第06回 私の大震災の記録 Ⅱ

及川 秀行(昭和50年卒)

5.黎明【2011年3月12日(土)8:00】

朝に何を食べたのかも思い出せない。とにかく、何か買える物は無いかと車で近くのホームセンターへ。バックパックには懐中電灯、携帯ラジオ、タオル、マスク、軍手、ヘルメット、ペットボトル飲料の七つ道具を入れ、ダウンを着込み帽子も被りホッカイロ持参の重装備。

そこには既に長い行列が。とにかく並ぶ。隣の生協も信号の先のイオンもあいていない、向かいのダルマ薬局にも列。200人はいるだろうか。店内は危険ということで、入り口の前に中から運び出した商品を並べている。駐車場から店舗への通路にゲートを作り、20人ずつ入れるらしい。出て来る人を見ると、大きな袋にカップ麺やカセットボンベ、ティッシュペーパーやトイレットペーパーを抱えている。6時に来れば・・・などと思いつつ並ぶこと1時間半、あと60人位。店の人がアナウンスに来る。「カセットコンロ、カセットボンベは完売しました」

「・・・・・」

私の順番が来た。買い物かごを受け取りカートに乗せ、手近な物から入れて行く。乾電池と水汲み用のポリタンクは予定通り、2リットル入りペットボトルの水、スポーツドリンク、ティッシュ。カセットコンロの代わりになるものは・・・・これだ!七輪!と木炭!

6.戦慄【2011年3月12日(土)12:00】

家に帰れたのは昼近く、早速火を起こしてお湯を沸かし、カップ麺をすする。体が温まる。夕飯は、一酸化炭素中毒が怖いので、庭でキャンプ気分の調理。大鍋を火に掛けて冷蔵庫にあるものを片端から投入、豆腐、えのき、豚肉、人参・・・そしてうどん。作り過ぎて隣に持って行く。

隣で、近所の児童センターの水道が使えると教えてもらう。早速車にポリタンクを積んで近くの小学校隣の児童センターへ。ポリタンクに満タンの水をもらえた。明日は朝早くに来ようと思っていた所、予想以上に水は使うもの、夕方からもう一度汲みに行くことに。凄い人数。どこで水が汲めるかの情報が行き来して、皆こうして集まってくるのだろう。車で来る人、自転車で来る人、手押し車で来る人、家族で来る人様々。ポリタンク、ヤカン、中には鍋まで。明るかった空がだんだん暗くなり、真っ暗になり、私の番が来た。後ろの人が蛇口の所を懐中電灯で照らしていてくれる、有難い。家に帰り着いた時には2時間以上経過していた。

水が貴重で食器洗いに使いたくないので、食器にラップを掛けて使う。阪神大震災の時の知恵。割り箸も残りわずか。紙皿とか紙コップもあった方が良いかな、ウエットティッシュも。明日はどこに行けば買えるかな。パン、カップ麺、レトルト食品、缶詰、チンするご飯・・・・この日も昨晩と同じ格好で就寝。違いは、コタツの中に湯たんぽが鎮座。

急に部屋中が明るくなり、テレビが付いた。電気が来た。喜んだ瞬間、テレビに釘付けとなった。どのチャンネルも津波被害を伝えており、その惨状に、「ありぁ~」「うわぁ~」「あらら~」そんな言葉しか出てこない。南三陸町は一昨年、気仙沼はその前の年に家内と旅行した、そんなことを思いながら画面を見続けていた。まもなく日付が変わる時間。

それでも、思いっきり石油ファンヒーターを焚き、エアコンの暖房も付けて、コタツも暖かくして、今日は眠れるかと思う。ゴメン、湯たんぽ。家内がIHでお湯を沸かし、熱いタオルを持って来てくれた。「顔を拭くと良いよ」、顔に当てる。暖かさが顔の奥まで広がり、気持ちがフワーっとして来る。「気持ちいい」こんな言葉しか出ないが、涙が出そうだった。

