楕円形鬱陵島地圖

・1694年以降の朝鮮王朝の鬱陵島捜討官の製作した鬱陵島詳細図
・円型の鬱陵島圖形
・角型の鬱陵島地圖
・金正浩の地圖
・楕円形鬱陵島地圖
・朝鮮の地圖における鬱陵島と于山島(全地図リスト)

1850-60年代、金正浩は、于山は鬱陵島の旧名であると認識を変更した為それまでの円型の鬱陵島圖形・角型の鬱陵島地圖に受け継がれた鬱陵島+付属小六島の構図をやめるのだが、1880年代以降ふたたびこの構図に回帰する。 大東與地図系列の地図は、それ以前は殆どは于山島の記載が無いのだが、1897年に発行された大東與地図や1864年?とされる日本国立国会図書館所蔵の大東與地図には、再度欝陵島+ウサン島+南三島小島の構図が復活する。

1834年以降、暫く角型の地圖は出てこないのだが、1880年代に再び最も著者な于山島と付属南小5島が再登場する。これらの地図のデザインは角型の鬱陵島圖を踏襲しているが、若干丸みを帯びているのがこの地図の特徴である、最も著者な付属島である于山島竹嶼と、南に付属の5島が記載されている大韓全図などの地圖へと続く。

1884-1888(1835-1894)19C中旬  [憲宗-高宗初頃]   地圖 江原道
 (これは角型である)

1880-90年代か?東京山川 八道地圖 江原道 高麗大学

此の地圖の朝鮮半島全体圖(上)は鬱陵島と于山が記載されている。また、地圖の周りに漢文の長文が羅列しており、そして鬱陵島と于山の構図も含め、1822年の海左全図に構図が非常に似ている。
しかしながら、江原道/鬱陵島地方詳細図(下)は、従来どおり、鬱陵島と于山島、南5島が記載されている。 こちらは1890年代の大韓全図などの鬱陵島圖に構図が似ている。
年代不詳の地圖だが、此の地圖には距離を現す単位に”0”というアラビア数字が記載されている事。
また、倭船倉1882年の李奎遠の地圖と同じように天府洞附近の北東に記載されている事、船舶可居が芋道/道洞附近と思われる南東に記載されている事をふまえ、1870-1890年代と勝手に解釈した。また、此の地圖は他の地圖と比べて格段に字が汚く、雑な感じがあるのが特徴である。
丸型地圖の特色(5方向の距離表示)と、角型地圖の特色(于山島の位置)と、金正浩の特色(小3島/5島が南東に記載されている)と、書く特色が混じったものである。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/12/donggyeong-san-cheon-paldo-jido.html

1897.大東與地図 

金正浩の大東與地図のデザインの系譜については金正浩の地圖を参照のこと。


これら地圖がやがて下記の地圖へと続く。1882年に李圭遠は鬱陵島調査を行い、詳細な地圖を製作するが、それがなぜか採用されず、教科書等には旧来の構図の鬱陵島が使用される。

これらの地圖の特徴は、角型の鬱陵島地図以前の鬱陵島ずである丸型の鬱陵島圖にさかのぼり、最終的には1711年の朴錫の鬱陵島圖形に突き当たる。
つまり、この于山は朴錫 の地図に記載されているように、その鬱陵島の範囲は東西80里南北50里以内にある島、つまり竹嶼であり現竹島ではない。
左から朝鮮地図(1898/大韓地誌の江原道圖も同じ) 大韓全図(1899) 大韓與地図(1900年頃)

左から朝鮮地図(1898/大韓地誌の江原道圖も同じ) 大韓全図(1899) 大韓與地図(1900年頃)

検証結果は以下の通りになる。つまりこれら地図における于山は現竹島ではなくて、竹嶼である事が判定される。
 
朝鮮地圖
大韓地誌
大韓與地図の于山
判定
竹嶼
 竹嶼判定
現竹島
 現竹島
 位置 鬱陵島の北東 合致鬱陵島の北東合致せず鬱陵島の南東
 距離 近距離隣接合致約2km合致せず約90km
 島の数
 一島合致一島合致せず二島
 形状 南北に長細い合致南北に長細い合致せず 二つの岩島合致せず

これらの朝鮮地図(1898/大韓地誌の江原道圖も同じ) 大韓全図(1899) 大韓與地図(1900年頃) における鬱陵島の形状は、江原道圖、および朝鮮半島全体圖に記載されていて、詳細図ではないが、詳細図から外環を引き写して島内の描写を簡略化した地図である。

また、此の三つのうち.大韓地誌に付属の大韓全図(朝鮮半島全体圖)に記載されているものは、小5島ではなく、小4島が記載されており、朝鮮地圖や大韓全図の江原道圖や大韓與地圖と若干デザインが異なる。
これは、1882年の李圭遠の鬱陵島外圖を90度右に回転すると、ほぼ同様のデザインに合致する。
つまり孔巌を于山と間違えて記載した可能性もあるかもしれない。



