作家・伊藤整が語る小樽商大Ⅰ

伊藤整は、プロレタリア作家・小林多喜二とともに旧制小樽高等商業学校(現小樽商大)が輩出した偉大な作家です。

伊藤整は、自伝小説「若い詩人の肖像」で、母校・小樽高等商業学校への入学から詩人・小説家としての自立までの青春時代を描いていますが、これ以外にも「小樽商科大学」と題したエッセーを残し、「伊藤整全集第24巻」(新潮社)に収録されています。

本稿は、小樽商科大学同窓生が持つ強い愛校心について考察した貴重な文献ですので、ここに全文をご紹介します。

伊藤整稿 「小樽商科大学」

(伊藤整全集第24巻 1974年6月15日 新潮社)


小樽高等商業学校という名で明治44年の創立以来この港町に親しまれてきたので、「大学」になった今でも土地の人は学生を「高商の生徒」と呼びがちである。

その50年間に校長は4人しか代わっていない。5人目が今の加茂学長である。もと東京音楽学校長で、この田舎の高等商業学校の設立事務に当った渡辺竜聖という「傑物」が初代校長である。そのあとを継いだのが伴房次郎という自由主義者、またその後を継いだのが後の代議士苫米地英俊である。あとの二人は、ともに設立の初めごろからの教師である。

この学校は、戦争の末期に文部省の都合で経済専門学校と名をかえた。

そして四代目の校長になった大野純一は、この学校を卒業して東京商大を出た人である。この大野校長のときに、昭和24年、あの全国の大学統合に渦に巻き込まれた。この学校は、汽車で一時間の距離にある札幌の北海道大学に併合される運命にあったが、それに頑強に抵抗した。

調べてみると、商業学校としては珍しく一般教養科目が充実していたこと、商品実験室や石鹸工場をもっていたこと、顕微鏡、タイプライターなどが一クラスの実習に足りる数だけそろっていたこと、図書館の内容がよかったこと等が、その統合の仕事に当たったあのイールズというアメリカ人を納得させた。

また北大内部、文部省内部に支持者を持っていたことが役立って、国立大学としては全国でただ一つ単科の商科大学の形で独立することができた。卒業生と学校当局が、家族意識といっていいような奇妙に強い団結力をもっているのが最大の特色である

小樽は札幌に対して、東京に対する横浜にような位置にある。戦後は札幌の人口60万、小樽20万という隔たりができたが、明治時代には、小樽は港町として大をなしていたのに、札幌は原始林の中の急造の植民村に過ぎなかった。ニシン漁業の中心地で、またカラフトやウラジオストクとの接触を保っていた小樽の人間は、漁業、貿易、商業において、積極的な、また向う見ずな、抜け目のない性格をもっていた。

彼らは明治の末年、土地を提供し、建築費の半ばを気前よく引受けてこの官立の高等商業学校を、市街と港を見下ろす高い山の中腹に作った。そして、一クラス100人ほどの三年制の高等商業学校が、明治初年のクラーク以来の札幌の北大に対抗し得る学問の府であるという、少し無理な確信をもっていた。この町では、高商の生徒といえば、質屋でも、待合でも、居酒屋でも、バーでも特別待遇をされた。高商はこの町の唯一の最高学府であった。

生徒の半数は北海道から、半数は「内地」の各県から来ていた。大正11年にこの学校に入学した私は、青森、秋田、山形、福島、新潟、長野等の各県から来た同級生といっしょになった。そのころは一学年は四クラス200人が定員であった。この半分「内地」、半分「道内」の生徒たちが、3年の在学期間に前記のような強い同族意識を持つようになるのでる。

その理由の一つは、「内地」から来た生徒たちが、「北海道」という北方の異境に行くというロマンチシズムを心にもっていて、それと同じものを旧友の間に見出したからであろう。そういう生徒の一人が、高浜虚子の息子で、私の一年上にいた高浜年尾であった。

