大韓勅令41号の竹島石島はどの島か?

まず最初にお断りしておきますが、現在、石島がどの島であるかを示す証拠は発見されておりません。


1899-1900年の大韓帝國側の鬱陵島調査官禹用鼎とお雇い外国人釜山の海関士La Porte、および日本が釜山から赤塚正助らによる合同調査を実施した。この時の有様は、禹用鼎が書いた記録「欝島記」と、赤塚報告として残っている。当然だが、その本の中には、現竹島に関することは何も書いていない。疑問なのが、韓国側の詳細地図は発見されていない。果たして、その当時の人間が、彼の報告を聞いた時、また彼の報告を文書で読んだ時に、鬱陵島詳細図の添付もなしに彼の報告を理解できるのか?という疑問がある。私見だが、ひょっとすると彼の製作したであろう地図が何処かに残っている可能性がある。ちなみに、日本側の赤塚の地図は幸い現存しているのだ。赤塚の認識には、リヤンコールド岩つまり今日の竹島は鬱陵島の管轄区域に入っていないし、朝鮮側のそれも同じである。

そもそも、大韓帝國側が大韓勅令41号を出し鬱陵島管理の強化する為に鬱陵島を欝島郡に昇格させた動機は、鬱陵島における日本人の違法伐採と問題行動であり、漁業問題ではない。このころロシアも鬱陵島の森林伐採の権益を手に入れ、日本もあせり始めていた事は有る。ただ、韓国人の盛業は主に農業であり、漁業ではないのであるが、これらの一連の話に、現竹島は関係していない。
1883年に一旦鬱陵島滞在日本人を強制退去したが、1883年の日韓通漁規約で鬱陵島へ再び来れることになった。日本人は本土から物品を持ち込んでは鬱陵島で販売し、材木を伐採して本土に持って帰っていたりしたが、鬱陵島での日本人による違法伐採が深刻化し、また鬱陵島で犯罪を犯す日本人が問題になった事から、日本側からは釜山から赤塚正助が、大韓帝國側では釜山の海関税務士La Porteと鬱陵島調査員禹用鼎も同時期に調査に入る事になった。

この時の報告において、1899年の皇城新聞では、大韓地誌を引用し、おそらく大韓與地図などの鬱陵島のデザインを皇城新聞が、「最も著者な附属小六島のうち、最も著者な于山島竹島」が、竹嶼Boussole Rockの旧名である于山島と新名(及び日本名)である竹島であることは説明した。


 この時に報告にあった
禹用鼎の報告は、大韓勅令41号の請願書にも引用されるが、その範囲は全島長可為七十里 広可為四十里 周迴亦可為一百四五十里であった。つまり現竹島は全く含まれて居ないし、記述も報告もない。 かつ、1906年06月13日の 皇城新聞中の記事、「鬱島郡의 配置顛末」では、鬱島郡の管轄範囲は、竹島石島を含めて東西60里南北40里合二百余里である。

この禹用鼎の報告は、おおよそ歴代の朝鮮側の鬱陵島の範囲の認識をしめす記述と合致しており、主に、二種類ある。
1.地方百里(東西60里と南北40里である二辺の合計値)
2.周二百輿里(東西60里と南北40里である辺の合計値)
朝鮮の認識していた鬱陵島の範囲の履歴を見ていただくと判るが、現竹島は、朝鮮側にとって、明らかに鬱陵島の範囲に入っていないことは明確である。 (*なお、韓国側の歴史修正主義学者は、この解釈を東西60里南北40里 + (鬱陵島から竹島の距離)合二百余里 が鬱陵島の範囲である、と歪曲主張しているが、この表を見れば、その歪曲主張が滑稽であることが容易に理解できる)
また、この当時、李奎遠以降、禹用鼎も含め「于山」は再び鬱陵島の古い旧名と認識しているため、大韓帝國が現竹島を于山島と認識していたとも考えられない。(ただし、リンク先のように、反日活動家による一部例外はある。)


1.石島=竹嶼Boussole Rock説 (竹島一名石島説)
日本側および朝鮮側の認識として、鬱陵島の附属島のうち、最も著者なものは、朝鮮/大韓帝國では于山島一名竹島(竹嶼)が、日本側の認識として、水路誌などを見る限り、附属島としてはBoussole Rockてっせみ島(竹嶼)が第一に挙げられる 詳しくは、皇城新聞の「于山島竹島」とは一体何か? を参照していただきたい。この文の于山島竹島と、この竹島石島が文章構造的に似ているのである。
この文章の中において、竹島と石島が、句得点で結ばれていて、二島あるという既成概念にとらわれがちだが、これが落とし穴で、原文には竹島と石島の間には句得点は無く、「竹島則石島」や、「竹島一名石島」といった漢文解釈は可能である
また、西洋および日本の水路誌等には、鬱陵島の附属島として、最も顕著なものに、Boussoule Rock(竹嶼)が記載されている事も、この説を裏付ける。(Liancourt Rocksは、水路誌等では、Matsushima Dageletとは別個に記載されている)
日本は1901年の調査において、Boussoule Rockをてっせみ島として紹介している。

