1906. 中井養三朗立志伝 (奥村) M39.05.22
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04_01/index.data/08.pdf
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明治三十一年島根県並びに隠岐島庁より補助金を受けて、巾着網試験事業を引き受け、ある事情よりして、一時潜水機漁業を中止して、.........中略...........一難を排し、一難を経る毎に、志いよいよ堅く、勇往遭進海上の遺利に注目せる氏は、再三再四の挫折に遭ひて、なお志を屈せず、居を隠岐国西郷に移し、(現在居住地)千幸万苦新事業の企図に奔走中、潜水器漁業者よりリヤンコ島に海驢の群集せるを聞き、氏が欝勃た海国的企図は、再び海驢漁業に向かって傾注せらるるに至れり。
リアンコ島とは、リアンコール島の転訛にして、二百五十年以前より隠岐の魚人にはっけんせられ、爾来松島の名を以って沿海地方の人に知られしが、海軍水路部の調査によりて、欝陵島一名松島とせられし以来、リアンコール岩と称されたる絶海の岩しまなり、北緯・・・・・・・・・
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正に明治三十六年氏は再びリアンコ島海驢捕獲業を企図せり、然るに、友人知己皆これを不可とし、ことに真野哲太郎氏の如き、大にその不可を鳴らし、隠岐国島前より、先はこの業に従事せんとして失敗せし歴史をひきて、熱心に忠告する処ありしも、氏の決心は牢乎として動かすべからず、明治三十六年五月意気相投合せる小原、島谷権蔵の両氏をリャンコ島に渡航せしめたり、両氏は屈強の健児八名とともに、巾八尺長四間の漁舟に搭じ、北海の洪波を蹴破りて、同島に着し、はじめて日章旗を岩頭に翻し、島谷氏は有望なる報告を らして、一先気航せり。
されど、銃器火薬その他猟具の準備不完全なりしため、同年は十分の成功を見ずして帰国し、翌年の漁期を待ちて、一大雄飛を試みんと計画せり、実にリャンコ島は、日本海中における海驢の郡集地にして、毎年五月より七八月頃に至るの間、幾千万の海驢分娩交尾のため、同島に群集し、岩頭全く海驢群を以っておほはるの壮観を呈せり。
氏は、心ひそかに翌年の成功を期しつつ、秘密に準備に着手せしが、股○の健児小原氏は、予備召集に応じて出征の途に上がり、島谷氏は病魔に斃れ、事実上大に頓挫を生ぜしも、氏は屈することなく自ら幾多の漁夫を率いて渡島せり、しかるに、同業の有望なるを探知するや、石橋松太郎、井口龍太、加藤重蔵氏の有力なる競争者あらはれ、競争乱獲の弊を生じ、海驢漁業は数年ならずして絶滅せんことを憂い、猟区貸下、制限捕獲の必要性を感じ、加ふるに、海図によれば、同島は朝鮮の叛図に属するを以って、一旦外人の来襲に遭ふも、これが保護をうくるの道なきを以って、かかる事業に向って資本を投するの頗る危険なるを察し、同島貸下を朝鮮政府に請願して、一手に漁猟権を占有せんと決心し、同年の漁期終るや、一○万金の夢を懐にして上京の途に上れり。
氏はまづ隠岐出身なる農商務省水産局員藤田勘太郎氏に図り、牧水産局長に面会して陳述する処ありき、同氏もこの挙を賛成し、先ず海軍水路部につきて、リャンコ島の所属を確かめむ、氏は即ち肝付局長に面会して、教を請ふや、同島の所属は確乎たる微証は無く、ことに日韓両国よりの距離を測定すれば、日本の方十浬の近距離にあり、(出雲国多古鼻より一〇八浬、朝鮮国リッドネル岬より百十八浬)加ふるに、朝鮮人にして従来同島経営に関する形跡なきに反し、本邦人にして既に同島経営に従事せるものある以上は、当然日本領土に編入すべきものなりとの説を聞き、勇躍奮起、遂に意を決して、リャンコ島領土編入ならびに貸下願いを内務外務農商務三大臣に提出するに至れり。
かくて、内務省地方局に出頭して、陳述する処ありしも、同局においては、目下日露両国回線中なれば、外交上領土編入はその時機にあらず、願書は地方庁に却下すべき旨を通ぜらる、氏はやむを得ず、再びこれを牧水産局長にはかる処ありしも、外交上の事とあれば如何ともすること能はずとの言に、失望落胆、空しく不遇をかこつのみなりき、時蛤も地方官会議に列席のため、井原島根県知事は農商主任たる県属藤田幸年氏に随ひて上京中なりしかば、氏の活路をここに求めて、藤田氏を旅館に訪ひてこれを図る、同氏も大に賛成して地方局に向って具申すべきことを約せらる、然るに地方局の意見前述のごとく、藤田氏も到底成功の見込なきを以って、帰国して時機をまつの外なき旨を以てせり。
