竹嶼のような近接した付属島は地図にわざわざ書く必要がないのか?

韓国側の主張に、鬱陵島と竹嶼(Boussole)は5里(2km)で、非常に近接しているのでわざわざ地図に書く必要は無いので于山島は竹嶼ではなく、現竹島(Liancourt)だと主張するのがいる。これは、朝鮮王朝の鬱陵島の捜討官の調査による鬱陵島詳細地図が明るみになり、明確に于山島が竹嶼として書かれている現在にとっては、なんとも空しい主張に過ぎない。
 加えて、陸地に近接している島で、古地図に記載されている島はいくつもあるので、その主張は成り立たない。一例を挙げてみる。

鬱陵島の南西、慶尚道の寧海に、丑山島というものがある。

より大きな地図で 風日清明則可望見 を表示

個人のBlogにある写真を見てみると、現代では三角山のような岬の突端が砂洲で陸地と一体化したかのように見えます。Google Earthでは以下のような地形になります。半島から、約1Kmしか離れていません。大きさも、二つ併せても1Km四方程度です。


しかしながら、こんなに近くで小さな島であるにも拘らず、朝鮮の古地図を見ると、沖にある島として書かれております。 

また、寧海を紹介しているWebsiteでは、寧海は于尸國とよばれ、一名于山國とも記載されていますWebsite上は、A.D79年にこ于尸國が新羅の属国になったと紹介されています。(但し、三国史記巻1.新羅本記(PDF中P59)を読む限り、脱解23年に征服したのは于尸國とはかいておらず、音汁伐國と書いてあるのみ・・・)

寧海の東南、10里に有る島と記載されています

新増東国與地勝覧 巻24.寧海 

P48.丑山島   在府東十里海中其形似牛謂之丑山南有高峯其形似馬謂之馬山戦艦泊処. 

P62.丑山島 地儘滄溟大雲収島嶼開洪涛洶湧動驚雷勢若雪山頽萬竹龍烟静千帆帯雨縦然海寇不虞来知是●風●

P66.普賢山 一伝毌于山在安徳県南二十二里

大東地誌 

寧海

沿革)本于尸山國新羅脫解王二十三年滅之置于尸郡 景德王十六年改有隣郡領縣三臨阿古隱平海隸溟州       高麗太祖二十三年改禮州置知郡事顯宗改防禦使屬府一甫

 (島嶼)丑山島東南十里中有高峯謂之馬山

 (典故)高麗顯宗十三年命于山國民沒蕃逃來者處之
禮州永爲編戶 恭愍王二十一年倭寇寧海 
辛禑年倭入丑山島寇寧海盈德松山又焚寧海又寇寧海元帥南秩與倭戰於寧海蔚山梁州彦陽等處凡五合斬八級 十一年倭舡二十八艘泊丑山島  十三年初倭賊皆由
丑山島入寇判密直司尹可觀出鎭合浦置舡卒自後倭患稍息

于山国(鬱陵島)

于珍(蔚珍)

于尸国(寧海)

丑山島/竹山島/丑竹山島


所で、話は横道にそれますが、仮に、江原道の鬱陵島と、慶尚道の丑山島が記載されたそれぞれの地図を重ねてみると、このような構図になる。


この組み合わせた地図の地図感だと、確かに鬱陵島の南西に丑山島という別の島が、平海越松亭の南に位置することになる。
この感覚に似た地図が、実は日本にも存在していた。

江戸時代の日本の地図にも、江原道に属する鬱陵島と、慶尚道に属する忍山島?悪山島?(丑山?)が書かれている。

大清廣輿圖(書題簽) 江戸時代


丑山島に限らず、業石亭なども海上にある大きな島であるように書かれている地圖もあるので、
竹嶼(Boussole)の様な島は、いちいち一々書く必要性がない、という一部の韓国人の主張はまったく理にかなっていない。
そもそも地圖における于山島の形状・位置・距離をみれば、これが一目瞭然で竹嶼であることがわかる。

さらに、実際に鬱陵島へ行ってみて判ったのだが、竹嶼は、鬱陵島からまったく切り離された空間の様に、ぽつんと洋上に浮かんでいる島で、まさに、最も顕著な付属島である。 観音島や孔巖、三仙岩などのように、鬱陵島に隣接した身近な島とはちがうのが竹嶼であり、ほぼ、別空間のような感覚といってもよいのが竹嶼へ行った感想であった。これゆえ、”最も顕著な付属島”と認識されていたのだと考える。


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