第05回 私の大震災の記録 Ⅰ

及川 秀行(昭和50年卒)

1.激震【2011年3月11日(金)14:46】

私は、その日も会社のオフィスでいつもと変わらぬ日常業務に就いていた。会社は、匂当台通りに面した北三番丁の角、8階建ての4階にある。昼食は、近くの新しいラーメン屋で3種類あるラーメンの3種類目を征服し、「やっぱりあっさり醤油が一番旨かったなぁ」などと、まったりとした午後の一時を過ごしていた。

携帯電話がウィーンウィーンとけたたましい警報音を発した直後、経験したことのない、突然下から突き上げて来る激しい揺れを感じた。「地震!地震!」誰も彼もが叫んでいる。

机の下に潜った方が良いかな?、何人かと目が合った、その時更に激しい揺れ、誰もが声を失い、ただ揺れに身を任せるのみ。

私は、会社のヘルメットを被り体半分は机の下、頭は亀の様に出し、天井は、壁は、窓ガラスは大丈夫かと見るしかなかった。「ビルは4階が弱い、神戸では4・5階あたりが潰れたビルが多かった。」良くないことが頭を過ぎる。もう縦とも横とも判らない程の激しい揺れ、人の声も無い静寂、ガタガタとキャビネットの揺れる音、随分長い時間こうしていると思った時、揺れが収まって行くように感じた。

その瞬間、室内の照明が消え、遥かに大きな激しい揺れが来た。「キャー!」何処かで悲鳴が上がる。「崩れるのか、死ぬのか」血の気が引いて行くのが分るほど、恐怖という言葉以外、あのときの気持ちを表せない。目を閉じて机の下に潜り込んだ。

地震が収まり机から這い出して目に飛び込んできたのは、机の上から振り落とされたパソコンのモニターや電話器、倒れたキャビネット、散乱するファイルや書類。直ぐに、支社内で安否確認の体制を発令。オフィス内に怪我人はいない。社員の安否確認・・・・しようにも携帯がつながらない。各課に課員の安否確認を指示、未確認者の把握と連絡体制を確立。本社との連絡を試みる。

外を見ると、信号機が点いていない。多くの人が歩道にも車道にも出ている。見たこともない人の群れ。車が恐る恐る交差点を抜けて行く。崩れたり倒れたりしているビルはないようだ。特に火の手も上がってはいない。

2.安否【2011年3月11日(金)15:00】

携帯がつながらない、家内に掛けてみたが掛からない。自宅に掛けるも虚しくコール音がするだけ。家電は停電では役に立たず、家内が取らない訳ではなかったことは、後で分かった。

こんな時に、携帯が電池切れ。ビルの1Fのローソンで急速充電器を買いに行こうとしたが、エレベーターは運転停止、階段で下りようと階段室の扉を明けて驚愕。壁に走る大きな亀裂と床に散乱する壁材。鉄製の階段は大丈夫そうなので、下りてローソンへ。

自動ドアが停電で開かないので、手でこじ開けて中へ、床に散乱する商品、ビンが割れて床をぬらすワイン。驚いている余裕も無く、商品を手にとって「お願いします」。レジ打ちができないから売れないというのを何とか頼み込んで売って頂いた。714円。レジが開かないのでお釣りがない。手持ちの小銭が663円。「それで良いです」と店員さん、お礼を言って頂いて来た。もちろん、後日51円を持ってお礼に行きました。

メール、大阪にいる上の娘から。「私は大丈夫だが、お母さんと連絡が取れない」と返信。しばらくして再びメール。茨城の下の娘との連絡を中継して家内の無事が確認できた。直接はやはりつながらない。

親戚に電話、札幌の叔父は「TVで凄いぞ、津波だぞ、ワヤクチャだわ」。平戸の家内の実家は「あぁ、そうなの」とちょっと拍子抜け、九州にはまだ伝わっていないのか。携帯のワンセグでTVを見ると津波を実況しており、石巻は壊滅、名取もダメらしいなどの断片的な情報が聞こえてくる。社員の中に不安。

会社が委託しているSECOMの安否確認メールが全員に来る。自分、家族共に無事、家屋被害は不明と返信。このメールが本部で集計されて、支社社員の安否が続々と確認される。出張者、数名の安否が未確認。

