10.「日本,1905年現竹島強制編入」というのは歪曲


リャンコ島、つまり現竹島の漁業活動は日本人漁業者によって始まり、ようやくその頃韓国人も現竹島を知るように なるが、大韓帝國がこの島を実効支配した事は無かった。其頃の漁業に関する記録には韓国が現竹島を実効支配した形跡は無い上、韓国の東限が描かれた地誌、 および鬱陵島の範囲の認識に現竹島も含まれていないのである。また、戦争行為など軍事力の行使によって編入したわけではない。韓国側は、よく日露戦争中に宣言をしたからそれは戦争行為であるとの印象操作を行うために、”強制編入”として、まるで奪われたの如く歪曲主張する。しかしながら、韓国側から、外交手段を通じて、日本領土竹島について日本に抗議は無かった。 ただし、反日運動と連動しての騒動はあった。特に江原道附近では義兵運動が他地域よりも多かったようだ。

韓国側は、「日本に外交権を掌握されているので日本の竹島編入を抗議できなかった」、と主張するが、大韓帝國は、現に日本に対して、正式に数度抗議をしている証拠がある。
1.1905年10月17日報道によると、1905年8月12日の第二回日英同盟協約第三條の条文について、大韓帝国の朴斉純外相がこれを非難し、駐韓イギリス公使と日本公使に抗議している。(詳しくは「極長日記」が詳しいのでそちらを参照のことl) (日本が韓国に通達したのは1905年10月05日)
2.1906年02月27日~04月27日、蔚珍の元燈台用地売買に関して、正式に日本側の統監府に抗議して、承認させている(詳しくはDokdo-or-takeshimaを参照のこと)
つまり、竹島編入についても、韓国は十分に抗議できる立場にあった。しかし、日本の竹島編入に関しては、そのような正式な外交上の抗議をしたという記録はない。


1905 年の日本の竹島編入に関して、1906年05月、、韓国マスコミはいっせいに「獨島が日本の地だというのは道理がない」といった報道がなされるが、これは 当時の一連の反日騒動と考えられる。1905年の時点で、既に日本は日本の漁業者に対して、現竹島の漁業許可をだしている。漁業許可を出すという事は、漁 業鑑札を発行する事であるが、この漁業鑑札を、日本人に雇われて日本の船で現竹島へ渡航していた鬱陵島在住韓人は十分知っていたはずである。
1905年04月14日.海驢漁を許可制にする漁業取締規則改正(島根県令18号)
1905年05月03日.知事による測量命令(島根県地第90号)及び島司による実測報告
1905年05月17日.官有地台帳登録(第32号隠岐国、周吉、穏地、海士、知夫郡官有地台帳
1905年05月20日.海驢漁の許可(乙農第805号)
1905年06月04日.竹島でのあしか捕り漁業利権を中井養三郎に許可。(1905. 6. 4)
1905年06月12日 明治三十八年六月十二日海軍技手木口吉五郎ノ提出セル竹島視察報告
リ ヤンコールド岩ハ欝陵島ノ東方ヨリ●(禾に肖)南方ニ偏シテ東西ノ二島ニ分ル 両島間ノ距離約百六十五尺ナリ 西島ハ海上ヨリ高サ約四百五十餘 尺ニシテ断崖絶壁宛モ剣ヲ立テタルカ如ク到底絶頂ニ攀登スル能ハス且平地等モ見當ラス材料物品ノ運搬モ出来難キヲ見ル 東島ハ海面ヨリ絶頂迄約三百二十五 尺ニシテ中央ニ高サ六尺ヲ開●(墾?)セハ望楼●詰所トシテ適當ナル位置ヲ求メラルヘク叉是ヨリ東方約三十間ノ處ノ高地ハ信號旗竿及ヒ見張所等ヲ建設スル ニ適當ト思料ス 以上ノ状況ニヨリ判断スルニ望楼建設ニハ東島ヲ以テ適當ト存セラレ候條此段御参考迄ニ意見上申候也
付属図 橋立戦時日誌 (竹島の地圖)http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/hashidatewarship-1905/

開拓開始(1880年代)以来、鬱陵島の韓人は主に農業が主体であり、漁業は鬱陵島の沿岸部での採藻などの海草や雑魚を採っている程度であり、現竹島で自 主的に活動していた形跡は無い。しかしながら、1903年ごろから、漁業が金になることを知るようになった韓国人は、現竹島を「自分達の縄張り」と思うよ うになったのかもしれない。しかしながら、韓国がこの現竹島を菅理・実効支配している様子は無かった。