いまや将来有望の事業を目前に控えて、所属不明の為にみすみす経営の時期を失し、剰へ乱獲数年に亘らば同業の前途頗る寒心すべきをおもへば、氏の胸中実に察するに余ありしなり、されど男児一たび志を決す、百難を排除するの決心なかるべからずと、同郷出身の桑田熊蔵氏(現貴族院多額納税議員たり)にこれを図る、桑田博士即ち書を裁して、氏を山座政務局長に紹介す、氏は山座局長に面会して、リャンコ島経営につきて意見を陳述し、熟誠面に溢れ、しかし毅然として決する処あるが如し。局長はおもむろに聴き終わりて、外交上のことは他者の関知する処にあらず、○たる岩礁編入の如き些細なる小事件のみ、地勢上より見るも歴史上より見るも、はたはた時局上よりみるも今日領土編入は大に利益あるを認むる旨を漏らされたり。
ここに於て、桑田氏と同行して内務省にいたり、井上書記官に面会して、事情を陳述し、ついに同省の同意を得て閣議に上り、明治三十八年二月二十二日島根県告示第四〇号を以て同県の領土に編入し、竹島と命名せられたり。
中井氏は、一旦帰国して徐々に計画する処ありしが、いよいよ領土編入の件発表せされ漁撈地貸下につきて島根県の所管となりしかば、競争者続出し、前記数名の外、幾多の出顧者を生じ、同県庁に於てもその採択に困しみ、しかば、中井氏は、橋岡友次郎、井口龍太、加藤重蔵三氏と協同して竹島漁撈合資会社を組織し、同島海驢漁猟を出顧し、同年六月五日、松永島根県知事より許可を得て、同島の海驢漁猟権は中井氏外三氏の占有に帰し、幼児を保護し、捕獲頭数を制限して将来の計画を立て、会場における多年の経験と、海驢捕獲に関する数年来の実験とによりて、本年より同島経営に向かって全力を傾注せんとしつつあり、また海国の韋丈夫というべきなり。
明治39年(1906年)に発行された奥原碧雲著 「竹島及鬱陵島」27―28ページ
然るに、明治三十六年伯州東伯郡小鴨村中井養三郎氏(現今隠岐國西郷居住)リャンコ島(新竹島)の海驢捕獲業を企図するや、同郷の人、小原陸軍歩兵軍曹大 にこれを賛し、蹶然奮起、自ら隊長となり、巾八尺長四間の漁船に乗じ日本海の荒浪を蹴破りて、島谷權藏以下の壯夫七人を率ゐて、リアンコ島に上陸して、は じめて日章旗を岩上に翻したるは、明治三十六年五月某日なりき。
偶、島前の石橋松太郎氏部下の漁夫、また渡航してともに捕獲に従事せしも、準備不完全のため目的を達せず、
翌年の漁期を待ちて大発展を期しつつ、歸港することとなれり。
かくて、海驢捕獲業の有利なるを知り、三十七年の漁期には、各方面より續々渡航し、競争濫獲の結果、種々の弊害を認めたる中井養三郎氏はリャンコ島を以て朝鮮の領土と信じ、同國政府に貸下請願の決心を起し、三十七年の漁期終わや、直ちに上京して、隠岐出身なる農商務省水産局員藤田勘太郎氏に圖り、牧水産局長に面會して陳述する所ありき。 同氏またこれを賛し、海軍水路部につきて、リャンコ島の所属を確めしむ、中井氏即ち肝付水路部長に面會して、同島の所属は、確乎たる徴證なく、ことに、日韓両本國よりの距離を測定すれば、日本の方十浬近し、加ふるに、日本人に して、同島經營に従事せるものある以上は、日本領に編入する方然るべしとの説を聞き、中井氏は遂に意を決して、リャンコ島領土編入並に貸下願を、内務外務 農商務三大臣に提出せり
りゃんこ島領土編入並に貸下願
隠岐列島の西八十五浬、朝鮮鬱陵島の東南五十五浬の絶海に俗にりゃんこ島と称する無人島有之候、周囲各約十五町を有する甲乙二ヶの岩島中央に対立して一の海峡をなし大小数十の岩礁点々散布して之を囲繞せり
中央の二島は四面断岩絶壁にして高く屹立せり
其頂上には僅に土壌を冠り雑草之に生ずるのみ
全島一の樹木なし
海辺彎曲の処は砂礫を以て往々浜をなせども屋舎を構え得べき場所は甲嶼の海峡に面セル局部僅に一ヶ所あるのみ
甲嶼半腹凹所に潴水あり
茶褐色を帯ぶ
乙嶼には微々たる塩分を含みたる清冽の水断岸渭滴仕候