この存在しない南の小5島は、先にも述べた金正浩の1863年の大東地誌、および
1899年の皇城新聞にも登場する。
1864.大東地誌
鬱陵島在本縣正東海中古于山一云武陵一云羽陵一云艼陵周二百餘里東西七十餘里南北五十餘里
三峯岌嶪聳空(倭舡漁探者時到)純是石山自本縣天晴而登高望見則如雲氣便風二日可到倭人謂之竹島與日本隱岐州相近自中峯至正東海濱三十餘里正西海濱四十餘里正南海濱二十餘里正北海濱二十餘里川溪六七竹田五六居址數十有楮田洞孔巖米土窟石葬古址船泊處待風所島之南有四五小島島中皆石壁石澗洞壑甚多有狙鼠極大不知避人亦有桃李桑拓菜茹之屬珍木異草不知名者甚多○新羅智證王十三年于山國恃險不服遣何瑟羅軍主金異斯夫擊降之 高麗太祖十三年芋陵島遣白吉土豆貢方物


1899.皇城新聞
1899.09.23 皇城新聞
蔚珍之東海X一島X有XX 曰鬱陵X其附属X小六島中X最著者X干山島竹島XX、大韓地誌X曰鬱陵島X古于山國XX地方X百里X三峰。//律XXX所産X柴故、藁本、石楠、藍竹XXX、/古X牛形無角X水獣X有XX名可之X海鳥X有XX名曰雀鳥-XX島中人煙X稀少XX国家XX
付属六島の構成から、最も著者な于山島である竹嶼を差し引くと、6-1で5、つまり南5島のことを言っている。


1901.01.朝鮮開化史 東亜同文会蔵 国友重章 恒屋盛服
金崗山の一支東海に入る六十余里峙立しして鬱陵島となる一に蔚陵と書す即ち古于山国なり後新羅に入る別名は武陵、羽陵共に而音相近きに因る大小六島あり其中著名なるを于山島(日本人は松島と名く)竹島といふ全 島の面積約七十五方哩島中耕作すべきの地多からず樹木は海浜より山嶺に至るまで欝密す山高さ四千英尺にして海岸X峻三哩内海中の水深六千英尺より九千六百 英尺に至る居民は男女三百口数十年以来船匠商買及漁、大農夫合相XでXり住居ス海水甚だ深きを以て魚産未だ盛んならずと雖も海菜の運出毎年二千荷を超え土 質X沃にして肥料灌漑を要せず只樹業X灰を以て覆耕す春作は大小麦にして秋作はX及び豆の頻なり林産は老巨の杉松及各種ノ実木にして亦多く塊木、香木、柏 子、甘湯木を讃す今王二十三年韓廷金玉均をもって東南諸島開拓史兼捕鯨使に任じ白春培を以て従事官となし該島開拓事務をX理せしめたるが翌年形京白の変あ りて果さず其後島民徐敬秀を以て越松萬戸に差定し該当人民を繁殖し外国人の樹木伐採を防禁せしめたり。
(*「大小六島あり其中著名なるを于山島(日本人は松島と名く)竹島といふ」は、 皇城新聞1899年の解釈とは異なる。皇城新聞は小六島のうち、最も著者な付属島を于山島竹島(竹嶼)としたが、ここでは、鬱陵島を”大”の島とみなし、 この鬱陵島が于山島で、日本人がよぶ松島Dagelet、つまり鬱陵島とし、小のうち、最も著者なものである竹島(竹嶼)を記載している。ここが皇城新聞 と解釈がことなっている部分である。)


しかし、それが存在しないことは、1901年の黒龍界 韓国沿海事情でようやく述べられる事になる。
1901.06.15 黒龍界 韓国沿海事情 P13 第一巻第二号 葛生修吉 
鬱陵島(春川府直轄)平海郡、越松浦の南微北に当り、四十余里の海中にある孤島にして、別名之を武陵又た羽陵と称す、即ち古の于山国にして本邦人は松島と呼ぶ世人の本島は大小六小箇の島嶼、若くは竹島、松島の二島より成れりと為し、或は地図に之れを記入しあるは往々見る所なれとも、是れ等は何れも誤りなるが如 し。【改行】本島は●と金剛山脈の一支流れて東海に入り、対立して其頭を顕はしたるものにして、面積約七十五万方哩、中央に一の山岳Xふるものあり、其高 さ四千尺、峻厳突X四●之れを擁して。遠く望めば背螺の浮出したるに勢●たり又た船舶を碇泊するの良港無く、商船漁船の碇泊困難にして、風涛少しく荒るる ときは、島の北面に位する海濱の平地に船を引き揚げるを常すと云ふ、  
*「于山」は再び鬱陵島の古い旧名に戻るの朝鮮開化史の部分を参照



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