また、日本は竹島編入を秘密にしていたと韓国側が主張するが、竹島編入は1905年02月22日で、その後日本海海戦が鬱陵島や現竹島の近海でも行われており、この時、日本側ではどうどうとその報道がなされている。
当初、日本側は、官報で「リアンコールド岩附近で戦闘があった」、と報道したが、すぐに「竹島」と名称を訂正している。


この官報・報道は、韓国側もきちんと伝わっている。つまり、官報は韓国側に伝わっており、「竹島」に訂正した事も十分知りうる立場に会った。

 (明治38年5月29日) http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka31/gazette-1905/02.jpg
 (拡大記事) http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka31/gazette-1905/03.jpg
日本海海戦戦報 其三 今二十九日午前著電
「連合艦隊の主力は27日以来残敵に対して追撃を続行し、、二十八日に「リアンコールド」巌附近に於いて敵艦ニコライ第1世(戦艦)とアリヨール(戦艦)と・・・
(韓国)1905.06.01.皇城新聞 http://search.i815.or.kr/ImageViewer/ImageViewer.jsp?tid=ns&id=HS1905060101
「・・・日没後に駆逐水雷艇が俄軍を襲撃し陸続追撃し、二十八日にジウンコルド巌附近で俄艦ニコライ1世号とアリヨール号と・・・

(明治38年5月30日) http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka31/gazette-1905/04.jpg
(拡大記事)        http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka31/gazette-1905/05.jpg
1905.05.30.日本海海戦続報  其五
連合艦隊ノ大部ハ、前ニ電報シタル如ク、一昨二十八日午後、「リアンコルド」岩附近ニ於テ、敗残敵艦隊ノ主力ヲ包囲攻撃シテ、其降伏ヲ受ケ、追撃ヲ中止シ、之ガ處分ニ従事中、
(韓国)1905.06.02.皇城新聞 http://search.i815.or.kr/ImageViewer/ImageViewer.jsp?tid=ns&id=HS1905060203
日艦隊의 公報 日本聯合艦隊司令官의 公報를 槪據한 則 聯合艦隊의大部隊가二十八日後에는난 안고후島 附近에셔敗殘한俄國艦隊의 主力部隊를包圍攻擊하야 其降服을 受한 後에 追擊은 中止하고 此艦을 措處하는中이오


(日本)1905.06.05 官報 訂正 http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka31/gazette-1905/08.jpg
去月二十九日官報号外本欄日本海海戦戦報の項其三、及び同三十日同日日本海海戦続報の項其五中「リアンコールド岩」を孰も「竹島」に訂正す。

なお、「極長日記」 において、説明がなされているが、此の頃、韓国のマスコミによる反日騒動が行われていたとのこと。
日露戦争、日比谷焼き討ち事件、韓国保護問題、韓国併合、何れの場合においてもマスコミによる世論の煽動が行われている。
しかも、政権攻撃のために行われた捏造を含む煽動である。
ま、今後取り上げる在京城新聞記者団の話で、その一端が垣間見られるだろう。

日本海海戦の後、このような状況の中で、日本の島根県の竹島視察団が、1906年03月26日、竹島視察後、03月28日に鬱陵島の郡守沈興沢を訪問し、現竹島で捕獲した海驢を寄贈したが、この時、丁重にもてなされ、特に抗議などはなかった。
1906年04月01日 山陽新聞  (03月28日の鬱陵島訪問の記事)
竹 島に於いて獲たる海驢三頭の中一頭は一行に於て料理し 一頭は欝陵島の郡守に贈り一頭は衛生上の研究材料として索き帰ることとなり 昨日境より贈り来りし を以て目下衛生試験場に於て繋留しあり 神西部長は欝陵島に到り郡守を訪ふて「余は大日本帝国島根県の勧業に従事する役員なり 貴島と我が管轄に係る竹島 は接近せり 又貴島に我が邦人の滞留するもの多し 万事につき懇情を望む 又貴島を視察するの予定なれば何か進呈すべきものを携帯すべかりしを今回避難の 為め偶然にも貴島せし訳にして何も増訂するものなし  幸に茲に(ここに)竹島に於て海驢を獲たれば贈呈せんとす受納あらば幸甚」と、
郡守答へて曰く 「然り滞留の貴邦人に就いては余に於て充分保護すべし 又海驢の贈呈を受く 若し海驢にして味美なりせば贈与を望む」云々

