而風濤危険、船路無便、故中年移其民空其地、而時遣公差往来捜検矣、本島巒樹木、自陸地歴々望見、而凡其山川紆曲、地形濶狭、 民居遺址、土物所産、倶戴於我国輿地勝覧書、歴代相伝、事跡昭然、今者我国辺海漁氓往其島、而不意貴国之人自為犯越、与之相値、反拘執二 氓、転到江戸、幸蒙貴国大名明察事情、優加資此、可見交隣之情於尋常、欽□高義、感激何事、然雖我氓漁採之地、本是蔚陵島、而以其産竹、或称竹島、此之一 島而二名也、一島二名之状、 非徒我国書籍之所記、貴州人亦皆知之、而今此来書中、乃以竹島為貴国地方欲令我国禁止漁船更往、而不論貴国人侵渉我境、拘執我 氓之夫、豈不有欠於誠信之道乎、深望将此辞意転報東武、申飭貴国辺海之人、無令往来蔚陵島、更致事端惹起、其於相好之誼不勝幸甚、佳領謝、薄物侑緘、統惟 照亮、不宣

このように、日本の対馬藩と朝鮮王朝との正式な外交交渉の間では、”竹嶋”(鬱陵島)の話しか出てこない。 一方”松島”(現竹島)へは、1834年の今津屋八右衛門の事件に見られるように、日本人は渡航を許されていた。しかし今津屋八右衛門は、松島(現竹島)へいくと言って、竹嶋(鬱陵島)へ渡航し、そこで密貿易を行い、密貿易を行った罪で処刑された。このように松島は渡航しても問題は無かったのである。

ただ、この安龍福の偽証「于山倭所謂松島」が朝鮮王朝の實録に記載されたことが今日の竹島問題へと発展しているのである。しかしながら、ご存知の通り、朝鮮王朝が「倭の松島」と思っていた「于山島」は現竹島ではなく、竹嶼であったことは、朝鮮王朝の鬱陵島の調査員の記録と鬱陵島詳細調査地図によって判明している。