船舶は海峡を中心として風位により左右に避けて碇泊せば安全を保たれ候
本島は本邦より隠岐列島及び鬱陵島を経て朝鮮江原、咸鏡地方に往復する船舶の航路に当たれり
若し本島を経営するものありて人之に常住するに至らば夫等船舶が寄泊して薪水食糧等万一の欠乏を補ひ得る等、種々の便宜を生ずへければ今日暇駸々乎として 盛運に向ひつ々ある処の本邦の江原、咸鏡地方に対する漁業貿易を補益する所少なからずして本島経営の前途最も必要に被存候
本島は如斯絶海に屹立する最爾たる岩島に過ぎざれば従来人の顧るもなく全く放委し有之候
然る処私儀鬱陵島往復の途次会本島に寄泊し海驢の生息すること夥しきを見て空しく放委し置の如何にも遺憾に堪へざるより爾来種々苦慮計画し兪明治三十六年に至り断然意を決して資本を投じ漁舎を構へ人夫を移し漁具を備へて先づ海驢猟に着手致候
当時世人は無謀なりとして大に嘲笑せしが元より絶海不便の無人島に新規の事業を企て候事なれば計画齟齬し設備当を失する所あるを免れず
剰へ猟法製法明かならず
用途販路亦確ならず
空しく許多の資本を失ひて徒に種々の辛酸を嘗め候結果本年に猟法製法其に発明する所あり
販路も亦之を開き得たり
而して皮を塩漬にせば牛皮代用として頗る常用多く新鮮なる脂肪より採取せる油は品質価格共に鯨油に劣らず
其粕は十分に搾れば以て膠の原料となし得らるべく肉は粉製せば骨と共に貴重の肥料たること等をも確め得候
即ち本島海驢猟の見込略相立ち候
而して海驢猟の外本島に於て起すべき事業陸産は到底望なく海産に至りては未だ調査を経ざるを以て今日確信し難きも日本海の要衝に当れば本島附近に種々の水 族来集棲息せざる筈なければ本島の海驢漁業にして永続する事を得ば因て以て試験探査の便宜と機会とを得て将来に有利有望の事業を発見し得るならんと相期し 候
要するに本島の経営は資本を充実にし設備を完全にして海驢を捕獲する上に於て前途頗る有望に御座候
然れども本島は領土所属定まらずして他日外国の故障に遭遇する等不測の事あるも確乎たる保護を受くるに由なきを以て本島経営に資力を傾注するは尤も危険の事に御座候
又本島の海驢は常に棲息するにはあらず
毎年生殖の為其季節即ち四五月(年により遅速あり)来襲し生殖を終りて七八月頃離散するものに候
随て其漁業は其季間に於てのみ行ひ得られ候
故に特に猟獲を適度に制限し繁殖は適当に保護するに非んば忽ち駆逐殄滅し去るを免れず
而して制限保護等の事は競争の間には到底実行し得られざるものにて人の利に趨くは蟻の甘きに附くが如く世人苟くも本島海驢猟の有利なるを窺い知せば当初私 儀を嘲笑したるものも並び起つて大に競争して濫獲を逞うし直ちに利源を絶滅し尽して結局共に倒る々に至るは必然に御座候
私儀は前陳の如く従来種々苦心の結果本島の海驢猟業略々見込相立ちたれば今や進んで更に資本を増して一面には捕獲すべき大さ数等を制限すること雌及び乳児 をば特に保護を厚くすること島内適当の箇処に禁猟場を設くること害敵たる鯱(しゃち)、鱶(ふか)の類を捕獲駆逐すること等種々適切の保護を加へ一面には 猟獲製造に備ふる種々精巧の器械を備へ装置を設くる等設備を完全にし傍には漁具を備へて他の水族漁労をも試む等大に経営する所あらんと欲するも前陳の如き 危険あるが為頓挫罷在候
如斯は啻(ただ)に私儀一己の災厄のみならず又国家の不利益とも被存候
就きては事業の安全利源の永久を確保し以て本島の経営をして終を完うせしめられんが為に何卒速に本島をば本邦の領土に編入相成之と同時に向ふ十ヶ年私儀へ御貸下相成度別紙図面相添此段奉願候也
明治三十七年九月二十九日
島根県周吉郡西郷町大字西町字指向
中井養三郎
内務大臣 子爵 芳川 顕正 殿
外務大臣 男爵 小村寿太郎 殿
農商務大臣 男爵 清浦 圭吾 殿
1907.島根県史要 藤本充安編 松江:川岡清助,明40.5
第三編 隠岐 第六章 竹島の獲物
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766205/237
1921.隠岐西郷町誌 大西音吉著 西郷町(島根県):桜井修一,大正10
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/913627/96
竹島漁獵合資會社