第03回 仙台の街に刻まれる緑丘大先輩の足跡

平成元年卒 尾形 毅

泉パークタウンの中田乙一先輩揮毫の碑

仙台・宮城では100人を超える緑丘卒業生が各分野で活躍されていますが、ここ仙台に小樽商大や緑丘の足跡がはっきり残っているメモリアル的なものはないものだろうかと漠然と思っていました。

ある日職場で、元七十七銀行頭取・勝股康行氏が「七十七ビジネス情報」に寄稿された「先人に学ぶシリーズ」を読んでいたとき、三菱地所が仙台市北部に開発した大型住宅地・泉パークタウンの開発軌跡について丹念に触れられているのを目にしました。

泉パークタウンは、三菱地所グループが単独で開発を手がけている総開発面積1000h、計画人口 5万人の、住居ゾーン・タウンゾーン・スポーツゾーン・インダストリアルゾーンから構成される複合開発地であり、一つの民間企業が手がけるものとしては国内最大規模といわれています。

勝股氏によると、この大型開発は、宮城県が乱開発を防ぐため三菱地所に宅地開発の協力を申し出たことがはじまりであり、昭和44年にこれを決断したのは当時の三菱地所社長・中田乙一氏(小樽高商卒・元緑丘会理事長)だったとのことです。

「中田は北側に南向き斜面の丘陵地が広がり、そこに雑木林があるのに気づいた。『あそこからあそこまでがいいね』といって買収を即決した。担当者が確認すると、その広さは優に300万坪をこえていた。それがいまの泉パークタウンである」「三菱地所は地域開発のマスタープランづくりのため、10数名による開発チームを編成した。中田社長からは『親子孫三代が息づく街』というテーマが与えられ、結論として、街とは 『住んで、働いて、憩う』の3つであり、これに『学ぶ、集う』が加わってはじめて街になるのではないか、ということになった。」

私も泉パークタウンの住民の一人ですが、この勝股氏の文献を読んだたとき、三菱地所が開発したことは当然に知っていたものの、自分の住んでいる街が、緑丘の大先輩・中田乙一氏の英断で創られたことをはじめて知り、深い感慨と緑丘卒業生としての誇りを感じずにはいられませんでした。

では、大先輩・中田乙一氏の足跡が、泉パークタウン内に残っていないものかと思っていたところ、前述の勝股氏の文献を読み進めると次のような記述がありました。

「昭和47年に造成工事を開発した。はじめに手がけたのは用水工事であった。この地はもともと灌漑用の溜池があったところであり、新たに用水路をつくって水を水田に導くことにした。地元の農家はたいへん喜び、泉パークタウンの南側の入り口に記念碑を立て、そこに『耕土潤江』 と記した。これを揮毫したのは、この開発を決断した三菱地所の中田乙一社長である。」

私は、さっそくこの碑を見にいこうと休日の散歩のついでに探索に出かけました。しかし、泉パークタウンは広い。本当に広い。一周すると15キロもあります。勝股氏のいう「南側の入り口」といっても複数の道路があり、どこなのかがわからない。泉パークタウンに住む同僚に聞いても誰もわからず、私はあっさり挫折してしまい、探索を数年にわたって休止するに至りました。

記念碑はいったいどこにあるのだろうか。数年間の悩み解決と発見の糸口は、地元・仙台市根白石市民センターのホームページ(地域開発史)にこの記念碑に関する記述を見つけたことでした。

市民センターによると、この記念碑は昭和52年1月に建立されたとのことであり、その当時から泉パークタウンに開通していた南側入り口道路は、北環状線・長命ヶ丘方面から仙台ロイヤルパークホテルへ通じる県道北四番丁大衡線であることを確認しました。また、碑文には「(根白石から将監沼に至る)全水路のほぼ中間にあたるこの江添の地に碑を立て」との記述があるので、地図上から、県道北四番丁大衡線と新堰といわれる泉パークタウン南側に沿って流れる用水路が交差する場所ではないかと推定しました。

この条件にもとでグーグル地図(ストリートビュー)で検索したところ、県道沿い東側に記念碑らしきものを発見し、さっそく休日に現地へ確認に出かけました。ようやく記念碑を発見できました。いつもは車であっという間に通り過ぎる県道下り坂沿いにあり、用水路の傍らにひっそりと立てられていました。

記念碑には、泉パークタウン開発にあたり農業用水の確保が問題となり、地元農家が三菱地所に要請したところ、工費5億円を全額同社が負担してコンクリート用水路を整備し、積年の水路維持の苦闘の歴史をとめ、水源を確保し農業振興に寄与するに至ったこと。地元農家は、三菱地所の配慮と英断に深甚なる謝意と敬愛をあらわすとともに、三菱地所の業績を不朽の刻字をもって後世に伝えると記されていました。

碑文の冒頭には、この開発を決断された中田乙一大先輩の揮毫により「耕土潤江」の文字が刻まれていました。地元農家が、大型宅地開発と地元農業振興の両立を図った緑丘・中田乙一大先輩の業績を記念碑で後世に伝えられていることに、私は仙台在住の緑丘卒業生として改めて深い感動と誇りを感じた次第でした。

なお、泉パークタウンがある旧泉市(仙台市泉区)の当時の助役は、地元出身で小樽高商卒の馬場大先輩であり、泉パークタウンの誕生にあたっては、行政面からも緑丘先輩による大きな後押しとご尽力があったものと推察されます。