朝鮮の各地誌の"天気が清明な日に高台に上れば見えることができる”記述は、
”朝鮮半島東岸部”から”于山鬱陵島が見える。と言う歴代の規式の基づいた記述である事は説明したが、実は、数件だが、朝鮮側は現竹島を見ている形跡が有る。 しかし、それは”于山島”でも、"石島”でもなかったのである。 韓国側にとっては皮肉な事であるが、朝鮮王朝は、この島を日本の島だったという認識をしていた可能性が高い。
1694年、朝鮮王朝の鬱陵島捜討官である張韓相は二つの島を「鬱陵島事蹟」に記載している。
一つは、現在の竹嶼であり、これが後の朝鮮王朝の捜討官-現地調査員によって于山島と認識されるようになる。
そして、もう一つは、この時に鬱陵島東南300余里の距離に有る島、恐らく現竹島を見ている。
1694.09.25 『蔚陵島事蹟』張漢相
自二十一日至十月初三日留住之間亘両少日九月二十八九日両雪交下中峯腰上積雪尺許足齋島之四方乗船環審則壁崖?空層巌壁立或有空●●●水成流以是大早●渇而其間佃流●●不可●記是齋蓋其周二日方窮則其間道里不過百五六十里之地是乎?南邊海濱有笪竹田三所東西北三方亦有笪竹田十一所足遣東方五里許有小一島不甚高大而大而海長竹叢生扵一面是齋両霽雲棬之日入山登中峯則南北兩峯岌嶪相向此所謂三峯也西望大関嶺逶迤之狀東望海中有一島杳在辰方而其大未満欝島三分之一遠不?過三百餘里而南方西方即杳茫無際水天一色是齋自中峯西至海濱三十餘里東至二十餘里南近四十里北至三十餘利●面泩来四望遠近憶●●●
・・・・・・・・・・・初六日卯時畳亦為面泊於三陟浦●為有在果??風時登高瞭望則清明之日島形漂見
1694.09.25 三陟営将 張漢相の鬱陵島調査 「鬱陵島事蹟」
自二十日至十月初三日留住之間恒雨少日九月雪積交下中峯腰上雪積尸餘是齊島之四方秉船環審則懸岸撐空層立壁岸或有空缺澗水成流似是大旱不渴而其間細流幹溪不可殫記是齊其周回二日方窮則其聞道里不過百五六十里乎?南濱海邊有笪竹田土䖏是遣東方五里通許有一小島不甚高大海長所叢生扵一面 霽雨?棬之日入登中峯則南北兩峯岌崇相面此所謂三峯也西望大関嶺逶迤之狀東望海中有一島杳在辰方而其大未滿蔚島三分之一不過三百餘里 北至二十餘里南近四十餘里回互徃來西望遠近?度如斯是齊西望大谷中有一人居基地三所又有人居基地二所東南長谷亦有人居基地七所石葬十九所 ・・・・・中略・・・・・登島山峰審望彼國之域則杳茫無眼杓之島 其遠近未知幾許而地形似在扵彼我間 鼎釜取竹之路彼人所為緑由馳報狀.