7.行列【2011年3月13日(日)6:30】

朝、顔洗う時にお湯がある。ガスが来ないので蛇口からは出ないが、家内がヤカンごと洗面台の所に持って来てくれた。こんなことで幸せというか、気持ちの平安が保てるものだとつくづく感じた。パンは無いけど、IHが使えるし牛乳があるからとホットケーキの朝食、コーヒーも旨い。勿論皿にはラップを掛け、コーヒーは紙コップで。

ポリタンクを車に積んで出陣。あまりにもすんなりと水を入手出来たので、近くの生協へ。生協がダメでも、近くには西友、ドンキ、ツルハドラッグが点在しているので、この方面へ。生協には50人位の列。何が帰るか分からないまま並ぶ。

ここも店内は危険との事で、外に商品を運び出して売っている。お一人様10点以内、1点オール100円との事。割り箸ゲット、紙コップ類無し、ウエットティッシュ・ティッシュ無し、レトルト食品無し、缶詰は・・・・猫用はダメじゃん、カップ麺2個、消毒ミスト、チンするご飯2個、何か諸々で10点1000円。生協に感謝。消毒ミストは病院とかに置いてある、プッシュするタイプ、定価は700円らしい。今でも我家のトイレで活躍している。

8.恒例【2011年3月14日(月)6:30】

水汲みが朝の恒例行事になってきた。児童センターだけではなく、小学校(わが母校)の校庭の水飲み場や足洗い場の水道も使えるらしいので、雑水用に昔灯油を入れていた使い古しのポリタンクも3個出動。飲用にはポリタンクの他に空の一升瓶3本、空の2リットルのペットボトル4本等を掻き集め、1メートル程のビニールホースを準備。小学校の水飲み場の流しと蛇口とは距離がないので、ポリタンクがつかえてしまう。

そこで蛇口にホースをつないでの給水を思い付いた。これが便利で作業が捗る。人間、窮すれば知恵も出るもんだと、妙に感心したものだ。水道が出るまで毎日の行事で、会社から帰ったら夕方もう一回かな。

9.出社【2011年3月14日(月)9:00】

バスもあるらしいが時間は不定期なので、徒歩で出社。背広にネクタイの余裕は無く、非常持ち出し袋の中身をバックパックに詰め替え、スニーカーで颯爽とお出かけ。

このコンビニは開いていない、このスーパーにはもう人が並んでいる、ガソリンスタンドの給油町の車列はどこまで行くんだ、灯油を買う人も行列かぁ、あの家も棟瓦をやられたなぁ、この家も、ここの歩道は浮き上がってないか、パン屋に行列・・・11時開店か、家内に街の状況をメールしつつ会社に到着。

出社率は半分位。亘理や名取方面の人は土日も帰れなかったらしい。仙台空港に取り残されて救出された人間も。東京出張からタクシーで帰って来たらしいが、夜中到着とか。石巻が実家の人、名取で津波にあった人、一気に情報が飛び込んでくる。

10:00に、業務不能と判断し帰宅せよとの本社判断が出る。それでも帰宅不能の人は会社に泊り込み、家族の安否が不明な人のフォロー及び支援と営業の一部は客先状況の把握、技術は要請あれば出動と、役割と体制を決めて帰宅。家内の携帯に電話すると、生協に並んで買い物をし、隣のホームセンターに並んでいるとの事なので、そちらに合流することにした。

10.後日

その後も沢山の話題がある。会社からの支援物資分配の話、宅配便受け取り騒動、自宅入浴騒動、入浴休暇と日帰り入浴の話、最初の居酒屋訪問の話、近所の寿司屋再開の話・・・・

東日本大震災から2ヶ月近く経ち、私の周りでは普段の生活が戻っている状況だが、未だ行方不明の友人がおり、社員の中にも母親と孫の遺体を遺骨にしたけれど奥様が見つからず葬式が挙げられない方もいる。火葬にしても秋田や新潟まで行って焼いてもらうという話しも聞く。

日々忘れ去られてゆく私自身の記憶を留め置くためにも、当時の記録を残しておこうと思い、 本稿を上梓します。