第08回 宮城支部総会・会員コメント篇

    • 6月11日(土)で東日本大震災から3カ月が経過しました。今回の大震災では、多くの支部会員が避難生活等を余儀なくされましたが、先般の支部総会では、無事に再会できたことを互いに喜び合い、宮城、東北の復興に向けて力強く歩んでいくことを誓い合いました。
    • 支部総会に出席された会員の皆さんが、その席上で語られた震災体験談(安否確認時のコメント含む)をご紹介します。

似内明治先輩(昭和22年卒)

全員生存、居住可、被害ナシ!

大久保和男先輩(昭和26年卒)

地震被害は家財道具だけでしたが、倒れた本棚やズレた冷蔵庫の移動などで無理をしたせいか腰をいため、しばらく休みました。地震の二次被害者です。

塚田 實さん(昭和30年卒)

家具・什器・備品に若干の被害程度で、家屋は大丈夫でした。

計良松宏さん(昭和33年卒)

大震災当時は自宅におりました。棚が壊れた程度で、建物には被害がありませんでした。自宅の買い置きの食料で、ある程度対応できました。震災直後には、近くの避難所にたくさんの住民が集まりましたが、数日後には自宅後に戻ったようですね。明日、東京でかつての会社仲間と職場OB会があります。その席上で、今回の震災について語ってほしいと頼まれています。泉中央周辺のビルを見てきましたが、まだまだ回復していませんね。今回の震災では、横長の建物の被害が特に大きかったと実感しています。

長南嘉昭さん(昭和36年卒)

震災の日は、午前中に仙台に通院し、自宅に戻って国会中継を見ていたときに、グラグラと震災に遭いました。菅総理が野党にコテンパンに攻められているときでしたね。NHKテレビに「落ち着いて行動してください」とテロップが流れましたので、まずは自宅で揺れが収まるのを待ちました。揺れがおさまって外へ出ると近所の奥さん方が不安な様子で集まっており、「落ち着いていこう」と励ましあいました。町内会から避難指示が出て、生まれて初めて避難所での生活を3日間体験しました。おにぎり一個だけの日もありました。その後は沿岸部で津波被害を受けた方々が、次々と避難されて来られ、私達は自宅に戻りました。私の自宅から沿岸部の津波被災地まで、車で10分もかかりません。幸いにも自宅までは津波は来ませんでしたが、実際に被災地を見て回ると、本当に言葉がありません。でも、宮城支部のみなさん!みんでにっこりと笑って頑張っていきしょう。

鹿野敏秀さん(昭和37年卒)

夫婦、息子家族とも大丈夫でした。震災後は、自宅で生活しました。電気・水道はありましたが、ガスはカセットコンロで対応。米などを順次節約消費しながら、可能な補充を行いました。電話類の使用は最低限とし、移動は自転車でした。メールは使えましたね。宮城支部からの安否確認メールに感謝しています。

山下英裕さん(昭和40年卒)

家族も家屋も無事でした。M9.0の激しい揺れにも関わらず奇跡的なことです。住んでいるところが高台の位置していることと、地盤のよさに恵まれたのかと思います。震災後は近くの体育館へ避難しましたが、近所の奥さん方の行動力は本当にすごかったですね。水道と電気が復旧し、ガスが最後になりましたが、他地区の惨状を見るにつけ感謝です。卓上ガスコンロで温かい料理も可能なので助かりました。毎週土曜日、松島で松の剪定のボランティアをしていますが、もし、震災が一日遅れていたら松島で被災し、大変なことになっていたと思います。唯一の心配は福島原発のなりゆきです。日本人の幸運を祈るのみ。

黒澤健治さん(昭和42年卒)

私も家族も無事でした。退職後に仙台の町が気に入って住みましたが、まさか大震災は起きるとは思ってもいませんでした。でもここ仙台には、緑丘会という小樽商大との強いつながりあり、若い会員の皆さんが頑張って運営してくれている。小樽商大という心のよりどころがある。とてもすばらしいところだと思っています。

大島一泰さん(昭和45年卒)

震災では、自宅の床が被害を受けました。余震がずっと続いたせいか、体調が良くなかったですね。でも病院で検査を受け、ようやく体調も戻ってきました。家族は無事でした。

岩朝源吉さん(昭和46年卒)

家族全員が無事でした。建物も居住にまったく心配ありません。大震災のあと、宮城支部の事務局から、会員の皆さんの安否確認の資料をいただきました。ああ、みんな大丈夫だったんだと安堵しましたね。安否確認の資料は本当に良かったと思います。震災後に電力株式などが下落しており、先行きはなかなか厳しいですね。

浅井泰博さん(昭和47年卒)

大学の時に十勝沖地震を体験し、その後もいくつかの地震を体験して、地震の恐ろしさは分かっていましたが、今回の震災は、揺れの大きさと長さがまったく別物でした。当日は池添先輩のご自宅に訪問しておりまして、自宅マンションがつぶれているのではないかと心配で、直ぐに戻りましたが、どうにか大丈夫でした。今回の震災では、地震よりも津波の怖さをほんとうに実感しました。

藤井孝至さん(昭和47年卒)

震災の時、私は自宅近くを散歩をしており、道路がはげしく波打って、とても立っていられませんでした。かつての職場であった日本製紙の石巻、岩沼などの沿岸部の主要工場が津波等の被害を受けたと聞いたときは、「ああ会社が駄目になるのではないか」と正直思いました。かつての同僚から、岩沼工場が再開し、石巻工場も9月に再開見込みだと聞いたときは本当にうれしかったですね。震災の日は、家族一緒に車の中で過ごしましたが、車中から見た星空がとてもきれいでした。あんなきれいな星空を見たのは、子供のとき以来かもしれません。そのあと近所の避難所での生活も経験しました。近くの笹かま工場から、かまぼこの支給があったりしましたね。まずは家族も無事でした。

高田典明さん(昭和52年卒)

塩釜の自宅は、高台にあったことから、幸いにも津波の被害などはありませんでした。震災後は、JR仙石線が不通になったので、仙台の職場まで毎日自転車で通いました。その後は、息子宅に居候でした。

清水 浩さん(平成2年卒)

大震災の時、私は東京におりました。会社が手配したタクシーに同僚4人が乗り、国道4号を十数時間かけて仙台に戻りました。震災当日は、ほんとうに星空でしたね途中、ガス補給をし、宮城県内ではもう食料が買えないとの連絡が入ったので、コンビニで 買えるだけの弁当等を手に入れて戻りました。西公園でタクシーを降りて、会社まで弁当を 持って移動しましたが、仙台の町中は買い物客で長蛇の列でした。道行く人から、次々と「その弁当、どこで買ったんですか!!」と聞かれましたが、殺気立ってました。私も会社には数週間泊まりこみました。家族・両親ともに無事でしたが、当初は電話等がつながらず、災害伝言板等でも確認できない状態でした。