[ホ・ドンヒョンのモダンタイムズ] [3]独島領有権、すでに1946年に結果が生まれた の嘘
ホ・ドンヒョン慶煕(キョンヒ)大教授・歴史学
独島(トクト)は「近世以来日本の固有領土で、1905年島根県告示はこれを再確認しただけ」
というのが日本外務省の公式の立場だ。これは日帝が独島を奪い取る時に前に出した「持
ち主のない土地を先占した」という主張と正面対峙される。当初、日本内務省は独島編入に
反対した。その理由は「韓国領であるという疑問が生じている荒漠な一つの暗礁を得て、環
視する色々な外国に私たちが韓国併呑に野心があるという疑いを抱かせるのは利益がきわ
めて少ない」とのことだった。ところがなぜ日帝は突然独島領土編入を押し切ったのだろう
か? 1905年1月の旅順陥落以後、日帝が独島近海を露日戦争の勝敗を分ける最後の決戦
場としたためだった。2月22日に独島編入が一方的に公布され、5月28日に独島近海でロシ
アのバルチック艦隊は降伏した。
http://image.chosun.com/sitedata/image/201203/29/2012032902705_0.jpg
▲1954年10月、釜山(プサン)港で開かれた遠洋漁業出漁護船団式場。「平和線死守」という
スローガンが胸に迫る。「君と私でなければ誰が守るだろうか。」独島の険しい歴史が与える
教訓だ。
「暴力と貪欲によって略取したすべての地域で日本勢力を駆逐する。」1943年カイロ宣言のこの
ような精神は、独島が日本領土でないことを明文化した1946年1月29日付連合国最高司令部
(SCAPIN)指令第677号と、その年6月独島水域で日本の漁労活動を禁じる「マッカーサーライ
ン」公布で確認された。日本は1951年9月連合国と結んだサンフランシスコ講和条約の「日本は
済州島(チェジュド)・巨文島(コムンド)・鬱陵島(ウルルンド)を含むすべての権利・権原および
請求権をあきらめる」という文言に独島が明示されなかったとし、韓国領土ではないと主張する。
しかし、これは連合国が独島を母島・鬱陵島に付属した島嶼と見たためだ。
李承晩(イ・スンマン)大統領は1952年1月、独島が含まれた海洋主権線の「平和線」を宣言し、
4ヶ月後、日本の毎日新聞社が外務省の諮問を受けて出したサンフランシスコ講和条約解説書
にのせられた「領域図」は独島を韓国領と明記した。その年の9月、クラーク国連軍司令官が韓
半島周辺に設定した海上防衛水域(クラークライン)もやはり独島を含んだ。その時、国際社会
はもちろん、日本自身も独島が韓国領土という点を認めたのだ。今、日本の独島領有権主張は
自己矛盾の愚を犯す。
ソース:朝鮮日報(韓国語) 入力:2012.03.29 22:34
http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2012/03/29/2012032902928.html
(SCAPIN)指令第677号と、その年6月独島水域で日本の漁労活動を禁じる「マッカーサーライ
ン」公布で確認された。
日本の領土を最終決定するのは、Scapin指令ではなく、それは「平和条約にて決定される」事は、以下の文書から確認ができます。
1.1946.02.13.行政の分離に関する司令部側との会談
2.1946.01.29.Scapin677の6に記載された文章/Scapin1033-5に記載された文章
3.1947.061.9日.極東委員会決定「降伏後の対日基本政策」。
4.1947.08.?? U.S. Army Military Government - South Korea: Interim Government Activities, No.1, August 1947
5.1952.11.14.Confidential Security Information about Liancourt Rocks
(SCAPIN指令によって、一度竹島は日本の行政権から分離され、連合国に移管される)
マッカーサーラインはScapin 1033によるものですが、第五条にもしっかりとそれが日本の領土の最終決定ではない旨が説明されています。
Scapin 1033-5. The present authorization is not an expression of allied policy relative to ultimate determination of national jurisdiction, international boundaries or fishing rights in the area concerned or in any other area