韓国側認識で、鬱陵島の最大の附属島は于山島即ち竹島

日本側認識で、鬱陵島の最大の附属島は竹嶼 
水路雑誌 鬱陵島(一名松島)・・・省略・・・竹嶼(朝鮮人之を竹島と云う)を除くの外一岩嶼の岸より二鏈牟を出る者なし。竹嶼は此島の近海にて最大にして島の東海岸を距 る。七鏈竹嶼の北方約五鏈に一嶼あり。北方に向て洞穴二個並列す

鬱陵島(一名松島)海軍海図第五四号第九五号を見よ・・・中略・・・何れも鬱陵島の如く走界にして錘測も恃みとするに足をす然 れも竹嶋(此嶼は島の東濱を距る七鏈の處にあり)を除くの外皆本島の崖岸を距る1/4里以上に出る者なし島の北濱に接して孔岩あり岩を貫きて一大孔あ るを以て其形甚奇なり此岩と相對せる陸岸に高さ大凡八〇〇呎の花崗岩山あり滑面禿兀峻険にして形糖塔の如し。

これらのことから、竹島石島は、竹島と石島ではなく、竹島一名石島という解釈ではないか、と推測する。

2.石島=朝鮮製作の最も典型的な鬱陵島圖に書かれ続けてきた附属小六島のうち、最も顕著な于山島(竹嶼)を除いたもの。つまり南沿岸部に書かれた存在しない南5島。
 (主にGerry Bevers氏)
1864年製作の金正浩製作の「大東地誌」には、于山は鬱陵島の別名であるという輿地勝覧の認識が書かれているが、その後に、南5島が記載されている。上にも書いたが、朝鮮製作の最も典型的な鬱陵島圖に書かれ続けてきた地図にも、これが記載され続けているため、朝鮮側はこういった南5島があると信じていた可能性もある。このような、名前のない島に関して、朝鮮では石島として地図に記載する事が見受けられる。

朝鮮の図では、小さな小島・小岩のグループを石島、と記載した地図も残っている。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/11/1900-imperial-edict-makes-ulleungdo.html
by Gerrybevers

3.石島=観音島説
・過去においては、この説が”1”の竹嶼説とともに日本側には強く主張されていた。韓国水産誌附属圖において、鼠項島をSoKoToと読めるとの論陣であったが、最近出てきた新たな海図(1909年の軍艦松江の鬱陵島測量図)の発見によってその主張は薄いことが判明した。つまりその海図には鼠項島をSeommok Somuという読み、つまり島項が書かれている事がわかったからである。Sokotoと呼ばれていたとする根拠は弱められた。 ただし、その事は、数あるうちの仮説のうち、島項島がSokotoであるという論拠が否定されたというだけで、観音島を石島とすると考えられる根拠はまだいくつか残っている。

・追記* ただし、島根県竹島研究所・拓殖大学下條教授は、韓国が知らない10の独島の虚偽 第6回において、
反切で鼠項島Seommok Somuを読む場合、 Soku-somu(石島)になると説明している。
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/dokutonokyogi/dokutonokyogi10-6.html
では石島は、李奎遠が属島とした島項なのであろうか。ヒントは、1909 年刊の海図(図5)にある。そこでは島項が鼠項島[So moku Somu]と表記され、これを伝統的な漢文の発音表記法の反切で読むと、鼠項島(「Soku=石」島)は石島と読めるからだ(鼠[S(o)]の最初の母音 o と、項[(m)oku]の最初の子音m が除かれ、鼠項の「S(o)(m)oku 」は「Soku=石」となって石島となる)。では李奎遠は何故、島項と命名したのだろうか。それは『欝陵島検察日記』の中で、島項を「形、臥牛のごと し」、「稚竹叢あり」としたことでも明らかだ。鼠項島[So moku Somu]は、これを韓国語として読むと「牛の首(項=うなじ)の島」となる。石島は、鼠項島(島項)を反切で読み、漢音で表記したものと言えるのであ る。

