第09回 震災から3カ月 津波被災地を再訪

尾形 毅(平成元年卒)

震災から3カ月、津波被災地を再訪。

今日、6月11日(土)で東日本大震災から3カ月が経過しました。3カ月目に当たる今日、まだ自分の目で津波被災地を見ていない妻と二人で、宮城県南にある津波被災地の岩沼市寺島地区、仙台空港周辺の沿岸部を再訪しました。

私は、10年ほど前に勤務先の銀行の岩沼支店に在籍しており、仙台空港周辺をはじめとする沿岸南部を担当しておりました。全国の緑丘会員の皆さんは、大震災の当日、NHKテレビのヘリコプター生中継で、仙台空港や仙台平野に黒い大津波が襲来する戦慄的な場面をご覧になったかと思いますが、まさにあの中継されていた周辺が私の営業テリトリーでした。

仙台市中心部から、車でわずか15分から30分程度のところに、大津波の被災地区が広範囲に及んでいるのです。

震災1カ月後の岩沼市寺島地区

震災後、私はかつての沿岸部の営業テリトリーを訪れ、お取引先様の被災状況や安否等を確認して歩きました。

震災1カ月後に最初に訪問したさい、実際に自分の目で見た津波の被災現場は、壮絶なものであり、ただ「あああー、あああー、あああー」との言葉しか出てきませんでした。

特に岩沼市寺島地区は、阿武隈川の河口にあり、海まで2~3百メートルしかないため、津波の被害が極めて甚大でした。町並みのほとんどが流出し、残った家屋も1階部分が津波にさらわれ無残な姿となっていました。到底住める状態ではありません。道端の電柱も完全に折れて倒れていました。

また、海岸線にあった青々とした美しい防砂林もその多くがなぎ倒され、以前は林に隠れて見えなかった海が、離れた県道からも見えるようになっていました。

この地区は、大地震の地盤沈下によって海抜ゼロメートル以下となってしまい、津波の海水が水田に残り、その中に流された大量の自動車や全壊した家屋、松林の残骸などが無残な姿で散在していました。

私が営業していた当時に移動の目印にしていた交番や商店、工場等は完全に流出し、カーナビで確認しなければ、いま自分がどこを走っているのかさえ、わからない状況でした。

その惨状のなか、自衛隊の方々が早朝から懸命にガレキの処理に黙々と当たられており、本当に心から有難い気持ちで一杯になりました。また、信号機が故障しているため、警視庁から派遣された方々が交通整理を担当されていました。

震災後の岩沼市寺島地区

今の寺島地区の状況(震災3カ月後)

今日、再び岩沼市寺島地区を訪問しました。現場に到着したとき、ちょうど大震災が発生した時刻、午後2時46分でした。自衛隊の方々が脱帽姿で整列し、海に向かって黙祷を捧げられていました。私と妻も、その場で車を停めて祈りを捧げました。

2カ月ぶりに訪問した寺島地区は、住民の方々と自衛隊に皆さんの懸命な作業により、道路脇の汚泥や水田に散在していた自動車や家屋等は、ほとんどが撤去されていました。倒壊していた家屋も解体・撤去が進み、基礎部分のみを残しています。でも水田は、依然として、津波が残した大量の汚泥と海水で埋め尽くされたままです。

ガレキ(本当は大切な住民の皆さんの財産)の撤去作業が進んだことにより、寺島地区は本当に何もないモノトーンの世界となっていました。

大震災で被害が軽微であった宮城県の内陸部や山間部は、既に春から夏への通過点にあり、水田や山々は目に鮮やかな緑色に染まっています。本来であれば、この寺島地区でも、水田の早苗がしっかり根を張り、新緑の絨毯があたり一面に広がるとともに、太平洋の海の青さも次第に増してくる季節でなのです。その美しい風景は今年はどこにも見ることができません。

妻は、田植えができない汚泥の水田を見て、「ここは3月11日から時間が止まっているんだね」と 寂しそうに語りました。今日の空は本当に気持ちの良い快晴でした。しかし、ここだけは季節が3月のままのようでした。

寺島地区は、何時まで時間が止まっているのだろうか。いや、再び時間が動くことがあるか。現場を見た私には、正直なところわかりませんでした。 私のお取引先をはじめとする、この地区の多くの方々は、今でも岩沼市中心部の避難所や仮設住宅での生活を余儀なくされています。

<補記>

寺島地区は、被害が特に甚大であったためか、ガレキ処理が比較的早く進んだようです。

少し離れた別の地区では、依然として多数のガレキが水田等に散在したままであり、県道沿いには、セスナ機や小型漁船が乗り上げているところもありました。残っているガレキ処理だけも、相当の時間がかかるというのが私の率直な感想です。