また、韓国側は、Scapin677が出された後も、Scapinが領土を決めるものではないと知っていたので、愛国老人会がマッカーサーに手紙を出していますように、韓国側はScapinが韓国の領土を決定するものでないことを知っていたようです。以下の3つの記事は、韓国側が竹島がScapinによって韓国領土と確定していないこと韓国側が理解していたことをを示すものです。
1947.07.23.版圖? 野慾? 觸手 ? ??? 日人? 侵略性 鬱陵島近海 「獨島」問題再燃//當然 ?? ? 申國史館長談 翻 訳
鬱陵島近海『獨島』問題再燃 (以上見出し)
日 本人たちは、朝鮮から退いて行ったあとも、あらゆる悪を尽くしているが、
憎たらしいことに、我々の版図にまで野慾の魔手を伸ばしている。
す なわち、東海の鬱陵島の東南49マイル地点にある2個の無人島の獨島があるが、その左島は周囲1マイル半、右島は半マイルの小さな島で、この島は古い昔か ら我々の漁業場として、また国防の基地として、我々の堂々たる版図に属していたものである。
ところが、最近になって、日本の島根県、境 (さかい)に住む日本人が、この島は自分の個人のものだとして朝鮮人の漁業を禁じており、また、日本人が我が国の領海に侵入しているため、鬱陵島の島民が 慶北道を通じて軍政当局に陳情して来た。
と ころで、この島は、いわゆる韓日合併前の光武10年にも、日本人の官憲が不法に上陸し調査をして行ったことがあり、その当時、朝鮮政府内外では物議をかも していたが、その後、いわゆる韓日合併となって、この問題がうやむやとなり、日本人たちは元来自分たちの領土だと言ってきたものだ。しかし今や解放とな り、今日では、地理的にも歴史的にも当然にわが版図内に属するものだ。
(カット=問題の獨島)
当然我々のもの 申国史館長談
「地 理的に、歴史的に見て、当然に我が国の版図に帰属すべきものであり、独立国家になったあとも、軍事上また経済上重大な地点になりうる。当面する問題として は、漁場開拓上、重大な関心と利害をもたらしているので、「マッカーサー」司令部でわが版図と確定させなければならない。」
(翻 訳:matsu氏/dokdo-or-takeshima.)
1947.08.03.獨島問題 重大化, 搜索委員會組織코 協議//우리의 國土 秋日本課長談
●●●●● ●●●●● 日本人が、わが版図である鬱陵島近海にある獨島に●●●野慾の 魔手を伸ばしているということは既報したところであるが、過渡政府では、同問題を重要視し、民政長官が委員長となり、獨島に関する捜索委員会を組織して、 4日午前10時から中央庁民政長官室において、その対策について ● 協議することになった。
我々の国土 秋 日本課長談
「この 問題は、わが国土に関することであるので、重大な問題であり、この委員会は、獨島に関する歴史的考察と現地調査をして、『マック』司令部に報告し、わが国 土であるということを世界に宣布しなければならない」
安在鴻(アン・ジェホン)を民政長官とする南朝鮮過渡政府は8月初め独島問題に対す る具体的な対応策をまとめた。過渡政府は民政長官を委員長とする「独島 に関する調査委員会」(一部資料では交渉委員会と表記)を組織したのち、1947年8月4日官界方面の専門家を招請し中央庁民政長官室において会議を開い た。
秋仁奉(チュ・インボン)過渡政府日本課長は調査委員会が独島に関する考察と現地調査をしマッカーサー司令部に韓国の領土であること を報告する計画であると述べた
会議の結果2つの方向で対策がたてられた。1つは歴史的文献の発掘作業でありもう1つは現地調査であった。
(翻 訳:matsu氏//dokdo-or-takeshima)
1948.08.05. Korean Petition concerning Soverigninty of "Ducksom","Ulluengdo",and "Tsushima" and Parang" islands.[By Patriotic Old Man association)
(竹 島と鬱陵島、対馬、Parangdoを韓国領土にくわえるよう、韓国民間団体の愛国老人会がD.Mcarthorに嘆願)
日本は1951年9月連合国と結んだサンフランシスコ講和条約の
「日本は 済州島(チェジュド)・巨文島(コムンド)・鬱陵島(ウルルンド)を含むすべての権利・権原および請求権をあきらめる」