「内地」から来た青年たちはその気持ち故にこの町を愛し、またこの町で大事にされることを誇りに感じ、その結果、愛校心を抱く。私や、小林多喜二などのように、この土地に育った人間は、「内地」からはるばるこの北方の学校にやって来た旧友に親愛の感を抱いた。そしてこの二種の愛着心が矛盾なく一致するところに、小樽高商から小樽商大に変わっても一貫した同族意識があるもののようだ。

高等商業学校の創立者なる渡辺竜聖は、役に立つ実務家を養成しようとしたようであるが、大正10年にかれは名古屋高商の創設事務を引き受け、その校長となり、小樽の有能な教授たちを半ば連れて去った。

そのあと教頭から校長になった伴房次郎は、辰野隆と同じころの東大法科出身者で、温厚で頭の鋭い人だったが、改めて若手の教師たちをそろえなければならなかった。

その前後にこの学校が誇りとした学者には、経済学の大西猪之介、手塚寿郎がいたが、この二人はともに早死した。また一橋を出たばかりの若手には、後の学長の大野純一のほか、南亮三郎、室谷賢治郎、大熊信行、椎名幾三郎、高松勤、糸魚川祐三郎がいた。会計学の新風をアメリカから持込んだ村瀬玄を含めて、この学校の主流は一橋すなわち東京商大の学統である。英語関係に後の校長苫米地英俊、中村和之雄、中村賢二郎、浜林生之助、小林象三、蒔田栄一などがいた。

若い経済学関係の教師たちは、彼らの多くが一橋で学んだ福田徳三の学風のほかに、流入しつつあったマルクス主義経済学を背景としての河上肇、櫛田民蔵などの学問の影響のもとにあった。そしてその時代は、労働運動のたかまって行った大正末年であった。まだ二十五、六歳で紅顔の青年であった大熊、南、高松などが教室でマルクスの経済学理論に言及することが多かった。

それ故大正末年には、生徒たちの中から実務的商業教育以外のものを吸収するものが出て来た。大正一三年に卒業した小林多喜二が、小樽市内で銀行勤めをしていた大正一五年に、いわゆる軍教事件というものがこの学校から起り、軍事教練反対の運動が全国の高校や専門学校にひろがった。

軍事教練のために配属されていた将校が、この町に地震が起って「不逞鮮人」が蜂起したので、高商の生徒がその鎮定に当る、という想定を作って演習をおこなった。翌日、その想定が不当であるという抗議が、市内で労働運動をしていた境一雄や朝鮮人のグループから提起され、学内では第三寄宿舎を中心に社会科学研究会の生徒が騒ぎ出した。境一雄は小林多喜二などとも交渉のあった左派の闘士で、小樽では著名な人物であった。このとき東大の新人会から林房雄がアジテーターとして小樽に送り込まれたという伝説も残っている。小林多喜二の生涯の志向はこの事件から始まったと私はみている。

このとき、生徒は演習を放棄したのではない。終わってから外部のものが動き、学内の生徒が騒いだのであるが、大正年代に軍事教練に反抗するというのは革命的な事だった。この事件は、同じ年の京都大学、同志社大学の学生運動につながり、全国の人々に小樽高商というものの存在を強く印象づけた。それは、大正七年の全国的な米騒動が富山県の魚津の主婦たちの自発的な行動から起ったのに似ていた。田舎の小都会の、穏和な生徒が軍事教練に反対して立ち上がったというその意外さで人を驚かし、昭和初年の学生の政治運動上の最初の大きな記録となった。

この当時は、この学校の生徒の中の優秀なもので「左傾」したものが相当にあった。私の同級生の鈴木信は秋田商業の教諭になったが、運動に関係して入獄した。軍事教練当時、社会科学研究会に属した生徒で停学になったものが一六人に達した。退学したものもあった。

伴校長は後に「これらの学生の中から同志社大学教授、彦根経専の教授になった者が出て居ることも考えさせられる事だと思う。停学処分を受けた者の中には随分偉い奴がいた」と語っている。この「彦根経専の教授」というのは今の京都大学教授山本安次郎のことであろう。またこの時期の学生の中から今の一橋の教授大平善梧、板垣与一などが出ている。一般にこのときは学問の熱が高かったのだ。

