第08回 戦中から戦後へ

波瀾の青春像「小樽地獄坂」

昭和22年卒 似内 明治

似内明治(昭和22年卒)

緑丘100周年、皆さんに語っておきたいことがある

私は今年で85歳になります。緑丘100周年の今年、ぜひ、皆さんに語っておきたいことがあります。聞いてください。

私は、太平洋戦争のさなか、昭和19年春に小樽高商へ入学しました。しかし、154名の同期生はたった1学期を終えただけで、勤労動員となり、援農や陣地構築、本州の飛行機工場へと出かけました。そして日本の敗戦を経て、私はたった実質的に1年しか小樽で学ぶことができないまま、昭和22年に卒業させられました。

戦後混乱のなか、無力の高商卒業生達は、必死なって就職を探し、あるいは大学への道を求めましたが、その困難な道はとても語りつくせません。

私の同期は、平成元年にその思いを「小樽地獄坂」という400ページにわたる一冊の本にまとめました。機会があれば、ぜひ、皆さんに読んでいただきたい。戦時中、小樽高商でたった1年しか学ぶことができず、無念の思いで緑丘を去った先輩がいることを、ぜひ、皆さんの記憶にとどめてください。

戦中から戦後へ、波瀾の青春群像 - 「小樽地獄坂」 -

似内先輩が話された「小樽地獄坂」とは、北村昭三先輩(昭和22年卒)が編集責任者となり、2年間の歳月を経て、平成元年に成瀬書房から発行されたものです。

北村先輩は「小樽地獄坂」の発行にあたり、この本を発行するに至った経緯を別紙のかたちで記され、本書に挿入されております。ここに全文をご紹介させていただきます。

「小樽地獄坂」について

戦争がもう人々の記憶の中で薄れてしまった平成の時代になっても、なおあの敗戦に至る日々を、忘れられないたった一度の青春として私たちは未だに心に抱き続けていた。

北海道の港町、小樽高商での学生生活を、ドキュメント風に構成したのがこの「小樽地獄坂」である。昭和19年に入学したわが同期生は僅か154名であった。

戦争は高等商業学校を不要不急のものとして工業専門学校に変えた中で、小樽高商は辛うじて経済専門学校として定員を削減されながら残ったのだった。

本州を内地と呼ぶ北海道へ、その内地からも多くの新入生たちが残雪のうずたかく積もる小樽へやってきた。異国とも呼べる新天地での新鮮な刺激に満ちた学園生活は一学期をやっと終ええただけで、以後勤労動員の毎日が続くのだった。1年以上にもわたる期間を援農、陣地構築、そして小樽から群馬県まで出掛けて行って飛行場で働くことになるのであった。勤労動員そして学徒出陣と続くのは、あの頃の学生たちがみんな体験したことであった。

今の小樽商科大学には、50年史あるいは65年史というような立派な学校史が作られている。 だが私たちの時代の記述は非常に少なく、戦争中の文部省の通達のような資料があるばかりで、私たちが汗にまみれた動員のこともあの中島飛行場で死ぬ思いで過ごした半年間も一語の記録すらないものだった。それを知ったとき、学校史とはそのような公式記録でしかないのかと愕然とした。

私たちがあそこで生きていたという証拠を血の通った記録として残したいという願いから、一昨年卒業40周年をきっかけにして同期生たちに呼び掛けをした。60歳をすぎた今、はたしてどれだけのことを正確に記憶しているかは不安ではあったが、些細なことでも具体的にという要請に多くの同期生たちは懸命に応えてくれた。「ディテールに真実」を求めて資料の収集にも手間をかけた。

昭和20年8月15日をその真中にしての3年間という特異な時期であったことは勿論重要な背景ではあったが、その中で一人一人が直面した現実と、そこに自分が生きていて感じたことを、皆は率直に書いて送ってくれた。「私は働くことになれていた」と、それは泣き言や恨み言などではなく、学生でいながら勤労動員の続く私たちの毎日を実感として素直に表現したものだった。

終戦となっても私たちには簡単には平和は戻らなかった。それまで皇国日本から民主日本へという思いがけぬ切り替えの衝動や、戦争中には私たちにとって神様のような存在であった苫米地校長の突然の政界出馬という事件は、不可解な世間を自分で判断し受止めなければならぬという初めての試練であった。

それぞれに違った40年を過ごし、今は人生に一つの区切りを見ている同期生たち88名がばらばらに書いてくれた多彩な思い出を、時の流れに従って編集しているうちに、そこに浮かんできたものは、腹が減ってもなお精神的には豊かであった若者たちの群像であった。

あんな貧乏な時代の中で18、9才の若者たちが、変転の時の流れにも自らを失わず青春の充足を求めている姿であった。最初の計画を立ててから実際に本になるまで約2年の歳月がたっていた。どこにでもある回想集を予想して書いてくれた同期生たちは、編集された自分の文章の一節一節がその時の歴史を形成する重要な証言となって行くのを見て、最初はこれは一体何なのかと驚いた。

客観化された戦中・戦後の歴史とは別に、私たち自身のあの3年間の生きざまを素直に表現しようという編集意図が、自然にこのような構成をとらせたのであった。編集された原稿を見た何人かの仲間たちは、知らなかった事実の多いことに驚き、再現するかつての感動に思わず目頭を熱くし、途中で休むこともならずとうとう夜を徹して一気に読み通した、と言ってきた。血の通った具体的な事実と実感の積み重ねによる「おれたちの歴史」という最初の意図は間違っていなかったようだった。

学校の正史とは関わりなく、「外史」の性格を考えてきたのだが、こうゆうものこそが本当の歴史と言うべきでなかろうか。苦難の時代に小樽高商(緑丘)で共に過ごした日々を、自分たちの言葉で存分に表現した「小樽地獄坂」を、仲間うちだけのもので済ませたくないという気持ちがあって、この本の上梓を成瀬書房にお願いした次第である。

1988年9月 編集責任者 北村昭

いまインターネットで甦る「小樽地獄坂」

平成元年に発行された「小樽地獄坂」には、各方面から大きな感動と反響がありました。似内先輩の寄稿文も多数収録されております。

しかし、本書の発行部数は500部のみであり、発行後20年以上が経過した現在では、この本を入手することは非常に難しくなっております。似内先輩によると「宮城支部で「小樽地獄坂」をもっているは自分を含めて2名だけ」とのことです。

この貴重な「小樽地獄坂」を、宮城支部会員の皆さんにお読みいただくことはできないものかと思案しておりましたところ、本書の編集責任者であります北村昭三先輩が、インターネットに「小樽地獄坂」と題したサイトを立ち上げ、本書の全篇、編集・発行の経緯等を詳細に記され公開されておりました。

本書はもちろんですが、インターネットサイトも北村先輩のたいへんな労作でございます。ぜひ下記からサイトへ訪問いただき「小樽地獄坂」をご一読ください。

サイト「小樽地獄坂」(写真をクリック)