という文言に独島が明示されなかったとし、韓国領土ではないと主張する。
しかし、これは連合国が独島を母島・鬱陵島に付属した島嶼と見たためだ。
サンフランシスコ平和条約を起草するに当たって、その過程において、Liancourt Rocks(竹島)はDagelet(鬱陵島)とは別個に記載され、検討され、その結果日本が放棄する領土に含まれなかったことが確認が取れます。(竹島回帰-サンフランシスコ平和条約が作成されるまでの草案の過程)
また、サンフランシスコ平和条約の起草最終段階、ならびに韓国が竹島を侵略した後、米国はサンフランシスコ平和条約における竹島の扱いを、ラスク書簡を通じてなんども再確認しており、「竹島は日本が放棄する領土に含まれなかった」と説明をしていますし、このラスクノートの見解は二度韓国側に公式に伝えられました。
・サンフランシスコ平和条約上、現竹島が日本領土であることが再確認される。
日本の毎日新聞社が外務省の諮問を受けて出したサンフランシスコ講和条約解説書
にのせられた「領域図」は独島を韓国領と明記した。
毎日新聞の「日本領域図」が外務省の諮問を受けていることは、この本から確認が取れません。
たしかに、この領域図は竹島を韓国領土側に記載していますが、これは毎日新聞が作成した地図であり、
日本外務省の見解とは全く関係がありません。
なお、この本の第四章・領土の項の82ページに、竹島が記載されています。つまりこの本は竹島を日本領土として紹介しています。
このことを考えると、ただ単に毎日新聞のこの地図はおそらくはマッカーサーラインが出た頃の地図をそのまま参考にして使った程度だと考えられます。
(以下はGo Korea Capricorn1氏の投稿。閲覧にはGo Koreaへの登録が必要)
その年の9月、クラーク国連軍司令官が韓
半島周辺に設定した海上防衛水域(クラークライン)もやはり独島を含んだ。
その時、国際社会 はもちろん、日本自身も独島が韓国領土という点を認めたのだ。
国連軍が竹島をクラークラインに含んだことが竹島が韓国領土であることを示すことにはなりません。最初の防衛線は1950年 のものであり、この時は竹島はまだ日本の行政権が停止され、米国在朝鮮軍の管轄範囲にあったため、クラークラインに竹島を含めていたものと思われます。
サンフランシスコ平和条約は、1952年04月28日発効ですが、”その年の9月”(1952.09.27)の”新”・防衛線(新・クラークライン)は竹島海域を除外して設定変更されたことが報告されています。 これは竹島の行政権が日本に復帰したと事、そして日米行政協定において日本政府がアメリカに竹島を爆撃訓練区域に指定して許可した事も関係しており、アメリカは竹島を韓国領土とは看做していなかった事がわかります。このクラークラインは朝鮮戦争休戦で1953年08月に撤廃*されました。(http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/6506/1/87-015.pdf p4)
1952.09.29. 韓國戰爭 樣相變貌? 沿岸全面封鎖斷行 敵의 海路奇襲等에 對備//연川西方中共軍 포擊으로 擊退//敵機卄三臺 擊墜破(東京)//新警備線서 獨島는 除外, 「크라크」사령부에서 발표 .
1952.09.29. 韓國戰爭 樣相變貌? 沿岸全面封鎖斷行 敵の海路奇襲等に對備
//ヨン川西方中共軍 砲撃で撃退//敵機23臺 撃墜破(東京)//
新警備線から 獨島は除外
「クラーク」司令部では、作戦海域と韓国水域警備線を●定し、27日発表したが、同警備線に対しては、去る11日、アメリ カ極東艦隊司令●、韓国水域司令官「キン●●」少将を●し、韓国政府に伝達したという。探知したところによれば、新たに決定された韓国水域警備線は、東海 においては、鬱陵島 獨島間を南下、対馬島と釜山の間を通過し、済州島南方で黄海に北上する線だといい、獨島海域が抜けたことを除いては、大体において韓 国政府が宣言した海洋主権線と□差がないもので、沿岸二十□の外になっているという。
(翻 訳:matsu氏//dokdo-or-takeshima)
そもそも、この1952年9月以降、竹島問題の検討のために米国はラスクノート等を再確認して、サンフランシスコ平和条約においては竹島は日本領土として残った島との結論を出しています。そして、日米行政協定で竹島を日本が米国に貸与する爆撃訓練場の指定を受けています。つまり、国際社会も日本も竹島が韓国領土という点を認めたというのはホ・ドンヒョンによる捏造です。