この学校は語学教育には特別に熱心であった。英語に二人、ドイツ、フランス、ロシア、中国語に各一人の外人教師が専属にいた。その中にはいまのオックスフォード大学の著名な日本学者リチャード・ストーリーもいた。小樽外語学校という別名が教員仲間にあったそうだ。私のような生徒は、この学校で語学だけ学んだようなものである。私がついて学んだ語学教師の中では、苫米地英俊は自他ともにゆるす商業英語の権威であったし、浜林生之助と小林象三の両教授はずいぶん出来る人であった。小林象三は京都で厨川白村に学んだが、外遊して発音学のジョーンズにつき、のち京都大学に戻ってから退官した。日本の英語発音学の権威であることは人が知っている。

浜林生之助については次のような挿話がある。英詩と和歌の韻律の比較研究という比較文学の先駆的な業績を持っていた八木又三が転出したあと、伴房次郎は苫米地英俊に全国を歩かせて、名目的でなく本当に出来る英語教師を捜させた。彼は各地の中等学校を参観してまわった。福島中学かどこかで、教室に入ると、そこで教えている色の黒い英語の教師がすばらしく出来ることが分かった。それを引抜いて連れて来た。それが浜林である。浜林は広島高等師範の出であった。

この人は教師臭がなくて、やさしい口調で「日本語には元来『彼女』なという言葉はありませんよ」などと皮肉を言い、金をためることも上手で、外国人の教師は僕が試験をしてやるなどとも言った。その専門の学問のほかに人生の急所を知っている人だった。田舎の学校にひっそりと生きている傍流の学者で、しかもおそるべき実力をもっているという意味では典型的な人だった。

こんなことを書くのは、この学校の同族会社的性格も分かるし、また、私が多少とも批判ができるのは英語ぐらいのものであるからである。他の教師の学問が低いという意味ではない。何人も異議なく認めているのは、手塚寿郎という日本の数理経済学の先駆者で、早く死んだ学者である。その他、知名の人では大熊信行の後年の幅広い活躍は周知のことである。

今は卒業生がどこでも好評のようだが、昭和初年から一〇年ごろまでひどい不景気で、卒業生の半分も就職できなかった。そして昭和一〇年に苫米地英俊が校長になった。Tomabechi the able と小林象三が言ったほどいわゆる切れる人で、この学校の象徴的人物と見られた。柔道の達人、現講道館理事で、戦後の二一年から政界の人となり、最近引退した。

もう一つの挿話。ごく最近に私は、日本近代文学館という関係している会が近代文学史展という大きな展覧会を開くことで東京・新宿の百貨店伊勢丹の重役にあった。それは山本宗二という、私より若い、目の大きな、いかにも「実力者」らしい風貌の人だったが、大変便宜を図ってくれた。間もなくこの重役がそこをやめて東横デパートの副社長になったことが、百貨店の大きな事件として週刊誌で論じられた。この人がいなければ今にも伊勢丹が傾くと言わんばかりの書き方だった。山本宗二という人は伊勢丹を三越本店よりもよい業績の店に仕上げた百貨店界での人物らしかった。

その記事によると、この人は小樽高商の卒業生であった。それを読んだとき私は思わず顔がほころびて、にこにこしながらこの山本宗二なる人物に力こぶを入れるような気持ちなった。

つまり、私のような卒業生として場違いの者まで、小樽高商出の人材のよい評判に一つでもぶつかると、自分の親戚のものをほめられたような気持ちになる。 これが小さな学園小樽高商出身者の同族意識なのである。旧一高や三高の卒業生ならこの程度のことににこにこするはずがないのである。多分山本宗二ほどの実力のある同窓生は日本の各方面で働いているのである。私が知らないだけである。

