第49回 宮城支部訪問記2013

札幌支部・小西一郎氏(昭57入学)

先般、宮城支部に訪問いただいた小西一郎さん(札幌支部、商大応援団後援会事務局長)より、当支部訪問記をご寄稿いただきましたので、ここにご紹介させていただきます。

札幌支部・小西一郎氏、2013宮城支部訪問記

11月22日、溜まりに溜まった振替休日を使い仙台を訪れた。緑丘会宮城支部の皆様とお会いする為である。

空港から列車で仙台駅へ。21年振りの仙台には大きなビルが立ち並び、本当に多くの人々が行き交って居た。

駅から真っ直ぐに小笠原一雄先輩(昭50卒)のオフィスへ向う。お忙しい中、地元の人が通う牛たん料理のお店に案内して頂いた。昔ながらの固めの肉質は炭の香りも香ばしく、真に美味しい。テールスープは先輩のお話の通り滋養と旨みに富んだもので、前夜の酒が残る体に染み渡る味だった。さすが主は牛たん発祥の店の一番弟子、正に一流の味であった。

投宿後、程無くして福田和弘先輩(昭50卒)からお電話を頂き、陽のある内からの酒宴となる。お店は仙台でも一、二を争う割烹。松島の牡蠣は焼いて貰う。震災後は貴重品となったままのものだ。濃厚な味は絶品の一語。続いて供された近海ものの鯨の刺身が、昭和の食卓談義に華を添える。仕事を終えられた小笠原先輩も合流され、山海の珍味を肴に暫し緑丘の事共を話し合う。

もう遅い時刻だろうと思ったが時間は未だ19時前。飲み始めから数えると3時間以上は経って居るからであろうか。二軒目は東北大の学生が通う創業83年の焼き鳥店へ。多忙の中駆け付けられた尾形毅君(平1卒)と、自宅で寛いで居た石澤秀典君(平9卒)が合流、暫くして「ガソリン」を入れて景気をつけられた及川秀行先輩(昭50卒)もいらっしゃり、仙台の夜は更けていったのだった。

2008年、伝統ある宮城支部は、及川先輩が全国最年少の緑丘会支部長に就任し、新たな体制となった。いち早くホームページやメール、フェイスブック等のIT技術を導入された。同時に支部は同窓の集りを数多く開催してきた。ネットワーク上のコミュニティーで知り合った者達が実際に集るオフ会がよく行われて居るのを見ても、一見ベタでアナログ的な宴席は、今の時代でも基本であることが分かる。こうして緑丘同窓は、自らが集る機会を仙台の地に数多く見出すことになった。

一方、2010年3月、商大応援団が再興し、7月には13年振りの対面式が北大獣医学部前で挙行された。翌2011年は商大創立百周年の年であり、7月の記念式典や大寮生大会を初めとして全国の同窓が小樽を含む各地で旧交を温められた。正に天の時は熟したと言えよう。

奥州平泉は、後三年の役後の1087年から1189年まで、百年もの間、黄金都市の栄華を誇った。保元平治の乱以降、源平の争いは全国に及んだが、奥州は独立王国にも擬せられる平和を保った。其れを可能ならしめたのが豊富な金であるのは広く知られて居ることだが、もう一つの要因がある。其れは平泉が持つ地の利である。

高館の義経堂は毛越寺と中尊寺の中間に位置する丘の上にある。石段を登ると、東側の断崖の下を滔々と流れる川が望まれる。北上川である。尾形君の話では、平泉は此の川の水運を利用したそうである。又、平泉は、遠く南は都に北は津軽に通じる街道筋にあった。同地が水陸交通の要衝であったことが分かる。藤原氏は此の地の利を存分に活かし、遠く北宋や粛慎(沿海州)との貿易を行い巨万の富を得たのである。

仙台は東北の中心であり、圏内から人・モノ・情報が集る地である。更に、首都圏とは新幹線で僅か1時間半の距離であり、札幌とも飛行機で1時間の場所だ。此の地の利を活かし、宮城支部は全国の同窓を集めるスキームを作られた。県外の同窓をフレンド会員とし正会員と同じに遇された。出張や旅行で仙台を訪れるOBや学生、関係者を歓迎する集りや宴席が頻々と開かれて居る。人の集る所に情報が集まり、次の時代の胎動が起こるのは、何時の世も同じと言えよう。

しかし、何にも増して強調されるべきは人の和である。

23日の夕刻、尾形君の引率で阿部寛峰先輩(昭48卒)、高橋志朗先輩(昭50卒)と共に名取市のサッポロビール仙台工場に向う。会場で鹿野敏秀先輩ご夫婦(昭37卒)、及川秀行支部長、市原昭一先輩(昭57卒)が合流された。仙台で味わうサッポロビールとジンギスカンは格別であった。市原先輩の健康的な食欲にも触発されて、此処数年来という量のジンギスカンを食したのであった。

6名の同窓は世代も異なり、出身地も勤務先も誰一人として同じではない。しかし商大の絆は強く固く、杯を交わし語り合う様は正に家族の其れであった。此の温かき人和があればこそ、宮城支部の今日の隆盛があるのだ。

孟子曰く、天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かずと。

太古の時代より現代に至るまで、東北は豊饒の地である。其の地にある緑丘会宮城支部は天地人の三才を得た。支部の繁栄と、全国同窓の支部への憧憬は必然である。

芭蕉は奥の細道で「五月雨の降のこしてや光堂」と詠んだ。句には、藤原栄華の跡が残って居ることへの驚きが込められて居るのかもしれない。しかし俳聖が作句して324年、光堂は輝き続けて居る。其の金色は眩いばかりだ。宮城支部の栄光も又、金色堂と同じくゆうに千年の歴史を重ねるであろう。

緑丘会宮城支部の弥栄よ、永遠に。