第22回 回想・商大サークル総連合会

専従としての日々

昭和50年卒 福田 和弘

少し前、誠ちゃんこと鈴木誠一君が経営する鈴屋金物のHPで、彼が社内旅行で小樽を訪れてくれたときの紀行文に、「小樽と言えば、小樽商大へ進んだ福田くんはここでどんな学生生活を送っていたのだろう」と書いてくれたのを思い出し、その一端を独白する。

仙台二高2年(故小野明夫先生のクラス)から小樽に憧れていたことは同窓会報で前述したが、3年3組(故辺見裕先生のクラス)の卒業少し前、東京の私大を受験するので一月末より世田谷経堂のおばの借家に転がり込み、早稲田、慶応、中央そして同志社東京受験場(代々木ゼミ)と受験した。

が、いずれも門前払いを受け、「都落ち」確定で一浪し、「北帰行」小樽行きを決心し、入学した。

早速誘われるままラグビ-部に入部し、プロップの補欠で1年よりベンチ入り、2年の先輩が欠場したので小樽の平磯グランドでの新日鉄室蘭との練習試合で初スタメン出場したものの、大けがをしてそのまま退部した。

大学にも行かず、下宿とパチンコ屋と花園町(京都ではなく小樽の飲み屋街)の往復を決め込んでいた。そんなわけで大学の前期試験は受けずじまいで、このままだと専門課程の3年へは行けず、留年の一歩手前だった。

その時に、今でも悪友の荒木君(現富良野商工会議所会頭)が、愛車カリーナで下宿まで迎えに来てくれるので渋々通学はじめ、バスケット部に入り直し、レギュラ-を目指したのだが、1年同期の部員がインタ-ハイ経験者ばかりで到底無理であった。

3年生の主将より体育会の事務局専従を言い渡され、そのまま4年間体育会事務局をやる羽目になった。大学祭の実行委員の体育会枠に押し込まれて、お祭り担当になった。「失楽園」の作者・渡辺淳一氏とはその頃対談した。

大学には行くようになったものの、当時は全共闘運動の末期であまり授業もなく、仲間を誘い、マ-ジャンに興ずる毎日だった。ある時、大学が北大のセクト系の学生に占拠され、封鎖される状況になった。

体育会、生協委員などが団結し、大学を取り戻す運動を起こすことになり、彼らを追い出し、取り戻すことに成功した。全共闘運動の余波で学生自治会が無いのが他の大学のセクト系の学生に占拠される原因だったわけで、新たにそれに代わる組織を体育会、生協、文化サ-クル、学生寮の代表者達で立ち上げ、サ-クル総連合会と称した。私がその事務局専従になり、自治会の代わりを受け持つことになった。

いわゆる自治会活動を私が組織することになったため、益々大学へは行くものの授業には出れない嬉しい状態になり、忙しい毎日を送ることになった。

モダンジャズとはその頃触れ合い、小樽花園の場末のJAZZ喫茶「ニュ-ポ-ト」に出入し、主としてチックコ-リアとかマルウオルドンなどのピアノの曲を良く聴いた。

1973年には、小樽市民会館で渡辺貞夫クァルテット公演も大学生協の専務理事として企画に加わった。公演は盛り上がったが、チケットが900円と破格に安いために10万円の大赤字になり、生協の役員報酬をその補てんに使うはめになってしまった。

もう故人だが、本田竹廣という素晴らしいピアニストに出会えた事を覚えている。長くてくどくなるので、この辺で小樽回想編は終わりする。ご笑覧感謝。

宮城県仙台第二高等学校ゲタの会(22回卒同期会)への寄稿文より