*この時、東方五里に竹が一面に生えている島を見ている上、さらに、東南三百餘里以内に鬱陵島の三分の一程度の大きさであると報告されている現在の竹島と思われる島を見ている。(実際は竹島は鬱陵島の300分の一の面積)。しかし、文末において、別の機会であろうか?島の山峰を登って彼の国(日本)の域を望んだら、遠近は幾何か知れない(程)遠い「杳茫(遥かに遠く)眼杓(目立つ・目標となる)島はない」と叙述している。つまり現竹島であろうと思われるこの島は「杳」(かすかに)にしか見えない島であり、眼杓な島ではない。
1714.07.07江原道御史・趙錫命が、浦人から聞いたことを報告
辛酉 江原道御使趙錫命 論嶺東海防疎虞將略曰 詳聞浦人言 平海蔚珍 距鬱陵島最近 船路無少礙 鬱陵之東 島嶼相望 接于倭境 戊子壬辰 異攘帆穡 漂到高杆境 倭船往來之頻數 可知 朝家雖以 嶺海之限隔 謂無可憂 而安知異日生■之必由嶺南 而不由嶺東乎綢繆之策
*この文は、韓国側主張では、「鬱陵島から現竹島を見た記録」とされている。それは、”望”は、距離の遠いときに使う、との主張である。しかしながら、、"望”は、4-5里程度の距離にも使用されている例が多数あるので、やはり断定はできない。此の記録に、その「島嶼相望」の距離等が記載されていれば、断定ができたであろうが、現在に至ってはそこまではわからない。よって、竹嶼の選択肢も当然残る。
鬱陵島から于山島である竹嶼の距離は、東岸の一番近い位置からは、距離で言えば、2.2kmつまり5里だが、鬱陵島の中心である聖人峯(中峯)から望み見ると、恐らく臥達里まで20-30里、臥達里から竹嶼が5里であるので合計25-35里程度の距離になる。また、芋道からもなんとか竹嶼は見えるが、意外と実際の距離以上に遠くにある島に見える。
*平海蔚珍は、鬱陵島に最も近い。「鬱陵島の東には、島嶼がとも(相)に望み」だが、この島嶼が、
1.現竹島であるのか?
2.竹嶼(于山島)(と、観音島(小于島)など附属島)であるのか
完全には断定できない。現竹島は300餘里内で、”望む”は使用できる。 しかしながら、2.の竹嶼は、東岸からは4-5里だが、聖人峯(中峯)から望み見ると、恐らく臥達里まで20-30里、臥達里から竹嶼が5里であるので合計25-35里程度の距離になる。近距離でも望が使われている例はほかにも有る
成宗 72卷, 7年10月27日 丁酉
二十五日西距島七八里許, 到泊望見, 則於島北有三石列立
成宗 19卷, 3年6月12日 丁丑
向東南, 望見武陵島, 可十五里, 復遇大風, 船纜絶, 漂流大洋中, 不知東西者七晝夜。
成宗 68卷, 7年6月22日 癸巳
又於乙未五月, 漢京等六人向此島, 距七八里許, 望見阻風, 竟不得達。
(http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=16583より引用)
「倭境に接しているということが、 二通りの意味が考えられる。
1.倭の領域に接している、との場合は、
(倭境=倭彊)に冠しては、単に倭の彊域であるのが、此の場合は、
ⅰ現竹島なのか、
ⅱ倭船倉一帯体、つまり芋洞・臥達里・于山島(大于島/竹嶼・小于島/観音島 が考えらる。
2.倭との国境に接している(倭境=倭との国境)との場合は、
ⅰ竹嶼と現竹島の間に境界があるのか、
ⅱ現竹島と隠岐の間に境界があるのか
これも要検討である。接于倭境について,境界と採るか、境域と採るかで、議論がある。
参考に藪太郎氏の翻訳(Yahoo竹島トピ)をリンクしておきます。
1748.05.16 영조 24년 5월 6일 (기축) 원본1029책/탈초본56책 (27/28)
當初本邑之以都護府設置者, 意義深遠。蓋本邑, 撞在大海之東洋, 與鬱陵島一帶相望, 而爲海寇要衝之路, 故設爲都護府, 欲其控扼關東, 防遏海寇, 使不敢蹂躪而越遏也。
英祖実録 45年10月14日条 2番目の記事