だがその数は、とても一高・東大閥(?)に及ばず、一橋閥に及ばず、北大閥にも及ばず、膨大な産業実業界の中にあっては、広い砂漠の中の一握りの砂のようなものであろう。学校の当事者の語るところによると、ここの卒業生は各会社に中堅としては評判もよく、働き手として有能な人物が多いが、人の上に立つ指導者はなかなか出ない、とのことであった。

それでいいのだと思う。日本の実業界を支配するのが学校の使命ではない。入学した青年をそれぞれの力に応じて社会の働きの場に送り出すことができれば、学校の任務は果たされたと言うべきである。また私のごとき者までが持っている同族意識も、それは党派意識として排斥されるほどのものではない。聖人のような内村鑑三ですら、息子の内村祐之が野球試合に出ると、敵を倒せと言って熱狂して応援したそうである。

大野純一学長は大学としての創設時代の苦難に満ちた時期の責任者としてよく働いた。穏和で良心的なこの人にとってはいろいろな口にすることもできない苦労があったようだが、一〇年間その職にあった。そして軽い脳溢血でこの人が倒れたとき、あとの学長に適当な人がいなかった。学長選挙がくり返しておこなわれた結果、東京工業大学教授の加茂儀一が当選した。加茂儀一は一橋出身者であるが、小樽高商には全く縁がなかった。一橋出身者としても、かなり風変わりな人物で、卒業後、三井に入ってすぐ飛出し、レオナルド・ダビンチの研究に凝って、浪人めいた生活をし、気象台で技術史の講義をしていた。戦後は、東工大で技術史を教えていた。

加茂儀一その人の話を聞くと、当選はしたものの、このような狭い、団結力の強い特殊な学校に赴任することを大分ためらったようである。しかしこの人は妙な人徳のある人物で、結局赴任してみたら、抵抗の一つ一つが消えて、大変具合よく納まった。小樽高商は創立以来はじめて、外様の学長をむかえたが、名学長と言われている。

この新学長のした新しい事の一つは、卒業生を説きまわって、講座の費用の寄贈ということをさせたこと、すなわち外国の大学にある寄贈講座の制度をつくったことである。この単科大学には一橋大学その他との兼任教授たちの集中講義が幾つかあるが、教授科目以外の一般教養や専門の特殊の学問を吸収させるのがこの寄贈講座の目的である。これは校友の力を母校の学問に役立たせ、その上校友の間に現在の大学とスタッフに対する親しみをわかせた。

それに続いて、この単大の窮屈な予算を補う目的で、一億五千万円という多額の基金募集が行われた。そして二年後の昭和三八年にほぼ予定の金額をまとめることができた。それは一般教官研究費、管理科学の研究施設の主として電子計算機の購入、学生会館の建設などに使われる。創立五〇周年の記念事業である。

五〇年たって古びた木造校舎は建て直すことにきまった。修士課程の大学院も置かれる。三年制の夜間短大も昭和二七年から併置されている。もとの小樽高商で大野純一に学び、一橋で私と同期に学んだ金巻賢示が老教授としてそこの主事をしているのだから、現役の教授たちは多く三代目である。現に浜林生之助の息子もスタッフの一人である。

校舎が建て直される前に、鉄筋コンクリートの大きな寄宿舎が出来て、自慢である。小樽市そのものがカラフトを失い、ソ連との交易は沈滞し、ここを基地とした北洋漁業、ニシン漁業もなくなって、ひっそりと生気のない港になった。それと関係があるかも知れない。

学校には電子計算機もはいって、管理科学という数学を援用した新しい経営学に力を入れていることを古瀬大六教授から聞いた。また、木曾栄作、松尾正路という練達の語学者を中心に流行のランゲージ・ラボラトリ(語学実験室)を作って語学教育にも力を入れているようであるが、この学校の一つの悩みは、一橋からきた優秀な若い教師が、また一橋に呼戻されることのようである。比較法学の喜多了祐なども、外遊から帰ると引抜かれた。

しかしこれはあらゆる地方大学の悩みであり、交流の多いことは、むしろ喜ぶべきことかも知れない。

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