しかし、この時の対応とは裏腹に、全く違った内容をを春川郡守・李明来に報告している。しかしながら、このような報告の中に、「獨島」は「大韓勅令41号の石島である」とか、「輿地誌等に書かれた于山島」などを引用して「韓国領土」であるとの説明は、一切ない。

1906.04.29 春川郡守・李明来の中央政府への「鬱島郡守 沈興澤 報告書」の報告 5/7議政府受付
鬱島郡守 沈興澤 報告書內開에 本郡所屬獨島가 在於外洋百餘里外이 살더니 本月初四日辰時量에 輪船一隻이 來泊于郡內道洞浦 而日本官人一行에 到于官舍야 自云獨島가 今爲日本領地故로 視察次來到이다 이온바 其一行則日本島根縣隱技島司 東文輔及事務官 神西田太郞 稅務監督局長 吉田平吾 分署長警部 影山巖八郞 巡査一人 會議一人 醫師技手各一人 其外隨員十餘人이 先問戶總人口土地生産多少고 且問人員及經費幾許諸般事務을 以調査樣으로 錄去이기 玆에 報告오니 照亮시믈 伏望等因으로 準此報告오니 照亮시믈 伏望.

五月十日 指令 第三號 ( 議政府參政大臣 朴齋純→李明來)
來報 閱悉이고 獨島便地之說은 令屬無根니 該島形便과 日人如何行動을 更爲査報 事.
五月十日
江原道觀察使署理春川郡守 李明來 議政府參政大臣 閤下 光武十年四月二十九日

韓国の民族派は、この沈興澤の報告を一斉に報道し始める。「現竹島は韓国領土であり、日本に奪われた」と反日を煽る内容の一連の記事が一斉に報道されるようになる。それに現竹島が使われた。
1906.05.01.大韓毎日申報
独島が日本の領地だと言うのは、全く理にかなっていない 日本が編入する理由がないため、報告自体が怪訝なことであるとしている 「日本官員一行が本郡に上陸し、 本郡所在の独島は、日本属地と自称し、地界の濶狭と結数を一一録去、云々」

1906.05.19.皇城新聞 http://search.i815.or.kr/ImageViewer/ImageViewer.jsp?tid=ns&id=HS1906050902
「本郡所属の独島は外洋百余里の外に在るが、本月四日に、日本官人一行が官舎に来到し、自ら云うには、独島が今、日本の領地になった故、視察のついでに来到し、(中略)戸数人口と土地の生産の多少と人員及び経費幾許、諸般の事務を調査して録去した」

1906.    『梅泉野錄』 제5권 http://db.history.go.kr/url.jsp?ID=NIKH.DB-sa_001_0060_0020
鬱陵島 앞바다에서 동쪽으로 200리의 거리에 섬이 하나 있다. 이 섬을 獨島라고 한다. 이 섬은 옛날에 울릉도에 속해 있었으나 일본인들은 그들의 영토라고 하면서 조사를 해갔다.

この一連の現竹島に関する反日騒動が有ったにも関わらず、大韓帝國が日本側に正式に外交ルートを通して抗議した形跡はない。韓国が十分日本に抗議できる立場にあったことは先に説明したので割愛する。これらの結末は、1906年には鬱陵島配置顛末と言う形で一旦は収束した。おそらくは地誌等を検証したのであろう、その結果現竹島は鬱陵郡の範囲ではなかったのである。
1906.07.13 皇城新聞 http://search.i815.or.kr/ImageViewer/ImageViewer.jsp?tid=ns&id=HS1906071302
統 監府에서 內部에 公函하되 江原道 三陟郡 管下에 所在 鬱陵島에 所属島嶼와 郡廳設始 年月을 示明하라는 故로 答函하되、光武二年五月二十日에 鬱陵島監으로 設始 하였다가 光武四年十月二十五日에 政府會議를 經由하야 郡守를 配置하니 郡廳은 台霞洞에 在하고 該郡所管島는 竹島石島오、東西가 六十里오 南北이 四十里니, 合 二百餘里라고 하였다더라