領議政洪鳳漢奏曰“聞鬱陵島産人蔘, 商買潛入採之, 倭人若知之, 恐有爭桑之患矣。” 仍請曰: “我國文獻不足, 今於鬱陵島事, 無所考證。 自今博採前後文蹟, 作一冊子, 以爲事大交隣文字好矣。” 上允之。
1769.10.16では、曾(かつて)三陟營將を経験し、解事者(ものごとがわかっているもの=現地の事情に詳しいもの)とともに、鬱陵島の絵図を書いて提出せよ、と提調・元仁孫に、英祖王が命じた。そこで、「紫壇香は(鬱陵島の)山頂にあり、 花卉が異なるので、名前を地図に書きとめた。「(恐らくは現竹島であろう)日本山も(そこから)見えるのでこれも又書き入れてよいか?」と言う話になる
1769.10.16『英祖実録』 英祖45年10月16日条
命提調 元仁孫 , 與曾經 三陟 營將解事者, 圖畫 鬱陵島 峰巒形勝物産以入
1769.10.16承政院日記 45년
上曰, 提調與曾經三陟營將解事者, 畫鬱陵島峯巒形勝, 蘆竹·冬春柏·鰒·藿·㺚獸等物以入。紫檀香立於山頂者, 異於花卉, 書名以標。日本山望見者, 亦書標以入, 可也。
しかしながら、鬱陵島地図の件で、(恐らくは現竹島であろう)日本山を望めないので、地図には書かない事になった。そして、鬱陵島一島は”倭境”からそんなに(鬱陵島から)遠くない旨を再び説明している。
1769.10.17承政院日記 45년
仁孫曰, 鬱陵島地圖入之, 而日本山則無所望見, 故不爲畫矣。上曰, 然乎? 仍命出去, 監煎以來, 仁孫退出。上曰, 藥房提調, 持湯劑更爲入侍。仁孫持湯劑進伏。陽澤進湯劑, 上進御訖。諸臣以次退出
1769.11.27承政院日記 45년
又啓曰, 鬱陵一島, 距倭境不遠, 島中物産, 禁其私取, 法意甚嚴, 而近聞該道蔘貨, 遍行於傍近列邑, 多有現官贖公者, 傳說狼藉, 至及於都下, 此必奸細貪利之民, 冒法採取, 而地方官之矇未覺察, 極爲可駭, 請三陟前府使徐魯修挐問嚴査。上曰, 依啓。
英祖実録 45年11月29日条 1番目の記事
http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wua_14511029_001&tabid=w
又啓“ 鬱陵島 地近倭境, 故物産之禁其私取者, 法意甚嚴, 而近聞本島蔘貨, 遍行傍邑, 多有現發屬公者云。 地方官之矇然不察, 極爲駭然。 請 三陟 府使 徐魯修 拿問嚴處。” 從之。
そう、この時代の朝鮮王朝の鬱陵島圖には、于山島が記載されている。しかしながら、東南300余里にあり、二つの岩島から成り立つ現竹島は記載されていない。この事を考えると、朝鮮王朝は、現竹島を朝鮮領土とは認識しておらず、日本山と認識していたが、このいくつか現竹島をみているが、情報は正確に伝承されなかった事や、その他鬱陵島調査官、1882年の李奎遠や1899-1900年の禹用鼎をはじめとした捜討官の記録に現竹島が記載されていない事から、朝鮮は現竹島を朝鮮領土と認識していなかった事がわかる。朝鮮の東限は、鬱陵島(+竹嶼)なのであった。
また、近代化以降の話だが、日本の記録にも、鬱陵島から現竹島を見たという記録は数件ある。
1901年06月15日 黒龍界 韓国沿海事情 P13 第一巻第二号 葛生修吉
△ヤンコ島 鬱陵島より東南の方三十里、我が隠岐国を西北に距ること殆ど同里数の海中に於て、無人の一島あり。晴天の際 鬱陵島山峯の高所より之れを望むを得べし。韓人及び本邦漁人は之れをヤンコと呼び、 長さ殆んど十余町、沿岸の屈曲極めて多く、漁船を泊し風浪を避くるに宜し。然れども薪材及び飲料水を得るは頗る困難にして、地上数尺の間は之を牽けども容易に水を得ずと云う。
1904年9月25日 戦艦新高の日誌
「松島東南望楼臺ヨリ望遠鏡ヲ以テ見タルリャンコ島
http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/niitaka/04.jpg