・上述の韓国が知らない10の独島の虚偽 第6回の「付記」には、以下の説明がある。
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/dokutonokyogi/dokutonokyogi10-6.data/dokutonokyogi6.pdf
【付記】「勅令第41号」で石島とされ、島項と命名されたのは、その形状が朝鮮家屋にある履脱ぎ石の섬돌(ソムトル)(写真2)に似ていることが考えられる。섬돌は石(섬)とも島(섬)とも略記され、「石の島」「島の石」の意があるからである。

・1928年と、時代が経るが、観音島/ 島項が石仏島と呼ばれていた記録があること。 
・観音島は石圃洞、亭石圃にあり、三仙巌、竹巌と、石にまつわる地名が多い、鬱陵島北東部にあるので、この、”石”地域に在る島、つまり石島と呼ばれていたという事も考えられる。
・また、三陟博物館、および韓国中央図書館所蔵の鬱陵島圖形には、現観音島を"小于島”と書かれているため、竹嶼の次に著者なものは、この観音島と孔巌があるが、この于山に関わる名前が観音島に冠してある事から、この説も一応選択肢に挙げておく。
・最近、この島には過去に於いて住民が三人いることが私の鬱陵島での現地調査にてわかった。
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima08/2007/record200908.html 質問/回答3

4.石島=現竹島説(韓国)
上に記したが、朝鮮韓国側が現竹島を鬱陵郡の管轄地域に含めていたと推測される認識の形跡は1906年以前にはない。 韓 国側は、全羅道方言の変改によって、石島が独島になったと主張するが、これはあくまでも仮説に過ぎない。
この仮説は、そもそも韓国が島根の竹島を侵略したあと、崔南善の「推測」から起因していることが藪太郎氏の調査で判明している。http://outdoor.geocities.jp/yabutarou01/a.html?sid=98989d8ec8111d9ae5b99f846fc98241

鬱陵島の人口推移を見ると、当初たしかに鬱陵島には多数の全羅道民が渡航していたが、どうも居住者ではなかったのか、1883年の調査では殆ど居らず、近い江原道民が多かった事が判っている。 前述の通り、、朝鮮の認識していた鬱陵島の範囲には現竹島が含まれて居ない事、-・朝鮮領土の東限の記述は、鬱陵島竹嶼までで、現竹島は含まれない事、
現竹島を正確に朝鮮領土と記載している記録・文章や、現竹島を石島と記し、位置形状がきちんと認識できる古地図は存在しないので、が現竹島を示すと言う直接的な証拠は全くない。韓国側の願望に基づく推測の域を出ない。

なお、1950年代、 『独島問題概論』外務部政務局(1955年)において韓国政府は「勅令41号と独島は関係が無い」と認識しており、かつ「独島を鬱陵島の行政区画に編入する明示された公的記録は無い」と認めている。
(茶阿弥氏 日韓近現代資料集:http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/54806192.html


結論からすると、大韓勅令41号に記載されている石島に関して、緯度経度か記載されている文章や、石島の形状がきちんと認識できる古地図は発見されていないので、韓国側の言主張する石島が現竹島を示すと言う直接的な証拠は全くない。ただ、日本側の主張も直接それを裏付ける証拠はない。
韓国が現竹島を鬱陵島に含めると主張するのは、日本が1905年に現竹島を編入した後の1906年以降である。しかしながらこの時の混乱は鬱陵島顛末と言う形で収束する。それは冒頭でも示したとおり、欝島郡の範囲は現竹島を含まないものであったのだ。私の予想としては、この時の1906年のやり取りの記録は、発見されたものだけでなく、実は韓国側がなにかまだ隠しているものがあると推測する。また、禹用鼎の調査地図も実は隠してあるのではないか、と思う。





竹島/独島と石島の比定問題・ノート 名古屋大学:池内敏



話は、多少ずれるので有るが、ちなみに、大西俊輝『日本海と竹島』には、論理的な飛躍によって、証明されていない推測のみで石島が竹島独島であるという、間違った推測がなされている。
東洋出版、2003、P76引用
 「石島の文言のある勅令は、中央官・禹用鼎と、地方官・裵季周の報告に拠ったもの、そこに立ち会うのがラ・ボーテである。だから彼らの島の認識は一致していなければならない勅令は鬱陵島の属島として、竹島と石島を記す。そしてラ・ボーテ の報告は、鬱陵島の属島として、竹島と于山島を記す。となれば石島とは、すなわち于山島を指すものとなる。それは遙かな岩礁の島、独島(リアンクール岩) のことだった