また、此の頃の”于山”認識は、既に「松島=鬱陵島=于山国になっている。しかしながら、張志淵は、独立協会および大韓自強会と言う、反日団体(詳しくはこちらを参照)の代表であるが、彼は「韋庵文稿卷之九 外集 社說中 東事考略十五篇 讀史有感 」では此の認識に基づいて記述しているのに対して、1907年の大韓新地誌では、1905年の日本の1905年09月07日の日本の「韓國新地理」 (田淵友彦本文を翻訳した1906年6月の「新編大韓地理」Dokdo-or-Takesimaを参照の事)で記載されているち、「ヤンコ島」の部分を1907年の大韓新地誌では「于山島」に書き換えている。しかしながら、大韓新地誌の附属の地圖Dokdo-or-Takeshimaを参考の事)は、 緯度経度が記載され、鬱島郡の東限は、竹嶼の位置であることを示しており、之を修正しなかったのもそういった即興的な歪曲の結果であり、これも一連の反日 マスコミによる世論の騒動活動であると十分考えれられる。 朝鮮側が現竹島にあたる島を「于山島」と記載したのはこの1907年の大韓新地誌、1907.初等大韓地誌位である。 1909年の最新高等大韓地誌では、于山島の記述は無い。

韋庵文稿卷之九 外集  社說中 東事考略十五篇 讀史有感  張志淵
http://db.history.go.kr/url.jsp?ID=sa_004_0090_0010_0040
于山國
按東史, 新羅 智證王十三年, 討服于山國, 于山在溟洲正東海中, 卽今鬱陵島, 地方不過百里, 恃其險不服, 伊飧 異斯夫率甲兵十餘人, 以木造獅子百許頭, 塗飾金彩, 載之戰船, 抵其島誑之曰, 汝若不降, 卽放此獸蹯殺之, 國人大懼乃降, 恃險不服者, 始何强項, 大懼乃降者, 終何柔腸耶, 料其山河之固, 足以不受敵, 城池之壯, 足以堅其守, 人民戰士之能作捍禦者, 審其衆寡强弱之勢, 知其不能攻, 然後可以不服, 海上孤島小如點墨者, 所恃維何, 而徒恃其險, 可知其民之愚也, 見其甲士之猛, 足以蹂躪, 戰船之多, 足以衝擊, 金毛獅子之能售悍獰者, 究其眞假詐正之跡, 知其不能制, 然後可以乃降, 幻目奇怪, 一言威嚇者, 所懼維何, 而大懼乃降, 可知其民之昧也, 其民愚且昧, 而其國不二者, 自古及今未之有也, 比今世界以觀之, 大小强弱相與聯肩, 其民不愚昧, 則始而不恃, 相與和好, 終而不懼, 相與椅角, 故小與大相抗, 弱與强相立, 其民愚昧, 則始而未嘗不恃, 終而未嘗不懼, 小爲大吠, 弱爲强幷, 其民愚昧之甚, 則不惟小者弱者, 大者强者亦至呑幷, 不必遠求, 泰西之波蘭可謂大者强者, 其民愚昧, 故終爲呑幷於俄普奧, 現今支那之淸國, 亦可謂大者强者, 其民愚昧, 故方見敗陷於聯合軍, 未知幷呑於誰手, 其民愚昧, 而其國必亡之證, 昭然可據, 如今木造獅子之威嚇, 羅列前後, 不啻一二民之愚昧甚于于山, 可不憂哉, 有國者急先敎民, 開其愚昧, 能知木獅之眞假詐正, 豈非存國興亡之大基本哉。

1907.大韓新地誌 張志淵   
    鬱島X(北緯百三十度四十五分至三十五分東経三十七度三十四分至三十一分)古鬱陵島X蔚珍・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・・
于山嶋X其東南X在XXX。

1907.初等大韓地誌 
張志淵 元泳義 安鐘和 位置境界 (P23-244-)
鬱島X鬱陵嶋XX北緯一百三十度四十五分XX35分X至XX東経三十七度三十四分XX三十一分X至XX三峰X 空XX地方X約五百四方里X薬材X森林X多産XX于山嶋X其東南X在XXX。

このように、現竹島編入に対する韓国人の騒ぎは、当時も反日活動の一環だったに過ぎかったのである。それ故、大韓帝國政府は、抗議できる立場にあるにもかかわらず、一切抗議していなかったのである。

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