(後日談/2名が仙台空港で点検作業中に被災し空港ビルに避難、翌日救出された。)

3.帰途【2011年3月11日(金)16:00】

連絡要員に各課1名を残して帰宅するよう指示があった。この時既に、地下鉄、バスやJR等あらゆる交通機関は動いておらず、徒歩で帰宅不可能な人は会社に残ることになった。帰るべく会社を出たが帰れず、帰宅難民となって県庁に一泊した人もいたようだ。

私はと言えば自宅まで徒歩20分であり、ヘルメットを被り、各自に支給された非常用備蓄の水と乾パンを入れた非常持出袋を背負い、鞄を持って北4番丁を東に向かって歩いた。信号の消えた交差点を渡るのは怖いと思ったが、意外と車が慎重な運転をしているので、信号が無い方が安全かもと思ったりもした。

停電なので商店やガソリンスタンドは閉店していたが、そんな中1軒のコンビニに人だかりがしている。これはと思い、すぐに列に並んだ。店にあるだけ、全て販売提供している。バックヤードからもどんどん運び出してくれている。カップ麺は要るなぁと思いながら2個ゲット。牛乳は残り2パックの所必要なのは家だけではないと1パック、おにぎり無し、弁当無し、パン類無し、適当に色々買ってしまった。

手動オフラインのバーコード読取で会計。少し、ホッとした気持ちになる。寄り道をしたので、1時間ほど掛かって帰宅。「ただいま」「お帰り」で家内の声を聞き、顔を見た時は全身から力が抜けるような、娘らからの情報で無事とは分かっていても、本当に安堵した。地獄に仏は言い過ぎか。

4.更夜(2011年3月11日(金)17:00】

家内は車を運転中に地震に遭遇したそうで、信号で止まった時に初めて地震だと分かり、周囲のビルも電柱も揺れるし、地面は波打つし、「このビルが崩れたら死ぬのかな」と思ったそうです。

信号の消えた交差点を横切ったものの、仙山線の踏切の遮断機が下りたままなので、何とか迂回して家に辿り着いた様でした。自宅隣で借りている駐車スペースに車を止めた所、ご近所の方々が皆出て来ていて、「まだ家に入らない方が良い」と言われ、しばらく外に居たのですが、自宅を見たら棟瓦(屋根の頂上の半円柱形の瓦)が崩れて摺り落ち、幾つかは庇部分の屋根に落ちて割れていたので、内部の惨状は・・・と思ったが、幸いにも室内は家具も家電品も倒れたりせず、食器や備品も無事だった。

電気とガスが直ぐにストップしたが、まだ水道が生きていたので大急ぎでペットボトルやら鍋やら薬缶やらに水を汲み、バスタブに水を貯め、半分貯まった所で断水。いよいよ、電気、水道、ガスの無い被災生活になってしまうのか。外は暮れ始め、雪も降り始めたので、家中の懐中電灯を集めて点検し乾電池の入れ替えも完了。仏壇から太いローソクとローソク立ても拝借して準備万端。カセットデッキにも電池を入れラジオが聞けるようにし、灯油の買い置きも有り、車も2台とも満タンにしたばかり。灯油があるのに、電気が来ないのでファンヒーターは使えない。昔の石油ストーブを取って置くべきだったか・・・。乾電池の予備と、水汲み用のポリタンクと、カセットコンロが要るかなぁと思案。

ところで、この日の夕食をどうしたか、何を食べたか思い出そうとしても未だに思い出せない。家内も思いだせないと言う。今思うと、「どうなるのだろう」という不安と、無我夢中で「何をしよう」「何かしなきゃ」と焦りまくっていたのだと思う。余震もあり、怖くてリビングのコタツに布団を引き、ダウンコートを羽織ったまま布団をかぶって、暖かくない電気コタツに足を突っ込んで就寝するが、眠れぬまま朝が来てしまった。

余震が怖いといえば、この日から暫らく晩酌が出来なくなった。酔って寝入っている内に、余震が来ても逃げられなくなるのではとの心細さからであり、飲むということ自体考えが及ばない状態であった。

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