大西氏は、となれば石島とは、すなわち于山島を指すものとなる。と主張しているが、其の根拠になっている証拠を全く提示していない。単なる推測に過ぎない。
次に、大西氏の歪曲は、La Porteが「于山島と竹島」を報告しているということだが、『于山島竹島(原文ママ)』島の話は、La Porteの報告ではなくて、皇城聞の記者、もしくは大韓地誌か?にそう書いて有るといっているだけである。この記述は、大韓地誌09月23日のとおり、皇城新聞の記者の見解であり、于山島竹島の話は、La Porteの認識ではない。大西氏はこの程度の文献も碌に確認する事ができない程度なのであろう。La Porteの報告は、あくまでも中段以降の話である。
(ところで、于山島竹島の話は、別のページで示したが、竹嶼/于山島の一島二名を示しているだけである。皇城新聞の「于山島竹島」とは一体何か?を参照してください。また、この当時の于山島は、鬱陵島の別名で有るとも考えられており、それについては、「于山」は再び鬱陵島の古い旧名という認識に戻るを参照してください。)
(前文:Toron talker)

また、大西氏は、ここで禹用鼎と、地方官・裵季周にたちあったのは、La Porteだけを主張しているが、それは間違いで、この時期、日本人では釜山の赤塚正輔も立ち会っている。
大西氏の論理を当てはめるならば、釜山の赤塚正輔とも認識が一致していなければならない。
この地図のように、赤塚正輔は、鬱陵島の付属島として、竹嶼(Boussole)と島項(観音島)を提示している。
しかしながら、なぜか、禹用鼎鬱陵記には、鬱陵島の添付圖がない。鬱陵記を地図なしで読んでみて、皆が鬱陵島の状況を理解できる報告書とは思えないので、ひょっとすると存在しているが隠されている可能性が高い。

朝鮮の認識していた鬱陵島の範囲をみてみよう。
先ず、皇城新聞には、「地方百里」と書いて有るが、これは大韓地誌からの引用である。
次に、禹用鼎報告だが、彼はこの時、鬱陵島の範囲は、吠全島  周迴可為一百四五十里/長可為七十里/廣可為四十里と報告している。
La Porteの報告だが、「于山島竹島」が書かれた前半部分の記述は彼の報告ではなく、もっと後の中段からの内容が彼の報告である。そこには、鬱陵島の範囲は75方里と報告している。これは今日の鬱陵島の範囲と合致する。
1900.06.12.在釜山 領事官補 赤塚正輔 [鬱陵島 調査槪況 및 山林調査槪況 報告의 件] においては、東西凡六哩强南北凡四哩强周回凡ソ十里。 と報告している。つまり禹用鼎報告とほぼ同じ範囲。。

彼らの考えた、鬱陵島の範囲をまとめてみる。
  禹用鼎 周囲百余里 周迴亦可為一百四五十里 長可為七十里/廣可為四十里
 La Porte 75方里 
 赤塚正輔
周回凡ソ十里。 東西凡六哩强南北凡四哩
 勅令41号  該地方蹤可八十里오/橫爲五十里
 1906年.統監府の鬱陵島配置顛末(皇城新聞) 地方合二百餘里 東西六十里南北四十里

つまり、このときの鬱陵島調査員三名の認識に於いて、現在の竹島は鬱陵島の範囲に含まれていないのである。


これら
禹用鼎報告を反映した結果が、勅令41号の請願書なのであるが、勅令41号の請願書において、該地方蹤可八十里오/橫爲五十里ときちんと鬱陵地方の範囲を定義している。

この数値は、1906年に統監府の鬱陵島配置顛末(皇城新聞)とおおよそ合致している。

つまり、石島を、竹島独島であると主張するのは、竹島独島は、鬱陵郡の範囲外にあるので、石島を竹島独島と主張することは出来ないのである。


韓国側が、これを論破するには、韓国側が蔚陵島の範囲を定義している別の資料を提示し、証明することが必要だが、もちろんそのような資料は見つかっていない。

よって、「鬱陵島配置顛末」の記事が、当時の鬱陵島の範囲の認識では無いということを主張することは出来ない。

つまり、三人のうち、赤塚の地図も考慮に入れなければいけないこと
そして、三人の鬱陵島の範囲を示す認識が一致しており、現竹島(りゃんこ)が其の範囲外であること。
これらが勅令41号にきちんと反映されていること。
1906年にそれが再確認されていること。それを覆す朝鮮側の認識を示す文書が無いこと。

このことから、石島が竹島独島でないことが、大西氏の論理を用いれば主張が出来るのである。
まあ、石島は、上に記された範囲に有る島であろう、としか言いようが無いので有る。
上述のとおり、どの島であるかを特定するのには、あまりにも資料が少ないので有る。
サブページ (1): 日韓鬱陵島調査 1900
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